hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる
問答一覧
検索結果: 338件
2023/11/23

罪を犯した過去の自分への嫌悪

過去の罪が頭から離れず苦しいです。 今現在わたしは、愛と思いやりに溢れた大切な人と結婚をし、お腹に初めての子も妊娠しています。 毎日幸せなのですが、その幸せを実感するたび、過去の罪を思い出し、こんな私が幸せになっていいはずがない、と思ってしまい苦しいです。 今までやってきたことといえば、 ・お店でグラスを割ってしまったのに弁償もせずお店に申し出ずそのままにしてしまった ・服屋で試着をしている際に服に汚れをつけてしまったにも関わらずそのまま戻してしまった ・万引きと、無銭飲食をしようとする友人を止められなかった ・お給料を頂いているにも関わらずアルバイトを不真面目に行った ・私の悪い噂を流した友達を避けていたらその子が不登校になった ・知り合いが性的マイノリティであることを家族に話してしまった ・あまり関わりのない異性から告白され、共通の知り合いに相談すると、知り合いがそのことを周囲に広めてしまい、私に告白した異性が揶揄われるようになってしまった など、キリがありません。大人になった今なら絶対しないであろうことですが、まだ未熟だったとはいえ犯した罪の多さが恐ろしいです。 私のせいで傷ついた人がいる、責任を負った人がいる、そのことを考えると、こんな私が幸せになってはいけない、自分が恥ずかしい、根っこはこんなに意地汚く思いやりのない人間なんだ、と思ってしまいます。 夫は私にはもったいないくらいの素敵な人なので、夫といると幸せを感じると同時に、夫に対して申し訳なさも感じます。 恥ずかしながら、過去の罪を忘れ暮らしていた時期もあったのですが、最近は毎晩過去の自分への嫌悪感や後悔で眠れません。 どのような心持ちで過去に向き合い、生きていけばいいのでしょうか。

有り難し有り難し 11
回答数回答 2

生まれて来なかった赤ちゃん

まとまりがないかも知れませんが、ひらすら正直に書かせていただきますので、なにとぞ助言お願いします。 数年前から流産を繰り返し、不妊治療もがんばりましたが結局流産の回数を増やしただけに終わり、子供を授かることはできませんでした。 最初は妊娠した赤ちゃんを失ったことが悲しくて悲しくて、思い出しては泣いていました。 子供を授からないというのは将来 (像) の喪失でもあります。不妊治療に専念するため仕事もやめてしまったため、キャリアも手放してしまいました。高額な不妊治療のため貯金も減ってしまいました。母親にもなれず、仕事も中途半端で、将来の希望もなく、結局私は何にもなれなかったんだなあと思うと涙が出てきます。 その一方で奇跡が起きないかとほんの少しの希望にすがっています。でもこのほんの少しの希望のせいで、すっぱりあきらめて先に進むこともできません。 特につらいのは、家族イベントです。義兄弟が子供を連れて主人の実家に集まるときは、本当に身の置き所がありません。幸せな家族たち、祖父母に可愛がられる甥姪たち、幼稚園のお遊戯を披露、どれも平静な気持ちで見ることができません。特に私が妊娠したのと同じころに生まれてきた姪の成長を見るのは拷問です。なぜ私たちの赤ちゃんだけ生まれて来なかったのでしょう? 主人は私がいればいいと言ってはくれますが、やはりとても子供が欲しかったのを分かっているのでそれもつらいのです。 「幸せはこちらの心のもちよう」「夫婦二人の人生も幸せ」「子供がいたって不幸な人もいる」ぜーんぶ分かります。 でもそんなふうに思えません!だってつらいんです。可愛い甥や姪を見ると心が勝手に苦しがるんです。 私の人生を取り戻したい。心の平安を取り戻したい。前のように他の人の幸せも願えるようになりたい(今はみんな不幸になって欲しいとすら思います)。私はどうすればいいのでしょうか、どうか教えてください。

