こんにちは。 私は、命が怖いです。人は簡単に死ねるからです。屋上から飛び降りたり、線路に飛び込むことで。 私はそんなあやうく、儚い命が怖いです。なぜ、私たちは死ぬのにそのような命を今生きているのでしょうか?死のうと思えばいつでも死ねる、なのに何故皆生きているのか、と思います。 そして、そんなことを考えているとふと、ここから落ちたらどうなるんだろうなどという想像をしてしまいます。私はそんな自分もとても怖いです。 死にたいわけではないのですが、自分が突発的に自殺したらどうしよう、と…。 しかし世の中には生きたくても生きられなかった方もいます。それに、私の命は親から頂いた大切なものです。だから、こんなことを考えるのはいけない、そう思います。 ですがだめとおもってもその想像は私の頭から離れません。怖いし、苦しいです。 どうすればこの考えから抜け出せるのでしょうか…。私の考えはおかしいのでしょうか? 又、冒頭の繰り返しになりますが、なぜ生きているのでしょうか。命とは何なのでしょうか? まとまりのない文章で申し訳ないですが、教えていただきたいです。よろしくお願い致します。
私は現在主人と息子(3か月)の3人暮らしです。 初めての子育てで、わからない事ばかりで毎日奮闘しています。 私の幼い頃の家庭での思い出は辛い事ばかりでした。父親は定職につかず家でお酒を飲んで気に入らない事があると私に暴力を振るいました。 母には暴力をふるわなかったのですが、そんな父に怯え助けてくれず知らないふりをされていました。 私は両親に気に入ってもらおうと必死で何をされても笑顔で素直な自分を演技して生きてきました。 いつの間にか自分自身の事がわからなくなってしまい、突然不安におそわれたり、感情がシャットアウトしてしまいます。 そのためか、主人や子供との接し方がわからず混乱します。 今までは我慢や演技で乗り越えてこれたのに、子供が産まれてから何かがか変わったようで、 感情に抑えがきかず不安定です。 主人の優しさの受けとめかたがわからず傷つける事をしてしまいます。自分が嫌になります。 本当は幸せで暖かい家庭を築きたい気持ちは人一倍あるのに空回りしています。 家族や家庭の意味がもうわからない状態です。
こんにちは。浄土真宗を学んでいる者です。僕はこれまで阿頼耶識というのは無意識のことだと理解していましたが、どうやら無意識は「意識」のカテゴリーに入るみたいですね。では魂なのかと考えましたが、魂は我の絶対化なので諸法無我という考えに反しています。そこで、ある本を見つけ阿頼耶識というものは「業を保管する意識だ」という記述を見つけました。しかも、業というのは永遠不滅だということですが、一体どういうことなんでしょう?魂と何が違うのか分かりません。永遠不滅というのも、諸法無我の法則に反してはいないのでしょうか?どなたかとても分かりやすく解説お願い致します。
今日、ふっと思った事の答えを教えて欲しいです。 この世には色々な宗教、宗派がありますが、基本的には人々を幸せに導く為や心の拠り所として神や仏というものが存在しているんだ思います。 しかし、事件や事故に巻き込まれて突然命を奪われて亡くなる人もいたり、生まれつき障害や病気を抱え生涯苦労したり生まれてすぐ亡くなる子供がいたりします。 また、生まれ育った環境で心に傷を負ったまま生きていかなければならない人達もいます。 第三者は同情したり励ますだけで終わってしまいますが、当事者やその家族は「なぜ?」「どうして?」と言う疑問や悲しみだけしか残りません。 人は神や仏に助けを求めたり幸せになれる事を祈り信仰してるんだと思いますが、なぜこの様な差と言うか違いが生まれるのでしょう? 当事者や家族にしてみれば祈りや信仰は何の意味も無いし、悲しみを癒してくれるものでもないと思ってしまうのではないでしょうか? そう思うと神や仏とはいったい何の為に存在してるのでしょうか? 私の友人の奥様は5歳の子供を事故で亡くし、その後生まれた子供もわずか6ヶ月で病気で亡くしました。 奥様は廃人同然の様になり今も精神科で入院しており、友人も以前とは見る影もない程落ちぶれてしまいました。 きっと幸せな生活を夢見てたと思います。 ニュースで土砂崩れに巻き込まれて21歳の女性が行方不明になっているのを見て、その女性もこれからの人生に夢と希望を持ってたはずだろうなぁと思っていた時、神様って何なんだろうとふっと思ってしまいました。
