極楽浄土に生まれ変わるとありますが、どのような状態で生まれ変わるのでしょうか? 赤ちゃんから生まれるのでしょうか?それとも臨終した際の年齢で生まれ変わるのでしょうか? また阿弥陀如来は極楽浄土へ生まれ変わることを願ったものをどのように導いてくれるのでしょうか? 大学の授業で使いたいため質問させていただきました。 拙い文章で申し訳ございません。 回答の方お待ちしております。
以前の続きで書き込ませていただきます https://hasunoha.jp/questions/62541 (前回は回答してくだだった方 ありがとうございました。お礼申し上げます) わかっていることではあるのですが 親は亡くなる時、私の将来を心配していたと思います 故に、もし親がいるならば 親が喜ぶ生き方、望んでいた生き方をしなければならない たとえ「会いたい」と思っても 自殺などして会いに行っても喜ばないでしょう それもわかります。ならば 精一杯生きていくしかないことはわかっているのですが・・・ その前に どうしても霊やあの世の存在があるか知りたいという気持ちが強いです。 お坊様でも 霊やあの世の存在を信じる人、信じない人それぞれだと思います。 信じているなら、「あの世でご両親が見ていらっしゃいます。そして自分がいずれあちらに行ったときに・・・」と言うでしょう。 自分でもそうありたいと思っています。 ですが、本当に喜んでもらえる霊魂やあの世があるか知りたいという思いが強いです。 霊やあの世があるならば ・・・自分と親のために生きられる 亡くなって「無」になるならば・・・自分のためだけにしか生きられない この違いは私にとって大きいです(長くなるので詳しくは書けませんが親の生前いろいろありました。お互い伝えたかったことが伝えられなかったという後悔の思いもあります) 最近はやっていませんが 過去は霊能者が霊視する番組がありました。 亡くなった近親者の霊と霊能者を通して話ができる あのテレビ番組本当なのか、ヤラセなのか私にはわかりません。しかし 本物の霊能者がいるなら会ってみたいと思っています。 しかし、私は広告宣伝している霊能者や占い師などほとんど偽物だと思っています。 コールドリーディング ホットリーディング などのテクニック(別の業界でも使われる)を使って 信用させている 偽物が多いと確信しています。広告代の出所は高額な鑑定料やお祓いなとど称して徴収したものであることも確信しています。 ですが、どうしても本物の霊能者がいるなら会いたいです。 表に出たがらないしお金も取らない。依頼者が多くを語る前に全てを理解し、占いや霊視によって視えたものを教えてくれる人が本当にいる という話は 聞くことがあります。 探すのは徒労だと思いますか?
日々、心の中に焦りのような恐れのようなものがあります。 死というものが、必ず訪れる、しかもいつ訪れるのか解らないということに言いようのない恐怖と悲しみがあると同時に、いまこのある生を良く過ごせているだろうか、という強い焦りがあります。 以前は楽しめていた趣味も、こんなことをしていていいのだろうかと過ぎってしまい楽しめません。 仕事をしていても、こんなことを続けていていいのだろうか、と身が入りません。 休日、一日中布団の中で寝たり起きたりをして体力を回復するだけに一日使った日はとても悲しい気持ちになります。 コロナ問題もあり家からあまり出ない生活をしていますが、まったく人と会わないままあっという間に日が過ぎてしまう・・・ 日本人の平均寿命からして、健康寿命がこれくらいなので、そうするとあと1万日程度だろうか、いや、何らかの理由で死ぬのは明日かもしれない。そんな貴重な1日を、1週間を、1ヶ月を、こんなふうに暮らしていていいのだろうか。そんなことばかりを考えてしまい、特に夜になるとつらい気持ちになってしまいます。 ずっと、時間が無限にあるかのように過ごしてきてしまいました。 いつかやればいいだろう、と色々なことを先送りにしてきましたが、先送りした先に時間がない、というのが、この人生の折返しの歳になって切実になってきてしまいました。 それにも関わらず、これまでのクセがあってなかなか動き出せない、そんなことにも強く焦りを感じます。 どのように心を持てば、穏やかに過ごせるようになるのでしょうか? お導きいただけますと幸甚の至りです。
初めまして、榎戸と申します。 恥ずかしながら私は、1年半以上も引きこもりをしています。 最近、このままではダメだと思い、アルバイトを始めようと思っています。 両親は「若いうちはいろんな事をして、いろんな経験をしなさい。ダメだった時は辞めて、また何か挑戦すればいいから。」と言ってくれるので頑張ろうと思うのですが、対人恐怖症と呼吸が苦しく感じるほど不安が強いため、外に出るのが怖く、なかなか一歩が踏み出せません。なにか背中を押してくださるようなお言葉を頂けないでしょうか…。 また、私は虚弱体質で幼い頃からよく体調を崩していました。特に胃腸が弱いので、食生活には気をつけています。お坊様方は、健康を維持するため、丈夫な体でいるために何をされていますか?
