勤め先の会社にはお稲荷さんがあります。 1年に一度、お坊さんが来てくださり 線香をつけて、お経?を唱えています。 お稲荷さんに、お坊さんが来ていることに すごく疑問を感じます。 調べてみると、神仏習合の関係?と出てきますが なぜなのかあまり理解ができません。 詳しく解説していただけますでしょうか。 よろしくお願いいたします。
仏師になろうと思い、本日届いた般若心経と金剛般若経の本を読みました。 そして私なりの解釈をしたのですが、間違った解釈をするといけないと思い、専門家の方々に聞こうと思いました。 私は赤子に戻って本を読んで思ったのは、「全ては空である。」です。 空とは無であり無限であることだと思います。 人間は苦しみを持ちますが、それはあると思うからあるのです。 本当はそんなものはありません。 さらに言えば自分というものさえありません。 とはいえ、世界が無なのではありません。 その逆に世界は無限です。 何故ならば、個がないのだから、他者も自分、万物も自分だからです。 全ての人々が他者も自分と思えば世界から苦しみがなくなります。 般若心経が呪文で終わっていたのが印象的でした。 頭でっかちになりがちな現代人に対する大変効果的な修行です。 金剛般若心経の「○○といったから○○ではない。それ故に○○である」の部分も興味深かったです。 確かに空となったらそうなります。 他者との視点と自分の視点の事象を、空としてとらえると面白い論理になると思いました。 総じて懐かしい感じがしました。 不思議なことに以前から知っていたような気がします。 人は誰しも生まれる前に仏の説法を聞いて生まれてくるのかもしれません。 私の般若心経の解釈はあっていますか?
ごめんなさい、こんばんは。 この時間になって、やっと書き込みが出来ました。 悩んでいる方か多いのですね。 私は、自殺をしました。 失敗しました。 その後、死にたいけれど、自殺の恐怖には勝てません。 ただ、生きていても、自信もない、力もない、夢もない、お金もない、思いやりもない人間なので、周りに迷惑をかけてしまいます。 だから、また、死のうと思います。 すると、サポートしてくれた方、親の悲しむ顔が邪魔をします。 だから、また、生きます。 けれど、生きているのは、辛く、身体は思いし、思い描いた自分との差に悩まされます。 親孝行の1つも出来ない自分が大嫌いです。 素敵すぎる両親に申し訳ないです。 だから、また、死のうとします。 次は、死んだ後、地獄に行くのかとか、自殺した人は、より苦しむと言う言葉が頭をよぎります。 そして、また、生きます。 そして、また、死にます。 そして、この苦しみのループから、抜けることなく10歳だった僕は、今年で23歳になります。 生きたいと思う人が亡くなり、死にたいと思う人が死ねないという、嫌な世界です。 目が覚める度に、また、地獄が始まった。 終わりが早く来ないかなと思ってしまいます。 生き地獄です。 唯一の心の救いは、太ももをカッターて切ること。→自らに罰を与えることで、許された気がします。 そこで、質問なのですが、 ・何故、僕のようなゴミが産まれたのですか? ・自殺(自死?)しても、この世の苦しみからは、解放されないのですか?地獄で苦しむのですか? ・自殺で死ぬのも寿命ではないのですか? ごめんなさい。
