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hasunoha 問答検索結果 : 「夢」
検索結果: 4301件

父親のことで家族の喧嘩が絶えません。

私は物心がつかないうちに母親を亡くしてから、父方の祖父母のところに預けられ、父親とは別に暮らすようになり現在に至ります。 父親は現在無職で、仕事を探しており、50歳です。 父親は毎日家に電話をかけてくるのですが、祖母が水子供養をしていなかったり、祖父が祖父や祖父の兄弟が先祖の供養していないから、自分は仕事が見つからないんだと言ってきます。これをほぼ毎日言ってきます。 父親はお坊さんと昔からの知り合いなのですが、そのお坊さんから言われているらしいです。そのお坊さんは、金取り主義ではないらしく、なにかあると父親の電話にかけてくるらしいです。しかし、いくらお題目をやってもまだ足りないといってくるらしいです なので、祖母は毎日お題目を唱えています。 祖母は父親を信じているので、宗教否定派の祖父と必ず父親のことで喧嘩になります。 私も毎日お題目を唱えているのですが、しょっちゅうそんなことを言ってくるので頭が痛いです。信じていないわけではないのですが、父親の全て親が悪い主義にはうんざりしています。 少なくとも祖父は父親に対して、生活費をあげたり、車をかってあげたりなどで何千万とお金をやったりしていたのですが、父親は祖父を不信心といい、罵っています。 これってどちらが正しいのですか。

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いらない、とは?

重度鬱病を患っています。存在価値が分からなくなってしまいました。長文乱文すみません。 鬱病療養の為、今は無職です。 ですがこれ以上家族に迷惑をかけたくなかった為、就活や資格取得の勉強を開始しました。 その矢先に「新型ウイルス」が出てきました。 「家族を感染から守りたい。その為には情報を知らなければ対策を立てられない」 『情報=命綱』と感じたので自身の就活や勉強は後回しにして情報収集と共有に励みました。 国内外のニュースやSNSの確認。海外情報は翻訳&要約。それをノートに書き記したり、印刷していました。 これらをまとめて『対策ノート』を作りました。いつでも・誰でも・何度でも見ることが出来るように。 ※SNSやネットニュース、また海外ニュースやレポートは、情報が速いので積極的に目を通していました。 家族はネットや外国語が苦手なので、私がカバー出来ればと思い、チェックしていました。 ※収集した情報を基に、必要物資の買い出し等も行っていました(費用は自分の貯蓄を切り崩して捻出) このように防疫に努めていましたが、昨日家族から「もう情報いらない」とバッサリ言われました。更に「買い物も勝手にされると迷惑」という趣旨の話もされました。 独自に作成したノートについては「ありがたいし感謝してる。でももういらない」との事。 家族は私がノートに記した内容は目を通してくれていたようで、日常生活で注意すべき点は気を付けているようです。忙しい中ノートを読んでくれた事は感謝しています。 ですが「いらない」という言葉がグサリと刺さりました。 私が鬱病を発症した原因は学校と会社でのイジメとパワハラです。 その時「(私の存在が)いらない」と何度も言われ、無視されたり馬鹿にされたりしました。 なので「いらない」という言葉は私にとって重苦しいものになってしまいました。 今回家族から「いらない」という言葉を聞いて、どう接すれば良いか全く分からなくなりました。 鬱病を患ってから頭の回転が鈍くなりました(文字を読む、要約するといった作業が困難) でも少しでも防疫に役立てればと思い必死に取り組んだつもりでした。 だが家族には迷惑でしかなかった。何の役にも立てない私に存在価値はあるのだろうか。 鬱病の症状だと思うのですが『消えたい』と強く感じています。 私はもう「いらない」存在なのでしょうか。

