先日、仏教についての本を読んで疑問に思ってもやもやしたので質問させていただきました 空である世の中で、お坊さんは空をどのように認識して、認識してその結果、何をしようとしているのですか?どうして今の行動をしているのですか? 僕は全ては認識であり、認識や表現(言葉など)を利用して認識しているみたいな解釈しました 拙い文章ですみません、よろしくお願いします
お坊さんは霊の存在 あの世の存在について 「真実はどこにあるのか」意見交換のようなことはしないのでしょうか? 普通 専門分野には 「学会」などがありますよね 例を挙げると 医者の世界なら 学会で 様々な治験結果を発表して 病気に対してどんな治療法が有効なのか 意見交換をしたりします。 そして その結果は一般人も知ることができ普段の生活習慣や食生活などにも気を遣うようになる人もいます 仏教でも宗派によって「霊魂は存在するか否か」についても見解が違うようですね。 真実がどこにあるのか情報収集をしたり学会のような意見交換はないのでしょうか? (どのように敬称を使うのかわからないので 以下敬称略で書きます。申し訳ありません) 歴史のタラレバの話になりますが もしも 最澄や空海が乗船していた遣唐使船が暴風雨に見舞われた時に海没していれば後の天台宗や真言宗はありませんでした。 法然が父親の敵討ちのために武士になる道を選んでいれば後の浄土宗はありませんでしたし、弟子の親鸞も存在せず浄土真宗もなかったかも知れません。 土御門道親が長命で朝廷の権力争いに勝ち位人臣を極めていれば道元も公家としての生き方をして曹洞宗はなかったと思います。 北条時宗が平頼綱を止めなければ日蓮は殺害されて日蓮宗はなかったと思います。 ちょっと歴史が変わっていれば、現在仏教の宗派も存在しなかったり、新しい宗派ができていた可能性もありますが それによって霊魂やあの世の存在について真実が変わることもないはずです。 多くの人に嫌われたり 尊属にも虐待されて生きてきた人 周囲と仲良くやってきて尊属の愛情を感じて生きてきた人 人それぞれです、 友人やペットなどに対する思いも人それぞれです 霊感商法に騙されて 宗教=悪と思っている人もいると思います あの世や霊魂があるのか 真実を知ることで生き方も変わってくると思います お坊さん=霊能者 ではないことはわかっていますが いろいろな人の体験談を聞いたりして 何か真実なのか調べようとすることはないのでしょうか?
先日、千日回峰行を2回も行われた酒井雄哉さんの「一日一生」という本を読みました。とても読みやすく、酒井さんがこれまでの人生や行を通して学ばれた人生におけるものの考え方や、日常の小さな幸せに気づかせてくださる本でした。 ところで、千日回峰行のようなきつい修行は止めるなら死ぬ、というルールがあるみたいですね。このような感情を持ってはいけないのかもしれませんが、なんだか馬鹿馬鹿しい、と思ってしまいました。 『毎日毎日仏様にお祈りし、行をすることで、いったい世の中の何の役に立つのか?』と疑問に思いました。 千日間毎日山の中をぐるぐる回ってお祈りしても、今あらゆることで困っている人々が助かるわけじゃないですよね? お坊さん方に失礼なことを言っているのは分かっています。ただ純粋に疑問に思ったので質問してみました。
