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検索結果: 163件

生き物の殺生について

こんにちは。私は以前小さなパン屋さんで焼成を担当しており、毎日パンを焼く仕事をしていました。全てのパンにイーストを使用しています。毎日働いているうちに仏教への関心が強くなり、私は大量のパン酵母を焼き殺しているんだと考えるようになりました。酵母がいきいきとするように保湿をして 暖かくして エサとなる糖分を与えて 十分に分裂したあと熱い窯で一気に焼き殺してしまうことに強い罪悪感を感じるようになりました。パンを買ってお客様に喜んでいただける職業はとても素敵だと思います。 ですが、それ以上に自分が担当している焼く仕事は罪の重いものだと感じるようになり、心の中で葛藤していました。これが原因ではないのですが 転職し 今は全く生き物を殺さない仕事に就いています。この心の葛藤を抱えたままですが今も生活しています。 最近では、リアルファーに対する嫌悪感が出てきてしまいました。動物の毛皮や皮革を剥ぎ取ってしまうなんて酷いと思いました。理想では動物実験をしていない薬や合皮を使って生活したいと考えています。 避けていても自分の手の及ばないどこかで犠牲になる生き物が出てしまうのは仕方ないと考えています。自分の出来る範囲で皮革製品は使わないようにしていますが、最近プレゼントに牛革のパスケースを頂きました。避けていたのですが使わざるを得ません。頂いたことには感謝しています。牛革は肉の副産物だから 気にすることはない。という意見を聞いたことがありますが、矛盾しているのでは?と思います。無駄なく使うことは理にかなっていますが お坊さんのご意見はどうでしょうか…? それと また似たような感じになってしまいますが、カビの殺菌スプレーを使うことにも少し抵抗があります。水回りを不衛生にしていては そのうち健康に影響が出てきてしまいますし ある程度は使用しないといけません。毎日のことなので 毎日悩んでしまいます。お坊さんでもこのような 殺菌スプレーを使うことはあるのでしょうか?また、使うことに対する考えをお聞かせいただけたらと思います。ながい文書になってしまい、すみませんでした。ご回答よろしくお願い申し上げます。

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男の人は汚い生き物

毎晩、この時間になると、男への怒りが収まらず、苦しいので相談させてください。 私は、男の人は汚い生き物と思っています。 男が発する褒め言葉はあくまでsex に持ち込むためのもので本心ではなく、 こちらが歩み寄ろうとしても向こうはsexまでもちこめば、女の人は用済みだと思ってる。 そんな男ばっかりです。 私は、周りからは温厚で優しい人と男女から褒めていただくことが多いです(どうせしたごころあるんでしょうが)そんな男という生き物に対して、優しく接しよう、相手の好きなもの嫌いなものを覚えて接しよう、相手が急に機嫌が悪くなっても、相手の事情があるのだから、相手の背景も考えた上で接しよう、相手の態度を見て憶測でものを言ったらかわいそうだから気をつけよう・・・と、自分なりに、男の人への接し方を考えていました。 しかし、相手の男は深夜に「今からあなたの家で飲めないかな」と誘ったり、休みの前の日の夜に誘ったりするばかり。体の関係に持ちこむことだけを考えて、私の人となりを知ろうとしない。どうせ、私を2番目か、片手間に遊べる女と思ってるんです。私は、相手のことが好きで、その人のことを知りたいと思ってるのに。 私が努力したところで、男は私のことをsexのための道具としてしか見てないので、もう私も男に優しくする必要は無いですよね。 最近では、街を歩いている男を片っ端からぶん殴ってやりたい衝動に駆られるときもあるし、飲食店などで男の人が隣の席に座るだけで、頭に血が上ってしょうがないです。イライラします。気持ちが悪い。 男になめられないように、どうやっていきていくべきでしょうか。 また、こんなくだらない男という生き物に対して、どう接していけばいいのでしょうか。性欲をコントロールできないただの猿にsexの道具として扱ってもらいたくないんです。 男に恐れ多いと思われる人に、どうすればなれるのでしょうか。

