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自分の中の敵とのつきあい方

大人になっても人間は失敗したり、怒られたり、嫌なことって誰にでもあると思います。 心もしっかり成長した大人なら、いちいちくよくよせず気持ちをうまく切り替えたり、引きずらなかったり、ぐっと堪えて割り切ったりできるのだと思うのですが、私にはそれがなかなかできません。 堪えて割り切ろうと思っても、私はこうしたい、これはどうしても納得がいかない、と私は私はという気持ちに心が占領されます。 そのせいで、いつまでも1つの出来事に執着し、1日中考えてしまい家事が手につかなくなってしまうほどです。 自分を責めたり、時に関係者を心の中で責めたりして、自分の中であれやこれやと深読みしてはへこみ想像してはへこみの繰り返しです。 そうなるとなかなか抜け出せなくて、悪い事が起こると雪だるまの様に自分の中で大きくしてしまい、かなり落ち込んだり自分を責めたりしてしまいます。 事実だけを見て、素直に反省したり、割り切ったりできればどれだけ楽なのだろうと思うのですが、それがとても難しいです。 全く関係のない人に相談するのは自分の気持ちの整理もつくので聞いてくれて有り難うという気持ちになりますが、関係者に伝えない事には始まらないと思い、関係者に話したりもしますが、後になって変な言い方しちゃったかなとか、悪口みたいになっちゃったかなとか、話さなきゃよかったかもなどとまたごちゃごちゃと別の所に執着して考えはじめてしまいます。 でも、自分の中で色んな想像をして1つの出来事を必要以上に大きく捉えてしまうのをやめたいです。 でもやめ方が分かりません。割り切り方も分かりません。 そのままでいると悩みが膨らんで限界がきて、一気に爆発して人間関係を壊してしまったり、仕事も行きづらくなったりして後悔やまた自分はだめな人間だ、わがままだと責め続けて臆病になり前に進めず、また壁にぶち当たった時に心の中で悩みの雪だるまを作って爆発して…の繰り返しの人生になってしまいそうです。 自分が一番の敵です。 自分に勝ちたい、もしくは自分の中の本心の自分と表面上の世間と関わっている自分とで、うまく折り合いをつけて生きたいのです。 どうしたらいいでしょうか? どうぞよろしくお願いします。

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働くのが怖いです

自分が他者の中で働いている姿をイメージ出来ません。 自己肯定感が低く、指摘を受ければ攻撃されたと思い、他者は自分のことを否定する存在です。 なので、皆で助け合い仕事を行うということが自分にはよくわかりません。 もう人の中で生きていたくないです。それは自分の平常心を保つことができず、心が乱されるのが嫌なのとどう自分が振る舞えば良いかわからないからです。 昔も同じ事を思っていましたが、やってみようという気持ちの方が強かったです。それは、自分がどういう人間か全くわかっていなかったから自分はやればできると錯覚出来たのだと思います。でも、前職も鬱状態になり、辞めることになりました。 私には、自分は出来ないからがむしゃらにやるっていう気持ちが足りないみたいです。出来ないくせに努力する気持ちが湧かないです。ただ拗ねているだけかもしれません。 どんどん年齢だけ重ねて、自分の精神レベルが見合っていないのが本当に辛いです。だからといってどうしたらいいのかわからないです。経験しなければ(学ばなければ)いけないことを経験らずにここまできて、確実に自分には何かが欠落していますが、それが何なのかわからず、今更どう補ったらいいのかわからないです。 それを考える度に自分が憎くて仕方なくなります。こうなってしまったのも馬鹿で幼稚な自分の責任。 その裏で親や周りのせいと思いたい自分もいます。自分が愛されてるって自覚して育つことができたらこのような問題を持たなかったのではないかと思います。 それにしても、ある程度成長した時点できちんと現実に目を向けられていたらこんなことにはならなかったので結局は自分が何もわかってなかっただけ。 何が(誰が)いけなかったのか。そればかりを考え過去に囚われているだけですが、それでも、ことあるごとにその思いに苛まれ辛くなります。 もうこの問題をどう解消したら良いかわからないです。 今自分が抱えている問題を解決しないとまともに生きられない気がして。だからといって、どうしたら良いのかわからず前に進めずにいます。 どうしても今の気持ちを持ったまま生きていくのは嫌です。この気持ちを抱えて生きていくくらいなら逃げでも甘えでもいいから死にたいです。 本当に生きてるのが辛いです。 何でこんな風になってしまったのか自分でも訳がわからなくてただ辛くて仕方ないです。

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「苦」によって仏道を志すのでしょうか

いつもお世話になっています。 日々のご回答に感謝いたします。 質問者の方々が励まされ心情に変化をもたらし心が好転していることが伺えます。仏道を志す者としても嬉しい限りです。 在家ですが、日々坐禅を行って心の清浄に努めています。 多くの質問者は、他人の質問を読むことでも勉強になっていると思います。 「苦」を観察しました。  我々は見るものであると同時に見られるものです。我々は現象を観察するものであると同時に観察される現象そのものです。  いつも主体と客体という目線でしか観察できていませんでしたが、己を客体として観察すると、己は他人(=現象を見ている主体)から見れば「客体」であって、見られる現象そのものです。  現象は諸行無常であり縁によって起こっています。この世は、全てが縁によって起こっているので恒常不変の「我」など無いので無我であり管理や制御のできない世界に生きています。  現象は常に未知であり無常であり無我であるゆえに実体のない蜃気楼か幻想のような実体のない「空・無」です。この身体や五感も現象であって、無常です。この世は、一時的な現れの現象が連続で展開されているだけでしかありません。  己に視点を移すと、我々は未知なる一瞬一瞬の刹那を体験してるだけです。この幻想の「世界」では掴むことのできない「空・無」を一生懸命につかもうとしています。しかし、己の頭の中では「現実」として展開されていて掴めるものと思い込んでいます。できもしないのになんとか掴み取ろうともがき苦しんでいます。しかし、叶わないので「苦」となっていると思います。  存在していない仮想の「わたし=無我」を使って、掴むことのできない世界で掴もうとする「渇愛」がありつづけます。「渇愛」を消すこともできずに「苦」のままに生かされています。  我々は、楽で「苦」をカバーしきれなくなり、「苦」に耐えきれなくなるようです。やり場のない怒りや憤りが募り、仏道に拠り所を求めるようになっているのでしょうか。「苦」を認識することによって仏道に入っていくなら、「苦」は避けるものではなく直視しなければなりません。「苦」は消滅できると証明されたのがお釈迦さまでありその道が仏道であると日々感じています。  お坊さんのますますの活躍をお願いいたします。

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