お坊さんねように清廉潔白になるにはどのようにしたらいいのですか? 私は心が腐っています。 人より幸せになりたい 自分だけ楽をしたい カッコいい恋人、玉の輿な結婚がしたい 裕福だと思われたい 可愛いといわれたい 愛されたい 自慢したい 良いと思われたい 言い出したらきりがないくらい、私は強欲で自分勝手です。 表向きは人に合わせていい人ぶりますが、心の中は欲と見栄で溢れています。 自分より劣っている人を心こ中で笑い 自分より優れている人を心の中で恨みます。 誰よりも自分が優れていたくてしかたありません。 しかし、実際は 頑張っていても、仕事ではミスしてばかり 顔だけで選んだ彼氏にいいように使われる 人よりモテたいと見栄をはり、くそみたいな男に一回セックスして捨てられる 上っ面な関係ばかりでつながりが薄い そんな、最底辺の生活です しかし、素敵な人に出会いました。 所得があるわけでもないし、見た目もちょっと汚くて、人に変なふうにいわれたくなくて私の虚栄心から関係を断ったのですが、 心をみたら、その人は素晴らしい人でした。 そして私を好きだと言ってくれます。 私は私を彼にお薦めできません 私が私がどういう人間で何をしてきて今があるかよく知っているため こんな汚いよごれまくった、くそみたいな男たちの性処理道具だった私を 仏さまのように澄んだ心の彼に関係をもたせるわけにはいかない。 お坊さん、教えてください。 どうすれば、私は何もなかった清廉潔白なあの綺麗て無垢な体、心にもどれますか? お坊さんたちみたいに、お寺とか仏とかいろいろ知っていたら こんなに汚い体にならずにすんだのに 体を浄めたい 過去をすべて消したい 私、綺麗な体になりたい
わたしは最近お坊さんの精進料理に興味を持ち始めました。 現在のわたしはというと、自炊もするようになりましたが とにかく毎日、毎食肉を食べております。 以前、筋トレをしていた時に栄養についても勉強し、その時に人間には体重×1gのたんぱく質が筋肉を維持していく上で必要な最低ラインという事を学び 以来おそらく15年近くに渡り、毎日それを実践してまいりました。 ただ、わたしには悩んでいる病気があり(病気の内容はここでは割愛させていただきます)、たまたまインターネットの記事を読んでいるときに わたしと同じような病気(悩み)を持っている人がいて その人が人に勧められて精進料理を始めたところ なんと副産物的にわたしと同じその悩みも解消してしまったと聞きました。 なので、わたしはこれから徐々に精進料理を試してみようかなと思っています。 ですが、わたしはお肉や脂っこいファストフードも好きだし、甘い洋菓子とかも大好きなので続けられるかという心配と 何を食べたらいいんだろう?という疑問や不安がわいてきています。 あまり手の込んだ料理は出来ないし 今のところわたしに出来そうなのは野菜たっぷりのけんちんうどんや納豆、お味噌汁とかそんな感じになってしまうのですが おいしくて一般家庭でも気軽に毎日精進料理をいただくような方法や、レシピ等ありますでしょうか? また、お坊さん自身が精進料理を食べはじめての変化 最初の頃は辛かった、体重や体質、思考の変化 お肉や魚などへの渇望といったものの体験談を伺ってみたいのですが 可能でしょうか? よろしくお願いいたします。
いつもお世話になっております。 次言われたら苦情!と騒ぎましたが、その「次」が訪れて しまいました。 きょうなどはお寺に入った瞬間に不安な気持ちになり、その 坊さんに向かって中指を立ててしまいました。 本人は見ていませんでしたが、防犯カメラには見られていたと 思います。 とにかく、顔を合わせる度に「きょう仕事は?」と聞かれる のが苦痛で仕方ありません。きょうは聞かれていませんが。 掛け持ちでもう1つ仕事をするか、シフト増やしてもらうか 本当に悩んでいます。 件の寺と違い、こちらは、万が一の時はすぐに本山等が動いて くれそうなので、ある意味安心かと思います。 (お寺の情報は、個人および団体情報保護のため、 プロフィールに記載します。) その坊さんも紫の色衣を着ている、つまりこの宗では 幹部級です。件の寺のようになる前に、食い止めたいです。 私はかなり印象が強いキャラだと思います。なぜなら、2年程 ご無沙汰したお店の方が覚えてくださっている程だからです。 ですが、なぜ私?もっとやばそうなのいるじゃないですか! きょうだってすごい顔で睨まれましたよ?拝んでたら。 苦情を言うとしたら信徒部でしょうか?それとも大元の本山? 気まずくなりたくないので謝罪などは希望しません。 クビか、改善か、再研修か。これだけ。 どうすんのこれ。ご意見お待ちしています。