水施餓鬼と本施餓鬼の違いを教えて下さい。 当寺院では水施餓鬼(7日、16日のどちらかで墓参りと回向)と本施餓鬼(16日で新盆者回向と先祖回向)が行われます。どちらも先祖供養等で有り、回向料も高くなりますしどちらか1回で良いのでは無いでしょうか?お寺でお念仏を唱えて頂き、その後お墓にお参りすれば一日で済むと思うのですが・・・お寺の収入確保としか思えません。 施餓鬼会の起こり等は理解しています。知恩院本山に尋ねても分かる者がいないとの返事でした。
精神疾患の傾向とPMSがある人間です。彼氏に振られました。 原因は、私のメンタルが悪化し、それが彼氏の負担になったからです。元気なときは彼氏を頼るまい成長しようと思えるのですが、生理前になると感情のコントロールができなくなり「消えたい」「つらい」とたくさん泣きついてしまいました。それによって彼氏も体調を崩し始め、一度「精神科に行かなきゃ別れる」と言われました。さすがに反省し、カウンセリングの受診も始めたのですが、その言葉に加えて様々「今がよければいいと思って怠けてる」「頑張れていない」「留学の邪魔」とも思われてることを知ってしまい、彼氏に対し怖いと思うようになり、別れた今でもトラウマです。そしてギクシャクした関係のなか、別れることになりました。生理前の不調に対する薬の服用は始めていたのですが、効果がでる前に彼氏の堪忍袋の緒がきれてしまいました。 お互い愛情はあったので、すべて私の弱さのせいでした。別れたことよりも、自分のせいで大事な人を傷つけてしまったことがつらかったです。傷つけるくらいなら、付き合わなかったほうが彼のためだったと思います。私のようなメンヘラで病気持ちのキチガイは、一人でさっさといなくなるべきでした。少しでも好きな人と一緒に幸せになる資格があると勘違いした自分が恥ずかしいです。好きな人ができても、もう付き合いたいと思えません。その方が相手の幸せのためだとようやく思い至りました。都合のいい人間くらいが身の丈にあっているのだと思います。 大事な人を自分では幸せにできない、という結論がでたのに、生き続けないといけないのでしょうか。失恋でさらにメンタルを崩し、親にも迷惑をかけています。これ以上大事な人を傷つける罪悪感に耐えられません。人を好きになって付き合いたいとか身の程知らずのわがまま人間になるのも、キチガイのくせに幸せになりたいって思ってしまうのも怖いです。 誰かを傷つけないと生きていけないのはわかっています。でも、それなら生きていたくないのです。毎日こんなことを考えて泣いているのが苦しいです。でも、苦しんで泣いている毎日が私には身の丈にあっているような気もします。 乱文になりすみません。もはや何を質問したいのかの整理もついてませんが、誰か助けてください。人を傷つけてばかりなのに、幸せを諦めきれない私を怒ってください。
お坊様方にはいつもお世話になっております。 教えてくださいませ。 先日、テレビニュースで見たのですが国内某市で車を運転中のお坊様が警察官から「運転に相応しくない服装だ。市の条例違反です。」と言われたそうで、確か浄土真宗のお坊様だそうですが、ご本山を含め遺憾の意を表明したようですね。私は現場にいた訳でもなくただニュースを見ただけなのですが。 そのニュースを見た時にとうとう、仏教弾圧が始まったのかと恐くなりました。 ハスノハで一生懸命、回答内容を考えてくださり回答して下さっているお坊様方の事を私は信頼しています。 お坊様方はこのニュースをどの様に思われますか? 私は交通事故で自転車にはねられてから、車よりも歩道や横断歩道を傍若無人に飛ばして走っている自転車の方がよっぽど恐いです。歩道でも横断歩道でも例え青信号でも自転車よけの為に手をピンと空高く上げて歩いています。 話がそれてしまいましたが、お坊様方はこのニュースをどの様に捉えますか?