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毎日否定されています

ご覧くださり、ありがとうございます。 職場の上司や人間関係で悩んでいます。 昨年10月に今の会社に転職し、やっと売上を作れるようになってきました。 これまでフォローをして下さっていた上司が先日突然退職し、今まで以上に私に対して風当たりがきつい上司の当たりが更にきつくなりました。 主に下記の内容です。 ・他の人には言わない人前での叱責、暴言 理由は、「出来てない奴には俺は言うよ」だそうです。 今日、遂に過呼吸の発作を起こし、人事部からも注意勧告があったためか、上記の点に関して謝罪をされました。 ですが、ご本人曰く「貴方の態度によってはまたやるかもしれない、治すとは言えない」と言われています。 私にも非があったのだと思いますし、全世界の人に好かれるのは無理な話です。 それを踏まえても、相手が傷つくとわかっていてそうしたことをされるのですかと聞くと、「傷つくなんてわからない」そうです。 また、訴えられても構わないと言われました。 これ以上、辛い思いをしてしまう前に、不当ではあっても辞めた方が良いのか、私なりに仕事内容は大変遣り甲斐があって満足しているので、続けていくべきなのか、悩んでいます。  最後までお読みいただきありがとうございます。 ご回答、お待ちしております。

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2023/03/28

『死』はなぜ否定されるのでしょうか?

なぜ『生きたい』などポジティブな事は肯定され、『死にたい』というネガティブな事は否定されるのでしょうか。 死ぬことは逃げですか、生きる義務なんてありますか。 もう何年も前からずっと死にたい思いがあります。年々増すばかりです。いつ死ぬのか、どんな風に死ぬのかしか考えられません。 朝昼夜に関わらずずっとあります。誰といようが頭から離れることはありません。 毎日自分を見失います。親も友達も私自身を見てくれない。理想の『私』以外は要らないんです。 勇気を出して泣きながら本音を話しても、何も変わらなかった。私の本音と涙はあの人らから見たらただの軽いものだった。 闘病により亡くなった方は頑張ったと肯定されます。生きる事全てが苦痛で仕方なくて自殺したのだとしたら逃げだと言われます。相談するべきだと。 どちらも苦しんでいるのになぜこんなにも違うのですか。 今の私は誰も自分自身も信じられない。本音を話そうにも言葉はでません。家族も友人もあらゆる事全てが私を追い詰めるんです。生きているのが怖いです。全てが私を苦しめる要因になるんです。死にたいです。なんで死んではいけないんですか。 否定されて生きてきました。 何をするにも否定されました。 死んだら悲しむ人がいるとかそんなの求めてません。それだって私の気持ちを否定する言葉にしか聞こえない。 したい事を見つける?もっと前向きな事を考える?信用できる人を見つける? それすらできないんです。この文章を書くのでさえ体力が必要なんです。 ずっと前から感動とか良い方に感情が動き難くなりました。マイナスな事ばかり考えています。人に気を使って神経すり減らす毎日。 こんな私に生きている価値なんてない。 だから死にたい。 なのにそれはダメな事と言われる。 死ぬことを肯定してくれないのはなぜですか。 あらゆる事からのストレスで苦しんで体調も崩して、死にたい思いしかないのに、無理して生きていなくちゃいけないんですか。 治る見込みのない病気やがんになってしまった方には、安楽死や尊厳死があります。 選ぶ権利がある。 自分を殺す事に関しては同じだし、私だってコレが治る見込みはない。自分勝手だから、迷惑だからダメなんですか。 うまく文章がまとめられくて長くなってしまった上に読みにくくて申し訳ないですが、答えていただきたいです。

