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検索結果: 1102件

水子兄弟の夢を見ました

お坊さん、ご覧いただきありがとうございます。 水子兄弟についてお聞きしたいです。 先日、水子になった兄弟の夢を見ました。 私の母は私の上と下に1人ずつ流産を経験しているのですが、最近そのような話をした訳でも突然思い出した訳でもありません。 しかし先日、夢に知らない兄と弟が出てきて、夢の中で彼らは水子兄弟だとハッキリ認識できたのです。 兄を「お兄ちゃん」と呼んだり、初対面のような素振りもお互い見せず、他愛もない会話をしたり一緒に外出するという夢でした。 性別も知らないし、ましてや年齢相応の姿だったのでほぼ初対面の人だったのですが、確実に水子兄弟だと思います。(自分でもなぜそう確信できるのかは分かりませんが…) それ以来、彼らの存在が気になってなりません。 夢の中での彼らの姿や会話をぼんやり覚えていることもあり、また会いたいとすら思っています。 これは何かのメッセージなのでしょうか? 母方の家系は浄土真宗なので、そもそも水子供養という概念がないと存じているのですが、このことに関する原因はあるのでしょうか。 (正直、私自身熱心に浄土真宗を信仰しているわけではありませんので…) 私の水子兄弟には、天国で幸せに過ごしてもらいたいと思いますが、もし現世で私の家族の周辺にいたいと思っているのであれば、そうできるように整えてあげたいです。 夢の中での彼らが良い人たちだったので、なおさらそう思います。 もし、私が彼らや母にできることがあれば教えていただきたいです。 さまざまな宗派の方にご教示いただければ幸いです。 よろしくお願いします。

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全体と一体となる具体的な修行を教えていただければ幸いです。

 お坊さんにおかれましては、一年で一番お忙しい時に恐縮です。いつも具体的で親身な回答ありがとうございます。アドバイスよろしくお願いいたします。  宇宙は「無」から生じたという物理理論があります。宇宙の一切も遡れば所詮は「無」でしかない。  宇宙の一部である我々も「無」ではないでしょうか。 地球においても、創成期から多様な生物が存在していない。単純な単細胞生物から、多様な生物が進化したようです。地球の生命の源を辿れば、一つに繋がっている。気の遠くなるような年月を経て、生存競争を生き抜いた最強の遺伝子を携えた生命が今ここに生きています。  今の我々が、より恵まれたいとかより充実して生きていたいと個々に願うことは、遺伝的な本能から湧き上がる自然の衝動のように思われます。あらゆる生命の刹那の反応は、あらかじめ生命にインプットされた生存欲による自動的なものであると思われます。  我々人間は、生命として生きるために我に固執する「小さき心」が休むことなく働いていることに気づかされます。  「無」から生じた宇宙の一切は無限に広がり、「本来の心」も無限であり穢れのないものと思われます。我欲に縛られた「小さな心」は自由で無限である「本来の心」の一つの現れであると思われます。  「小さき心」が幻であると気づくか、「本来の心」と一体になれば、今まで対峙していた「対象」と「我」という二元の境は無くなると思います。個ということをあまりに重視した生命の本能から脱し、分離など無いとの気づきが訪れるのではないかと思います。  各宗派によって異なると思いますが、全体と一体になるような具体的な修行を教えてください。

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納骨について

先月、父が他界し、遺言で、お坊さんも呼ばず、火葬葬で済ませてほしいとのことだったので、葬儀を行ったのですが、火葬をする前に納骨の件で、父が姉のために70年近く前に買った墓(現在は母も納骨されています。)の住職に連絡すると、「戒名もつけず、お経も上げないのであれば、納骨は出来ない」と言われ、現在も、納骨できないでいます。戒名もつけず、お経も上げないと自分の家の墓に入れることができないのですか。前の住職の時に頼まれて墓を購入し、その際、戒名もつけず、お経も上げなくても、他の宗派の人でも構わない。お布施も気持ちで良い。と言われ、頼まれて買ったと父が言っていましたが」と聞くと、永代供養であり、所有権はなく、登記などもしていない。何か言いたいのであれば、沖縄で住職 もしている顧問弁護士から内容証明を送る。過去同じようなことがあったが、一切認めていない。前の住職はでたらめなことをしていた。」と言われました。姉や母の際は、戒名もつけ、お経も上げたのですが、今回は故人の意思に従い、しなかった為、納骨出来ない状態です。購入した時の条家もないですし、現在の住職になってからも見たことがありません。真言宗の寺です。良い助言お願い致します。

