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hasunoha 問答検索結果 : 「お坊さん 人生 」
検索結果: 2733件

日本の宗教に対する意識と新興宗教について

日本には、なんとなく政治と宗教な話は、親しい間でも話しにくいような風潮があると思います。例えば私自身家族の中でも応援している政党が違ったりするとなんとなく気詰まりな感じがします。そういう宗教や政治の話がなかなか気軽にしにくい日本の風潮にお坊さんはどう思いますか? 話は違いますが、うちは曹洞宗ですが、遠くに住んでいる親戚の叔父が韓国の方が教祖のキリスト系の新興宗教を信仰しています。叔父さんはとても元気でタフで明るくて面白くて好きですが、宗教の話をしている時に進化論を否定していることに驚きました。たしかに進化論が正しいかは、私自身教科書でしか教えられておらず、自分で確かめたことはないので、確証や証拠で反駁することはできないのですが。 あと人間だけ霊界があるというその宗教の教えに対しては、全ての生き物が限られた生を命の限り全うするということは同じな世界で、人間にしか霊界が用意されていないという考えがしっくりきませんでした。当然信仰の自由があるので何を信じるかの選択の余地は一人一人あり、全く否定する気はありませんが。その対話をしている時の母がもううんざりといった言動でもう終わりにしてほしいというオーラが全身から漂っていて、とりあえず途中で私が引き下がりました。(こういうところでも宗教の違いを対話するのを嫌がる日本の風潮を感じました。) 比較的歴史の洗礼に耐えて伝統を長く受け継ぐ仏教の宗派のお坊さんは、新興宗教と呼ばれている宗教の特徴や教えについてどういうお考えをお持ちなのか、気になりまります。 お手すきの時にお返事頂けたら嬉しいです。

有り難し有り難し 75
回答数回答 4

一般人でも悟りを開くことがありますか?

深刻な問題ではなく気になっている程度なのですが、質問をよろしくお願い致します。 仏門に入ったり修行を積んだりしていなくても、悟りを開くことはできるのでしょうか? 私は家庭環境の事情もあり、ほぼ天涯孤独な人生を歩んでいます。 病気・事故などで死にかけたこともありますが、その都度周囲の方々に助けてもらいながら約50年生きてくることができています。 その中で一つ一つの問題を自力で解決する中でたどり着いた結論があります。 簡単に表現すると、自身を取り巻く環境はすべて自分が決定している、というようなものです。 欲求をコントロールすることで環境は変えられ、安心安楽な生活を送れると考えています。 実際に一般的には余裕は全くありませんが、平穏・安楽な毎日を送ることができています。 仏教に関する教えなどを本で読むと、私にとっては当たり前の論理が展開されており、少々物足りない感じを受けます。 もちろん書物は一般向けの表現であり、実際はもっと複雑なものだと思います。 現在の生活環境で特に問題があるわけでもなく、自身の人生を全うすべき邁進する毎日ではありますが、この状態が悟りを開いた状態なのかどうかが最近気になっております。 仮に悟りを開いているとしても、論理的に理解できているだけでまだまだ体調の良くないときは欲が出てきたり、咄嗟に感情が表に出そうになることもあります。 まだまだ私の世界は狭く、もっと広い世界を見れば私の論理が通用しないことも出てくるとは思いますので見聞は広げていきたいと思っています。 悟りを開きたいという願望は特には無いですが、一般個人でも悟りを開くことができるのであれば、自分の意見に自信を持って周囲の人に助言をすることができるのでないかと考えています。(もちろん自分の意見として) これまでは、他者に不用意な発言をするのもある種の自己の欲求であることも判っておりましたし、天涯孤独という特別な環境に生活する個人の特殊な論理として自分の発言を控えていました。 しかしながら当然の帰結(私の理屈では)で悩み、怒り、ストレスを抱えている周囲の人の力になることも自身の存在理由なのかと感じることも増え、この度の問い合わせとなりました。 お手数をおかけしますが、よろしくお願い致します。