近所のお寺の奥さんの言動に失望し、傷ついたのですが聞いて下さい。 私は特別支援学校の職員ですが、いつも生徒15名と他の職員3名と共に散歩をしているのですが、その散歩コースに近所のお寺が含まれており、境内で休憩し生徒達もはしゃいで走り回って楽しんでいます。 トイレも拝借しております。 ある日、帰校しようとお寺を出た所、お寺の奥様に呼び止められ「あなた方にはモラルがないのですか?」と、いきなり怒られました。 一方的に「あなたは、よそ様のお宅に勝手に上がり込んで勝手にトイレを使って庭を荒らしても何の挨拶もなく知らぬ顔で帰るのですか? 来る時は前もって、いつ、何時頃行ってもいいですか?と連絡するのが常識でしょ」と言われました。 納得できないのですが、お寺は地域の為に存在し、誰でも自由に出入りが出来てトイレも自由に使ってもいいのではないですか? 奥様が仰るには、「うちは観光寺院ではありませんし、トイレも公衆トイレではありません。」だそうです。 これでは生徒達が可哀想です。 お寺は皆そうなのですか?
昨日や一時間前、一週間前が一瞬に感じる様に そう言ってる間に10代20代は終わって やがていい歳になっていく 答えがない死後について頭を悩ませて 金や権力の道具にされた宗教が みんなに馴染んで ちっぽけなこの先の安定を求める 蠅や犬と変わらない生物の分際で ごく当たり前の様に驕り高ぶって 人が人を裁く 真理が聞きたいです 教えてください この様な事をどう受け止めどう生きるのか 仏陀の様に真理を知りたいです 本当の仏教で教えて欲しいです
こんばんは。女子高校生です。 気持ちの変化が激しく、とことん凹む日・怒りっぽい日・機嫌のいい日などがはっきり自覚できます。一日の中でさえも、ささいな一言で涙が止まらなくなったり、憂鬱になったり、かっと怒りが湧くのを感じたりします。もともとプライドが高く、自分のウィークポイントやコンプレックスを突かれるとそのようになるようです。 その性質を自覚し恥じており、「他人におおらかに・冷静に」を目指してきました。幼いころに比べたら今はずっとましですし、家の外では、優しい性格だと思われているかもしれません。友人にも恵まれました。 しかし、コンプレックスが話に出るとやはりだめなのです。 たとえば母が何気なく(しっかりしたいい人です)幼いころの私のわがままな言動について思い出話をします。 すると、笑って一緒に懐かしもうとしても、笑顔が引きつってしまうのです。その場では「その節はゴメンねー、ほんとありがと!」と言えても、あとでどこか心わだかまりを感じ、兄(気弱ですが優しい人です)と自分の性格を比較して落ち込んだりします。 また、ある日母を怒らせたとき「私の嫌いな人に似ないで」と言われました。父や父の家族のことです。 母は子供に平等な人なのでそのことを言ったのはそれきりです。母も疲れていた日だったし、そもそも私がだらしないから悪いんです。その言葉自体は本当にとるにたらず、むしろ尤もなことであり、それ以来いつもは忘れています。 しかし落ち込んだ時や失敗したと思った時、急に蘇り涙が出ます。いつにもまして「母は娘を愛してくれるけど、私という人間は嫌いだろう」と思い、鏡を見れば自分の顔が父にそっくりで消えたくなります。 これを書いている今も、意味もなく泣いています。泣き虫な甘えた自分も含め、気持ちをコントロールできるようになりたいです。 どうすればいいでしょうか?アドバイスお願いします。
如来のモデルは釈迦である。と、授業で習ったのですが釈迦はこの世界でたった1人の存在であるのに如来には複数種あるのでしょうか。中には釈迦如来もあり頭が混乱してます。教えていただけますか?