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自分を受け入れられず何かを否定してばかり

こんにちは。初めて質問します。質問が2つあります。1つ目は理由のない子供嫌いをどうやって直せばよいか。2つ目は女性であることを受けいれるヒントについてです。 私は子供が大嫌いです。見ず知らずの子供がはしゃいでいたり、笑顔でいても何をしていても嫌悪感が沸いてしまいます。とにかく存在が嫌です。子供嫌いだからか分かりませんが、知人の妊娠を気持ち悪いと思ってしまいます。そんな自分は最低だとは思いませんが、何かおかしい、ゆがんでいると思います。そもそもこんなに子供が嫌いな理由が分からないのです。ちなみに動物は大好きです。心から可愛いと思います。 でも考えてみれば、私は小さいときからずっと何かを嫌って生きてきました。それも激しく。対象はその時によって異なり、うるさい中年女性、男性全般、そして今は子供...。ユングの分析で大学教授に「あなたの芯にあるのは攻撃心です」と言われたのがずっと引っかかっています。 なぜこのようになったのかは分かりません。父は暴力を振るう(私にはなかったですが)人で、モラハラ男尊女卑で、ひどい少女時代ではありましたが、母は本当に1人で私をよく育ててくれました。母とは今も仲良しで、感謝しています。 子供嫌いは直したいです。恋人が結婚したら子供が欲しいという人なので、子供好きにはなれなくても、いずれは子供への嫌悪感をなくし、心から子供が欲しいという気持ちになりたいです。 2つ目は女性であることへの嫌悪感です。私は女性であることがとても嫌です。生理、妊娠があるのは女性だけだということ、それなのに日本では未だに女性の扱いが男性と同等でなかったりという不条理が受け入れられません。これまでは、自分に正直に生きたり、自分の価値観と合う環境に身を置いたりすることで消化しようとしてきましたが、それで忌まわしい(と思っている)生理やら妊娠やらがなくなるわけではなく、心の底から女性でよかったと思ったことはありません。 私は何か認知がゆがんでいると思うし、とても生きづらいです。もっと自分を肯定し、世界を愛したいのですが真逆の方向に行きがちです。私は何がおかしいのですか?どうすればいいと思いますか? 読んでいただいてありがとうございます。

有り難し有り難し 10
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2023/06/15

自己否定・ネガティブ思考が止まらない

前回は、初めての質問に温かいご回答をいただきありがとうございました。 久しぶりに相談させていただきます。 自己否定・ネガティブ思考が止まりません。 例えば誰かと遊んだとき、趣味に没頭したときなどに、「楽しい」と思うことに対し、"なぜ自分が楽しんでいるんだ..."と。 私の数少ない友人たちはみな心が綺麗で優しいのですが、"なぜ友人たちはこんな私と仲良くしてくれているんだ..."と。 その他、これから何十年と続く人生について、"私に明るい未来はない"と。 過去の過ちのことを考えれば、このように自己否定を続ける生き方は、ある意味正しいと個人的には思っています。 でも、この生き方や考え方は、私を産んでくれた親や、関わってくれる人たちを悲しませたり、不快にさせたりすると思います。 それに、仮にこの生き方をした最後に自死を選んでしまったら、何の解決にもならないと思います。 まるで被害者ヅラをしたような文章で、不快に思われたら申し訳ございません。 私はどうすればいいのでしょうか。 誰にも言えない、そして忘れられない過去を持つひとりの人間として、 この止まらない自己否定・ネガティブ思考と、どのように向き合い生きていけばいいでしょうか? ご回答いただけますと幸いです。 よろしくお願いいたします。

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非我説(無我説)と我見

非我説(無我説)と仏陀の否定した我見について、差異が知りたいと思います 因果論も関わるかもしれませんが、私は「生き物は縁によってその在り様を生じる」と見ています そしてその見解は基本的に「仏教の見解と一弦する」と思っています しかしこの「生き物は縁によってその在り様を生じる」と「五蘊が我である」と言う「我見」は非常に親和性が高い様に思います そして、「我見」は仏陀によって否定されています 「行為」としての戒めであれば「我見を否定する」のもなんとなく分かるのですが(丹下さんありがとうございます)、 「事実はそうではないからそう見てはいけない」だとすると「え?それだと事実五蘊が我なのでは…?」となってしまいます あくまで仏教は実践宗教であって、真理や真実を追い求める様な科学や他の宗教とは違う、 とすれば、私がそもそも勘違いしていただけなのですが、仏教が余りに優れて科学的(妄想的な所が少なく真理と真実を良く見通している)せいもあってか、 特に「我」と「因果」については「真理や真実」の話だと思っている部分があります この件についての誤りについて教えて頂ければと思います この見方についての補足ですが、 そもそも私の仏教に対する興味がそう言った真理や真実からであったせいがあると思われます もっと言うと「正しいからそれをしてよいしそれをした方が良い」みたいな感じですね 恐らく悟りについても私の中ではそのような物だと思います 「悟れば苦しくないよ」と言われて「じゃあ苦しみたくないから頑張る」と言う領域ではないのだと思います 「善くなる」の「善さとは何か」とかそう言った部分はさておき「少しでも善くなりたいだけなら図書館にでも行きなさい」と言われたら、図書館に行ってしまうような状態ですね 仏教が一般的な意味での善悪からは外れた彼岸にあるのは分かっているのですが、ただ己の為にそこに辿り着くと言う類の物ではなく感じているせいだと思います

