十年ほど前に、作家の玄侑宗久さんの般若心経の解説本で、初めて仏教的な物の見方を知りました。 息苦しい日々に、涼しい風が吹き込んだ様な気がしました。以来、少しでも仏教的な悟りや心の安心に近付きたく、仏教書(仏教関係のエッセイなど)を読んだり、座禅に通ったり、欲を捨てる事を心掛け、諸行無常、諸法無我を心に留めてきましたが、相変わらず心弱く、煩悩に振り回され続けてます。 心の安心を仏教から得るには、どのようにしたら良いのでしょうか?座禅会では、座っていれば自然に気付くと聞きましたが、何も分かる気がしないのです。信仰ではなく考え方としてしか仏教を見ていないからでしょうか?
文才がないもので、もし、宜しければ、直接、お会いして話を聞いていただけるお坊さん、いらっしゃいませんでしょうか? ご相談内容を端的に申し上げますと、ここ最近の自分に嫌気がさしており、どうすれば、この壁を越えて、一皮むけた自分となれるのか、アドバイスをいただきたいというものでございます。 お忙しいかとは思いますが、どうぞ宜しくお願い致します。
現在、道端にいらっしゃる石碑などのお参りが夫婦での日課になっております。 そこで罵倒観世音のちっちゃな石碑を作りプレゼントしたいと考えているのですが、出来上がった石碑はお寺でお祓い?などしていただいたほうがよろしいのでしょうか? 家で拝みたいと考えております。 ご回答よろしくお願い致します。
私は、お寺 神社が好きでお参りによく行くのですが つい最近『御朱印』というものを知りました。 書いていただけるなら 次回からお願いしようと思ってます。 よくお参りに行くのは、日蓮宗のお寺が多いのですが 日蓮宗では『御首題』になるとのこと。他宗派と分けてお願いすれば 悪い気はしないという事でしょうか?
心のととのえかたを教えてください。このサイトへの相談から少し心が落ち着いてきました。ありがとうございます。 禅にひかれ、本も気に入って読んでます。簡単にできる座禅とか、心のととのえかたについて教えてください。 よろしくお願いいたします。
お寺で参拝するときは現世の利益を願う事を避けて、自分の命を仏様に感謝する事にとどめなさい、というような事を聞いたことがあります。 しかしそれとは全く反対の事をおっしゃる僧侶にお会いした事があります。(お寺では結婚や出世など、なるべく具体的な願い事をお願いすべきだと、、) どのような心構えでお寺に参拝するのが良いのでしょうか?
お経が短くなりました。檀家です。奥様(お母さん)は、とても人当たりがよくよい人です。新宿区の曹洞宗です。 前の住職、代理(若住職、修行中)住職のときは、お経が40分以上とお説教があり、ありがたいと感じた。今の若住職、お経5分から10分でお説教なし、戒名のいわれもいえない。 墓参りに来ている方々の口にでている。他の寺から言ってもらえばいいつけたことになるし、他の檀家さんは若いからと。菩提寺をかわろうかと。悪者になりたくない自分がいることに腹がたつが、やはり言いつけたくない。
手を合わせ 線香と蝋燭2本を御供え 無作法でありましたが 帰って来ました。 これまでの事が嘘の様に穏やかな状態になりました。 大変感謝しています。 何故かとても不思議です。
こんにちは 下世話なお金の話で恐縮ですが、ご助言いただければ幸いです。 私は山登りが趣味でよく山歩きをしていますが、山頂などにはお寺があることが多く、門が開いていれば参拝させていただくようにしています。 恥ずかしながら私には仏教や宗派などの知識はほとんどないのですが、それでもお寺に一歩踏み入れた時の、あの独特の落ち着く雰囲気が何とも心地よく、 また、お堂を参拝して掲げられている由緒などを読むと、なぜこんな山奥にお寺があるのかがわかったり、あるいは意外な歴史上の有名人が登場したりして、そんな発見が楽しくてお寺を訪ねています。 (そもそもそのような動機でお寺を訪ねることが良いのかどうかも自信がありませんが…) そのようなときにお坊さんが声をかけてくださることがあり、いろいろと興味深いお話をお聞かせいただいたり、お茶を出して下さったり、秘蔵の文化財を見せて下さったところもあります。 ある山頂のお寺では「精進料理で良ければ食事していかれませんか?」と庫裡にお誘いいただき、当然有料だと思ったので遠慮なく頂いて代金を申し出ると受け取っていただけないということもありました。 どのような場合もありがたくお礼を申し上げ、お布施についてお尋ねするのですが、たいてい「そのようなお気遣いなく」と仰られますので、せめてもの気持ちで、帰りがけにも賽銭箱にいくらかのお金を入れて辞去するようにしています。 しかしお坊さんが時間をかけて興味深いお話や案内をしてくださることに対して、賽銭箱にコインを投げ込むというのではなく、やはりきちんとお礼をしたいと思いますし、 請求されなかったからといって何もしないと作法知らずと思われているのでは?、とも思ってしまいます。 このような場合に、お坊さんを煩わせることなくスマートにお礼をお渡しするには、どのようにするのが宜しいでしょうか?。 そもそもこのような場合の「相場」もわかりませんので、何卒お導きを賜ればありがたく存じます。 よろしくお願い申し上げます。