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考え方が偏っている

私は、物事に対して、悪いほうに考えてしまいがちです。 電話をして相手が出ないと「嫌われているから出てもらえない」と考えたり、メールの返信が ないと「嫌われているから返信が無い」と考えたりしてしまいます。 実際、掛け直そうと思ったけど忘れてた、や、返信内容を考えていて返信が遅れてしまったという答えだった事がほとんどでした。 昔、友達の考え方を聞いた事がありました。とりあえず悪い方に考えておいて、結果として良かった時、その差を考えて嬉しく思いたい、みたいな…。それを自分にも当てはめてしまっているのかもしれません。 今も、とある事で返信が無い人がいます。良い人と言える方なので、返信内容を考えている途中なのだろうなと思う反面、怒っているから返信が無いのかなとも考えてしまっています。 返答をしてくださっているお坊さんの皆様にどう思われてしまうかわかりませんが、私はよく、とある仏教のサイトを見ます。宗派は内緒ですが、迷ったり辛くなった心が癒される気がしています。 今回もそのサイトを見て、きっと大丈夫と思ったりしますが、やっぱり暗く沈んでしまいます。思いの高低差があります。 何故私はこんなに、悪い方に考えてしまいがちなのでしょうか。物事を良くとらえられるようになるにはどうしたら良いのでしょうか。

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檀家寺さんに仏教初心者が訪れるのは、ご迷惑になるでしょうか?

最近、仏教に興味を持ちはじめ、 自分なりに様々な本を読んだり、知識を深め始めています。 そして、私の心の支えになっています。 仏教を学ぶにつれ、 「仏教徒になりたい」という思いや 「お寺さんと繋がりたい」という思いが湧いてきています。 私が現在住んでいるのは、 古くから住んでいる人が多い、いわゆる「田舎」の地域です。 私は、夫の仕事の都合でこの地域に引っ越してきたため、 地縁などもなく、つながりのあるお寺が全くありません。 お寺はありますが、檀家さんは皆、何代も前からのお付き合いのようだし、 「写経の会」などの対外的に開かれているイベントなども特別実施されていないようなので、 興味はあるものの、 「完全なよそ者が訪れても受け入れてもらえるだろうか」 と、不安になってしまい、敷居が高く感じられ、一歩踏み出せずにいます。 また、まだ特定の宗派を信仰する、 というところにまでは至っていないため、 そのような状態で、檀家寺さんを訪れるのも もしかしたら迷惑になってしまうのかな・・・とも考えてしまいます。 昔からの檀家さんばかりのお寺に、 私のような、仏教初心者が訪れるというのは、 お坊さんの本音として、いかがなものでしょうか? 都市部に足を延ばせば、 私のように、仏教に興味を持ち始めた人でも 気軽に参加できるイベントなどが行われているお寺があるようなので 遠いけれど、そういうものに参加した方が良いのかな・・・とも感じます。

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自死した息子の納骨したくない

三年前に自死した長男(享年23歳)を納骨しないで 長男の使ってた部屋で手元供養という形をとってます。 お墓は、目と鼻の先にあり、金銭的な理由で 納骨できないという 状況ではありません。 先日 近所に住む義母から、もう三年経ったのだから いい加減 納骨したらどうかと言われました。 どういった宗派のお坊さんなのか分りませんが、 「納骨しないと、魂は迷い 人に霊が憑りつくから 三年も経ったのだから 納骨しなければならない」 と言われたらしいです。 義母は、「人に憑りつくから」を繰り返して言ってきて とても傷つけられました。 私は はっきりと「納骨しないし 手放さない」と伝えました。 夫も同じ考えでいます。 義母は、自分たちの考えが正しいと思い込めば あらゆる人を使って 自分の思いを通そうというところがあります。 私たちは こうしたい いう事があっても まぁ~ 親だから言うことを聞いておくか・・・と 今までは、尊重してきました。 ですが、この納骨しなさいということだけは 絶対に聞けません。 実家と 現在も 浄土真宗ですが どちらのお寺のご住職も、納骨しないのは 悪いことではないと 言ってくださいます。 本人を目の前にして 非常識と言えなくて 本当のところ 私は非常識なことをしているのですか? まず一番 大切な息子のためにならないことをしているのですか? どうか ご意見 お願いいたします。