初めまして。 現在お付き合いしているお坊さんがいます。 もうすぐ誕生日なので前から欲しがっていた法衣着衣時でも身に付けられる、シンプルな腕時計をサプライズで渡そうと思っているのですが、何か素材やデザインでタブーなものはあるのでしょうか? 今は文字盤とベルトが黒で、ベルトの素材は皮のものを検討しております。 予算がなく高価なものは贈れませんが、彼に喜んでもらえるよう選びたいです。お忙しい中このような質問で恐縮ですが、教えていただけると嬉しいです。よろしくお願い致します。
私は今、リストバンドを片手につけて悪口や愚痴を行ったらリストバンドを片方の腕に変えることを行っています。 『もう、不満は言わない』という本の内容を実践しているのですが、小林正観さんは「いくらありがとうを言っても不満をいうと帳消しになる」とおっしゃっています。 そこで質問させていただきたいのですが、愚痴や不満を言わない、または言わないように気をつけているお坊さんはいらっしゃいますか? 愚痴や悪口を言うのは仏教的にどのような影響を及ぼすかもご教示いただきたいです。 いつも本当にありがとうございます。
以前ここの相談で両親がやってきたことに話したときに坊さんの回答で「そういうことをやってきた人は必ず報いを受ける」といった感じのがありました。 それは具体的にはどのようなことなのでしょうか。 例えば犯罪に手を染めたりしてつかまるとか、とんでもない借金をつくるとかいったことなのでしょうか。 僕は両親にとんでもなく不幸になってから、地獄のような目にあってから死んで欲しいと考えてしまいます。 人間とは思えないかもしれませんが、そう考えています。じゃなきゃ不公平だ!とさえ思います それにさっきみたいな不幸も結局、周りの人を不幸にしながらの不幸なので、それはちょっと…みたいな気持ちになります。 両親のうける報いというのについて、どのようなものなのか教えてほしいです
こんにちは。 他愛もない質問なのですが、ずっと気になっていましたので思いきって質問します。 先日、京都の大谷本廟まで祖父の納骨をしに行ったのですが、広間のようなところで読経する際に、お坊さんが決まった足(右足か左足か失念しましたが…)で段差を上り下りしていました。 決まった足から踏み出す、など決まりごとがあるのでしょうか? また何か重要な意味があるのでしょうか? その他にも、なにか独特の仕草やしきたりがあるようでしたら、後学のために教えていただきたいです。 単なる好奇心から生まれた他愛もない質問で申し訳ないですが、お答えいただけると幸いです。 何卒宜しくお願い致します。
お坊さんにお金を貸しました 毎年の会費?みたいなものに50万いると言われて貸してしまいました 二ヶ月後に全額返してくれる予定だったのですが どんどん先延ばしにされ半年が過ぎています 比叡山の修行僧だと本人は言っていたのですが だんだん信用できなくなっています お祓い等で仕事をたまにしているのは聞いたりしていたのですが 本当に会費?に貸したお金を使ったのか 比叡山の修行僧なのか 僧侶の方はなにかに登録したりしているのでしょうか? 組合みたいなものがわかれば 本部等に連絡して確認したいのですが…
こんばんは。お聞きしたい事が沢山あり質問させていただいてます。 前に何かの本で「痒みがあっても衝動的にならずにその痒みを観察してみる」と見たことがあり、この1つだけを徹底して実践してきました。これを始めてからなぜか人と比べる事やストレスが減った気がするんです。全く関係ないかもしれませんが… これってお坊さん的にはどう思われますか? 何かよくわからないかと思われますが気になってるのでお願いします!