こんにちは。 友人が死にたいと言っており、なんとか思い留まるように説得していますが、友人の決意は固いようで困っています。 その友人は、ある国家資格を取るために勉強をしています。資格取得の試験は年に一度しかなく、もう6回も落ちています。 その資格を取るために残業のない仕事に転職し、昼間働いて夜は学校へ、という生活をもう6年以上しています。学費と生活費と両親の借金の返済で、ギリギリの生活をしているので、とにかく資格を取得して、たくさん稼ぎたいとのことです。 今年も試験が終わりましたが合格の可能性は低いようで、私に、今年合格しなかったらもう死ぬ。もうこれ以上頑張れないから。と言います。 親の借金を返済しながら、少ない給料での長年にわたる受験勉強に疲れ切っているのです。 私は友人の頑張りをずっと見てきました。なので毎年試験に落ちる度に励ましてきたつもりです。 しかし、今回は説得しても私の言葉は伝わらないようで、自分は結婚もしてないし、金もない。親の借金まで背負って、生きていてもいいことなんか何もないから死ぬんだ。もういいから、と言うばかりなのです。 どうしたら、どう言葉をかけたら友人は自殺を思い留まってくれるでしょうか。 何もしてあげられない自分がもどかしく、こちらに投稿させて頂きました。 よろしくお願い致します。
最近相撲業界で起きた暴行事件のニュースを見るたび、いったいこれのどこが神事かと思います。 過去に表彰の為土俵に上がろうとした女性知事を「女が土俵に上がると穢れる」という理由で断りました。 しかし彼らは八百長、暴行、派閥争いなど等、神聖とは言い難い行為を繰り返しています。 そもそも女に生理があるのは子供を生むための準備であって好きでなっているわけではないですし、出産だって男が女で性欲を発散するから起こることでしょう。 自分たちだって母親に命がけで生んでもらっておいて、女を穢れとみなすことのどこが差別ではないのでしょうか? 子孫繁栄を掲げながら女を穢れとするのは勝手過ぎます。 神を理由に差別を正当化するというのなら、神を理由に異教徒等を迫害する某宗教の過激派と同じではありませんか。 なんでこんなおかしなことが日本で正当化されているのか、本当に悔しくてテレビで相撲(球場が女人禁制の甲子園も)が出るたび涙があふれます。 これらを喜んで見ている人々もいい加減目を覚ましてほしいです。 お坊様は仏教徒ですが、こういった差別を正当化する宗教をどのようにお考えですか?
はじめに、全く仏教の知識がないのでとんちんかんなことを質問してしまうかもしれません… 私は猟師になりたいと思っており、今夏狩猟免許を取得する予定です。 そこで狩猟の見学をしたり猟師の方にお話を伺ったりしています。 ほとんどの場合猟師の方々は、頂いた命は大切に食べ、無駄にしないようにします。 しかし全部が全部そうではなく、農作物を荒らす動物(猿やタヌキ、カラスなど)を駆除する際は食べない動物を殺すこともあります。 スーパーに行けばたくさんのお肉が並んでいて、その全てが人に食べられるわけではなく廃棄されるお肉もありますよね。 それなのに、野生に生きるものの命を奪って食べるということはエゴなのかな…と最近悩んでいます。 猟師は本当に尊い職業だと私は思っています。 しかし命を奪うことへの罪悪感が全くないわけではありません。 仏教の観点から見るとやはりこのような殺生は罪なのでしょうか?