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2023/04/28

「意見は求めていない」に納得がいかない

意見は求めていない。話を聞くだけで良い。 ということに納得がいきません。 この前、家族に「交友関係にトラブルがあってそれをどうにか乗り切ったのだけどしこりが残る形になった」という話を受けました。 私はその家族の取った対応が、他者の排除に繋がるもので私にとって排除を伴う解決は、きつい言い方をすると「心底気に食わない」ものでした。 ただ、それをそのまま伝えるわけにはいかないので「この方法は流石に違うんじゃないか」と自分ではオブラートに包んだつもりで意見をしました。 しかしこれが逆鱗に触れたのか激昂させてしまった。 そこからは売り言葉に買い言葉で、どうにかその場は納めましたがあわや警察沙汰といったところにまで相手をヒートアップさせてしまった。 後でその場を仲裁してくれた別の家族に「あれは意見なんて求めてなかった」「話を聞いて頷くだけでよかった」と助言を受けました。 確かに自分が否定的な意見を言わなければこれほどのことは起こらなかったと思われます。 しかし納得がいかないのです。 だって、ただ話を聞くだけであれば自分じゃなくても良いじゃないですか。 それこそ、病院かホストかキャバクラみたいなそういった専門家の元にかかれば良いじゃないですか。 偏った考えであるということは承知の上です。 しかし私にはどうしても「ただ頷くだけ」ということができないし何故これほどまでに怒りを抱かせてしまったのか分からないのです。

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私の死生観は間違っているのでしょうか?

カテゴリ間違いだったら申し訳有りません。 私が高校生の頃、生徒教師共に学年全体から疎まれていた教師が突然死しました。 その教師はセクハラ発言、時間があれば自分語り、自分ルールが横行しており、校長が何度注意しても直らない と言った問題行動を連発していました。 その教師が亡くなる数日前まで学年の一人の教師が、被害届を纏め、教育委員会に提出するべく書類を作成していた程でした。 学年集会で亡くなった事が告げられると、「早く●んで笑」とまで散々悪口を言っていた生徒達が泣いていました。 私はこの事に対し「今まで散々悪口を言っていたのに手のひら返したように泣ける感受性と協調性の豊かさが羨ましい」と友人の前で呟いていました。 この発言に対し、友人から「泣いている人を批判しているのは間違ってる」と指摘されました 私は人間も食パンも変わらないと思っています。 「食パンを食べたら無くなった=胃に収容されたから 」であって「食パンは食べられるために生まれてきた 」訳です。 私は人間はこの世に生まれる理由は、死ぬ為に生まれて来ている と思っています。 いつかは死ぬのだから、人間は必死に生きなくてはならない、やりたいこともやりたい時にやらないといつかは死んでしまう と。 人間も「人が亡くなった=死ぬ為に生まれてきたから」であって、死は誰にでも平等に与えられているものですし、当然の事だと思っています。 その人に関わってきた時間や感情、思い出が加味されて、改めて 「(人が亡くなって)悲しい」という感情が生まれるのではないかと考えています。 私はこのような考え方なので、明日道端ですれ違った人が明後日亡くなっても、悲しいとは思いませんし、泣けません。 だから、セクハラ教師が亡くなったところで、何も感情は湧きませんでした。 間違っていますか?とても歪んだ考え方をしているとしたら恥ずかしいので治したいのです。