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オタク趣味は悪いことなのでしょうか

両親に私の趣味を受け入れてもらえず悩んでいます。 私はアニメが大好きです。しかし両親は私の趣味を全否定していて、なんとかオタクをやめさせたいと思っています。 でもそう簡単に趣味を辞められるはずもなく、親に隠れてアニメを見たりしていました。 でもさすがに自分の趣味も満足に出来ない環境に嫌気がさして、今年、地元を離れて東京の大学に進学し一人暮らしを始めました。 誰にも気を遣わずに自分の好きな事ができるのが楽しくて仕方なくて、毎日頑張れるのはこの楽しみのおかげだという程でした。 私はきっと大人になってからもアニメオタクを辞める事は出来ないし、それどころか私の日々の生活はこの楽しみを中心に回っています。 一人暮らしをはじめてしばらくは毎日を有意義に過ごせていたのですが、すぐに親にオタクを続けているのがバレました。 両親は私のオタク趣味にお金を使われるくらいなら仕送りは辞めると言うし、そんなことをさせるために一人暮らしを許した訳ではないから大学を辞めて実家に帰ってこいとまで言うし、散々に貶されました。 私はバイトはしていますが、仕送りなしで自立出来るほどの給料はありません。 だから毎日切り詰めて、決して多かった訳ではない仕送りも工夫して使って、自分の趣味に使うお金を作っていました。 アニメが好きであることは、そんなにも悪いことなのでしょうか。 母には「親の稼いだ金を使って一人暮らしをして、遊んで、親を犠牲にしてまで楽しみたいのか」と言われました。 私はそんなにも悪いことをしているのでしょうか。 私の生き甲斐ともいえる趣味をこんなにも否定され規制され、私はどうやって生きていくのが正しいのか分かりません。 何故私は楽しく生きてはいけないのでしょうか。 それとも両親の意見が世間一般では普通なのでしょうか。 散々貶されてからというもの、そもそも私さえいなければ起きない揉め事だったのだと思うようになり、自己嫌悪が止まりません。 こんなことを他人に話した所でどうしようもないことは分かっています。 でもひとりで考え続けていると悪い方向にしか思考が向かず、正直とても苦しいです。 ほんの少し客観的なご意見が頂ければそれで満足ですので、どうかお手隙の折にはご意見のほどよろしくお願い致します。

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2024/07/21

15年来の友人の死について

7月20日に友人が突然死しました。 気持ちの折り合いがつきません。 19日に友人とお茶をしたのが最後となりました。 あの時体調が良くないと言っていた友人を襟首掴んで病院に連れて行っていたら、あの日の夜息苦しいと言っていた友人宅に勝手に救急車呼べば、窓ガラス割ってでも室内に入っていたらと自分を責めてしまいます。なんで躊躇ったのか、どうしてできなかったのか、合鍵がないからといって家族に先に連絡しないで私が警察を呼べばよかったのに、苦しいと連絡があった時に終電があったんだから家に押しかければよかったのに。 躊躇わなければまだまだ楽しい時間を彼女は過ごせたはずでした。 街中を歩いても一緒に行ったカフェや次に遊ぶ時行ってみようと言っていたレストランを見ると「自分が彼女の人生の時間を台無しにした」と思ってしまって潰されそうになります。もしかしたらもう潰れているかもしれません。 友人を亡くしたのは初めてです。どうしたら心に折り合いを付けられるか全く分かりません。ご家族からは「貴方のせいじゃない、自分を責めないで」と言われましたが出来たことはあったのにやれていない自分が許せないです。

