将来のため、修行に行った彼氏に手紙を送りたいのですが、大丈夫なのでしょうか? 封筒の色や住所の書き方などで注意する事があれば教えていただきたいです! そして4と9の付く日の過ごし方も教えていただきたいです! 初めてのことばかりで不安です。 けど彼氏が頑張っているので私も目標を立て、立派になって帰ってくるのを待とうと思います!
こんにちは。 初めて相談させていただきますが、他の方々のQ&Aはよく読ませていただいています。 私は20代の大学院生です。 大学卒業後、しばらく会社員を経験して、現在に至ります。 表題の件、私はこれまで一度も、 「これで生きていこう」というような決意が出来たことがありません。 やりたいことがわからないなりに、色々努力はしてみたつもりでした。 会社員時代は出来るだけ色々な業務に触れるようにし、 世間では難関とされる資格をとってみたりしましたが、 そのまま会社で歳を取ることが虚しく思え、 今度こそ、「これが私のやりたいことだろう」と思った分野の大学院にきましたが、 的が外れたようで、興味や自分がやる意義は日々薄くなっています。 せっかくこの分野に挑戦できる環境にあるというのに、このように考えてしまい、 最大限に研究を頑張れていない自分も情けないです。 大学院の修了(来年3月)が近づいてきており、今後の仕事を考えなければいけない現在、これ以上どの方向性で何を頑張ればいいのか、思い付きません。 本を読む、年上や他業界の人に話を聞くなども試しました。 正直にいうと、これからまた努力する気力もなくなっているというのもあります。 疲れてしまいました。 好きなものを仕事や人生の目的として考えられると良いのだろうとは思いますが、 年々好きだったことに興味がなくなってきています。 趣味として続けているものが一つだけありますが、 現在はなんとか惰性で続けているという感じで、それすら以前のようには好き、楽しい、とは思えません。 (大学のスクールカウンセラーなどは何度か利用したことはあります。 病院で処方される薬の服用を勧められましたが、 調べたところ、そういった薬は長期的な服用が必要になるということが気になり、 私はまだ病院には行っていません。) 何か一つ人生の目的、やりたいことがわかれば、 興味ややる気も持てて、生きていることに納得もできるのだと思うのですが、 どうすればそこに近づけるのでしょうか。 何でも構いませんので、今の私に、どうかアドバイスをいただけませんでしょうか。 最後まで読んで下さってありがとうございました。 よろしくお願いいたします。
ご覧いただきありがとうございます。 これからの生き方を考えていく中で、一切皆苦という言葉に出会いました。 この世が一切皆苦、思い通りにならないことばかりであるなら、なにも持たない人が一番幸せということになりますか?例えば、天涯孤独で、夢や目標は特になく、その日を暮らせるだけのお金を持ち、日々目の前にあるものを受け取っていくだけの人が一番幸せなのでしょうか? もしそうだとするなら、大切な家族、友人に恵まれ、仕事も財産もあり、夢や目標に向かって日々努力して生きる人のことを素晴らしいと思うのはなぜでしょうか? 今まで、夢や目標をもち努力することは良いことだと思ってきました。でも、一切皆苦という言葉を知り、夢や目標を目指すことをやめ、自分に巡ってきたものだけを受け入れていく方が幸せでいられるのかなと思いました。 でも、それは今までとは真逆な生き方なので、本当にそれでいいのかわからないでいます。がんばれば何とかなる未来もあるのではという思いもあります。 一切皆苦を理解していれば、結果たとえひとりぼっちでも貧乏でも平気になるのでしょうか? 正しく理解していない部分があるかと思います。勉強不足で申し訳ございませんが、勘違いしている部分があれば教えていただけませんでしょうか? 何卒よろしくお願い申し上げます。
最愛の妻を亡くして3ヶ月になろうとしています。 毎日、妻を想い、後悔し、苦しいです。 どうしたら、死を受け入れられ、前に進めるでしょうか?