こんにちは、ミッションスクールに通う女子高生です。 タイトルどおりですが、何を持ってすれば仏教徒と言えるのでしょうか? キリスト教の場合は洗礼を受けることですが、仏教にもそのような行いをするのでしょうか? 仏教にとても興味があるのですが、何しろ幼稚園の頃からキリスト教をずっと学んできたので知識に関しては手塚治虫の漫画を読んだことぐらいしかないです。仏教の中にも、いくつかの宗派?がありますよね、本当に簡潔でいいので教えてください! 質問が多くて本当にすみません。回答していただけると嬉しいです。
こんにちは。 今年、「私はこのために生まれてきた」と思えるような大きな仕事を、文句のつけようがないほど良い形で果たすことができました。自己満足だけでなく、社会にも大いに役立つ仕事です。この社会に生を受けた責任も、果たし終えたといえると思います。 だから30代半ばにして、私にとってはこの先は「余生」という感覚で、もういつ死んでもいいと思うようになりました。 生きていることが、絶対的に幸せだとは私は思いません。生きていれば、「知らなければ幸せだったこと」を知ってしまい、絶望に苦しまなければならないこともあります。生きるためにはお金が必要ですが、そのためにあくせく働いて「何のために生きているのかわからない」と思ってしまうのでは、目的と手段が入れ替わっているようにも思えます。 それに、今の私は人生の目的を最良の形で果たし終え、幸せの絶頂にいます。もし今、人生の最後の時が来たら「私の人生は最高だった!」と笑って死ぬことができるでしょう。それはある意味、理想の死の形ではないかとも思います。 親はいますが、伴侶や子どもはいませんので、「この子の行く末を見守るまでは死ねない!」というモチベーションもありません。フリーランサーなので、組織に対する責任もないです。親や友人は私にもしものことがあれば嘆き悲しむでしょうが、志半ばではなく充分に人生を謳歌し、社会にも確かな礎を遺して生き切った私を、誇りに思ってくれるのではないかとも思います。 でも、そんな縁起でもないことを考えてはいけない…という風潮もありますし、「長生きしたいと思わない」なんて生物としておかしいのではないか、そんな考えを口に出すことは人としてタブーなのではないか…と我ながら思ってしまうこともあります。 一方で、死生観は人それぞれ、一般論に振り回されても意味がないのではないか…と思う自分もいます。「逆縁なんて親不孝」「生きたくても生きられない人もいるのに」なんて定型文もありますが、そんなのはケースバイケースだと思います。 もちろん、私は「自殺したい」と考えているわけではありません。ただ漠然と「今お迎えが来てもいいな、そうなっても全然『死にたくない』とは思わないな」…などと思っているぐらいです。 私の考えは誤っているのでしょうか。誤っているとしたら、なぜなのでしょうか。 こんな私に、有り難いご教示をいただけたら幸いです。
日本弁護士連合会(日弁連)が6日、福井市内で開催した死刑制度に関するシンポジウムで、”瀬戸内さんは「人間が人間の罪を決めることは難しい。 日本が(死刑制度を)まだ続けていることは恥ずかしい」と指摘。「人間が人間を殺すことは一番野蛮なこと。みなさん頑張って『殺さない』ってことを大きな声で唱えてください。そして、殺したがるばかどもと戦ってください」と述べた。”とあります。 しかし、一番野蛮な行為をした犯人が、軽い刑で済むのはどうかと思います。 また、”目には目を歯には歯をは”いけないのはわかりますが、刑期を終えて出所して社会に復帰すると恐ろしいです。 これでは被害者サイドは泣き寝入りかと存じます。 どう思われますか?ご意見を何卒よろしくお願い申し上げます。