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彼に貸したお金が返ってこない時の相談先

いつもお世話になっています。 今月25日、彼に貸したお金の一部を返してもらえる日です。 今ままで、約束した日に返してもらえたことはほとんどありません。 先月も約束の日に返してもらえず、弁護士さんへの支払いが遅れました。(彼のお勤めに必要な交通費や滞在費、飲み代のため出来た借金のため昨年12月に債務整理をしました) この支払いがきちんとできなかった場合、自己破産の手続きに変わると弁護士さんには言われています。 先週、彼のお父様が入院し、その介護でお母様はギックリ腰、彼はお勤めをお休みして実家に戻っています。 今までのことがあるので、本当に大丈夫?今度遅れたら後がないから本当にお願い!と何度も彼には言ってあります。 ただ、それは彼のお父様が入院する前のこと。入院する前から彼のお父様の具合は良くなかったですが、絶対大丈夫と彼は言っていました。 彼の事情が事情なので、遅れたとしても仕方ないと思う気持ちもありますが、私もそのお金が無いと困るのです。 今まで、約束の日に返してもらえなかったことを考えると不安で不安で仕方ありません。 もし今回も遅れるようなことがあれば、彼の所属する宗派の教区教務所というところに相談すればいいでしょうか? その場合、教区の寺務に取り次いでいただけばいいのでしょうか? そして、約束のお金を返してもらえないことを伝えれば教区の方から振り込んでもらえるのでしょうか。 とにかく不安です。 何もかも不安です。 お金が返してもらえないかもしれない事に対する不安なのか、このまま彼のおうちが大変なままでしばらく会えないかもしれない寂しさに対して不安なのか、何に対しての不安なのかさえわからなくなってしまいました。 彼に会わなければ、無駄にお金を使うことがなくなるので、金銭的には楽になりますが、やはり会えないのは寂しいのです。 彼が大変なのはわかっているのですが。 家族のことで彼は大変なのに、自分のお金の心配ばかりしている自分も嫌です。 でも返してもらわないと困る・・・。 無いとは思いますが、このまま彼のお父様が無くなるようなことになったら、お金の催促もしづらくなります。 安定剤を飲んでも飲んでも不安は拭い取れず、消えてしまいたいとさえ思ってしまいます。 長文駄文で訳のわからない文章になってしまいすみません。

有り難し有り難し 34
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浄土真宗の父の墓前で般若心経を唱えても良いでしょうか?

私の家系は先祖代々浄土真宗です。 父は本家から独立して遠く離れた地域で家庭を持ち、近隣の浄土真宗のお寺の檀家になり、私たち子供と暮らしていました。 その父が数年前に他界したので新たにお墓を建てたのですが、近隣の浄土真宗のお寺(檀家となったお寺を含む)や無宗派の墓地に良いところ(空き区画や立地)が無く、色々考えた末に生前父が好きでよく登っていた山の中腹にある真言宗のお寺にお墓を建てました(浄土真宗のお墓を受け入れてくださる真言宗のお寺でした)。 ですので葬儀場で行ったお葬式や自宅での法事は浄土真宗のお坊さまに来ていただいてますが、お墓への納骨の際にはお墓のあるお寺の真言宗のお坊さまに真言宗のお経を読んでいただくことになりました。 私はこの縁で真言宗のお経に少し興味を持ち、今では般若心経を覚えて唱えることもできるようになりました。 ただ、家系的に浄土真宗ですので実際にお墓等で般若心経を唱えたことはありません(浄土真宗では般若心経を唱える必要がないとの教えを少し理解しています)。 今後も自宅の仏壇や法事では唱えるつもりは無いのですが、真言宗のお寺に建っている父の墓前で般若心経を唱えて良いのかを迷ってます。 実際に納骨の際には真言宗のお坊さまに真言宗のお経を唱えていただいた事実もあるのですが、浄土真宗家系の私は、それでも父の墓前で般若心経を唱えるべきでは無いのでしょうか? ご縁で真言宗のお寺にお墓を建てたことですし、父のためにもなるのであれば唱えたい気もしています。 どうかご教示頂けますようお願い致します。

有り難し有り難し 67
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「般若心経不信」になってしまいました。