大忍貫道 様 ご回答を有難うございます。 追記を見落としまして失礼しました。 私は初期経典は全く知らず、大乗経典の一部だけの知識しかありません。 般若経に勝る初期経典とはどんな内容の経典でしょうか? 大変興味深いです。
新しい年が始まりました。hasunohaに、おられるお寺様方にも。今年もたくさんの幸せがありますように。 よろしくお願いします。 私の友人は、とても精神状態が悪く、死にたい。頻繁に口にします。 死んではならない理由。 どうして死んではならないのかを、上手く説明する事ができませんでした。 私も一番うつ病が酷かった時は、同じように毎日死ぬ事ばかりを考えてきました。 今でも咄嗟に消えてしまいたい。と思う事が、あるのも正直、事実ではあります。 でも、自分を作り上げている、数えられない程の細胞の一つ一つ。日々全身を巡る血も。 地球に、人の小さなはじまりが発生した時から、今日の自分が、お腹に宿り、細胞分裂、生まれて、大人になった、今まで。 人になるものの発生からスタートして、今の自分まで、たくさんの、生死生死を繰り返し、自分まで繋がった。物凄く怖い程に深く壮大な歴史。意識はしないけれど、本当ならば、物凄い事なんですよね。 自分の体をつくる全ての細胞の一つ一つに、数えられない位前から繋がってきたご先祖様たちの、数えられない人数の血が、自分にも入ってるんだと思うように最近なりました。 自分一人の体で生きている気はするけれど、全ての細胞一つ一つにに、全てのご先祖様が宿っていると思えています。 友人にもそのように伝えました。 お寺様方は、自殺がダメな理由、死んではならない理由。 どう考えますか?どう思われますか? 苦しむ友人に、どうしたら、伝えられるでしょうか? そして、時々、間違ってしまいそうになる私に。 命をどう伝えてくださいますか?
悟りたいです。 何をすればいいのでしょう?
先日、仏教についての本を読んで疑問に思ってもやもやしたので質問させていただきました 空である世の中で、お坊さんは空をどのように認識して、認識してその結果、何をしようとしているのですか?どうして今の行動をしているのですか? 僕は全ては認識であり、認識や表現(言葉など)を利用して認識しているみたいな解釈しました 拙い文章ですみません、よろしくお願いします
おはようございます。質問に戻ってきてしまいました。余裕のある時に、よかったら教えてください。 智慧の意味を人に訊かれてとっさに自分なりに理解している範囲で説明してしまったのですが、あれでよかったのか気になって、ここで確認させていただきたいと思いました。 「智慧とは、自分の主観を介さずに物事をありのままに見ること。事実をそのまま捉える心の目を持つことであって、頭が良いという意味で知恵があると呼ばれるのとは違う」。 これでいいでしょうか。違っていたら人にごめんねと言って直せばいいだけのことなのですが、本を読んだりしてきてもう全くの「初心者」という程ではないので間違えていたら私は少し恥ずかしいです。
わたしはサラリーマンとして働いていますが、 小さい頃から我が強く、中学生位から対人恐怖、劣等感等でずっとなやみっぱなしでした。正直今でも生きるのが辛いのです。そしていずれ老いて、病気になって死んでしまうのかと思うと、生を厭う他ありません。 歴史上も、人間は戦争、飢餓、貧困、自然災害、病気の流行等、多くの人が圧政、侵略、理不尽に苦しみ、そして、死んでいったのでしょう。 そして現代の資本主義社会では強いものが勝り、弱きものは犠牲になります。豊かさとは何なのでしょうか?物質的なゆたかさ?はたまた心の平安? 生まれも選べない、容姿も才能も、環境も全て理不尽です。 悩みの大小はあれ、人生は圧倒的に理不尽すぎます。 また、単なる生物として遺伝子を残すためだけの存在ならばなぜ、人間は高度な意識を持っているのでしょうか。神は信じていませんが、単なる自然淘汰の産物だとは思いたくありません。 生きることに意味があると思いたいのです。生きていくにはそうして辛いことに目をふさいで自己欺瞞を積み重ね、社会という牢獄につながれた囚人として生きていくほかないのだという絶望も受け入れたく は無いですが、受けいれざるをえません。 どのような生き方が正しい生き方といえるのでしょうか? 囚人として生きるか、死という自由を迎えるか 支離滅裂で済みませんが、何か生きるヒントをください。