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幼少期の殺生と、その懺悔について

 初めてお世話になります。  私は動物(虫や貝、ミジンコなども)が好きで、彼らの命は例外なく尊く、人間と同様に重いものだと考えています。 しかし、子供の頃はその重さを分かっていませんでした。  小学校2〜3年生くらいの頃、同級生と一緒に通学路の途中にあったアリの巣を潰そうとしたり、アリに残酷なことをして命を奪ってしまいました。 自分のした事を考えると胸がズキリと痛み、とても後悔しています。  一時は「自分は幸せになってはいけないのではないか」、「地獄に落ちるのではないか」という考えが頭を巡り、何をしていても心が苦しい状態でした。  ある時ネットで、 「幼少期に虫を死なせてしまうことは、命や死についての理解につながる」 という記事を見つけました。  確かに自分が命を尊く思えるようになったのは、過去のそうした経験が影響していることは否定できません。 人間が罪深い生き物であることを受け入れることは出来ましたが、それでもやはり虫達への罪悪感があり、本当に申し訳ない気持ちです…。  今は無益な殺生は当然として、蚊やゴキブリといった虫達も殺めずに、可能なら外に逃してあげるようにしています(害虫の駆除はやむを得ないのかもしれせんが、出来る限り殺生を避けたいので…)。 食事も間接的な殺生と聞きますので、いつも感謝を忘れないようにと自分に言い聞かせています。  長くなってしまいましたが、私が相談させていただきたいことは罪の懺悔についてです。  最近になって「懺悔文」というお経を知り、これを唱えたり、命を奪ってしまった全ての生き物達へ謝罪を込めて、ご冥福をお祈りをしているのですが、 年月が経過した今でも、この気持ちは神様を通じて虫達の御霊へと届いているでしょうか? そのことがどうにも心につかえています。 何卒、お言葉をいただけましたら幸いです。

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日本の宗教に対する意識と新興宗教について

日本には、なんとなく政治と宗教な話は、親しい間でも話しにくいような風潮があると思います。例えば私自身家族の中でも応援している政党が違ったりするとなんとなく気詰まりな感じがします。そういう宗教や政治の話がなかなか気軽にしにくい日本の風潮にお坊さんはどう思いますか? 話は違いますが、うちは曹洞宗ですが、遠くに住んでいる親戚の叔父が韓国の方が教祖のキリスト系の新興宗教を信仰しています。叔父さんはとても元気でタフで明るくて面白くて好きですが、宗教の話をしている時に進化論を否定していることに驚きました。たしかに進化論が正しいかは、私自身教科書でしか教えられておらず、自分で確かめたことはないので、確証や証拠で反駁することはできないのですが。 あと人間だけ霊界があるというその宗教の教えに対しては、全ての生き物が限られた生を命の限り全うするということは同じな世界で、人間にしか霊界が用意されていないという考えがしっくりきませんでした。当然信仰の自由があるので何を信じるかの選択の余地は一人一人あり、全く否定する気はありませんが。その対話をしている時の母がもううんざりといった言動でもう終わりにしてほしいというオーラが全身から漂っていて、とりあえず途中で私が引き下がりました。(こういうところでも宗教の違いを対話するのを嫌がる日本の風潮を感じました。) 比較的歴史の洗礼に耐えて伝統を長く受け継ぐ仏教の宗派のお坊さんは、新興宗教と呼ばれている宗教の特徴や教えについてどういうお考えをお持ちなのか、気になりまります。 お手すきの時にお返事頂けたら嬉しいです。