はじめまして。私は4月から働き始めた看護師です。 元々環境の変化に弱く(適応障害)、しばらくは抗不安薬を頓服として服用しなんとかやっていたのですが、5月以降はほとんど物も食べれず休みの日も仕事のことを考えては1日中泣いていました。 5月末に精神科を受診し抗うつ剤を飲み始めたのですが、副作用がひどいため2週間休職しています。 特にいじめがあったわけではなく、環境の変化や真面目すぎる自分の性格が発症の原因だとは思いますが、正直元の職場に戻りたくありません。看護師という仕事も嫌になってしまっているかもしれません。 しかしこれから自立して生きていくことを考えるとどうしても働かなければならないものの、こんな状態で働けるとは思いません。 たった2ヶ月で家族や職場の方々に迷惑をかけてしまっていることがとにかく情けなく、申し訳ない気持ちでいっぱいです。 将来の希望も持てず、今まで自分と関わってきた人全ての記憶を消して消えてしまいたいという思いが常にあります。 伝わりづらい文章で申し訳ありませんが、何かお言葉を頂けましたら幸いです。
人間の男に生まれたことが、前世での報いでしょうか。 こんな辛い生は無いと思っております。 独身なら独身で「何で世帯が持てないのか、何か精神的障壁があるのか」とか、「仕事だけが人生なのか」とか 世帯を持てば持てば持ったで「出世もできずに、どうやって妻子を楽にさせるのか」、「お前に男子の本懐はあるのか」、「そんな状況で親孝行できるのか」とか。 果ては「ヒモ」なったらったで、「男の誇りは無いのか」と責め立てられる。 前世でどんな酷いことをしたからと言って、何の記憶もないのこの私に、この報いは余りにも空しすきると思います。 どうしたら「人間の男」に生まれ変わらないようにできますでしょうか。
つらいです、くるしいです はやく会いたいです やっぱりだめみたいです こんなこと言ってたら きっと彼も悲しむのに 会いたいです はやく彼のところへ行きたいです ひとりでいるのがつらいです
永平寺での参禅で非常に感慨を受け、また、日々躓いていたことに関しても少しではありますが良い方向を目指せるきっかけを頂きました。 仏教や曹洞宗についてもっと知りたく思い、帰ってから地元で坐禅を始めると共に、道元の著書や関連文献を読み始めました。 「正法眼蔵」と共に「正法眼蔵随聞記」も合わせて読んでいるのですが、その「随聞記」の八「無常迅速なり、生死事大なり」という文についてお訊きします。 たしか永平寺の山門の木版にもこの言葉が掲げられていたように思いますが、読んでいる水野弥穂子氏(ちくま学芸文庫)の現代語訳では「死の至ることは速やかである。生死を明らめることは重大である」となっています。 前半は理解できるのですが、後半の「生死を明らめる」の意味がいまひとつよくわかりません。 ご教示いただけましたら幸いです。
以前にも相談させていただきました。 夫は病気をしてから自宅療養が続いています。 何度も話をしたせいか、自分勝手な発言や行動などは減ってきた気がします。 私は今年の春からパートを始めて会社の方々にもよくしていただき仕事に充実感を感じています。 そんな中でまた最近、夫の目に異常が見つかりまた手術となりました。 命に関わる事ではないですが自宅で安静にしております。 私はパートに家事に子どもの世話をまた一人で背負うことになりました。 夫は手術したとはいえ体は動くので、家の中で出来ることはやってほしいと都度話しているのですが、何かしら言い訳をつけたり、逆に「俺がダメなんだよな」と言い出す始末です。 私もストレスや疲れが出ているのか、今年に入ってからコロナ、インフルエンザ、風邪などで今年に入ってから4回ほど寝込んでいます。 このままだと私の方がいつか入院してしまうのでは?と思えてきます。 夫には自分の事は自分でやるように都度伝えています。私は仕事も体調不良での休みが多くなり、ストレスがたまり気力も弱っていくと言いますか。 正直、どこまで耐えていけば良いのだろうと考えてしまう日々です。 明けない夜はない、とよく聞きますが夜明けが見えない場合はどのような気持ちで待てば良いのでしょうか。
お坊さんには趣味などがあるのでしょうか。 例えばもし趣味を持っていたら修行の邪魔(精神的な意味で)になったりしないのですか?