私は、既に亡くなっている母からの遺伝で難病と言われる病で、現在無職、障害年金と14年前に亡くなった父、9年前に亡くなった兄らの死亡保険金を切り崩しながら、体の自由がきかず1人では外出出来ないので、ほぼ引きこもりの生活をしています。 家族が眠るお墓は他県にあるので、毎年お盆だけは地元の友人を頼って、お墓参りをしているのですが、実は母方の家の先祖代々のお墓も別にあり、そちらもお墓参りをしています。2ヶ所のお墓は車で2時間位離れているので、数年前に私の家族のお墓にまとめようと思いましたが、費用が想像以上に高かったので、断念しました。 家族は全員亡くなってて私1人、未婚の障害者で、親戚付き合いも皆無な為、私が死んだら、家族のお墓、母方の先祖代々のお墓を見る人が誰もいません。 私自身のお骨は海にまいてくれ、と友人にお願いしてあるのですが、墓守りまで友人にお願いするわけにはいきません。 こういった場合、このまま見て見ぬふりでいいのでしょうか?大切な家族や祖父祖母らまで無縁仏にしてしまって良いものでしょうか? 私の病気は進行性のものなので、あと数年後には寝たきりになってしまうので、動けるのは今しかないのです。ご教授をどうぞよろしくお願いいたします
こんにちは。お世話になってます。 このサイトで色々な悩める人達のご相談に乗っているのをお見かけします。 心優しいお坊様方の親身な助言により明るく前向きに生きていこうとする人も沢山いるでしょう。 ですが世の中どうにもならない事があることが現状かとは思います。 熱意をもって真心をこめた言葉が届かないことは本当に悲しく残念なことだと思います。。 皆さんはこういった事が続いたらどのようにして気持ちを切り替え活動を再開するのでしょうか。 もし私がその立場なら自分には向いていないのか、と考えてしまいしばらくサイトに来なくなってしまうと思いますが…;
質問させていただきます。 回答しづらければ、スルーでお願いします。 母の四十九日法要の和尚さんの法話でのことです。 「亡くなった人はどこへ行くか?」と和尚さんは私の甥に尋ねました。 小学生の甥は、「心の中」と答えました。 それは、亡くなった母が教えたことです。 母は「自分が死んでも、いつも見守ってるから」という意味で、生前、そのように話したのだと思います。 が、その和尚さんは、それを完全否定しました。 人は死んだら「無」になる、と。 何もなくなる、心の中ということはない、と。 実際に仏教でどのように考えられているかは知りません。 和尚さんが仰ることが正しいのかもしれません。 ですが、そこはあえて否定する必要があるのでしょうか? マチガイハ タダスベキということですか? 甥だって大人になるにつれ、母の言葉の意味は理解するだろうし、何より母の法要で母を否定されたような気がして、何とも言えない気持ちになりました。(「黙れクソ坊主がっ!」と思ったことは内緒です) また、その話の流れで、ホームレスは人間のクズだから地獄に堕ちるという話をされました。 いや、ちょっと待て! 人は死んだら無になるんじゃなかったのか? 無になったら、地獄も何もないのではないか? それとも、ソレとコレとは違うとでも言うのだろうか? それより、ホームレスが人間のクズとはどういうことなのか!? それが仏教なのか? 和尚さんの偏見ではないのか? 和尚さんに対しての怒りの感情と、母に対して申し訳ない思いと… お前が地獄に堕ちろ!とマジ思いました… ホームレスの方達に炊き出しをするボランティアをしていたので、色々と思うところがありました。 もう数年前のことですし、そのことを引きずって悩んでいる訳ではありません。 過去のことに上書きすることはできませんし、それはソレで、そういう事実があった、でよいです。 ただ、その本当のところが知りたいです。 数年前のことを、なぜ今、このタイミングで?と思われるかもしれませんが、今まで聞く人がいなかったからです。 hasunohaのサイトを最近知りました。(遅っ!) よろしくお願いいたします。
