自分は3人兄弟の2番目で上に兄がいて下に妹がいます。 母親は兄には甘く、自分にはとても厳しい人でした。 何をするにも兄が先で、兄が誉められ、自分は兄と同じ事をさせられてきました。 兄と同じ事をしなければすぐに罵声を浴びせ、自分を否定し、手をあげる母親でした。 今思うと躾というよりは虐待にあてはまります。 大人になり分かったのですが、母親は2番目は女の子が欲しかったらしく自分は男なので、母親的にはいらない存在だったみたいです。 父親は自分の事を助けてはくれるのですが、最終的には母親に負けお酒に逃げる感じでした。 そんな自分も結婚し今年小学生になる息子も出来ました。 その息子に対し母親に自分がされてきた同じような事をしてしまいます。 自分の思い通りに動いてくれなければ罵声を浴びせ、息子を否定し、手をあげてしまします。 妻にはあまり怒らないでと言われるのですが、一度スイッチが入ると感情のコントロールがきかなくなってしまいます。 息子の泣いてる顔や寂しそうな姿をみると昔の自分をみてるようで可哀想です。 分かっているのですが、治りません。 虐待は遺伝すると前にテレビでみたことがあります。 自分と同じ想いを息子にはさせたくありません。 自分も母親と同じ事をしたくありません。 心療内科等を受診しようかとも考えています。 文章が下手で申し訳ありません。 何か説教やアドバイスがありましたらよろしくお願いします。
先日、舅が他界しました。 舅には大変申し訳ないですが、覚悟は出来ていたので主人と葬儀等のことを話し合っていました。 私は今、普段でも普通の40代の生活は送れておらず、休み休み生活しています。 だから応対とか無理なので最小限にさせて頂こうと決めていました。 近い親戚にも伝えてありました。 しかし舅他界→隣に住む親戚に伝える→親戚が組の人に連絡→組の人が家に集まる→(舅はあまり人づきあいがないのに)町全体に知らせる→私は家で応対 そして遺族の意思はそっちのけで通夜・葬儀は決まりました。 そしてキャパを超える人に来て頂き、食事・お菓子が足らなくなり、なぜか主人が親戚から叱られ、私は通夜の晩、一睡も出来ませんでした。こんなこと怖くて主治医の先生に言えません。 火葬場ではめまいがして倒れそうになりました。 なにより悼む暇もなく舅は骨になってしまいました(涙) 少し話はそれますが、菩提寺のご住職様に枕経に来て頂いたとき、枕経が終わって、ほぼ間もなくご住職様から「お布施は」「脇導師は4人で」とか言われたことも驚きました。 私は葬儀が不要と言っているのではありません。 むしろ大切で難病と言われた私は自分の葬儀を自分で決めて死にたいなと思っているぐらいです。 実は3月に猫を亡くした時、お経をあげて頂いたお坊さんは優しく「大丈夫ですか?良かったら(猫)ちゃんに家でも手を合わせて下さいね。きっと喜ぶから」と悲しみに寄り添って頂いたとき、人間と一緒にしてはいけないだろうけど悼み、供養していくのは遺された者のためなんだなぁとしみじみ思いました。 ただ遺族に見合った形で故人を見送ることがそんなに許されないことかと主人に言ったら、普段は温厚な主人が「葬儀はな、所詮世間体でするもんなんや!」と怒ってきました。 だから冷静に伝えておきました。「私の葬儀を世間体でしたら必ず化けて出ますから」と…。 世間体で出した葬儀で私は死にかけたんですけど…。 まっ、難病=怠け病って言う人もいるぐらいで理解され辛いので仕方ないなと思うこともありますが。 完全アウェーの状態だったので第三者の方のご意見が聞いてみたかったのです。やっぱり私が変なのでしょうか? 体だけじゃなく頭もおかしくなったのか不安なのです。 後回しで構わないのでお時間があるときに回答下さい。お願いします。
