こんばんは🌃 数日前に、「霊感の強い息子について」 で相談させて頂いた者です🙇 先日、無事に四十九日法要を終えて、 毎日お仏壇に手を合わせております。 息子たちには、「おばあちゃんの心が この中にあるんだよ」と本位牌に向かって手を合わせるよう、今日始めて祖父の家に来たんですが、お仏壇の部屋に入った瞬間息子が、「あ、おばあちゃんが居る」と言いました。 「え?次の世界に行ったんじゃないの?」と聞いたら、「様子を見に来たんだって」と答えました。 ちょうど、四十九日か1日前に祖父宅へ行ったとき、息子は「おばあちゃんいない。何も感じない」と話したので、てっきり次の世界に旅立ったと思ってたので、今日お仏壇の前に居ると聞いてびっくりしたのと、何故か嬉しい気持ちになってしまいました。 息子(長男)は、祖母とコンタクトとる事が出来るので、今日私が次男を叱った事を祖母に話したみたいで、「あんまりしかりなさんな。○○(私の名前)の家の事はちゃんとみてますよ」と言われて、 身の引き締まる思いをしました。 祖父は、このような霊的なものを信じないので、「あんまり良くないから、やめなさい」と言われるのですが、長男が普通に見えてしまうのでどうしたら良いのか迷ってます。 私も母が亡くなってから四十九日間、 台所やリビング、息子達と寝ている和室等で、ふっとお線香の香りを感じてました。 そのたびに「あ、おばあちゃん今ここにいるんだな。様子を見に来てるんだな」と思って過ごしてました。 これから、どのように過ごして行けば良いのか?良きアドバイスがありましたら 教えて頂けますよう、よろしくお願いします🙇
こんにちは。 家の隣に、塀を一枚隔ててお墓が一つあります。地主の先祖代々のお墓です。学校の行き帰りは必ず前を通ります。 2階の窓からは身を乗り出さないと見えませんが、ベランダからは洗濯物を干すときに見えます。幽霊はみたことがありません。 最近、祖母が病気で入院したり、兄もバイク事故にあったりして、嫌なことが続いています。 これは墓のせいだという占い師もいます。本当でしょうか。 お墓のせいで悪いことが起きないようにするにはどうすればよいでしょうか。 地主は墓を動かすつもりはないそうです。私や家族も、簡単に引越しできません。 よろしくお願いします。
3年ほど前から難病指定のある、SLEという病気になってしまいました。診断された時はお医者さんの前で泣いてしまう程悲しく、受け入れられなくて、しばらく泣き続けていたのを覚えています。ここ最近は月日も経ち、家族の助けもあり、少しずつ受け入れようと努力しています。しかしまだまだふと泣いてしまったりと受け入れられません。 なぜ私がなってしまったのか。なぜ病気のせいで趣味を我慢しなくてはいけないのか。なぜ…という気持ちが強いです。 どうしたら病気を受け入れ、前向きに生きていけるのでしょうか。
拙いタイトルですみません。最近、子供たちに教えるため、我が家が信仰している浄土真宗について調べています。知識がほぼないので、恥ずかしながら子供用の仏教、浄土真宗入門を読んでいます。 仏様がどんな命も救って下さり、行いによるプラスもマイナスもないと書かれていました。 でも、例えば子供から、プラスもマイナスもないなら、頑張らなくても良いの?と聞かれたらうまく答えられません。 阿弥陀様がどんな私達はも受け入れて下さるから、安心して色んなことに挑戦できる、とは知りました。でも、挑戦しなくても良い…?怠けても良い…?浄土真宗の中では、努力や頑張る気持ちをもつ事についてはどのように説いているのでしょうか。
私なんか、生まれて来なければよかった。辛い。 こんな年になったのに、仕事も続かず結婚も出来ず借金は増えるばかりで、バカみたいな人生です。 仕事をすぐ辞めてしまうのが、多分原因なのだとは思います。 いい会社に入っても、すぐに逃げ出したくなるのです。責任感はなくはないのに、責任を取らされたらと思うと怖くなるのです。 後輩に売り上げを越されたのに耐え切れず辞めたこともありました。 我慢ができないのです。 今、我慢の練習を派遣先でしています。辛いです。しんどいです。 生きてる価値がありません。生きてても意味がないです。でも死ねない。 死にたいのに死ねません。死にたいです。 こんな質問で申し訳ありませんが、もしよろしければお願い致します。