こんにちは。 昔、芥川龍之介の書いた『蜘蛛の糸』という小説を読みました。 お釈迦様がガンダダが救おうとして結局救われないという話だったと思います。 しかし今思い返すとあの話は少し変だと思いました。 あの話ではお釈迦様は極楽浄土にいて、そこから糸を垂らしてガンダダを救おうとします。 しかし仏教では解脱したら輪廻が終わり、無に還るだけだと説いているので、浄土にお釈迦様がいるのは場違いです。 そして調べてみると極楽浄土というのは阿弥陀仏の浄土なのでお釈迦様がいるのはやはりおかしいそうです。 またお釈迦様が人を物理的に助けるというのもおかしな話です。 お釈迦様は神様ではありません。(仏教的には神さまよりも上の存在(?)) あくまで現世で弟子たちに教えを残しただけです。 この作品は日本人に誤った仏教感を植え付けていると思いませんか? もちろん作品の演出だと言えばそれまでですが、日本で古くから信仰されている宗教だからこそ日本人は仏教を正しく認識する必要があると思います。
死にたいです 泣いてばかりです 某芸能人方も辛くて死んだんだと思います 世間の人はなんで…とか思うかもしれませんが死ぬほど辛いという事ですよね なぜ嫌なことをしながら生きないといけないのでしょうか なぜ頑張って生きなきゃ行けないんでしょうか 自分が満足したら死んではいけないのでしょうか
初めて悩みを書きます。 わたくしは、中学生の時から死恐怖症(タナトフォビア)に悩まされています。 簡単に説明しますと、自分の意志とは無関係に「自分が無になる」という恐怖が脳に入ってきます。医療用語で強迫性障害に分類されます。 一年くらいしっかり働けても、季節や体調の変化でタナトフォビアが重症化し、奇声をあげる、怖くて動機がする、それを落ち着かせるために自傷行為をして生きてる事を確かめる事が続き、それに合併して鬱になり、外に出る事も誰かと話すこともできない日々が続きます。 この繰り返しを何年もしてきたため、会社に就くこともできず、終いには今、無職です。 ただ、死が怖い=生きてればいつか死ぬという恐怖も同時に兼ね揃えています。 つまり、生きてることも怖いんです。 そして今、私は薬で症状を抑えています。 薬で抑えることが出来ると、死ぬことが、酷い時よりは怖くなくなります。 そこで、私は「今なら死ねる」と思ってしまうんです。 生きてる意味も分かりませんし、 死ぬ意味も分かりません、 この世は修行だとか、死んだあとは天国だとか、そんな人間が作り出したエゴや、綺麗事は私には意味がないんです。 「死んだら生まれる前に戻る」という考えがどうしても抜けません。 私は約一ヶ月後、死のうと考えてます でも本当は生きていたいんです 生きてる素晴らしさや奇跡は痛いほど知ってます。 心の矛盾に日々悩まされてます。 どうか助けてください。
お寺に生まれお寺の後継として育ち、10年くらい寺に勤めましたが、激務と結婚のプレッシャーから無職になって17年になります。住職が退く時が来ました。無職でも寺から給料は出ていたのですが、それも打ち切りです。富岡八幡宮殺人事件と同じ立場です。新住職を恨んでもしかたがありませんが、自分が生きていけません。借金がかなりありますし、年金だけでは生きていけません。自己破産して生活保護をうけるのも難しそうです。もう死ぬしかないのでしょうか?死ぬなら富岡八幡宮殺人事件のように新住職を巻き込みたくはないと思います。恨み辛みの感情は有りますが。
こんばんは。最近仏教の勉強を始めて、初めての仏教本を読んでいます。お暇な時に、よかったら教えてください。 ハスノハのお坊様のお話から学ばせていただくうちに仏教は実践重視なのだと何となくわかってきましたが、それでも苦しい時お釈迦様や観音様にお祈りすることもあるだろうと曖昧に考えていました。それが、仏教は神のない宗教と本に書かれていて、私動揺しています。 どうにもならないこともあるけれど、私は何があってもいつも神を拠り所としてきました。その神がいないとどうしても不安になってしまいます。仏教ではブッダの教えを実践して苦しみを減らすから、神に救いを求める考えがもともとないということなのでしょうか。でも、人間は完璧ではないと思うし…苦しい時、お坊様はどうされていますか?