2回目のご質問になります。前回も真摯なご回答を ありがとうございました。 尚、今回のご質問も優先ではありませんので、深刻な ご相談を優先させて下さい。 仏教を学ぶ上で「空」の概念が定まりませんので、 ご教示頂ければ幸いです。 世俗諦としての表現でしか質問できませんので、 質問の意味も理解されるのか心配でもあります。 これまでの仏教の学習から、全ての物事は「現象」 であり、その瞬間の状態であり続ける「実体」は なく、全て川のように流れていくものだと理解し ました。=無常・無我 →この理解で正しいでしょうか? 物事が「ある」でもなければ「ない」でもない。=空? この意味が正直、理解に苦しんでいます。 「空」(から)という世俗諦としての言葉のイメージ だと、「からっぽ」のように感じます。 でも、何もないと定義すると六根センサが何も作動 しないと思います。 「見えた」「聞こえた」・・・は、実際にあります。 私の理解したことは、 全ての物は「地水火風」の構成のされ方で、現象 としての現れ方が異なる。 →物質、人、動物、植物・・等々 全ての物は、エネルギーと言えるのではと、感じました。 エネルギーという表現が適切かわかりませんが。 物質には、質量というエネルギーがある。 生命にも質量もありますが、心があり、生存欲求や色々 な欲求がある。これらをエネルギーと表現しました。 このエネルギーが他のエネルギーとぶつかりあって変化 を生み、因果法則によって、現象として常に変化し続ける。 物質も空気に触れ、物質と空気のエネルギーのぶつかり 合いで酸化し、そのもの自体も変化し続ける。 自分の心(本当は自分という実体はないのでしょうが)も 六境が六根センサにぶつかり、物事を認識し(エネルギー がぶつかる瞬間)、六識で心が何らかの反応をする。 ぶつかるという表現より影響し合う方が適切かも しれません。 ですから、「空」とは、ある/ない(虚無)ではなく、 あるエネルギーが他のエネルギーとぶつかり(影響)、 因果法則によって変化し続ける現象と理解するのは 誤りでしょうか? 空=無常=無我と感じられます。 以上、初歩的な質問で恐縮ですが、宜しくお願いします。
先日の身体的弱者と出家の質問を書いていてふと思ったのですが、 重度の知的障害者というのは仏教のなかではどの位置にあるのでしょう。 重度の精神・知的障害者の方たちが僧職にはつけないことは理解できますが、仏教というものを私達の言葉・ものさしでは理解・表現できない、身体的・精神的に障害があるひとたちは、仏教徒にはなりえるのでしょうか。 仏教によって、例えば先ほどの浄土真宗の死後成仏し救われるといったような仏道の道というのは彼らにも開いているのでしょうか。
はじめまして。やっと質問できました。ありがとうございます。わたしには一才にならない娘がいて育児中です。 出産後は確かにホルモンの関係などでイライラし、旦那には冷たく当たったりしました。旦那が逆ギレすること、自分は妊娠中に仕事を辞めてしまって収入がない負い目などもあり、意見をすることが億劫になり、段々と会話が減りました。 そして、旦那の部屋を掃除していて証拠を見つけて一瞬固まりましたが、二、三日聞き出せず眠れない夜を過ごしました。 しかしついに我慢できずに、私はあんたの子を命削って育ててんだよ、なめんな!とぶちギレました。外に愛人でも作られるよりはマシですが、それまでは真面目で風俗など縁もない人でした(と信じていただけかもしれませんが。) 結婚してから、だらしないところばかり気になり楽しくなくなり頻度が減り、セックスについても話し合いを何度もしました。