容姿などの見た目で判断されることにコンプレックスを感じ悲観的になっている人は結構いるみたいだけれど 世の中には見た目で判断出来ない人もたくさんいるのであまり自信を無くさないで欲しいなぁと思う 私は近視だけど見えない訳ではない 見えているので見た目もそれなりに分かる でも人には目判断や耳判断があり 私は後者の方 見た目で人を判断するのが苦手 ほとんど声で人を判別している なので「百聞は一見にしかず」じゃなく 「百見は一聞にしかず」となる 大変失礼ながら せっかくお坊さま方が写真を掲載されているけれど 正直みんな同じに見える 一生懸命みんなの特徴を探して覚えようとしてはいる でも正直みんな同じに見える 大して変わらない みんなお坊さまだ 多分お坊さまだ 少数派かも知れないけれど 多分そういう人もいっぱいいると思うから 必要以上に見た目にコンプレックスを感じなくても大丈夫なんじゃないかなと思っている 磨くならやっぱり中身 私も中身には全然自信は無いけれど なんとかせにゃならん!といつも思っている せっかくいただいたアドバイスは大切にしたいし 出来る範囲内にはなるけれど精一杯努力したい あ"~!!!とか思うこともあるけれど それでもまた私はhasunohaのお坊さまに会いに来る ここでは耳判断は役に立たないし 目判断も出来ない そういう面では不便だけれども いろんな考えのお坊さまがhasunohaには揃っているだろうと信じているから またあきらめもせずめげることなくやって来る 私は不完全な人間です 完璧にはなれません 目指せ普通!です でも普通にもなれないみたいです 『普通って何なのでしょうか?』 それが質問になります みんな持っているものさしは違うはずなのに 親に「もっと普通にして!」と言われてしまいます 『普通って何なのでしょうか?』
30歳を過ぎだ頃から体調不良が続いています。一つの病気がようやく治ったと思ったら、また別の病気が発覚します。 どれも日常生活に支障がある病気ですが見た目には健康なので周りの人達との関わりに悩む事もあるし、どうしても、そんなに悪い事をしてきた覚えはないのに何で次々に病気になってしまうのかなぁと落ち込みます。悪気のない励ましのつもりでしょうが、病は気から等の言葉をかけていただく事にも疲れました。 心が疲れた時に気持ちを切り替えられる良い方法はないかと相談しました。
二度目の投稿です、以前、主人が亡くなって26日目ですというタイトルで相談させていただきお二人のお坊さんから、目には見えなくても、あなたが想うとき必ずご主人は優しい眼差しであなたを見守ってくれています四十九日が過ぎても、ずっとそばにいてくれますよと回答いただき涙が溢れ心から嬉しくありがたく思いました、でもまた私の心は揺れています、毎日、時間ごとに分刻みに揺れ動きます、大変失礼な言い方だとわかっているのですが、お坊さんだって生きている人間なのにどうして亡くなった人がそばにいるとわかるのでしょうか?大切な人を亡くしてしまったらそのようにおもわなければ生きていけないから、そういう考え方をするんでしょうか?わからないんです、いくらそばにいてくれると思っても私には見えないし声も聞こえない何も感じない主人と出会って30年以上、今年の6月は結婚28年目でした、今思えば不思議なことに去年の結婚記念日には私が初めて手作りのケーキを作り、その前の年は主人が初めて、いつもありがとうと書いたケーキを買ってきてくれました そして娘がお腹にいる時の日記を読み返していたらなんの記念日でもないのに3月13日パパがママにピンクの花を買ってきてくれましたと書いてあり3月13日は主人の命日です、それと私はブラックなコーヒーが大好きだったのに主人がいなくなってからそれが突然飲めなくなり主人の好きだった甘い缶コーヒーを毎日飲んでいます、出会ってからずっと会えない日もあったけど声を聞かない日はなかったので亡くなってからずっと声が聞こえない手を握れないのがたまらない毎日作っていたお弁当はキッチンに置いたままです、失礼な質問かもしれませんがどうか教えて下さい。
4回目の質問になります。 原因不明の病で入退院を繰り返していましたが、確定診断がつきました。症例の少ない難病で治る事はないそうです。 頼れる身内はいません。市役所では生活保護を強く勧められました。 働く事も出来ず、生活保護を受け、社会参加も困難。 薬を飲んで、ただ息をしているだけ。 まだ40代です。 先は長いでしょう。 治らないけれど死ぬ事もない。 この生活を続ける事に何の意味があるのでしょう。 食事して寝て過ごす生活。 外出も困難。 生きる意味は何ですか? 「頑張って生きて下さい」と言われますが、生きていて何の意味があるのか分かりません。
