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hasunoha 問答検索結果 : 「�%B」
検索結果: 1062件

何をやっていても罪悪感が拭えない

先日、アメリカのサーカス団が閉まるというニュースを見ました。動物愛護団体からの訴えにより動物の出演が困難になり、利益が出なくなったそうです。愛護団体の中には人間に屠殺される家畜、つまるところ動物に対する念から菜食主義をしている方もいることを知りました。世の中にはいろんな考えの人がいますね。 私はそこから、 何かを創り出すことは何かを奪い壊すことなのではないかと思いました。命は他の命を奪って創られます。紙は木の命を壊して作られます。そう考えるとなにをするにも、自分が誰かにとっての犯罪者のように思えてしかたがないのです。 食べるという行為は生きるために必要なことで、そのために他の命を頂戴しているのだと考えています。これは生きるという最終目標に意味がある。だから過程の「殺す」という行為にある意味で目をつぶれている?きがします。過程に罪の意識を持ち、快楽を感じなければ批難されない。 今の研究では動物を殺さずに細胞を培養して食そうとする試みもあるそうです。細胞の命を奪うことにはなるかもしれないけれど、未来では今の過程の罪が無くなるかもしれません。そうなったら、昔の人々は野蛮だという烙印を押されるのでしょうか?私の今生きている世の中は、生きている私は、野蛮で愚かで間違った行為をした低俗な人間になるのでしょうか? そう思うと晩御飯を美味しいと感じる己が悪人に思えます。 趣味はもっと悪いことの様に思えます。動物や植物、石、あらゆるモノの命を破壊して、加工し楽しんで快楽を得ているのですから。しかも、趣味にはこだわりがあって選り好みするし、いいなと思うものが増えるだけ、消費する量も増えます。しまいには、造る、加工する趣味は「過程」に快楽を感じています。絵を描いている時は描いている時が楽しい、編み物も編んでいる時が楽しい。完成品も誇らしいけれど、私は過程が楽しくないと続けられません。魚を捌くことも好きです。包丁を入れて身に刃が綺麗に入っていくのが気持ちいいのです。魚にとってみたら恐ろしい人です。生きるための枷ではないものを楽しいと感じる己がひどい人に思えて仕方ありません。 罪悪感に飲まれ何をしても苦しいです。結局また、今を生きれていません。不甲斐ないです。早く変わっていく価値観に取り残されて行きそうです。とっても恐いです。私はどうすればいいですか?

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2021/12/02

終わりにします。

皆さま初めまして、みーと申します。 このような神聖な場に 自己中心的で不快な書き込みをしてしまい 申し訳ありません。 話し相手がいないので最後に 自分の思いの丈を ここに吐き出させて下さい。 そして僕が生きた証を残さして下さい。 まず、僕は小学3年生の頃まで両親に虐待の限りを尽くされ殺される寸前で警察の方に助けられました。 その後、両親と連絡が取れなくなり施設で高一まで過ごしました。 そして高校を中退し、自分の1番したかった事 漁師になる!を実現させました あの頃は毎日が楽しく 仕事も楽しく・交友関係も問題なし・ 恋愛も順調でした。 この時期に交際相手との間に 子供が出来ました 勿論、歳も若いし育てられる訳がないと 相手の親に猛反対されました。 それでも降ろす事など考える事が出来ず 絶対に産んで欲しかったので 職場も変え、家も嫁の家の近所に引っ越し 何度も嫁の実家に足を運んでお願いする日々が続きました そして形的に出来婚になりましたが 相手の親に認めてもらい無事 長男を出産し家族に迎え入れる事が出来ました。 しかし幸せな時間は続かず生まれて3ヶ月 長男が突然死しました。 この頃から自分の中の何かが変わり 生きる希望や意欲何もかも無くなり 自殺を考えるようになりました。 そこから嫁も変わり、 喧嘩をしても話し合いが出来ず いつも僕が悪い、私は悪くないのループで 僕が折れて謝り機嫌をとっての繰り返しでした。 あまり言い過ぎると癇癪を起こし物に当たり手を出して来るのでそれ以上は何も言えず。 そして次男・三男が生まれたが 何も変わらずこのような日々が続きました そして1ヶ月前ついに離婚届を渡され書いてしまい。 独りになりました。 独りには慣れていたつもりなのに いざ独りになると寂しいもので 結婚を機に地元との関わりも全て切ってしまったので 相談相手も居なく 頼れる人も居なく この苦しみを分かってくれる人が居ない。 本当に辛かった。 離婚してから自分がどうしてたのか思い出せません。 仕事には行ってたみたいですけど 全く記憶に無くて 体重も1ヶ月で13キロ落ちました 今日目覚めると同時に死を決断し 気分が楽になりました。 職場も無断欠勤してしまいました。 今日は思い出の地を巡り 好きな物を食べ1日が終わる頃に旅立とうと思います。 最後に長話に付き合ってもらいありがとう