駄目なら風俗いくぞ、と言われたこともありますが泣きながら、それだけはやめて、と頑張りますがやはりそんなに旦那の要求に応えられないことが増えてまた話し合い、みたいなことになります。子供ができたら夫婦の絆もまた強くなるかなあ、と思ったのと、年齢のこともあり頑張ったところ何度かで運良く妊娠できました。正直、妊娠したらしばらく旦那とセックスしなくていいと思うと気が楽でした。妊娠してから育児も落ち着いてきたし、そろそろ旦那の要求にも応えてあげないといけない頃かなあ、と思っていた矢先でした。 顔を見るのも辛く、平日は旦那が帰る前に就寝し、出勤してから起き出します。土日はどうしても顔を合わせるので必要最低限の会話はします。 友人や両親に相談しても一向に気持ちが晴れず、一度許そうと決めたけれど、信用も愛情もなくなり、顔を見るのが辛い日々です。 こんなことをする人間にしたのは自分にも一因があります。自分が我慢すれば、前を向けるようにすれば良いことでしょうが、1ヶ月以上経った今でも、どう旦那と向き合えばよいのか分かりません。このまま気持ちが変わらなければ、定職に就いて生活の目処がついたら娘と家を出るつもりです。でも可能ならば旦那と老後を過ごしたいという気持ちがあります。 何かお言葉をいただけないでしょうか。よろしくお願いいたします。
はじめまして。 神奈川県在住の23歳です。 2ヶ月前に入籍し、只今妊娠中7ヶ月です。 私は結婚するまで母と2人で暮らしてきました。 父親の事はあまり知りません。 そのためか、早くから家庭を持って母を安心させたいと思ってました。 しかし、いざ子供ができると男性はこんなにも頼りないのかと思うようになりました。 女性は身籠った時点で母親になれますが、男性は簡単に父親になれないので頼りないと思う事が増えました。 例えば、生活費と病院の検診費用など最近やっと頂けるようになりました。 それも私の貯金がなくなり、もういい加減にしてくれと私が不満を爆発させてやっとです。 病院の検診費用も「先月は払ったよ」と言われた事もあり、なんでこんな男性と結婚してしまったのだろうとも思いましたし、簡単に子供作ってしまったのだとも思いました。 子供に一切の罪もないのに。 不満を爆発させて「実家に帰る」というと焦ってごめんと平謝りしますが、反省や謝罪もその場だけなのです。 しかし、子供がお腹の中にいる今は別れるなんてできません。 こんな私は身勝手なのでしょうか? 謝罪され許してを繰り返して、成長がない人はダメなのでしょうか? 私が妥協して許していくしかないのでしょうか?
私の家は浄土宗の檀家です。 浄土宗(浄土真宗も同じだと思います)では、「ただ南無阿弥陀仏を唱えれば、臨終に際して阿弥陀様が現れて浄土に連れて行ってくださり、そこで悟りをひらいて救われる」という思想だと理解しております。 しかし、どうしても心の中にもやもやが残ってしまいます。 といいますのは、「南無阿弥陀仏を唱えれば浄土に連れて行ってもらえ、悟りをひらける(=救われる)」というのを裏を返せば、「南無阿弥陀仏を唱えない人は悟りをひらけない(=救われない)」ということになってしまわないかと思うのです。 「自分に帰依しないもの、信じないものは救わない」などと、阿弥陀様はおっしゃるようには思えないのです。そんな心の狭い方ではないと思うのです。 おそらく「信じるものは救われる、でも信じてない人も救ってあげるよ」とおっしゃると思うのですが、ではそうなると「南無阿弥陀仏」をお唱えするのに果たして意味があるのかどうか、唱えても唱えなくても救われるのであれば、なぜ「南無阿弥陀仏を唱えると良い」とされているのかという疑問がわいてきます。 つまり 「南無阿弥陀仏を唱えないと救われない」→阿弥陀様はそんな心の狭い方だろうか? 「南無阿弥陀仏を唱えなくても救われる」→じゃあなぜ南無阿弥陀仏を唱える必要があるのか? という板ばさみといいますか、ジレンマに陥った気分になるのです。 これについて、お坊さんの見解をお聞きしたく、よろしくお願いします。