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hasunoha 問答検索結果 : 「自分 生きる できない」
検索結果: 28189件

人が傷つくのを見る事が怖いのです。

初めまして。 どうぞよろしくお願いします。 私は子供の頃から人の悪気のない行為を目にして来ました。なぜそのように感じるのか…。 それは両親共に障害があり、外見から一目でわかるものなのです。 いまでこそ差別的な行為は目にしなくなりましたが当時はあからさまに笑われたり、遠巻きにこそっと目配せされたり…。 表面には出しませんがそれに対して傷ついている両親…。 ですが、親しい人はとても良くしてくれていました。 子供ながらに、人によって態度が違うのはなぜだろうか?と考えた結果、お互いの事を知らないからだ、知って行けば仲良くなれると結論付けました。 大人になった今でも、根本の考え方は変わっていないと思います。 私は最近まで中間管理職と言われる立場にありました。皆それぞれ良くして行きたいと思っている筈なのに社員の諍いが絶えない。 そういった人達が分かりあってもらう為に話しをしたくても多くの事を話せないジレンマ。何故話してくれないんだという部下や上司からの不満。 それらに疲れてしまいとうとう辞表を出してしまいました。 要は逃げたんです…。 毎日顔を合わせているもの同士分かりあえないのなら、不特定多数だったらどうなるのだろうと考えてしまい、今では外出できなくなってしまいました。 他者同士が傷つけ合うのを見るのが怖いのです。 自意識過剰だとは思いますが、傷つけ合うのを止める事が出来ない自分自身も怖いのです。 そして、自分も誰かを傷つけているかもしれないという事が怖いのです。 もしかしたら、それが一番怖いのかもしれません…。 このような状態から、まともに生活できるようにするにはどのように考えれば良いのか教えて頂きたいです。

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恥ずかしがり屋

こんにちは。私は20歳の男です。私は根っからの恥ずかしがり屋と自負しています。小さい頃から親戚の人とうまく話せなかったり、お店の店員さんとも上手く話せないです。別にそれをヤバイと感じたことが無かったのですが、最近になってこれは直さないとヤバイと感じてきました。 私は中高一貫の学校に通っていたのですが女性がクラスで2人しかおず、女性との会話をろくにしてきませんでした。大学に入ってみるとクラスには女性が多くなんとかなるだろうと安易な気持ちでいたら、緊張してしまい上手く話せませんでした。男子とは仲良くなれるだろうと思ったのですが私はグループ会話もろくにできずに仲の良い友達が一人しかできませんでした。その友達と授業が被ることが少なく実質大学で一人で授業を受けるような感じになっていました。その苦痛に耐えきれなくなり大学を辞めてしまいました。 大学では上手くいかなかったのですが、バイトを始めて最近バイト仲間とうまく友好関係をつかめてきました。でも男性とは仲良くなれるようになってきたのですが女性とは緊張してしまい上手に話せません。バイトの先輩がアイドルが好きで握手会というお金を払ってアイドルと握手ができて10秒くらい話せるイベントがあるのですが、「お前はこれで女性と話す恐怖心を無くした方が良い。アイドルは一般の人と違って模範解答でしか返してこないから。これは処方箋」と言われました。 私は悩んで末行ってみたのですが、全くダメでした。やはり緊張してしまい言いたいことが詰まってしまったりとか、言おうとしてることを直前になって変えてしまったりとかしてしまい、「あ、頑張って下さい」としか言えませんでした。先輩にこの事を伝えると「それヤバイよ」と言われ「俺は会話のキャッチボールを3回ぐらいした、お前は会話じゃなくて応援じゃん」と言われ、なんだか嫌な気持ちになってしまいました。 先輩の言っていることが正しくて何も言い返せずただただ自分の恥ずかしがり屋なところを恨むしかありませんでした。 そこで相談したいことが 1.どうしあら恥ずかしがり屋が治るのか。 2.どうしたら女性と緊張せず話せるのか。 3.このまま恥ずかしがり屋で人と関わりを持たず生きていった方が良いのか。 長くなりましたが、どうかお願いします。