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旦那は親にも私にも、とにかく謝ることが出来ません。

タイトル通りです。しかし、もう子供もいるし将来のことを考えると「ごめんなさい」が言えるお父さんになってほしいと思っており、頭を捻らせ方法を考えています。人としての部分でもあるので妻としては諦めきれません。人の性格を変えることというのはかなり難しいことは分かっています。自分自信の考え方を変える方が手っ取り早いと思いました。だったら私の今の考えを変えてみようかと思っています。例えば頼りになる男性になってほしいならこっちがアレしてコレしてと頼れば否応なしに少しずつではあるけど頼れる男性になると思うのです。だから少し荒っぽい方法にはなりますが、謝らざるを得ない状況になるようこちらから何か行動したり変わればいいのではないか?と考えつきました。しかし、具体的な行動が思いつきません。それ以外にも謝ることが出来ない人、ごめんなさいが言えない人を変える方法やその糸口となるような何かヒントを教えてください。 ちなみに今になって一刻も早くと思い出したのは先日それで私の実家で旦那について家族会議があったからです。 原因は旦那が調子に乗ってお酒を飲みすぎてしまい酔っ払って布団の上で吐いてしまいました。 子供たちもまだ小さくなかなか作業は進まず、私と私の両親が寝たのは深夜3時でした。 旦那は酔っ払って片付けを手伝える状態でもなく、爆睡でした。翌日記憶もなかったので私から状況を説明し、両親に謝るように話しました。しかし、旦那は「吐いただけなのになんで怒るの?」という考えでした。多分自分が同じことをされれば絶対に怒るし謝らせると思います。自分がされて嫌なことなはずなのにそれに気がついていません。立場を代わって考えるという能力が乏しいのだとこの時初めて気が付きました。今までは自分がされて嫌な事は人にしないと言っていたので、衝撃的でした。

有り難し有り難し 22
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理趣経を読んで感じた事。こんな解釈で良いでしょうか?

理趣経(正確には、理趣経本文を含む解説書)を初めて読んだのは 20代の頃で、その時は何が何だかチンプンカンプンでした。 でも今になって読み返し、頭の中で反芻しているうちに、 理趣経がこんな事を語りかけているように思えて来ました。 以下、長文になりますがご了承願います↓ ・・・・ 自然界には大小様々な生き物がひしめいているだろう。 与えられた命の中で無心に食を求め、子を作り、必死に生きている。 そんな生き物たちの本能が汚れてると思うか?いや、皆清浄なのだ。 そして人間も生き物だから、人間の欲望や業だって本来は清浄なんだ。 自然がありのままで美しいように、人の欲も本来ありのままで美しいんだ。 大いに食べて楽しむのも結構、性の快楽に耽るのも結構。 自分の本性を曲げる事はない。遺伝子に刻まれた生命の原理だから。 与えられた日々を存分に生き、愛し、大いに楽しみなさい。 でも決して忘れないでね。 最高の快楽は、あなた自身がまぎれもなく、この大自然・大宇宙の 一部として存在し、共に生きている事実を実感する事。 そして他者も皆、かけがえのない生命を生きている。 だから皆が楽しんで暮らせるよう、欲の力を否定せず、 むしろ利用して世間を整えるんだ。まあうまくやってくれよ。 悟りは本来深遠で説明しつくせないものだが、 私(理趣経)がナビとなって道案内しよう。 まずは車の免許を取りなさい。仕事や家庭の都合で 無理なら運転できる人に乗せてもらいなさい。 大丈夫、私(理趣経)を信じていれば、まさか地獄には墜ちないさ。 あ、でもナビの操作だけはくれぐれも間違えないようにな。 ・・・・ ・・・こんな解釈で合ってるでしょうか? やはり理趣経については、これ以上は独学よりも、 お寺の勉強会にでも参加した方が良いでしょうかね?