お盆のお忙しい時に失礼します。 お坊さんの彼と、子どもについての考えが違いすぎて、今後のお付き合いを考えています。 私は将来自分の子どもに、「自分のやりたいことをやりなさい」と言いたいです。子どもが寺を継ぎたくないと言った時、私はその気持ちを尊重したいですが、彼氏さんやその家族はきっとお怒りになると思います。僧侶となる子どもを育てるつもりがないなら、私は彼氏さんと付き合い続けるべきではないのではと最近考えています。 檀家さんからお預かりしたお寺を守る。それはとても大切なことだとは理解しています。でも、守る方法は世襲以外にもあるのではないでしょうか。 お檀家さんも、小さい頃から知っている子どもなら信頼できると、住職の子に次代を望まれるのかなと思います。でも、優れた住職の子が優れているとは限りません。お檀家さんの「墓を守ってほしい」という思いに対して、世襲は最善策ではないのではないでしょうか。 子どもが自分から僧侶になりたいと言うなら問題は何もありません。子どもが寺を継がないと決めた時のために、お寺から出ても生活できるお金を今から貯めておくべきだと私は考えました。でも、彼氏さんは自分の代で寺を他人に譲るなど、そのためにお金を貯めるなど考えたくないと言います。 私の考えは一方的なのでしょうか。もうお別れするしかないのでしょうか。 まとまりのない質問になってしまい申し訳ありません。何かお考えをお聞かせくださるとありがたいです。お願いします。
やっぱり、声を荒らげることもなく、ただ静かに「ゥム、我ハ今 頭ニキテヲル」と内観し、感情の嵐が過ぎ去るのをじっと待っているのでしょうか?あまり激しい喧嘩にはならないのですかね? 我が家は近頃、旦那ちゃんと喧嘩ばかりです。お互い間違っていないし間違えてもいるし、だからこそ我慢し過ぎて思考も感情もフリーズ、不気味な空気が張り詰めています。 お坊さんちはどんな感じですか?
はじめまして。 ていと申します。 お坊さんで結婚が破談になられたご経験のある方おられますでしょうか? 私は結婚前提で付き合っていたお寺のご子息がおりましたが、どうしようもない事情がありお別れすることになりました。 (詳しくは書けませんが、二人の問題とはちょっとちがいます) 両親にも挨拶を済ませ、同棲していたので 籍こそ入れていないものの、夫婦同然の生活を数年送っておりましたので、このたびのお別れは私にとっては耐え難いものでした。 ご縁がなかったんだと言われればそれまでですが、これでは人生にぐれてしまいそうです。えぇ。ぐれてます。 とっても素敵な彼だったぶん、悔やんでも悔やんでも悔やみきれません。 これは私のいままでの生き方が間違っていたから罰が当たったのでしょうか? わたしはどうすればよいのでしょうか?
タイトルに書いてある通りお坊さんが何かハマっている事はありますか? 私は多趣味なのですが、ミニ四駆、スパイスだけでカレーを作る、ドライブ、キャンプ、料理、精進料理(昨日は精進うどんを作りました)、座禅、YouTubeを見る事(こばしりちゃん、まこみな、URA-KISSが好きです)、ゲームをする事、パワースポット、将棋、オセロ、カラオケ、盆栽、古武術、手品、音楽鑑賞、映画鑑賞、野菜育て、物作り(小2年生の時に段ボールだけでパチスロ等々を作っていました。)、お茶の飲み比べ等々です。他にもあります。
キラキラネームや流行などで通常では読めない名前の子どもが増えていると聞きます。また、名付けの由来もなく、ノリや単純に目立つとの理由のみで名前をつける後先も子どものことも考えられない親も増えていると聞きます。 昔の人はお坊さんに名前をつけてもらったなどという話を聞いたことがあります。こんな時代だからこそ是非お坊さんに名前をつけていただきたいという親もたくさんいると思います。 今も依頼すればできるものなのでしょうか? お寺にアポイントなしで訪問し、突然、子どもに名前をつけてくださいと依頼するにはハードルが高すぎる気がするのですが、本当につけてほしい場合はどうすればよいでしょうか?