こんにちは。 何か心の拠り所が欲しいと思い、仏教の勉強を始めました。般若心経を読む宗派・読まない宗派あると思いますが、皆様の解釈を教えてください。 私が読んだ本に依ると、 ブッダは五蘊や十八界、十二因縁は存在するが、その「持ち主としての私」という確固とした存在は錯覚だ、「空」だ、と説いた。大乗仏教ではそれすら錯覚で、「空」という法則のようなものがあると説いている。 ブッダは「世の中はこのように構成されていて、だから生きることは苦しいのだ。ひたすら瞑想をして煩悩と戦いなさい」、 大乗仏教は「今見ている世界は全てが錯覚だから、思い悩むことはない。ひたすらお経を唱えれば、必ず救われる」という教えだ、と解説されていました。大乗仏教が「宗教」であるのに対し、ブッダの教えは「思想」であるとも書いてありました。 科学が進歩しておらず世界が何も解明されていなくて、生まれた環境を受け入れるしかなかったような時代、貧しい庶民の心を救ってきたのは大乗仏教に他ならないと思います。今でもそうです。私はお経にある呪術的な力も信じています。 でも、大乗仏教の僧侶の皆さんには大変失礼なことを申し上げるようで、申し訳ないのですが、般若心経を読むと全てが幻だと言われているようで、納得できません。現代社会においては、ブッダの考え方の方が合理的で理にかなっているような気がするのです。 それに般若心経は、ブッダが瞑想している間に、そのすぐ隣で観音様が舎利子に対してブッダの説を全否定して新しい呪文を教えて、それにブッダ自身にその通りだと言わせる、という舞台設定ですよね。それは、大乗仏教が原始仏教を越えようとしてできたものだからだと学びました。「日本人として般若心経を心の支えにしたい」という気持ちと、「ブッダの説の方が自分は納得できる」という気持ちが自分の中で葛藤してしまっています。 先日も、近所のお寺の座禅会に参加し、全員で般若心経を唱和しました。ブッダが推奨していた座禅の前に彼の教えを否定する内容のお経を読んで、裏切っているような罪悪感にかられてしまいました。 (私が読ませていただいた本は、仏教系の大学で教えていらっしゃる権威ある先生の本です。以上の解釈は私独自のものではなく、その方の受け売りです。) 私のこのような理解はものすごく偏っているのでしょうか? 皆様は般若心経をどのようにお考えですか?

有り難し有り難し 178
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2022/09/08

浄土真宗に対するカルチャーショック

先日質問をさせて頂きました。 今回はお盆にあった事と、つい最近あった事についての質問です。 私は曹洞宗です。今年亡くなった祖母は禅宗から浄土真宗になりました。(祖父が浄土真宗だったからです) 祖母の新盆があり、お寺にお参りしてきました。 納骨堂には祖母の遺影を置いてきました。 広場でお経をあげられた後、お坊さんから精霊馬を置いている人は居ないかと聞かれ、皆さん手をあげず、私は自宅では飾って居ますが、手をあげませんでした。 その際、皆さんよく勉強されている、浄土真宗では飾らない、また、故人はお盆には帰ってこない、何故ならもう成仏しているから。と喜々として語られていました。 ちょっとショックでした。 確かに浄土真宗教義ではそうなのですが 言い方を変えると二度亡くなった感じに感じました。 曹洞宗の私は成仏した成仏してないに関わらず、お盆とはそう言う物だと思って居たからです。本来の教義からすると離れるのかもしれませんが、こちらから成仏した成仏してないの確認は出来ませんので、一律に帰ってくるものだと思うようにしていました。 正直今後宗派が違う祖母のお寺のお盆参りには行かない方が良いのかとすら悩みました。 先日祖母の月命日があり、お寺にてお経をあげてもらったそうです。こちらからお願いして頂いたそうです。祖母の納骨堂の前でお経を貰ったそうです。 既に成仏していると言う考えなのであれば、納骨堂の前でするのではなく、本堂の阿弥陀如来の仏像の前でするのではないのか?と思いました。 浄土真宗では納骨堂に意味があるのでしょうか?そこに居ないで阿弥陀如来に手を合わせるのであれば意味が無いのかと思ってしまいます。 そしてそのお寺では死後の菩提寺が無い人に対して浄土真宗になればうちのお寺で対応すると言うような手法を使われているそうなのですが、こういう事は良くあることなのでしょうか? あまり祖父母が浄土真宗としてのお参りなどをこれまでしてきていなかった事と、子供の頃から曹洞宗のお盆で慣れて居た事もあり、面食らって居ます。