度々こちらで質問させていただいています。今回は悩みというよりふと感じた疑問なのですが、ご回答いただけたら嬉しいです。 もうすぐ母の命日なので今度の休日に地元に帰ることになりました。詳しくは聞いていませんが、水あげをすると言われているのと、おそらく時間があればお墓参りもすると思います。 そこで知りたいのですが、亡くなった人のお墓や仏壇に手を合わせる時、心の中で何を思えば(言えば)いいのでしょうか。テレビドラマなどでよく見るのは生きている家族の近況報告(子どもが生まれたり結婚で家族が増えたりした時などに)をしているイメージですが、それで合っていますか?今まで何度もお墓参りをしたり仏壇にお線香を上げて拝んだりすることはありましたが、私はただ漠然と「みんなのこと見守っててね」というくらいでした。 正解があることなのかもわかりませんが、ご意見を聞かせてください。
現代語訳してある書を探しておりますが、偽書もあると知り、どれを選んだらよいか迷っています。 おすすめの書がありましたら、宜しくお願い致します。
観光でお寺や神社にお参りに行きますし、お墓参りもいたします。 しかし、どこで仏教が学べるのか実は分かっていません。 学ぼうとするとネットで本を買う事になります。 教会のように毎週日曜日礼拝したあとの聖書勉強会のようなものはあるんでしょうか。
55歳を過ぎ、子育ても仕事も一段落した現在、これからの人生は仏教に関する行いを通じて、世の為・人に為に人生をささげようと考えております。 僧侶とまではいかなくとも、仏法対話ができる能力までになりたいです。 僧侶になるには、どのようなステップがありますでしょうか? 高卒で就職したものですから、仏教系の大学も出ておりません。先祖は日蓮宗を信仰しております。 そもそも僧侶になりたい・・など、甘くみてはいけない!と𠮟られるかもしれませんが。
在宅出家を含む、御説法の聴講生活をしたいと思っています。 私は49歳の会社経営者です。 感謝に堪えませんが、人にも運にも縁にも恵まれ、さしたる苦しみもなく、経済的にも立場的にも自身の能力を超えた日々を頂いております。 しかし、足るを知る生き方も昨今は少しずれてきている事自認しております。 また、恵まれ過ぎた人生だったため、生きる事のままならなさへの受け入れは全く出来ていない自分を自覚しています。 斯様な中、55歳を目途に様々な考え方に触れる人生を送り、自分なりに上記に対する答えを求めて生きてみたいと、漠然と考えています。 (在宅出家と言う言葉がちらつきはじめたのは、もうかれこれ10年近くになろうかと思います) これから着々と準備をしていきたいのですが、 ・どのようなサイトや会で情報を調べた方が良いよ ・一度相談に来れば話は聞いてあげるよ ・何処々々に相談に行って見ればいいよ 等のアドバイスを頂けましたら幸いに存じます。
初七日、四十九日、一周忌、三回忌などの法要は必須なのでしょうか? 私自身供養したい気持ちはあり、毎日仏壇に向かって挨拶と定期的な墓参りは行っています。 法要についてなんとなく行ってきましたが、兄弟から金銭や工数の負担面からも要らないのではという意見がでて、強い反対理由もなくやめてしまおうか悩んでいます。
お世話になっております。 今回聞きたいのは、自分の人生に責任を持つには、どうしたらよいかということです。 これまでの人生、健康や、学業、将来のこと、人間関係など、あらゆることで、理想と現実のギャップに悩みました。努力では変えられないものもあると思います。しかし、私の場合は、できる努力をしていません。なにもせず、問題を問題のまま抱え、何かを達成した、克服した、という経験を持てないまま、大人になりました。すべての悩みは、なぜ努力できないのか、ということにつながります。 私は努力ができません。たいていのことを面倒がって、楽なほうに流れてきました。たまにやる気を起こしても、やる前にやる気を失うような調子で、やる前からあきらめることが多いです。子供のころから3日どころか1日も満足にこなせないことばかりでした。やりたくないことならそれでも仕方がないかもしれないですが、多少でも好きであったり、興味のあること、やりたいことでさえ、少しの障壁で、すぐにあきらめてしまいます。なにかを好きだと思っても、行動が伴っていないので、たいして好きではないんだなと思います。 こんな自分が嫌なのに、努力できないのはなぜか、と考えると、頑張らなくても生きてこられたからだと思いました。