最近相撲業界で起きた暴行事件のニュースを見るたび、いったいこれのどこが神事かと思います。 過去に表彰の為土俵に上がろうとした女性知事を「女が土俵に上がると穢れる」という理由で断りました。 しかし彼らは八百長、暴行、派閥争いなど等、神聖とは言い難い行為を繰り返しています。 そもそも女に生理があるのは子供を生むための準備であって好きでなっているわけではないですし、出産だって男が女で性欲を発散するから起こることでしょう。 自分たちだって母親に命がけで生んでもらっておいて、女を穢れとみなすことのどこが差別ではないのでしょうか? 子孫繁栄を掲げながら女を穢れとするのは勝手過ぎます。 神を理由に差別を正当化するというのなら、神を理由に異教徒等を迫害する某宗教の過激派と同じではありませんか。 なんでこんなおかしなことが日本で正当化されているのか、本当に悔しくてテレビで相撲(球場が女人禁制の甲子園も)が出るたび涙があふれます。 これらを喜んで見ている人々もいい加減目を覚ましてほしいです。 お坊様は仏教徒ですが、こういった差別を正当化する宗教をどのようにお考えですか?
はじめに、全く仏教の知識がないのでとんちんかんなことを質問してしまうかもしれません… 私は猟師になりたいと思っており、今夏狩猟免許を取得する予定です。 そこで狩猟の見学をしたり猟師の方にお話を伺ったりしています。 ほとんどの場合猟師の方々は、頂いた命は大切に食べ、無駄にしないようにします。 しかし全部が全部そうではなく、農作物を荒らす動物(猿やタヌキ、カラスなど)を駆除する際は食べない動物を殺すこともあります。 スーパーに行けばたくさんのお肉が並んでいて、その全てが人に食べられるわけではなく廃棄されるお肉もありますよね。 それなのに、野生に生きるものの命を奪って食べるということはエゴなのかな…と最近悩んでいます。 猟師は本当に尊い職業だと私は思っています。 しかし命を奪うことへの罪悪感が全くないわけではありません。 仏教の観点から見るとやはりこのような殺生は罪なのでしょうか?
こんにちは、ミッションスクールに通う女子高生です。 タイトルどおりですが、何を持ってすれば仏教徒と言えるのでしょうか? キリスト教の場合は洗礼を受けることですが、仏教にもそのような行いをするのでしょうか? 仏教にとても興味があるのですが、何しろ幼稚園の頃からキリスト教をずっと学んできたので知識に関しては手塚治虫の漫画を読んだことぐらいしかないです。仏教の中にも、いくつかの宗派?がありますよね、本当に簡潔でいいので教えてください! 質問が多くて本当にすみません。回答していただけると嬉しいです。
こんにちは。 今年、「私はこのために生まれてきた」と思えるような大きな仕事を、文句のつけようがないほど良い形で果たすことができました。自己満足だけでなく、社会にも大いに役立つ仕事です。この社会に生を受けた責任も、果たし終えたといえると思います。 だから30代半ばにして、私にとってはこの先は「余生」という感覚で、もういつ死んでもいいと思うようになりました。 生きていることが、絶対的に幸せだとは私は思いません。生きていれば、「知らなければ幸せだったこと」を知ってしまい、絶望に苦しまなければならないこともあります。生きるためにはお金が必要ですが、そのためにあくせく働いて「何のために生きているのかわからない」と思ってしまうのでは、目的と手段が入れ替わっているようにも思えます。 それに、今の私は人生の目的を最良の形で果たし終え、幸せの絶頂にいます。もし今、人生の最後の時が来たら「私の人生は最高だった!」と笑って死ぬことができるでしょう。それはある意味、理想の死の形ではないかとも思います。 親はいますが、伴侶や子どもはいませんので、「この子の行く末を見守るまでは死ねない!」というモチベーションもありません。フリーランサーなので、組織に対する責任もないです。親や友人は私にもしものことがあれば嘆き悲しむでしょうが、志半ばではなく充分に人生を謳歌し、社会にも確かな礎を遺して生き切った私を、誇りに思ってくれるのではないかとも思います。 