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死にたくて堪らないです

他人には相談しにくい悩みなのですが、私は自身のにおいで人から嫌われます。 学生時代に過敏性腸症候群を患い、狭い教室の中で意図せずガスが出てしまい他人に悪口を言われ遠ざけられました。 「なんか臭い」「くっ……スゥ〜(言い方を誤魔化す様に言われた)」「スメハラ」等の単語を聞くと動悸がしてしまい、ついその場から逃げ出してしまいます。 電車の中では周りの人が鼻を摘んで鼻を啜り出したり、私の座った隣にはあまり人が座りません。車の中ではすぐ換気されてしまい、まるで公害の様な扱いに悲しくなります。 精神的にダメになってしまい一度飛び込み自殺を図ろうとしましたが家族に迷惑をかけてしまう心配が勝って、やめてしまいました。 しかし、最近ガスが漏れているはずがないのにこういった嫌悪的なアプローチがあるので、自身の体臭のせいなのでは無いかと思って自分なりに対策を調べて実行したり、お腹にも良い食事を心がけていました。 それでも治らないのは分かっていますが諦めてしまうよりかは自分でなんとかしたいのです。 でも最近、疲れてしまって自分が何のために生きてるのか途端に分からなくなり、何もしたくなくなりました。もう嫌悪的な行動をされると我慢できず涙が溢れちゃいます。 公害のような扱いはもう慣れっこです。でも他人に迷惑かけながら何でこうも頑張って生きているのかが本当にわからなくなってしまいます。 自分は誰の為に生きてるんだろう、全然自分の為に生きれてない人生にもううんざりしてしまいます。 病院に行くにも、絶対に治る保証なんて無いし、自臭症(自分のにおいを悪臭だと勘違いする症状)だと言われてしまえばそれで楽なのですが、 だったら今まで傷付いて通えなくなった学校生活や諦めてしまった友人関係全部何もかも無駄だったということになってしまうので、病院で診断されてしまうのも怖いです。 普通に生きて街中で自由のびのびと生きてる人が羨ましいです。街中なんか言ってしまったらビクビク怯えて脚がすくみます。 出来る事なら自分も年相応にオシャレして、周りを気にせず堂々と街を歩いてしまいたいのですが、 ずっと姿の見えない誰かから「お前なんかがそんなことしていい訳ないだろ」と言われてる気分です。 こんな私に生きる意味を教えて欲しいです。拙い文章で本当に申し訳ないです。少しでも前向きになりたいです。

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また怖くなってきました

 僕は何ヶ月か前に、インターネットで呪いの動画といわれている動画をみてしまいました。しかもその動画は、海外を中心に、見ると一年後か一年以内かに死ぬと言われている動画と聞きました。 僕は凄く怖かったです。いくらなんでも噂だから大丈夫と自分に言い聞かせても、もっと生きたいしまだまだやりたいことがあります。 この呪いの動画は、ダークウェブ上の動画なのです(実際にアクセスはしていませんが、YouTubeでたまたま載っていたのをうっかりみてしまいました)。 もしかしたら、ダークウェブは人を脅すようなサイトだから、呪いの動画って事にしてるのかもしれないとも考えられますが、本当だったらと考えると怖かったです。でも見てしまった僕も責任があると思いますが。しかし、後ほど確認したら、作者が判明しており、「芸術的な手法で政治を訴える」みたいなのが目的で作ったという事が分かりました。なので当然この動画をみても何も害はないんだと思いました。これでこの時は一先ず安心して暮らせるようになりました。 それから月日は経ち、色々な悩みもありつつ平凡に暮らしてきましたが、つい最近なぜかまた、ふと恐怖がボッと蘇ってきたかのように怖くなってきました。今度は、いくら作りものとはいえ、「もしも」の事を考えてしまうようになりました。僕かなりの心配症なんです。「本当に作者なのか?」と疑ってしまう事もありました。一生懸命に、「これは嘘だ、呪われる事はない」などと言い聞かせたとしても、時間が経つとまた不安が込み上げて怖くてどんよりします。そもそも一年以内とか一年後とか気が遠いいため、余計に不安になります。せめて1週間以内なら耐えられるかも知れませんが。  もうこんな事なんとかして忘れたいとも思いました。またこれ以上こんな事で生活が辛くなるなんて嫌です。一応厄除けと言われている呪文を読んだり口に出したりしてみました。(くわばらくわばら。など)ですがやっぱり怖いです。 そういえば、よく信じるもは救われる。とか、信じないものには霊的なものは見えない。みたいな事などをどこかで聞いたことある気がするのですが、じゃあそれも、「呪われるわけない」などと信じない事で呪われないのでしょうか?後、こんな事早く忘れたいとも思っているんですがどうすればいいんですか?まず第一に、人が呪われるような動画なんて無いんですよね?無いほうがいいです。

