敗色濃い人生(か?)。安心が得られず
昨年12月と今年3月と、「人徳」をめぐる悩みをご相談申し上げ、釋悠水先生、日延上人より、それぞれ得心のゆくお答えを賜っております。まずは心より御礼申し上げます。
私の人生も後半生に入りました。家族や師友には恵まれているほうですし、妄りに不平を称えることは、かりにも仏教を学んできた者として採るべき態度ではないと承知致しております。けれども、今後の人生が極端に好転するとは思えず、孤独死を避け得るほどの御縁を得てゆくことが先決かと考えております。こんなことを書くと孤独死なされたかたがたを侮辱しているように受け取られかねませんが、はい、そういう思いが皆無だと申せば……嘘になってしまいます。どうしても世間的な見栄というものが、どこまでも脳裏を掠めます。
良き御縁来い、御縁来いという態度があからさまですと、せっかくの御縁も逃げてしまうとはわかっているのですが、そういう思いを圧してしまうのが、
「おい、お前、人生敗色濃厚なんじゃないか?」
という焦りでございます。本当に敗色濃厚なのかどうかは、死ぬる瞬間にならないとわからないというのも、いかにも恐ろしく感じられます。
何か良きお守り代わりとなりそうな考え方はないものでしょうか。回答僧諸師へ深い感謝をささげつつ、ここしばらく蟠っていた煩悶を文字にさせて頂きました。ここまでお読みくださって誠にありがとうございます。
有り難し 10
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