先日、住職である義父が亡くなりました。 通夜には当然私の家族も参列したのですが、翌日に坊守である義母から呼び出されました。内容は ・私の家族が座った位置 ・役員さんが帰る際、通りすがった母もお見送りをした事 を指摘されました。 お寺では1番は住職、その次に家族、親族、役員さん方が来て嫁の家族は1番下だとはっきり言われました。 なので座る位置も1番後ろ、表立ってお見送りするのはもってのほかとの事。 そしてそれは常識だと言われました。 役員さんに文句を言う人もいて経営に差し障ると困ると叱られました。 知らなかった私たちも悪かったと思いますが、これは常識なんでしょうか? 寺では常識かもしれませんが一般常識では無いと思います。 ちなみに、副住職である主人は知らなかったそうです。 そして見送りをしていた母に義母は 「しゃしゃり出て」 と言い放ちました。本当に常識がある方はこの様な言動するでしょうか? 席順も私の家族は誰かに席を譲られたそうで流れで座ったので悪意も全く無かったと話しても義母は聞く耳持たずです・・・ 住職様方にお聞きしたいのはこの扱いはどのお寺でも当然なのか否かです。 2日間夜遅くまで手伝いに来てくれた母が不憫になり質問をさせていただきました。 長々と失礼しました。回答をよろしくお願いします。
こんにちは。先日は私の拙い質問にご回答頂き、誠にありがとうございました。また、こちらで何度もご質問させて頂いておりますが、その度毎に丁寧なご回答を頂いておりまして、大変感謝しております。本日は、多少突っ込んだ質問になってしまいますが、自分の中でどうしても整理がつかない点があり、それを質問できるような場が他にありませんでしたので、この場を借りて質問させて頂きたいと思います。どうぞよろしくお願いします。 こちらのサイトを拝見しておりますと、「霊は存在しない」と回答しておられるお坊さまが何人かいらっしゃいます。お坊さまの中でも意見が分かれる問題なのだと思いますが、私は霊魂の存在を信じており、また輪廻転生もあるのではないかと考えております。霊魂の存在を否定されるお坊さまは、霊感商法やカルト教団への対応など、現実的な対策の観点から、またお坊さま個人の世界認識から、そのような発言をされているのだと思います。しかし、素人の私から見ると「悟り」や「阿弥陀仏の救い」を前提としてお話をされているお坊さまが、「霊魂」の存在を否定されることが、どうしても理解できないのです。 素人の私から見ると、「悟り」も「阿弥陀仏の救い」も、それが一体何であるのか分かりません。そのため、お坊さまが「悟り」や「阿弥陀仏の救い」をお話されることは、「霊魂」や「輪廻転生」のお話をされることと同じくらい荒唐無稽なもののように感じてしまうのです。唯物論者の方が霊魂の存在を否定されるのは理解できるのですが、お坊さまが否定されることは、私にはどうしても理解できません。霊魂の存在については、「分からない」とおっしゃることが最も妥当なのではないでしょうか。 実際に、現代には様々な宗教がありますが「霊魂」や「輪廻転生」の存在などを説いている宗教も数多くあります。もし、お坊さまが霊魂は存在しないと考えておられるのであれば、それらの宗教についてはどう理解されているのでしょうか。 このような突っ込んだ質問をして、誠に申し訳ありませんが、霊魂を否定されるお坊さまのお考えをどうしても伺いたいと思いました。ご回答頂ければ幸いです。どうぞよろしくお願いします。
御坊さまたちは、一般人と会話をする際にご自身のことを何と呼ぶのでしょうか? また御坊さま同士はどう呼び合うのでしょうか? そして、同じお寺に複数の御坊さまいらっしゃる場合、先輩後輩の別があると思うのですが、先輩後輩関係ではどう呼び合っているのでしょうか? 教えていただきたくお願い致します。
本願寺派の門徒です。真宗では弥陀一仏に帰依する立場から、神棚を祀ったり祈祷占い等を受けたりしない決まりごとのようです。 ですが、わたしは地元の神社のお祭りには氏子として協力しますし、正月には当然のように神社に初詣に行き1年の健康を祈願します。子供の成長を願って七五三詣にも行きました。 門徒としてはこういう態度はやはりよくないのでしょうか。
昨晩、布団に入り輪廻転生について考え出したら、なんだかとても恐ろしくなって眠れませんでした。そんな夜明けにふと思ったのですが、仏教では「お盆にご先祖様が帰ってくる」と一般的に言われてますが、この考えと輪廻転生の仕組みは矛盾しませんか? 魂が分裂したり並行宇宙が存在するのか、それともこの質問は仏教におけるタブーなのでしょうか?