有り難し有り難し 32
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2023/10/08

やはりこの世界は信用に値しない

また新たな戦争が始まりました。明日は我が身でしょうか。 「報道しない日本メディアはダメだ」と言われています。私たちは平和ボケしているのでしょうか。まあ日本が戦争に巻き込まれるのも時間の問題ですね。私たちに未来なんてない。現実なんて汚らしくて残酷なものでしかない。 この世界のシステムに耐えきれなくなった憎悪が世界中で噴出し騒乱を巻き起こしているマクロな事実と、そんな完璧ではない人間という生き物から一方的に「あなたが間違っている」「あなたが変わればうまくいく」と言われ続けたミクロな怒りが混ざり合って何もかもが馬鹿馬鹿しいとしか思えません。だから生きているのが嫌なんだ。 仏教だって結局、生きるも死ぬも理不尽しかないものだから何か納得できるだけの理由をこねくり回した結果でしかないでしょう。「全部私が悪いので悔い改めて、私の全部をこの世界に捧げます」と生きなければこの生命という不愉快極まりないシステムから解放されないのですか。喜んで火の中に飛び込む兎になれと。結局望まれているのは自己犠牲じゃないですか。生き物は、自分のために自分以外のものが犠牲になることを望んでしまうものなのです。 どれだけ努力したところで、自分とは関係ないもっと大きなものによって簡単に潰される。この国のシステムも欠陥だらけで有事に対応できると思えない。いつ殺されるかわからないから、いま生きていることに感謝すべき? そう思うにはこの世界はあまりにも汚らわしすぎます。ずっと言ってきましたよねこの世界は生きるに値しないと。その決定的証拠がまた一つ増えたんですよ。生きるも死ぬも誰かの天秤の上。人権なんて初めからなかった。第三次世界大戦はいつ起こりますか? 私たちは死ぬ準備をしなければなりません。 薄氷の上の平和すら貴重品となってしまった世界で、その平和の中にいながらうまく生きられない罪悪感。自分の在り方を否定され続けてきたが故の「どうせ自分なんていらないんでしょ」という感情と閉塞感。秒読みとなった戦前危機に対する焦り。人間という生き物への困惑。未来に対して絶望視しかできない。こんな世界の中でどう生きろと。けれど何を言われても響きはしない自分自身に対しての苛立ち。今の世界を見ても美しいと言えるでしょうか。 結局、傲慢でなければ生きられない世界。2025年を迎えられるといいですね。きっと無理だろうけど。

有り難し有り難し 9
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2022/03/09

存在そのものを悪と断じずにはいられない

「生きているのではなく、生かされていることに感謝すべき」だとおっしゃるのでしょう。 けれど、どうしても「生きていること、生かされていること」を肯定的に捉えることができません。 「盲亀の浮木」というように、この比較的平和で当たり前のように安全な生活ができる存在として生まれたことそのものがとんでもない奇跡、という理屈も承知しております。 しかし、「だから生まれたことに感謝すべき」と言われても感情が追いつかない上に、「存在するということはとんでもなく危険なことなのに、誰もそこから逃れられない」と、存在そのものをどうしても否定したくなってしまいます。 限られた運の良い生き物しか安全に生きられない。 限られた運の良い人間しか生きることを許されない(そんなことはないとおっしゃるかもしれませんが、自己責任論と優生思想のほうが人間の本音だとどうしても思ってしまいます)。 これまでの人生で幾度となく自殺を考えましたが、死んだところで「存在」からは逃れられないと気付き、「じゃあ生きるって何なんだ! なんでこんな悪趣味なことを強いられるんだ!」と、閉じた恨みの感情ばかりが強くなります。 所詮、うまくいかない自分の有様と社会問題を歪みきった認知で安易に結びつけているだけなのでしょう。 ただ、そこから脱却するための、理論的にも感情的にも強い根拠が見つからず鬱屈としています。 「生き物だから生きるのだ」と言われても、「それは存在の『罪』から目を背けているだけだ」「生きることは悪であるという、自分にとって都合の悪い真実を見て見ぬふりしているだけだ」と思ってしまいます。それとも、私が「生きることは善である」という真実を見て見ぬふりしているのでしょうか。生きることを肯定されてしまっては、私の苦しみに満ちた人生をも肯定しなければならないから、「生きることは悪である」という幻想に逃げているだけだとおっしゃるのでしょうか。 痛みや苦しみを憂うあまり存在さえ否定したくなるのが煩悩だとしても、「存在することをやめたい」「ありとあらゆる感覚器官を捨て去りたい」「物質的制限にまみれたこの次元から脱出したい」と思わない時はありません。 まして、この世界から「生きるに値する根拠」は急速に失われつつあるのではないでしょうか。 死ねないなら生きる苦痛を受け入れなければならず、しかしその覚悟が決まらないのが課題です。

有り難し有り難し 15
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