ものの捉え方
おはようございます
朝からお疲れ様です。
私は幼い頃両親からごくごく軽度の性的暴行や虐待を受けていました。
今でも私の人格や感情、存在を否定することは日常茶飯事であり高い理想を求められています。
そしてプロフィールのこともあり、心が疲弊してきてしまいました。
ただ、両親以外の人間には恵まれていたようで、友人や恩師にすがりつつ日々を暮らしています。自決せずに済んだのは、彼らのおかげだと心から感謝しています。
色々考えを巡らすうち、
価値観は多様であり正義が悪であることもしばしば。
「正しい・間違い」「意味・価値」「感情」などは全て人間の「主観」であり人間が死にたえれば消えるもの。
そして人間とは宇宙から見れば星と星がスリ合えば消える存在で、その宇宙もただ存在するのみ。
ともすれば「主観」や生き物の命はもとから有ってないような微々たるもので、等しく意味は無くただそこに在るだけ、と思うようになりました。
本当のことは分かりませんが、死後は私の意識だけが残り、この美しい宇宙を自由に味わえればいいな、と期待しては待ちわびています。
種の存続や繁栄、記憶の継承が今多くの人間の目的なのでしょうが、興味がないので、心地よく生き、満足する状況で死を迎える準備をするために何が必要か考えればよい。社会には馴染むくらいでいい。
だから私は両親の期待全てに応えなくてもよいし、両親の対応に思いなやまなくてもいい。いつかは私が働きかけなくても消えてしまうものだから。
こちらに不都合がある、または効率よく物事を進めるときに必要であれば従順に振る舞うだけでいい。
と思うようになりました。
心が軽くなり、いっそう世界が美しく感じられました。
しかし、軽くはなりましたが、駄々をこねる幼稚で高圧的な両親へのやるせない気持ち、周りの人に親の代わりをさせてしまうことへの申し訳なさ、両親へ風俗のように媚を売らなければ外にも行けない状況は依然として残り、晴れやかとまではいきません。
感情を受け入れ昇華するのには時間がかかるものだから今はそんなもんなのでしょうか?
この考え方で良いのでしょうか?
よろしくお願いいたします。
有り難し 8
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