有り難し有り難し 91
回答数回答 5
2022/08/08

会社に行きたくないです

金融機関に務めています。20年間、支社(現場)で事務をしていましたが、2年前に希望して本社勤務になりました。今までとは全く違う仕事で同じ会社なのに転職をしたようです。想定はしていたのですが、異動と共にコロナ禍、仕事内容もわからず、課員の人もどういう人達なのかわからないままテレワーク。コミュニケーションはメールのみ。それに加え、昨年母が他界し、こんなに辛いとはという程辛く、昨年はほとんど何も手につきませんでした。 最近は毎日会社に行きたくなく、退職を考えていますが、夫は自営業でほとんど収入がありません。しかも近くに住む夫の母の生活費(毎月10万くらい)も面倒をみています。今の給料は決して高いわけではないですが、子供がいませんので何とか貯金を崩しつつやっています。しかし、そろそろ自分達の老後も考えなくてはなりません。今辞めたら次の就職口はあるのかという不安。でも25年程務めている今の会社も毎日行きたくないと思います。好きな趣味も何もしたくありません。 コーチングを仕事にしたいと思い2年程前に資格をとりましたが、コーチングだけで食べてはいけないしもう少し技術も磨きたいしと思うのですが、思うだけで体が動きません。 今の課の人達は優しい人ばかりです。でも人と喋らないテレワークとも重なり支社の時と比べるとつまらないです。夫の収入が安定していれば私は会社を辞めてコーチングをやってみたいと思うのですが、そう思うこと自体人のせいにしてる、甘えてると思うのです。コロナ禍が終わり毎日出社となれば少しは変わるかなとごまかしやってきたのですが今の仕事が嫌なのだとわかりました。 ガマンして生きていく程人生長くない、という本を読みました。その通りだなとますます退職に気持ちが傾きました。 1.思い切って退職、2.休職、3.ガマンして今の状態を続ける、の3択かと思いますが決められません。辛い辛いと毎日思う日々が数ヶ月続いています。このままではトンネルから抜けられそうにありませんので、お坊さんのお言葉をお伺いしたくこちらに質問させていただきました。他の皆様に比べると本当にくだらない質問で恐縮ですがご教示いただけると助かります。よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 24
回答数回答 1

この世の不公平と生き辛さを乗り越える方法

幼少の頃よりずっと生き辛さを抱え、人生半ばを過ぎて、もう生きること自体に疲れてしまいました。人と会話ができません。病院や会話教室に行ったりと様々な努力はしてきました。五体満足に生まれたことは本当に感謝すべきですが、人と関われない悩みは酷く辛く、何をしても常に付いて回るものです。 職場では、仕事もできず雑談にも参加できずで数ヵ月で居心地が悪くなり、ストレスから体調を崩し転職を繰り返しています。 会話が続かないため一人の人と長く過ごすのが苦痛で、相手も私に気疲れして体調を崩すことがあるようです。その度に自己嫌悪に陥り、自分は百害あって一利なしの人間のように感じてしまい、深い付き合いの知り合いはおりません。 人生の選択肢として結婚か仕事がありますが、私にはどちらも難しく、この生き辛さが続くと思うともう何もかもが面倒です。人生は修行だとしても、あまりに長く感じます。 多くの人は多少の悩みはありつつも、日々割と楽しく生きているように見えます。 以前は、他人と比較せず、過去の自分より進歩すればそれで良いと思っていました。それが、ちょっとしたきっかけから自分の未熟さが気になりだし、努力しても何一つ他人と同様に出来ない自分への苛立ち、不出来な人間に対する世間の無慈悲さが目につくようになり、世の中全体を敵視する感覚が身についてしまいました。 無差別殺人など不可解な事件が増えていますが、犯罪者が追い詰められてそこに至った経緯を想像すると、気持ちが分かるようで虚しい気分になります。 小さい頃から一つ疑問があります。仮に人間と一緒に楽しく暮らしたいと望むゴキブリがいたとします。始めから人間に嫌な概念を与えるものとして創造された生き物であるなら、その望みは役割と合致しておらず、きっと辛い思いをするでしょう。この場合、どう生きるのが賢明でしょうか。人間を好きであればあるほど、望みを捨て自ら姿をくらますのが正解でしょうか。人間とゴキブリは違いますが定期的にこの疑問が浮かんでくるのです。 生まれつきの生き辛さは前世の行いの報いだと想像すると、今世で魂を磨くことが大切であり、また人生が公平でないことも理解できます。ただ、どうしても感情で割り切ることができず、生きるための道標が見つかりません。 私の考え方の修正等、生きるコツ(理由)をアドバイス頂けますでしょうか。よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 35
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死ぬのが怖い、身近な人にも相談できない 辛い

