何をやっていても罪悪感が拭えない
先日、アメリカのサーカス団が閉まるというニュースを見ました。動物愛護団体からの訴えにより動物の出演が困難になり、利益が出なくなったそうです。愛護団体の中には人間に屠殺される家畜、つまるところ動物に対する念から菜食主義をしている方もいることを知りました。世の中にはいろんな考えの人がいますね。
私はそこから、 何かを創り出すことは何かを奪い壊すことなのではないかと思いました。命は他の命を奪って創られます。紙は木の命を壊して作られます。そう考えるとなにをするにも、自分が誰かにとっての犯罪者のように思えてしかたがないのです。
食べるという行為は生きるために必要なことで、そのために他の命を頂戴しているのだと考えています。これは生きるという最終目標に意味がある。だから過程の「殺す」という行為にある意味で目をつぶれている?きがします。過程に罪の意識を持ち、快楽を感じなければ批難されない。 今の研究では動物を殺さずに細胞を培養して食そうとする試みもあるそうです。細胞の命を奪うことにはなるかもしれないけれど、未来では今の過程の罪が無くなるかもしれません。そうなったら、昔の人々は野蛮だという烙印を押されるのでしょうか?私の今生きている世の中は、生きている私は、野蛮で愚かで間違った行為をした低俗な人間になるのでしょうか? そう思うと晩御飯を美味しいと感じる己が悪人に思えます。
趣味はもっと悪いことの様に思えます。動物や植物、石、あらゆるモノの命を破壊して、加工し楽しんで快楽を得ているのですから。しかも、趣味にはこだわりがあって選り好みするし、いいなと思うものが増えるだけ、消費する量も増えます。しまいには、造る、加工する趣味は「過程」に快楽を感じています。絵を描いている時は描いている時が楽しい、編み物も編んでいる時が楽しい。完成品も誇らしいけれど、私は過程が楽しくないと続けられません。魚を捌くことも好きです。包丁を入れて身に刃が綺麗に入っていくのが気持ちいいのです。魚にとってみたら恐ろしい人です。生きるための枷ではないものを楽しいと感じる己がひどい人に思えて仕方ありません。
罪悪感に飲まれ何をしても苦しいです。結局また、今を生きれていません。不甲斐ないです。早く変わっていく価値観に取り残されて行きそうです。とっても恐いです。私はどうすればいいですか?
有り難し 53
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