説く事の難しさ。ありがとうございます。
私は田中である。こういった職業について収入はいくらで妻帯しており・・・。
個々人が何かに向き合うとき、色々背負った上でモノの尺度を測るわけですから、個々人の評価も違って、見る場所も違います。
この風は、あの風であり、この音はあの時の音だ!(誤りです)
話をする時、相手の背負ってきた如何によっては、説く側に危険が及ぶこともあったと思います。
何かを求めて期待したのに、期待したモノが得られず怒る人もいます。
推定は事実ではなく、「仮定」であってそれに依り苦しむのはおかしい。
体験はその時を過ぎれば記憶となり、記憶も事実ではない。
事実ではない所から考えているので、思考は苦しみに対する解決法を見いだせないと思います。
背負っているもの次第で話の着地点も変わってくる。
母の仕事場に何でも結婚に結び付けて考える人がいるようで、
料理の話をしていても、最後は「だから結婚しないと幸せになれないのだ」
と、決まって最後は結婚=幸せに話が着地するんですね。
少しどころか怖い位ですけど(笑)誰もこの人を笑えないし、大体の人が気付かずにうっかりしていることと思います。僕もです…。
人に何かを説こうとすれば、その人が現在「背負っている」何かを見定めないと、とてつもなく危険で、些細な言葉の機微にも敏感でなければならないと思います。話す方も聞く方も。
声のイントネーションからテンポ、周囲の環境(場所)にまで注意しなければいけない。
何にその人が反応し結び付けて、怒るか悲しむか分からないからです。
お坊様は坐禅会等の関わりを通して、その落ち着いた姿を見せてくださっている。社会生活に混乱し頭がパンクしそうなほどに考えている人間は、
落ち着いて妄想少ない人を見るだけで、その場は救われます。
僕も疑問や混乱を持ち込んで最初は参加しましたが、氷解しました!
この人がこんなに落ち着いて安心しているならば、仏教には素晴らしい教えが説かれていて、その実践は優れているのだろうと信もおのずと湧きました。
ただ関わりあうだけでも、その落ち着いた呼気は伝播してきて、安心が訪れました。
言葉だけでなく所作、立ち居振る舞いで説くのですね。
日頃のコミュニケーションを見直すいい機会になりました!
もっと僧侶と在家者の関わりが密接になるような催しが出来ていって、
坐禅会を開くお寺が増えたらなぁと思いました。
有り難し 15
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