現代物理学には「ホログラフィック仮説」というものがあります。 これは、「私たちが実際に存在していると思っている宇宙も、実は宇宙の“境界(例えば宇宙の外縁)”にある二次元的な情報の投影である」というものです。 この仮説から、我々の物質世界は実はアカシックレコードにある情報が物質化されたものだと考えることができます。 また、過去から未来に流れる直線的な時間というのも実際には存在しておらず、情報が物質化されることによって、まるで時間軸に沿って物事が成立しているように感じられるのだと思います。 哲学者のベルクソンは、時間を「過去が現在に溶け込みながら未来を生み出す連続的生成」と考えました。 そして、世界の本体は「イマージュ」であり、それが外側に展開したものが「物質」、内側に沈潜したものが「記憶」であると考えました。 また、我々の「脳」は、思考を作り出しているのではなく、「純粋記憶=情報」の中から我々の行動に役立つものを選び取っていると考えました。 これらの議論から、私は肉体的な輪廻転生はないと思います。 アカシックレコードにある「純粋記憶=情報」が物質化されたのが我々の生きる世界であり、輪廻転生とは「純粋記憶が物質世界に現れること」を言うのだと思っています。 三島由紀夫は「未来からの輪廻転生も考えなければならない」と言いましたが、これは以上の議論を踏まえたことだと思われます。 また、私は仏教の無我の思想は正しいと思いますが、一方で人間の「魂」の存在も信じたいと思っています。 古代中国には「魂魄」という概念がありました。 「魂」は精神を支える陽の気で、死ぬと天に昇るとされました。 「魄」は肉体を支える陰の気で、死ぬと地に帰るとされました。 私の考えでは、「魂=宇宙」であり、アカシックレコードの情報から脳が選び取ったものを「魂」と考えれば、仏教の無我の思想と矛盾しないと思います。 (魄についてはよく分かりません。) さらに、「生命」についてはシュレディンガーが言ったように「負のエントロピーを食べる存在」であり、暗黒流体という負のエネルギーによって成り立っていると考えています。 これらは全て、執行草舟氏の思想をもとに考えました。 私が言いたいのは「古典的な仏教の世界観だけでは、宇宙や世界を説明するのに不十分ではないか」ということです。 ご回答よろしくお願いします。
今31歳になりました。会社員です。 20代は仕事を駆け抜け、30代になり、仕事を通しての自分のあり方を深く考えるようになりました。自分は生涯何を残したいのか?最近常にこの軸に自問自答しながら、仕事をしています。 35歳までには自分のビジョンを達成する為に、起業を考えてます。 いろいろなタイミングや経験から 生涯何を残すのか?自分の使命とは?がより明確になってくると信じています。 明確なものが、私に見えてくるのでしょうか? どうせ一度の人生なら、仕事を通して使命をまっとうしたいです。
私は長年、極楽浄土に往生したら仏となることが定まるだけで、往生したその時から仏となるための修行が始まるものだとばかり思っていましたが、最近知り合いの浄土真宗のお坊様から「往生した瞬間から仏」ような内容のお話を聞かせて頂いて混乱しています。 釈尊の次に仏になるのは弥勒菩薩であってそれは56億年後の話だから、少なくとも極楽往生してから56億年は待たないといけないのかと思っていました。 宗派による解釈の違いなどを取り違えていたんでしょうか?浄土真宗として正しい認識をどのように持てば良いのでしょうか?ご教授下さい。
お坊さんは読経しただけでお経の意味が分かりますか? ある部分の意味を悟るとかの意味ではなく、読んだだけで漢文が読解出来るかという意味です。 ちょっと気にして読めば分かりますか? 読経の時以外に意味を取ろうとして読めば全て分かりますか? それとも日本語訳や解説本、師僧からの指導などがなければ分かりませんか? 般若心経のような短いお経ではなく、観音経全文以上の長さのもの対象です。 そんな事気にするのはどうたらという回答は不要ですのでそのように回答したい方は回答しないで下さい。 臨済宗や曹洞宗系の派ではないので、ご自身の宗派の思想内でこじつける回答はしないでください。 上から目線で回答すれば良い場所でもないと思いますので「喝!」などというアホなことは書かないでください。
生まれる前に決められた”生きる時間”があるとして、その途中で生きるのを自らやめてしまった人はどうなると思いますか。 病死や老死などの、人生を真っ当に生きた人と、自ら命を絶ってしまった人では魂の行先は違うと思ってます。 自殺したら楽になるとよく言ってる人を見ますが、本当に楽になれると思いますか…?。 私達は私達の世界しかしらないだけで、その後の世界のことを知りません。 ”その後”に何かがあるのかもわかりません。 だからこそ”楽になる”と、なにもわからないのに言います。 自殺をしたら、どのくらい苦しいことが待ち受けていると思いますか…?。