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般若心経の「無」について

こんにちは。 般若心経の 「無色無受想行識・無眼耳鼻舌意・無色声香味触法」 の部分について疑問があるので質問します。 般若心経で「空」と言うと、単に「無い」とか 「虚しい」とか言うものではなく、 「縁起として存在し、固有の実体を持たず、執着の対象ではない」 と言う程度に私は認識しています。(間違っていたらご指摘ください) しかし「無」となると、どのように読めば良いのでしょうか? 「無」も「空」と同じようなものとして考えれば良いのでしょうか? 上記の部分について、字面通りに受け取ると 「すべての感覚器官と意識作用をシャットアウトせよ」 て言ってるようにも受け取れてしまいます。 もちろん、そんな単純な事ではないと思うのですが・・・ 「現実をそのままに見よ」と言うのが 仏教の基本的な考え方だと思うのですが、 「無」と言う字で表わされては「見るな、聞くな、・・・」と 言っているように思えてしまい、ひいては現実世界そのものを 否定しているようにも思えるのですが、 如何なものでしょうか? それとも、このように字面を捉えて理屈で考える事自体が 仏教の本質から遠ざかっているのでしょうか? 最近、毎日お唱えしている般若心経ですが、 上記の部分が妙に気になってしまうので質問しました。 ご教授頂ければ幸いです。

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死にたい衝動を抑えられない

今年新卒で社会人になったものです。社内でモラハラやパワハラがあり、体調が優れず心療内科に通い始めました。 良い先生で、私の気持ちをわかってくれた上で、「友達などに自分の胸のうちを打ち明けてみるといい」とアドバイスをくれました。 ですが私には、弱音を受け止めてくれるような友達がいません。愚痴は嫌われます。 丁度、友達と遊ぶ機会があったので、思い切って職場のことを打ち明けてみましたが、引かれ、馬鹿にされ(たように私は感じました)、恥ずかしくて仕方がありませんでした。 友達に話したことを後悔しています。もう友人たちの輪には戻れないと思います。身勝手ですが、心療内科の先生のことも信じられなくなりました。 心療内科に行くのも、やっとの決断でした。死にたくて死にたくてしょうがなく、でももしかしたら助かるかもしれないと思って行きました。幸せに楽しく生きたいです。 でも死にたくて仕方ありません。ちゃんとした会社で働いている友達が羨ましい。そう思う自分が憎い。まともな会社に入れなかった自分が憎い。だから死にたい。私の人生の責任を取って私には死んでほしいんです。生きて責任を取るのは嫌なんです。怖いから、死ぬという行為1回きりで許して欲しいんです。 今まで沢山悪いことをしてきました。今こうして死にたいのも悪いことです。 自殺するにはまだ勢い(もしくは消耗)が足りないように思えて、毎日飲むよう言われている薬や心療内科で処方された薬はすべて捨てました。食事も水分も取らないように生活しようと思います。絶食は、死にたくなる度にやっていて、でも最後はやはり食べてしまいます。今回は頑張ります。身体に限界が来たら勝手に死んでくれるだろうと思います。 いまこの質問をすることに、少しだけ希望を感じています。本当は、自分は生きていたいんだろうなって思います。 どうしてこんなことになってしまうのでしょうか、とはあまりに抽象的ですが、この嫉妬心や死にたい衝動といった生きづらさは、仏教ではどのように解釈されるのでしょうか。自分で自分をいじめるような身勝手は、苦しみとさえ言えないものではないでしょうか。 長くて申し訳ありません。お寺や、神社に行くのが好きでした。お答え頂けますと幸いです。よろしくお願い致します。

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何故死んではいけないのでしょうか

先日知人から共通の友人について「あのタイプの子は自殺しそうで怖い」と言われました。 が、何も言えませんでした。私は死ぬのも生きるのも個人の自由としか思えません。 勿論、幸せであってほしいとは思いますが、死にたいと言われても「頑張って生きなきゃダメだよ」とは思えません。その後幸せなことがあるとは保証できないし責任も負えない。終わりにしたいなら終わらせるのも自由。 お葬式を数多見てきて、どんな人も、例え親や夫が死んで悲しみを抱えてもいずれ日常を取り戻す姿をずっと見てきました。 私の一時的な悲しみのために、苦痛を受け続けながら生きてろよ、とはどうも思えないのです。生きたいと相談を受ければ聞きますが、死にたいと言われても、別にいいんじゃない?としか思えないのです。 同様に病気の友人にも、健康的に生活を改めなよとも言えませんでした。長生きするより、酒も煙草も自由に生きたいと本人が言うのならそうすれば、としか思えないです。しょうがないよね、アハハと隣で笑って、お葬式で泣くだけです。あの時止めてれば、と他の人のように思えません。 私は薄情なのでしょうか。 先月、20年頼の友人が死にました。毎週会っていた仲間でした。かつては恋人でした。悲しいです。喪失感もあります。でも、それは私の勝手な感情。結局考えに変わりはありませんでした。悲しいのはいつ死んでも悲しい。きっと20年後であっても。それでも人はどうあっても生きなければならないとは思えず、どうも繋がらないのです。 自分には何かが欠落しているのかとも思いますが、何かはわかりません。 私は人を大切にできない人間なのでしょうか。

有り難し有り難し 99
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