でも、そんな縁起でもないことを考えてはいけない…という風潮もありますし、「長生きしたいと思わない」なんて生物としておかしいのではないか、そんな考えを口に出すことは人としてタブーなのではないか…と我ながら思ってしまうこともあります。 一方で、死生観は人それぞれ、一般論に振り回されても意味がないのではないか…と思う自分もいます。「逆縁なんて親不孝」「生きたくても生きられない人もいるのに」なんて定型文もありますが、そんなのはケースバイケースだと思います。 もちろん、私は「自殺したい」と考えているわけではありません。ただ漠然と「今お迎えが来てもいいな、そうなっても全然『死にたくない』とは思わないな」…などと思っているぐらいです。 私の考えは誤っているのでしょうか。誤っているとしたら、なぜなのでしょうか。 こんな私に、有り難いご教示をいただけたら幸いです。
日本弁護士連合会(日弁連)が6日、福井市内で開催した死刑制度に関するシンポジウムで、”瀬戸内さんは「人間が人間の罪を決めることは難しい。 日本が(死刑制度を)まだ続けていることは恥ずかしい」と指摘。「人間が人間を殺すことは一番野蛮なこと。みなさん頑張って『殺さない』ってことを大きな声で唱えてください。そして、殺したがるばかどもと戦ってください」と述べた。”とあります。 しかし、一番野蛮な行為をした犯人が、軽い刑で済むのはどうかと思います。 また、”目には目を歯には歯をは”いけないのはわかりますが、刑期を終えて出所して社会に復帰すると恐ろしいです。 これでは被害者サイドは泣き寝入りかと存じます。 どう思われますか?ご意見を何卒よろしくお願い申し上げます。
はじめまして。私は4月から働き始めた看護師です。 元々環境の変化に弱く(適応障害)、しばらくは抗不安薬を頓服として服用しなんとかやっていたのですが、5月以降はほとんど物も食べれず休みの日も仕事のことを考えては1日中泣いていました。 5月末に精神科を受診し抗うつ剤を飲み始めたのですが、副作用がひどいため2週間休職しています。 特にいじめがあったわけではなく、環境の変化や真面目すぎる自分の性格が発症の原因だとは思いますが、正直元の職場に戻りたくありません。看護師という仕事も嫌になってしまっているかもしれません。 しかしこれから自立して生きていくことを考えるとどうしても働かなければならないものの、こんな状態で働けるとは思いません。 たった2ヶ月で家族や職場の方々に迷惑をかけてしまっていることがとにかく情けなく、申し訳ない気持ちでいっぱいです。 将来の希望も持てず、今まで自分と関わってきた人全ての記憶を消して消えてしまいたいという思いが常にあります。 伝わりづらい文章で申し訳ありませんが、何かお言葉を頂けましたら幸いです。
人間の男に生まれたことが、前世での報いでしょうか。 こんな辛い生は無いと思っております。 独身なら独身で「何で世帯が持てないのか、何か精神的障壁があるのか」とか、「仕事だけが人生なのか」とか 世帯を持てば持てば持ったで「出世もできずに、どうやって妻子を楽にさせるのか」、「お前に男子の本懐はあるのか」、「そんな状況で親孝行できるのか」とか。 果ては「ヒモ」なったらったで、「男の誇りは無いのか」と責め立てられる。 前世でどんな酷いことをしたからと言って、何の記憶もないのこの私に、この報いは余りにも空しすきると思います。 どうしたら「人間の男」に生まれ変わらないようにできますでしょうか。
つらいです、くるしいです はやく会いたいです やっぱりだめみたいです こんなこと言ってたら きっと彼も悲しむのに 会いたいです はやく彼のところへ行きたいです ひとりでいるのがつらいです