はじめまして おかしな人に嫌がらせさせてほとほと疲れ果てているので相談させてください 嫌がらせ犯をAさんとすると、Aさんと私は元々SNS上で繋がりがあった人なのですが、「今日の服かわいい〜」みたいな何気ない雑談に対して突然「顔はブスって言いたいの!?」といきなりよく分からない怒り出し方をされ、それ以来SNS上で 「(私さん)は色んな人に対してブスと言って回っている」「匿名掲示板に愚痴を書き込んだら、複数人から『お前が間違っている』と言われた。これは(私さん)の陰謀に違いない」 「自分が職場の人に虐められたのは(私さん)のせい」 などといった事実無根の悪口を書き連ねられています あまりに支離滅裂な悪口のため信じる人がほぼいないのがまだ救いだとはいえますが、正直ものすごく腹がたっています 上記の件について弁護士にも相談したのですが費用面や利用しているSNSの運営がそういった嫌がらせに対する対応(開示請求して裁判して……といったようなこと)について非協力的であることもあり、法律的にAさんをなんとかすることはかなり難しいらしいです なので心を整理して折り合いつけるしかないのですが、自分に一切非がない、仮に最初の一言に対して誤解させるような余地があったとしても、散々悪口や風評被害を言い募られるほど悪いことはしてないはずなのにと思うと腹立たしいやら悲しいやらで全く心の整理ができません 「自分が嫌な目に合わされた分かそれ以上の嫌な思いをAさんにさせてやりたい。天罰が下って欲しい」という怒りに心を囚われています 理不尽に傷つけられたことに対して、相手を傷つけ返してやりたいというのは正常な心の動きだと思っています ただその一方で怒ることに疲れてもいます 怒りに心を囚われた状態では、大切な家族や友人に対する当たりが強くなってしまうような感覚もあります (自覚しているのでできるだけ表面化しないよう気をつけてはいますが……それでもうっかり強く当たって傷つけてしまったら、と思うと怖いです) なのでなんとかこの怒りを、可能であればAさんのことも綺麗さっぱり忘れてしまいたいです その助けになるような言葉をいただけるとありがたいです
私は、いま過去の様々なトラウマを抱えています。 小学2年生の時に脅されて中学生にキスをされたこと、周りからの善意で行きたくない場所に数年行かされていたこと(少しぼかしておきます)、母親からの暴言・暴力…… 激しい夫婦喧嘩、母親の自殺未遂………他にもありますがこんな感じのトラウマを抱えています。 そして、そのトラウマから解放されたくて…… 救われたくて、自分がトラウマから救われると 思った本をたくさん買ってしまいます。 知識だけでは救われない、カウンセリングなどに 行った方が良いと分かっていても買ってしまいます。 それから、本だけではなくお守り代わりになるような、ぬいぐるみなどの物も頻繁に買ってしまいます。 そして、内科クリニックで処方された薬にも 縋って依存しています。 私は、いま大量のお金を使い物を手に入れ、薬に依存している……この、物に縋ることを辞めたいです。 でも、周りには本当に相談できる人が居なくて ただ、自分が間違っているということしか 分からず、そして同じ日々を繰り返しているのが 苦しくてたまりません。 どうしたら、物に薬に依存せずに救われる事が できるのでしょうか? 何かアドバイスを頂けるとありがたいです。 何でもいいです。たすけてください。