以前愛猫が立て続けに亡くなって思いの丈をhasunohaにぶつけさせていただきました。 心救われるような回答もいただきましたが、心を抉るような回答もいただきました。 私が悼むという意味を知らないから、あの子達は化け猫の類になってしまうとか、 猫は畜生で知能が低いから事故に会いやすいのだとか。 私のせいで、あの子達は化け猫にまで堕ちてしまうのでしょうか。 あの子達の命は畜生だと軽んじられてしまうのでしょうか。 私のせいで、私のせいで、私のせいで。 私のせいであの子達は化け猫になってしまう。 猫に産まれたばかりに畜生だと軽んじられてしまう。 とても悲しいです。悔しいです。虚しいです。 釈尊は全ての生き物は幸せであれと説かれたのに。 仏様、優しかったあの子達を化け猫などにしないでください。どうかお救いください。私の全ての幸福と引き換えでも構いません。 全ては私が悪いのです。私が愚かなばかりに、あの子達を物の怪の類になどしないでください。 どうかお救いください。どうか。どうか。 仏様、どうかあの子達が畜生だからとお見捨てにならないでください。どうかあの子達を極楽にお導きください。それだけが私の願いです。どうかお導きください。お見捨てにならないでください。 しかしどれだけ祈っても私の耳には仏様のお声は聞こえません。 こんな事を考える時は涙が止まりません。
初めまして。 私は、横浜で会社員をしている伊藤と申します。先日、テレビでこちらのサイトが紹介されていまして、仏教の教理に関して長年疑問に思っていたことがありましたので、質問させて頂こうと思い書き込みを致しました。 私は、大学生のころから仏教に興味を持っておりまして、仏教に関する本をいくつか読み、修行の真似事もさせて頂いたことがあります。仏教との出会いは、私の人生の中で非常に貴重なものでした。これからも、修行を重ねていきたいと思っています。 ただ、その中で未だに釈然としないことがあります。それは仏教の説く「死後の世界観」がなぜ宗派によってここまで大きく異なるのか、ということです。 仏教では、もともと「輪廻からの解脱」が一番の目的であったと聞いています。それが、現代の仏教では死後の世界観について「極楽浄土で仏弟子となる」といった立場や、「死後のことなど考えず、今を生きる」といった立場など、様々に分かれています。 私は、どうしても理屈っぽいので、このように死後の考え方が異なっていることに疑問を感じてしまいます。例えば、「極楽浄土に行けるなら、今は努力せず楽をしていた方が良いではないか。」と思うこともありますし、「死後の輪廻転生を否定するなら、そもそも修行する必要さえないのではないか」と思うこともあります。 先日、上座部仏教のお坊さんの著書を拝読して、私の考えに近いことが書いてあって共感を覚えました。そのお坊さんは、「死んですぐ極楽浄土に行けるのなら、どうして早く自殺しないのでしょうか。」といったことや、「輪廻転生が無いなら、どうして修行する必要があるのでしょう」といったことを述べておられました。 もし、輪廻転生があるのであれば、私もなるべく善行をしようと努力すると思います。逆に、輪廻転生がないと考えると、やる気を削がれ厭世的な気分になってしまいます。 人間がこのような気分になることを見越して、お釈迦様は死後の輪廻を説かれたのかもしれません。しかし、今の私にはそれ抜きで前向きに生きる心構えを持つこともまた難しいです。また、死後の輪廻を否定するならば、自殺を否定することもまた難しくなるのではないでしょうか。 こういった点を、お坊さんはどう考えているのか、どうしても気になったので質問させて頂きました。失礼なことを伺ってしまい申し訳ありません。
知識のない一般人としての質問で大変申し訳無いのですが・・・ ブッダがいた時代は、大乗仏教や宗派ができる前ですが、ブッダが一番言いたかった、伝えたかったこと(メッセージ)というのは、大乗仏教の中にどう生きていると思われますか(大乗仏教の様々な宗派の中でどの部分に一番それが象徴されていますか)? 大乗仏教において、ブッダの教えとその宗教としての儀式などがどこか矛盾していると感じてしまうことがありますがそれはどう捉えればよいでしょうか。(ブッダのいう悟りから得たもの(教え)と大乗仏教の在り方が矛盾してみえることがある) 菩薩という存在は、大乗仏教のなかでどう捉えたら良いのでしょうか。
仏教における幸せとはなんでしょうか? 修行を積んで悟りを得ること? 煩悩を滅し苦しみから解放されること? 私にはよく分かりません。