永平寺での参禅で非常に感慨を受け、また、日々躓いていたことに関しても少しではありますが良い方向を目指せるきっかけを頂きました。 仏教や曹洞宗についてもっと知りたく思い、帰ってから地元で坐禅を始めると共に、道元の著書や関連文献を読み始めました。 「正法眼蔵」と共に「正法眼蔵随聞記」も合わせて読んでいるのですが、その「随聞記」の八「無常迅速なり、生死事大なり」という文についてお訊きします。 たしか永平寺の山門の木版にもこの言葉が掲げられていたように思いますが、読んでいる水野弥穂子氏(ちくま学芸文庫)の現代語訳では「死の至ることは速やかである。生死を明らめることは重大である」となっています。 前半は理解できるのですが、後半の「生死を明らめる」の意味がいまひとつよくわかりません。 ご教示いただけましたら幸いです。
私は出家希望者です。理由は正式な仏弟子になりたいからです。別にお寺の住職になりたいわけでもお葬式でお経を唱えたいわけでもありません。 しかし、最近思うようになったのは、日本仏教において僧侶は在家とほとんど変わらない生活をしています。お寺の住職は別として、それ以外のお寺を持っていないお坊さんは、在家のように働き、在家のように生活を送ります。 すると、どうでしょう? 僧侶といっても剃髪して法名をいただいているだけで、その実際は在家とかわりないわけですよね?在家得度というものもあるそうですが、そうなると出家と在家の区別って物凄く曖昧じゃないですか? 私は仏弟子になりたくて出家を希望していますが、仏弟子になるなら在家のままでもいいかもしれない、と悩みはじめています。 日本仏教において僧侶の存在意義って何なんでしょう?特に、お寺の住職ではないお坊さん。
今31歳になりました。会社員です。 20代は仕事を駆け抜け、30代になり、仕事を通しての自分のあり方を深く考えるようになりました。自分は生涯何を残したいのか?最近常にこの軸に自問自答しながら、仕事をしています。 35歳までには自分のビジョンを達成する為に、起業を考えてます。 いろいろなタイミングや経験から 生涯何を残すのか?自分の使命とは?がより明確になってくると信じています。 明確なものが、私に見えてくるのでしょうか? どうせ一度の人生なら、仕事を通して使命をまっとうしたいです。
私は長年、極楽浄土に往生したら仏となることが定まるだけで、往生したその時から仏となるための修行が始まるものだとばかり思っていましたが、最近知り合いの浄土真宗のお坊様から「往生した瞬間から仏」ような内容のお話を聞かせて頂いて混乱しています。 釈尊の次に仏になるのは弥勒菩薩であってそれは56億年後の話だから、少なくとも極楽往生してから56億年は待たないといけないのかと思っていました。 宗派による解釈の違いなどを取り違えていたんでしょうか?浄土真宗として正しい認識をどのように持てば良いのでしょうか?ご教授下さい。
お坊さんは読経しただけでお経の意味が分かりますか? ある部分の意味を悟るとかの意味ではなく、読んだだけで漢文が読解出来るかという意味です。 ちょっと気にして読めば分かりますか? 読経の時以外に意味を取ろうとして読めば全て分かりますか? それとも日本語訳や解説本、師僧からの指導などがなければ分かりませんか? 般若心経のような短いお経ではなく、観音経全文以上の長さのもの対象です。 そんな事気にするのはどうたらという回答は不要ですのでそのように回答したい方は回答しないで下さい。 臨済宗や曹洞宗系の派ではないので、ご自身の宗派の思想内でこじつける回答はしないでください。 上から目線で回答すれば良い場所でもないと思いますので「喝!」などというアホなことは書かないでください。
生まれる前に決められた”生きる時間”があるとして、その途中で生きるのを自らやめてしまった人はどうなると思いますか。 病死や老死などの、人生を真っ当に生きた人と、自ら命を絶ってしまった人では魂の行先は違うと思ってます。 自殺したら楽になるとよく言ってる人を見ますが、本当に楽になれると思いますか…?。 私達は私達の世界しかしらないだけで、その後の世界のことを知りません。 ”その後”に何かがあるのかもわかりません。 だからこそ”楽になる”と、なにもわからないのに言います。 自殺をしたら、どのくらい苦しいことが待ち受けていると思いますか…?。