有り難し有り難し 29
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人生の選択

初めての質問です。 日々お忙しい中すみません。つたない文章ですが、読んでくださるとうれしいです。 私は今大学受験を控えています。美術系の大学を受けるために日々努力しています。 勿論絵を描くのは好きなのですが、気持ちが足りないせいかあまり夢中になって取り組めず、思うように結果が出ません。 もう、『才能が無い』と割りきって、諦めた方が良いのでしょうか。 しかし、今まで周りの事に無関心だった私は、色んな事に挑戦したり新しいことに取り組む事をしてきませんでした。 だからか、私に出来ることが絵を描くことしか残されていません。私から絵を描くことを取ったら、ほぼ将来への道が閉ざされてしまうのです。それに、今までしてきたことは何だったのか、と自己嫌悪に陥ってしまいます……。 『ほぼ』というのは、他にも興味のあることはあるにはあるので、いっそのこと、そっち方面に路線を変えた方が良いのではないか、と思ってきたからです。 人生、間違った選択をしてしまったためにそのあとずっと苦しむ様なことはなるべくしたくありません。 どんな事が自分に向いていて、合っているのかまだ分からないのです。 苦しんででも1度決めた道を突き進んだ方が良いのか、諦めて比較的楽しく過ごせるであろう方に進んだ方が良いのか、どちらが良いのか悩んでいます。 合っている道=楽しい ではないのかもしれませんが、今の私には何が正しいのかわからないのです。正しい答えなんてないのかもしれませんが。 長々とすみません。へんてこな文章になってしまいましたが、ここまで読んでくださりありがとうございます。喝やアドバイス、もらえると嬉しいです。

有り難し有り難し 23
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『とらわれない心』について教えてください。

3年位前に、お坊様がTVで『とらわれない心が大事』と話されてるのを観てから、ずっと気になっていることがあります。 『とらわれない心』というのは、自分の欲や我を手放して、人と争わずおだやかに生きること、ではないかと私なりに受け止めました。 でもそれで、『私はこうしたい、こうなりたい』という目標があって、人と意見がちがったら、『私はこうしたい』と言うのは『とらわれている』のでしょうか? 意見がちがうときは自分か相手が譲るか、全く別の案を見つけるかだと思うのですが、いつも自分が譲るスタンスなら私はその人のいいなりになってしまいそうです。 自分の欲というのは望みであり、自分のあかしでもあると思います。 その欲=望みがなるべく汚いものではなく、きれいなものであるように願っていますが、他人から見たら『我』でしかないのでしょうか? とらわれない=思い通りになるようコントロールしない、ということだとしたら、将来に期待はしないでただのぬけがらになってしまわないか疑問です。 私も未熟ながら、人にやさしくありたいと願っています。相手にとって安らげる存在になりたいです。自分と相手をともに大切にして、なおかつ『とらわれない』境地って私にはまだわかりません。 どうか、私に道を説いてくださいますよう、お願い申し上げます。

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僧侶になることは「逃げ」なのか

私は高校2年です。 5で神童、15で才子、16過ぎれば只の人 と言った具合に、高校受験の失敗を皮切りに 落ちぶれていく人生を歩んでいます。(神童なんておこがましいですが、) 中学までの怠惰な生活をしていると、 当然、第一志望の高校には落ち、滑り止めの高校でも、成績は下がる一方、順位は下から数えた方が早くなるまでになりました。 なんとかしなければならないのは、分かってるけども、モチベーションは下がり、無気力。 さらに、成績が下がり…と悪循環の日々です。 そんな中、テレビ番組で僧侶の方々を拝見し、その道徳観、柔和な笑顔に惹かれました。 これまでの、偏差値や年収の見栄が第一の数字を求めてきた私にとって、とても異質で別世界で生きているように思えて仕方がなかったのです。 魅力的に感じ、僧侶に憧れ、志すようになりました。 しかし、仏教系の大学の偏差値というのは、お世辞にも高いとは言えず、家族や担任からは、受験から現実逃避しているのではないかと思われています。確かに、私は学校の課題から逃げ、担任からは、見放されています。しかし、表面上だけ良い子である私の内面がどうしても許せなく、また、現実との乖離に悩むのをどうにかしたいのです。 私自身、なりたい思いはあるものの、本当に僧侶でいいのか、受験から逃げたいがために、僧侶という芝が、青く見えているだけなのではないか。修行すらも投げ出してしまうのではないか。と不安に思ってしまいます。 私の僧侶に対する気持ちは本当なのか自分自身で確かめる方法、そして、周囲を説得する方法、そして何よりこの文章を読んで、逃げていると思うのならば率直に言っていただきたいです。 長文失礼しました。よろしくお願いします。

有り難し有り難し 42
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