質問はタイトルの通りです。 実際に行ったおすすめのお寺でも大丈夫です。 お寺って静かですよね。周りに人がいても、1人で居るような落ち着いた気分になります。 私は音と光と匂いに弱いので静かな場所の方が好きなんです。 お坊さんという職業を理解していない部分もあり、失礼にあたる質問だったらすみません。 ここからはお忙しい方は読まなくて大丈夫です。回答いただけるだけ嬉しいです。 私は10月いっぱいで死のうと考えてます。 家族の分の家事や弟のお世話、買い物などはきちんと続けて最期までやろうと思ってます。 みんな忙しいのに私を消すのは申し訳ないです。 でももう二十歳なのに、自分の食事やお風呂すら出来なくなってきました。 親にも伝えましたが、いろんなことをしろと私に頼むのを止められないみたいです。 親の期待にも優しさにももう応えられません。 20年間、10時まで寝坊したことが二度、受験に落ちたことも二度、それから立派な大人にならなかったことは謝ろうと思います。 最期は自分の好きなように動いて良いと思いますか? 遊びに行きません。ダラダラ休みません。家族の手助けや頼み事は全部叶えます。その代わりお寺に行くことは許してくれると思いますか? 質問しておいて、後押しが無いと行けそうにないんです。力を貸してくださる方、一言だけで良いのでお願いします。 ここまで読んでくださった方、ありがとうございました。
僕は来年僧侶になる予定の高校生です。 お坊さんの戒律の現状に関して皆様の意見を教えてください。 明治以降、国の政策によってお坊さんは肉食、世帯、飲酒、その他諸々の戒律を守らなくてもよいことになりました。 そして国家の規定による持戒は戦後の信仰の自由の徹底化によって可能性はほぼ無くなりその状態は今現在も続いています。 以前こちらでも活躍されている大慈さんの配信で僧侶の肉食、世帯に関する質問をしたのですがその際に ・肉食は栄養の問題で必要だし仏教の教義としても問題ない ・世帯は無条件の良い事では無いが寺を継ぐ後継者を育てていくためにも必要 ・これらの問題は全てを解決できる答えが無いから考え続けることが大事 という様な答えを頂きました。 僕も大慈さんのお考えに感銘を受け、すぐに結論を出さすこの問題に向き合う事にしました。 しかしすぐに結論を出さないという事は問題に向き合う事に消極的になるという事では無く様々な意見、主張を聞き考え続けることだと思います。 そこでここにいらっしゃる僧侶の方々の肉食、世帯に関する意見をお聞かせください。 また、大慈さんは戒律の問題を一括りにはせず肉食と世帯を別の理由でもって語って下さいました。 確かに一つ一つ事情は異なっているので僕も個別に考えようと思います。 そこで肉食、世帯に加えて飲酒や金銭に関する問題もお伺いします。 今現在の僕の意見としては、しょうがない理由のある肉食や世帯と違い嗜好品としてのお酒やお寺を支えるため、生活するため、将来のための貯えを超えた過度な儲けと散財はある程度宗派、教団で規制してもいいんじゃないかと思うのですが皆様はどうお考えですか?
私は、曹洞宗の南直哉和尚の著作が好きでよく読んでいます。 南和尚の著作で「超越と実存」という本がありますが、その中での親鸞聖人の信仰のとらえ方が非常に興味深かったです。 曰く、 「親鸞聖人の悪人の自覚は、肉食でも妻帯でもなく、阿弥陀仏の救いを信じられぬことが根本にあったのではないか、そのため謗法をした者をも救われるという根拠を教行信証で示そうとしたのではないか」 ということです。 また、南和尚は 「ゆえに、親鸞の称名念仏はそれ自体無常で無意味な発声行為であり、超越を排しながらも実存を受容する方法として、道元と並び日本思想史上でも希有なものである。」 と結論づけています。 真宗のお坊さんでこの本を読まれた方、また読まれていない方でも南和尚のこのような解釈についてどのように考えられますか? 私はとても心打たれ、やはり真宗もただものの宗教ではない、深淵があるものだと感じました。