現在の職場に来て5年になります。 私は何事も効率よく、てきぱきとやってしまいたい性格です。 1つの仕事を終えても、あれもこれもと、手が空くとすぐに色々な仕事を任されてしまい、個人的な仕事が思うように進みません。 上司から任された全体の仕事もやらねばならず、なおかつ時間がない中で、個人の仕事も終わらせねばならず、それがうまく並行してできない毎日がもどかしいです。 また、後輩に仕事を振ることも苦手なのか、「これくらいの仕事だったら、自分でしてしまおう」と思ってしまい、結果として、仕事量が増えてしまいます。 自分で自分の首を絞めてしまっている時もある反面、「他の人は明らかに仕事量が少ないのに、なんで自分だけ」という見方をしてしまう自分もいます。 このように、時間的にも精神的にも余裕のもてない毎日で、とても落ちこんでいます。 仕事に対して、今後どのように向き合っていけばよいのでしょうか。 また、どのように気持ちの折り合いをつけていけばよいのでしょうか。
毎朝、ご先祖様へ感謝の気持ちをお伝えしたくお経を唱えています。 実家では祖父が毎朝般若心経をお唱えしているので、私も馴染みのある般若心経を唱えています。 そのときの心待ちについてお尋ねします。 YouTubeでお坊さんがお唱えする動画にあわせて行っているのですが、正直文字を追って口を動かしているだけでいっぱいいっぱいになってしまい、感謝の気持ちをこめることができません。こんな状態でも感謝のお気持ちはご先祖様に伝わるのでしょうか。 般若心経の内容について勉強したりしていますが、まだまだ暗記することができなくて。気持ちを込めたくてもお唱えでいっぱいいっぱいになってしまって、できない自分にちょっと悲しくなります。
仏様には、如来、菩薩、明王、天部、その他があり、仏様に1位、2位、3位、と言うような上下関係はなく、それぞれに役割の違いがあり、コンピュータに例えれば、如来がコンピュータ本体、菩薩は基本OS、明王は応用ソフト、天部は支援ソフトとの事ですが、コンピュータ本体である如来様がなくなった場合、仏様の世界はどのようになりますか?
本願寺派の門徒です。真宗では弥陀一仏に帰依する立場から、神棚を祀ったり祈祷占い等を受けたりしない決まりごとのようです。 ですが、わたしは地元の神社のお祭りには氏子として協力しますし、正月には当然のように神社に初詣に行き1年の健康を祈願します。子供の成長を願って七五三詣にも行きました。 門徒としてはこういう態度はやはりよくないのでしょうか。
9月に主人を亡くしました。 寂しくて悲しくてたまりません。 でも泣いても怒っても何をしても主人は帰ってきません。わかっているのに、心がついていけずほとんど毎日泣いてしまいます。 だけど、主人の成仏を願って毎日手を合わせ 南無阿弥陀仏と朝夕唱えています。 主人はそばにいる。見守っていると言われますが、感じることが出来ません。 どうしたら、主人がそばにいてくれていると感じられるようになりますか? 主人の気配を感じて生きていきたいです。
お坊さん 生命力の弱いひと、強いひと、世の中にはさまざまなひとがいますが、自然界では生命力の弱い生物はすぐに淘汰されてしまいます。どうして神様は人間だけ、こんな複雑な状況に置くのでしょうか。神様に納得できません( - _- ;) 自分も生命力が弱い人間の一人だと感じています。自然界だったら早々生きていけなくなっていると思います。外因的であれ内因的であれ生命力の強さは同じだと捉えているのですが、「自分から生きていくことをやめた」というのは、まだまだ周囲から偏見や勝手な解釈をされる気がしています。 お坊さんは「縁」という言葉を印象的に使っていらっしゃるように思います。それが自分の疑問に関係しているようで気になりました。縁とはなんでしょうか。仏教的に考えると、なぜ人間だけ生死が単純でないのでしょうか。どのような意味があるのでしょうか。