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戒名と法名について

父が亡くなり、戒名と法名についてのご相談です。 4年前に兄を亡くし、現在は父の故郷に父が購入した浄土真宗の納骨堂にお骨を納めております。 そして、そちらのお寺さんで法名をいただいております。 つい最近、父が亡くなりました。 父は我が家に近い納骨堂を私が購入し、納骨する予定です。 父が生前、娘の近くが良い…と言っていた為、つい最近、我が家に近い納骨堂を購入したばかりでした。 こちらの納骨堂は宗派問わずですが、管理をされているお寺さんが真言宗です。 葬儀の際は家族葬にした為、葬儀屋さんに手配していただいた真言宗のお坊さまに火葬場でお経を読んでいただき、戒名や法名はいただきませんでした。 やはり戒名や法名は今後、いただいた方がよろしいでしょうか? 四十九日法要の後、納骨する予定です。 その際に、納骨堂を管理しているお寺のお坊さまに四十九日開眼納骨法要をしていただこうと考えております。 そこで戒名をいただくか…。 俗名のままにするか迷っています。 いずれ兄のお骨も分骨して、こちらの納骨堂へも持ってきたいと考えています。 その場合、法名の入った過去帳を入れても良いものでしょうか? 過去帳には私の祖父母の名前も入っています。 それとも、兄も分骨の際に戒名をまたいただいた方がよろしいのでしょうか? 何が良い方法なのかご教示いただけると幸いです。 どうぞよろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 26
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2021/07/02

曹洞宗と日蓮宗。善い行い悪い行い。

以前、仏教とは?と質問させていただいたものです。沢山の回答がありまして、その中に仏教とは善い行いをするためにする事とあったので、善い行いを心がけてますが、毎日仕事をしていて、雑草を抜いたり、害虫を殺したりしています。お客様や職場の人は喜びますが、これって仏様からみたら善い行いなんでしょうか?また、私の友人の住職は善い行いをするのではなく慈悲の心でする事瞑想をとうして、仏様が私の心になる。とおっしゃっていました。心が瞑想すると第4図という好き嫌いの心から、慈悲の心になるそうで、例えば誰かに刺されたとしても心は穏やかなままになるそうです。その方は曹洞宗です。友人にさそわれ私が信仰していた日蓮宗系なので、お経を毎日あげる事で先祖が喜んで力をかしてくれるという教えでした。わたしは今はお金がかからないので曹洞宗のお寺に行ってますが、日蓮宗が間違えではないと思うので、曹洞宗のお坊さんが読んでる般若心経を譲ってもらったのでそれを毎日よんでます。日蓮宗が間違ってるとは言わないですが、その団体の独自の解釈で抜粋されたお経はスッタニパータ読む限りではずれているので。本物の日蓮宗のお坊さんとは出会った事がないので、自動的に私は曹洞宗になってしまったというか檀家なのでお墓は曹洞宗のお寺なので、わざわざ、変える必要もないというか、遠くてお墓参りにいけないんならいくら日蓮宗のお寺さんにしたいといっても先祖も自分も喜ばないと思います。うちの近くの曹洞宗のお坊さんいいかたですが、日中ずーっと瞑想して座ってるだけの日もあるんそうなんですが、日蓮宗系のお坊さんからしたらお経も読まないで何してんだ感じだろうけど、そのプロセスの違いだけなんだと思います。何を信じたらいいかわからなくなる時もありますが、慈悲の心になればいいし、先祖も大切に生きていきたいです。

有り難し有り難し 10
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法事の際に受けた説法が引っ掛かっています

先日、年忌法要の為に帰省したのですが、そこで受けた説法が今も引っ掛かっています。 その説法とは『身内葬で済ますのは不幸なこと』『親族の傲慢』といった内容で、 (忘れようとしているのか)細部まで記憶していませんが、とある事情から恥ずかしながら非常に怒りを覚えました。 その事情とは、年忌の前日に別の親族が亡くなり、事情から親族だけの葬儀にしていたからです。 つまり、その説法と亡くなられた親族が被ってしまい、 『なんて身勝手なことを言うのだろうか』という怒りがあったのだと愚考します。 ただ、親族の代表として向かった手前、怒りを堪えたものの、未だにお坊さんが唱えられた話が引っ掛かっています。 身内だけの葬儀は悪いことでしょうか?確かに親族や友人、知人を呼んで大きく葬式を行うのが一般的でしょう。とはいえ、それが絶対かというと腑に落ちません。 また、説法を行ったお坊さんとは今後も顔を合わせることになるでしょう。 その時にどう顔を合わせたものかと思うと、辛いものを感じます。 (今は説法に対する怒りの感情というより、疑問が凝り固まっているような状態です。) 不躾な文ではありますが、ご教示願えればと存じます。 余談ですが、出来れば浄土真宗本願寺派のお坊さんのアドバイスを頂ければ幸いです。 もちろん他宗の方のお話もお聞きしたいです。

有り難し有り難し 147
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お坊さん33秒法話ピックアップ