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どこにも母がいないという事実が心を壊死させる

母が亡くなって、早いもので8ヶ月が過ぎ、間も無く1周忌の準備を始める。 気丈にあれと、誰に言われるわけでもなく、いつも以上に行動的な日々を送り、疲れ、途方に暮れ、また気を取り直し、悲しくなり、明るく笑い。 もうあたしの心は、壊れてしまいそうです。作り笑いも、根っからの笑いと思えるものには紗がかかり。朝目覚めて毎日、ああ、母は居ないんだなと確認し。 実在していたことすら危うい自分の意識と、二度と会えない事実から自分の心を守ろうとしてかの回避行動としては、悲しみから意識を反らし、なるべく気にしないように、悲しいことになるべく蓋をして今まで来た。淡々と、仕方ない、思い出さない、写真もあまり見ない。感謝や後悔や、それらもなるべく頭から追い出して。 でも、体調の変化で毎月決まって悲しい波が押し寄せる。私は、自分のために自分を生きれていない。母のために生きてきたのだったろうと思う。今は子供と父のために。家族が居なかったら生きているか?自分が生きたいと思えて毎日を過ごせて居ない。仕事も毎日の日々も義務のようで、心が休まらない。いつも自分の頭の中の自分とモヤモヤ会話して。心が壊死してしまったような感じに至りました。 どうしたら、自分で自分を大切に自分のために生きられるのだろう?この喪失感は、いつか救われることはあるのだろうか? 時々猛烈に苦しくなる。 母が生きて居たことが信じられない。 母が居なくなったことも信じられない。 そして、全ての事実は理解している。 あたしの心は、大丈夫なのかな。

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小さな幸せ見つけ、楽しめるようになりたい

 小さな幸せをみつけて、純粋にその幸せを楽しめるようにはどのような心持ちでいればよいのでしょうか。  私はどうも、生きる「原動力」がなければ生きていくことが難しい性分のようです。例えば、「将来こんなことがしたい」「生きるからには大きな目的、野望をもって生きたい」「死の恐怖にいかに立ち向かうか」「善く生きるとは何か」のような小難しいことを考えずにはいられません。そうした夢や希望、野望は私の二十余年の短い未熟な今までの人生の中で、死なずに生きる活力・燃料になっていました。しかし徐々に将来が見え始めるにつれ、不安が増大し周期的に夢や希望を超えて、不安に押しつぶされることが増えてきました。不安がなく将来が安定していて、なおかつ自分の夢や希望が叶うなんて都合の良いことはあるはずがないとは知っていてもです。  このことについて、友達に「なんのために生きるのか」「何が生きる原動力になっているのか」と聞いてみました。すると生きる理由は「考えていない」、原動力は「おいしいものを食べる」「ゲームをする」「旅行に行く」などという回答がほとんどでした。その考え方は私はとてもよいと思います。クヨクヨと悩んでいる私よりも遥かによいです。  私もおいしいものを食べたときは幸せに感じるし、友達と遊んでいるときはとても楽しいです。しかし過ぎてから、あるいは最中であっても、「今の一瞬はこんなに楽しくても時の流れは止まらず、私の抱えてる悩み(将来や生きる意味や死について)は解決しないし、刻一刻と迫っている」ように感じてしまいます。  それと同様に「人のために生きる」、そしてそれに満足できる生き方がしたいです。人に親切にする、誰かに何かをすることは純粋に気分がいいです。しかし人生一度きり、戻ることはできないということを考えると「人のために生きるのもいいけど、それはできる範囲にして、究極的には悔いのないよう自分のために生きたい」という思いがあります。  私の性格故に、そうした人生を通じた難しい問いを考えることは放棄することはできないにしても、せめて小さな幸せを感じて純粋に享受したいです。また、「人のために生きる」ことができるようになりたいです。それができればもう一つの「私が生きる理由・原動力」になってくれるのではないかと考えています。  ぜひご回答いただければ幸いです。よろしくお願いいたします。

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