勉強や運動ができなくても、人間関係がうまくいかなくても、趣味や特技がなくても、働けず家にこもっていても、家から追い出されることもなく、三食ご飯を作ってもらえて、今日も生きています。家族関係は良好ではないですが、非常に恵まれています。だから、私は頑張る必要がないと思っているのかもしれないです。また、わたしの命を望んだのは親なのだから、なんで私が頑張らなくてはいけないんだろう、と思っています。 親に依存して、自分の命、人生の責任を持ちたくない、と思っていたら、頑張れるはずがないと思いました。そういう感情があっても、現にこのままではつらく、将来的にはこのままではいられず、努力する必要があります。経済的に自立すれば、頑張れないなどと言う暇もなく頑張ることができるかもしれない、学費も自分で払うなら、勉強を頑張れるかもしれない、ということを考えてみましたが、あまりの重責に想像だけでつらいです。 自分の人生に責任をもって、必要な努力をしたいです。自分のために行動できるのは、自分だけだと本当に理解したいです。どうしたらいいですか。
母や祖父母も死に、長らく時間が経ちました。日々、苦しみや悲しみがあります。悩みます。自分も信仰する心を持ちたいと思います。亡き家族を偲び、しなやかに前向きに生きられるのでは、と思います。でも、お金がかかるし、逸話などもあんまり信じられないし、どうしても信仰するまで行きません。私はどうすれば信仰心を持つことができるでしょうか。そもそもお坊さんは、色んな逸話や話を信じていますか?
子どもの遺骨を預かってもらうお寺について悩んでいます。ここで詳しく書くとお寺と人物が特定されてしまうので控えさせてください。 私の両親はまだ元気ですが亡くなった時に、両親の遺骨と子どもと一緒に先祖も納骨しているお寺へ永代供養と考えています。 まだまだ子どもの遺骨と離れ難いのですが、前に進む方法が見つからず、遺骨を信頼できる近くのお寺に預けたいと考えるようになりました。 子どもが亡くなってから何度かお寺のご夫婦にお会いしました。失礼かもしれませんが、修行をされたとは思えない、人の話を聞く姿勢ではなく自分の家族の話ばかり、お寺を商売と言うことから不信感があります。修行をされてないと感じるのは、百箇日を過ぎた頃、私が四国のお遍路に行き、先達さんから沢山の為になるお話を聞いたからかもしれません。 3時間の滞在のうち2時間半は上記のようなお話、子どもの遺骨のこと、一周忌のことに話をやっと戻すことができ、帰ることができました。 どんなお寺でもおそらく朝晩読経してくださるでしょうし、たとえ門がいつも閉まっている街のお寺でも、私が日中不在の家より子どもにとって良いのではと思い相談に行きました。 小学生のお子さんもいて、お金がかかるという話、高級車2台。妬みかもしれません、所得の少ない私ですが決められた金額を提示されればお布施するつもりです。 もし預かってもらえるとして、本当にこのお寺でいいのでしょうか。子どもにとって、自宅から近くて安心できるのではと思います。このお寺でいいのか、教えてください。
先日は夫のことで相談に乗ってくださって本当にありがとうございました。 その夫のことでまた相談なのですが… 現在、夫が休職したために一人職員を補充しなくてはならない状況になりました。 その後釜に、まさかの夫を適応障害に追い込んだ教師が非常勤講師として働いていることが分かりました。 そのパワハラ教師は昨年度末に退職したので、おそらく管理職が依頼したのだと思います。 その非常識さに呆然としました。 また、夫が勤務している都道府県は休職後3年以内に復職できないと自動的に解雇になるそうです。 さらに、主治医が復職許可を出しても、教育委員会が復職許可を出さなければ復職できないそうです。 つまり、教育委員会が3年間復職許可を出さなければ解雇にできる…という恐ろしい規則になっています。 夫の場合、パワハラをした教師が教育委員会から表彰されたことのある人(=教育委員会から信頼されている)なので、その教師と折り合いが悪かった夫に非があると思われています。 3年後に解雇されるかも知れない。 でも教師の再就職はとても難しい。 「人生行き詰まりだ」と夫は言い、自殺を考えています。 私ももう辛くて仕方ありません…
今高校生なのですが、天台宗のお坊さんになりたいです。 どのようにしてお坊さんになることができるのですか? 仏教系の大学に行くべきなのでしょうか?