現在、大学4回生です 中学生の時、突然に「死んだらどうなるんだ?」ということに気が付いて恐怖のあまり嗚咽が止まらなくなったのを覚えています。親に相談しようにも、タブーに触れるようで出来ませんでした。 その時は考えに考えて結局わからないということで放置していたのですが、ここ最近になってまたその考えがまたやってきました。 地元の信仰が浄土真宗本願寺派だったのでその考えに基づき、死生観を考えていたのですが、納得できませんでした。 納得というか、信じきれてないというのが現状なのかもしれません。 真に信仰が出来ていたらそもそもこの質問が出ないことになりますから。 どうしても考え方に疑いを持ってしまうのです。「ホンマかいな」と。この「ホンマかいな」自体が信仰に対する冒涜、罪なんでしょうか。 化学に詳しいわけではないのですが、どうもその前提に結び付けてしまします。(無知なのは重々承知しています)生きている状態なのになぜ人の死後が説けるのか?とか。脳がないのに意識は死後存在し続けるのか?、お浄土は本当にあるの?などです 臨死体験も結局は死に切れてないですし、死後の見解が地域、信仰、人によってそれぞれ違うのも疑問です かといって「死後は無なんだよ」「意識はただの脳内の電気信号なんだよ」と言われればとんでもないくらいの恐怖にのたうち回ります。死後、体も感覚も思考も、自分自身も消えてなくなり、二度と目覚めることはない。そんな状態が永遠に続くと思うと... 様々な文献、記事を読み漁っても「そういう考え方もあるのか」程度にしかとれず合点がいきません。 今を生きることこそが大切、もっと他にすることがあるんじゃないの?と言われそうですが、そうではないんです。死後が知りたいのです。 利己的な見解ばかりで申し訳ありません 自分自身でも、どう質問してよいか漠然としててわからないのです 僕以上に、もっとつらい思いをしている人がいる中で... ここまでの人生、たった21年の短い人生ですが、何不自由なく生かされてきました。両親、祖父母そして周りの人々には感謝しきれません。これから、家族やお世話になる人達にいっぱい自分の受けたモノをお返ししていきたいです。 故に死の恐怖にここから先の人生を邪魔されたくありません。 どうか僕に納得できるようなお考えを教えてください。

有り難し有り難し 66
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いじめを行ったことの罪悪感

私は中学生の半年間いじめを行っていました、人にバレない嫌がらせは小5からです 小1の頃から中1に不登校になるまで私はいじめられていました、変わり者だったので周りに考えを理解してもらえませんでした、浮いてました 無視、悪口、ズボンを脱がされたり、道路に押されて車に引かれそうになったり、放課後家に連れてけと脅されたり、沢山されました その他にも辞めたかった少年野球を周りの期待により辞められなかったり、家庭内のトラブルからストレスが溜まって抜毛症を発症しました、その頃から私はおかしかったです ある日あることで先生に怒られました、私に私はトイレに行き、「僕はやってないのに、なんで」と1人で泣いて言ってました、しかし私がやったんです、なのにそう言っていました 中学生になって友達が出来ました、嬉しかったです、でもそれは私の精神を急に解放してしまいました 調子にのって問題児になりました、学校にケータイを持っていくような そしてその友達をいじめました ある日その子に怪我を負わせてしまいました、それはクラス中に広まり、学校に居ずらくなり中一の夏休みに不登校になりました そして卒業の4ヶ月前まで私はいじめを行っていたことを忘れてしまいました、その間被害者のみとして生きてきました、そんな自分が許せません 今私は通信制の高校に通っています いじめを行っていたことを後悔し、反省しています、二度とそんなことはしません 被害者本人に謝って彼は許してくれましたが、そんな彼をいじめた事に申し訳なく罪悪感は消えることなく思い出して吐き気がして眠れない日があります 小さい頃から周りの人に知られないところで悪さをしたこともあります、罪悪感で押しつぶされています 今は抜毛症も治り、いじめの被害者としてのトラウマもそこまでありません(加害者と会うこと以外は)、僕が変わってていじめられたので、いじめられたのは僕のせいだったんだと思います。 いじめを行ったのも僕なので、僕は...凄く悪い人でした、罪悪感が凄いです 今は反省して後悔して、これからは優しい人になろうと行動しています、しかし人生を楽しんでいいのか、笑っていいのかと思っています。 いじめや人に見られない所で悪さをした僕が。 僕は楽しんで、幸せになっていいのでしょうか? お坊さんの意見を聞きたいです。

有り難し有り難し 17
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