学生の頃から、「人は何故生きるのか、人生とは何か」を考えるようになり、自分なりの答えとして、「世界、社会に何かを遺すこと」という結論に達しました。 自分の行い、作ったものが、他の人の役に立ち、笑顔にできるなら、自分が生きた意味があるだろうと考えるようになりました。 30代後半で、他の人にはできないような大きな仕事を達成して、燃え尽き症候群といいますか、他の人の人生の手伝いをしようと思うようになりました。 40代半ばになり、欲が減衰し、自分のしたいことがなくなり、食事すら面倒に思うようになりました。 未だ独身ですので、女性一人幸せにしていないと考えることもできますが、過ぎたる欲は不幸を招くとも言いますし、特に意中の女性が居るわけでもありません。 平均寿命で考えると、まだ人生の折り返し地点ですが、満足感と無欲で、この先40年どうすればいいのか、悩んでいます。 この手の疑問は、様々な経典・古典に通じていらっしゃるお坊さんが答えを持っているのではないかと思い、相談させて頂きたいと思いました。 お忙しいところ恐れ入りますが、道標、お導きの程お願いいたします。
こんにちは。 はじめて質問致します。 自分は3人兄弟の次男で上に兄、下に妹がいます。上の兄の事ですが、独立してバツイチで結婚(子供無し)してますが、9年前に亡くなったのですが、今だ、納骨せずに手元に置いて居ると、最近知りました。このままの状態で、供養出来るのでしょうか⁉ 早々に供養したいのですが、良きアドバイス宜しくお願い致します。
父が、死んでしまいました。 あんなに元気だったのに、検査もしていたのに、病気が判明してからは、わずか2か月ちょっと。驚くほどあっという間でした。 こうなることが怖かったから、話をしようと言ってきました。でも、その言葉を正面から受け止めてくれることはありませんでした。 父は本当にすごい人ではありました。地域のボランティアもたくさんしてきました。父が始めたプロジェクトは今もたくさん残り、地域の絆も生まれました。こんなに地域の人がたくさん集まったご葬儀は初めてですと、葬儀場の方に驚かれました。お父さんには本当にお世話になったと、見知らぬ人から何度も声をかけられました。 父にあてた相談の電話を、子供の頃から何度も取り次ぎました。呆れるくらい、ずっと話を聞いてあげていました。 辛いとか苦しいとか、そういう愚痴めいた言葉はとうとう最後まで一度も聞いたことがありませんでした。もうかなり痛みがあると思いますと、お医者様にも何度も言われました。亡くなる直前まで、毎朝ぴしっと背筋を伸ばして起きてきて、自分で身支度をして、おはようと言って起きてきました。 体力を振り絞って、最後に庭にでた日にしたことは、花を植えることでした。この花が、春になるときれいに咲くよと笑っていたそうです。父が亡くなってから、きれいに咲き揃いました。 皆がもっとのびのびと仕事ができるようにと、父が改革をしたときは、現場からは大歓迎の声が上がりましたが、前任者の方には激しく罵倒されたそうです。周囲もかなりはらはらしたそうですが、父は最後まで見事なほど穏やかに対応したそうです。大丈夫だったの?と母が声を掛けたら、「俺はこんなことではくじけんよ」と、そう言って笑ったそうです。 昔、私が学校に行けなくなったことがありました。毎日の生活を何一つ変えない父でしたが、家に閉じこもる私を、黙って職場に連れて行ってくれました。仕事を黙々と手伝い、父の行きつけのお店でお昼を食べ、午後もまた仕事をして帰る、そんな毎日でした。特に何かを話したわけではないですが、あの時間だけは、ずっと感謝しています。 おれはじっとしていられる性格じゃないから、向こうでも、また何か新しいことを始めるよと、最後はそう言って旅立ちました。 もっともっと話がしたかったの。 そう……わたしはただ、あなたともっと話がしたかった。 なぜ、もういないのですか?