極楽浄土に行く方法を教えてほしいです。 具体的な方法をお願いいたします。
私は一人娘です。夫と二人暮しです。 母は亡くなっていて 母方の祖母を面倒見ていますが 母と祖母の苗字は違います。 仮に母を佐藤で祖母が鈴木だとすれば 今佐藤家のお墓があり、母が眠っています。 今後祖母もそこに入りたいようです。 が、私は一人っ子の上もう佐藤でも鈴木でもありません。 子供もこの先出来ないでしょうし 墓守は居なくなります。 私だっていつ死ぬか分からないのですしお墓をどうすべきか悩んでいます。 私としては祖母は入れずに墓じまいをして、永代供養か樹木葬などお墓を持たないスタイルに出来ればと思いますが 祖母はそうなったら自分はどうなるのかといいます。祖母はおそらく長く私に管理してほしいのでしょう。 この際死んだら分からないですから 勝手に自分の思うようにしようかとも思いますが それもどうなのかと悩んでます。 夫は相談にのってくれないので 1人でずっと悩んでます。
先日私は「自身の先祖」について知りたくなり、家系図作成を始めました。 そうしましたら、母方の祖父の母親(私の曾祖母)が未入籍だったのです。曾祖母の自宅には鳥居があり、いわゆる霊能者に近い人だったと実母から聞いた事があります。祀っていたのはお稲荷さんと聞きました。 私はその曾祖母に会ったことはございませんが、存在が気になって仕方なく(どうして気になるのか分かりません)家系図を作成しました。事実を知り漠然ですが、先祖供養をしたいと思いました。 家系図からフルネームは分かります。命日や誕生日は分かりません。でも間違いなく私のひいおばあちゃん! 曾祖母は何か事情があって未入籍だったかもしれませんが、曾祖母が祖父を産んでいなければ私の母も存在せず、当然私も今ここにこうして存在していません。祖父の他にも何人か子供を産んでいる方でした。 私の母方の姓とは当然苗字も違います。それでも私の曾祖母に変わりはない。 こういう場合、先祖供養をすることに問題はあるのでしょうか?正直、しない方が良いという文章を拝見した事があり迷っています。 是非アドバイスをお願い申し上げます。
仏教は、決定論を支持しているのですか? それと、お坊さん達は他宗教徒の方々についてどう思っているのですか?
現在60です。 最近、退職しました。これから浄土真宗本願寺派の僧侶になって、できたら死ぬまで僧侶として働きたいと考えてます。 まず、僧侶になるためには、得度を許可し所属寺になってくださる師僧さんを探さなくてはいけないこと、そしてそれがかなり大変なことは調べて分かりました。その難関をなんとかクリアーできたとして、その後の僧侶としての生活について教えて頂ければ嬉しいです。 どこかの所属寺に所属する教師僧侶になれたとして、その後、そのお寺に雇って頂くということをまず考えました。しかし、最近では、他人を雇うほど余裕のあるお寺はあまりないと考えました。そこで、自分でネット(イオンやお坊さん便)などを利用して、法事の機会を与えてもらいつつ、修行&生計を立てることができれば、色々良いのではないかと現在考えています。 そこで教えて頂きたいのですが、お坊さん便などを利用して、所属寺外で法事を営むことは、所属寺から許可してもらえるでしょうか?また、許可してもらえるとして、やはり収益の何割かをお礼として喜捨させて頂けば良いのでしょうか。 僧侶になることは真剣に考えています。そこから、生活できるくらいの収入をもちろん得たいと考えていますが(年金が少ないので)、残りの人生を他の人に貢献するために使い切りたいという気持ちが強くあります。ご相談頂ければ大変うれしいです。