有り難し有り難し 163
回答数回答 6

日本の宗教に対する意識と新興宗教について

日本には、なんとなく政治と宗教な話は、親しい間でも話しにくいような風潮があると思います。例えば私自身家族の中でも応援している政党が違ったりするとなんとなく気詰まりな感じがします。そういう宗教や政治の話がなかなか気軽にしにくい日本の風潮にお坊さんはどう思いますか? 話は違いますが、うちは曹洞宗ですが、遠くに住んでいる親戚の叔父が韓国の方が教祖のキリスト系の新興宗教を信仰しています。叔父さんはとても元気でタフで明るくて面白くて好きですが、宗教の話をしている時に進化論を否定していることに驚きました。たしかに進化論が正しいかは、私自身教科書でしか教えられておらず、自分で確かめたことはないので、確証や証拠で反駁することはできないのですが。 あと人間だけ霊界があるというその宗教の教えに対しては、全ての生き物が限られた生を命の限り全うするということは同じな世界で、人間にしか霊界が用意されていないという考えがしっくりきませんでした。当然信仰の自由があるので何を信じるかの選択の余地は一人一人あり、全く否定する気はありませんが。その対話をしている時の母がもううんざりといった言動でもう終わりにしてほしいというオーラが全身から漂っていて、とりあえず途中で私が引き下がりました。(こういうところでも宗教の違いを対話するのを嫌がる日本の風潮を感じました。) 比較的歴史の洗礼に耐えて伝統を長く受け継ぐ仏教の宗派のお坊さんは、新興宗教と呼ばれている宗教の特徴や教えについてどういうお考えをお持ちなのか、気になりまります。 お手すきの時にお返事頂けたら嬉しいです。

有り難し有り難し 75
回答数回答 4

葬式をあげてほしくない

死後の事についてご相談があります。 私は宗教という考え方やそれに基づいた慣習、イベント自体は好きですが、私自身が何かの宗教に属することは避けたいと思っています。 私の知る上では各々の宗教の考え方と私自身の観念が合うことが少ないからです。 ただし、宗教のパロディである空飛ぶスパゲッティ・モンスター教には共感いたしておりますので、自称するときはパスタファリアンを名乗っています。 そこで、私が死んだ後、葬式をあげてほしくないと思っています。 特に仏教式の葬式です。 なぜなら、戒名をいただいた時点で、仏教徒になってしまい、仏教という枠に囚われてしまうからです。 悟りも輪廻も御免被りたいです。 衛生的な観点からは火葬自体はしても構わないのですが、法律が許しませんが、できればその後はゴミ箱にでも捨ててもらって処分してもらいたいと思っています。 家族にそのことを話すと、死んだら終わりだから死後の事など心配するなと言われるのですが、そうではなく、私がそのくくりにとらわれてしまうことを決定づけられることが不服なのです。 死後の世界云々は信じておりませんが、生きているうちはそのことが囚われであり、心配であります。 ただ、信じずとも無いことの証明は極めて難しい以上、ある可能性は0ではないというのが論理であり、公理です。 (論理、公理とは数学上の意味です。) ですから、その0ではない可能性で、仏教の枠に入ることで、悟れなければ輪廻を繰り返してしまうという観念に囚われてしまっているのです。 ただし、重ねて申し上げますが、悟り自体は御免被ります。 渇愛は人間の人間たる、また、人間の動物たる所以と思います。 私は人間らしさを捨てたくはありません。 仏教に従事していらっしゃるお坊さま方には相容れない考え方かも知れませんが、これが私の中の公理です。 さて、これは私の考え方を変える努力をして見たほうが良いのでしょうか? それとも、家族を説得するようにしてみたほうが良いのでしょうか? 相談する相手を間違っているような気もしますが、意見を伺えるかもしれない機会を捨てることはないと思い、ご相談差し上げます。 よろしくお願いします。

有り難し有り難し 411
回答数回答 14

相談カテゴリ
-四苦八苦 SickHack!▼ 全カテゴリを見る

お坊さん33秒法話ピックアップ