12年付き合っている(いた)人がいました。 初めは遠距離でした。3年前東京に転勤してきました。 彼は親の借金の為、好きでもない人と結婚していました。付き合って5年位たった頃その事実を知りました… しかし、いつかはキチンと清算し私と結婚してくれると信じていました。私の子供、両親、友達…みんな彼を「良い人」と慕っていました。 今年の1月、彼の財布から子供が書いた手紙を見つけてしまいました。「パパへ」と言う文字が飛び込んできました。お正月、仕事だと言っていたはずの日付のレシートには子供用の下着と記載がありました… 彼は調停をし、キチンとすると言ってくれ、8月から調停が始まりました。 先月調停に向かい、その結果がメールで届きました 「疲れた、詳しくは日曜日(4日後)ゆっくり話すから」と。 私は何故すぐに話してくれないかと電話を入れました。 「いまどこ?」 「○○駅」 しかし、ざわついた感じも駅構内らしき雰囲気も伝わって来ませんでした… 「○○駅のどこ?」 「下のターミナルだよ」 私はさすがに信じられず 「本当にキチンと清算し、調停が終了したのが分かるまで連絡しません」 と、その日以来、会わない、話さない、もちろんメールもしていません。 ここまでされても…私は彼の本当を知らない。 本当に結婚していたのか? 本当に調停しているのか? このまま彼を待つのが良いのか? 素行調査して、彼の現実を知りキチンと諦めるか? でも素行調査する事は、人間としてどうなのか? 今彼を本当に好きか? それすらもわからない。 自分の気持ちがよくわからない。 でもこのままじゃ、前に進めない… 毎日毎日考えていますが答えが出ません。
高校3年生の男子です。 私は最近、将来、特に5年や10年後などの先についてかなり不安を感じています。特に私は、小さい頃から死に対してかなりの不安を抱いていて、思春期の不安と元々の死への不安が化学反応を起こして、本当に苦しいです。 一度、この苦しさを取り除くために、先を考えるよりも今を精一杯生きようと思おうとしたのですが逆効果です。 一番には、どうすれば死に対してある程度柔らかい考えができるのかを教えて欲しいです。
17年連れ添った猫を失い、次の猫も家に来て二ヶ月目に交通事故で失いました。その子はまだ1歳にもなっていませんでした。 なぜあの子達は死ななければならなかったのでしょうか。 なぜ私は失い続けるのでしょうか。 悲しみ以外、涙以外、私は全てを少しずつ失い続けます。 仏様、私はあまりにも愚かです。私には真理を悟ることができません。何もみることができません。 私は死者の出なかった家のカラシの種が欲しい。 あの子が死なずにすむなら、何度でも車の前に飛び出したい。 仏様、私は救済に値しません。もう疲れてしまいました。ただただ疲れてしまいました。
私の家は浄土宗の檀家です。 浄土宗(浄土真宗も同じだと思います)では、「ただ南無阿弥陀仏を唱えれば、臨終に際して阿弥陀様が現れて浄土に連れて行ってくださり、そこで悟りをひらいて救われる」という思想だと理解しております。 しかし、どうしても心の中にもやもやが残ってしまいます。 といいますのは、「南無阿弥陀仏を唱えれば浄土に連れて行ってもらえ、悟りをひらける(=救われる)」というのを裏を返せば、「南無阿弥陀仏を唱えない人は悟りをひらけない(=救われない)」ということになってしまわないかと思うのです。 「自分に帰依しないもの、信じないものは救わない」などと、阿弥陀様はおっしゃるようには思えないのです。そんな心の狭い方ではないと思うのです。 おそらく「信じるものは救われる、でも信じてない人も救ってあげるよ」とおっしゃると思うのですが、ではそうなると「南無阿弥陀仏」をお唱えするのに果たして意味があるのかどうか、唱えても唱えなくても救われるのであれば、なぜ「南無阿弥陀仏を唱えると良い」とされているのかという疑問がわいてきます。 つまり 「南無阿弥陀仏を唱えないと救われない」→阿弥陀様はそんな心の狭い方だろうか? 「南無阿弥陀仏を唱えなくても救われる」→じゃあなぜ南無阿弥陀仏を唱える必要があるのか? という板ばさみといいますか、ジレンマに陥った気分になるのです。 これについて、お坊さんの見解をお聞きしたく、よろしくお願いします。