空とはなんですか? 私たちは存在しないと書いてある本もありました。確かに昨日今日では変わりはわからないと思います。それが10年なら変化もわかるし、もしかしたらこの世にいないかもしれません。 でも、諸行無常と言うように毎日移ろい変わっているんですよね。同じように見えて同じ毎日はないんですよね。だから一日一日を大切にしなければならないのに、その有り難みがなかなか解らないんですよね。
只管打坐についてお尋ねします。 私は本をテキストに家で坐り、週一お寺様の坐禅会に参加させて頂いて8が月経ちます。 それで、このごろ疑問に思うのは、私の坐禅は習禅(トレーニング)で坐禅(安楽の法門)ではないのでは?という事です。 この問いをベースに以下三点をお尋ねいたします。 1.習禅と坐禅の違いは? 2.お寺と家の環境を近づける工夫を教えてください。 家では早朝に坐るとか線香を焚くなど、僧堂のマネをするのですが坐禅の深まりが違いすぎます。毎日坐る家でのクオリティーを上げたいのです(ちなみに片道一時間以内で参加出来るお寺はここだけです) 3.妄想や眠気が出てきてそれに気づく、その後の戻り所はどうでしょうか? 本に「思いの手放しは骨組と筋肉でねらう」とあったので、坐相を整えていますが... 只管打坐は手応えが無いと言うか、達成感が無いと言うか「本当にこれでいいのだろうか」と悩みながら続けていますが、道元さんが「あまねく勧める」坐禅をコムズカシク考えすぎかな、とも思います。 以上、ご指導宜しくお願いいたします。
先月からご縁があり、とある相続関係の仕事をさせていただきました。内容は、同じ区画内の土地と建物の権利者がそれぞれ4人おり、権利が複雑な為、権利関係を整理するという内容でした。その一部にとあるお寺の所有の土地があり、事前に住職にお話しをしたところ他の権利者に譲渡(売買)の話をしてもらえないかとの事だったので、時間がかかりましたが何とか承諾いただき他の3人の権利も整理できそうな所まで話がまとまりかけたところ、 そのお寺の住職が売らないと突然言い出し、話が破断に終わりました。私が残念に感じたのは、その住職はお金の話(そんな安い金もらってもしょうもないなど・・)が多く、また誰が損か得かの話も多く、仏に仕える方として有るまじき発言だと感じました。同じ住職としてどう思いますか?私はお寺や住職さんの心を作るお話が好きで前から「住職」という職務を全うしている方には尊敬の念がありましたが、そこのお寺の住職さんは欲深く、由緒あるお寺なのに修行が足りないのかな?と感じました。大きなお寺ほどそういう方が多いのですか? ちなみに私は今回の仕事に対して報酬はなく、奉仕(無料)でさせていただいておりました。どちらが仏に仕えるものかわからなくなりました。同じ住職でもこの方欲深いな?と感じる方いますか?
何故、葬式でお坊さんがお経を誰もわからない言葉で長々と読むのでしょうか?なぜそこにいる人々にわかるような言葉で読まないのでしょうか?あれじゃただの雑音です。 せっかくですし自分はお経の内容を知りたいと思っているのに、あれじゃ時間の無駄です。 ただでさえ悲しいのにあんなに長々と意味のわからない音を聞かせられるとか、お坊さんが人々にさらに苦しみをあたえています。 ああいう喋り方じゃなきゃ死者があの世に行けないということはないでしょう。 木で木を叩いて音を出し、声帯から決まった音を出さないと死者があの世に行けない理由もないでしょう。 ありがたいことを読んで悲しんでいる人の心を楽にさせてあげているわけではないでしょう。誰も理解できていませんから。 ああいうやり方にしないと死者への敬意を表せないわけではないでしょう。葬式で大事なのは心から悲しむことで、心から悲しみさえすれば決まった一つのやり方でやる必要はないからです。 自分が推し量るに、ああいうやり方じゃないとありがたみがなくなり誰にでも葬式ができるようになって、お坊さんが金儲けの手段を失うからだと思っています。 悟りを目指し、人々を救うことを目指しているお坊さんが、そのような誤魔化しをして金儲けをしている理由を教えてください。 攻撃的に感じるかもしれませんが、これは子供の頃から気になっていたことなので。どうか誤魔化さずに本当のことを教えて下さい。
こんにちは。 先日はお話を聞いてもらってありがとうございます。 今回はお寺のことについて質問させてください。 今自分が住んでいる家の近くに曹洞宗のお寺があり、息子の散歩の途中に立ち寄って、境内の中を一周して帰っています。 境内の中にはお地蔵さんや、観音様の石像があるので、手を合わせています。 そのお寺はいつもひっそりとしていて、お坊さんに会ったことはありませんが、仏像にキレイなお花が供えてあるので、ちゃんと手入れされています。 小さめのお寺ですが、門はとても立派に見えますし、落ち着いた雰囲気なので私は好きです。 お坊さん的に私のようにお寺に入るのは問題ないですか?? あと、人の気配がなくても、お堂の中で何かしているのですか なんとなく気になっていたので、教えていただきたいです。 よろしくお願いします。
最近、仏教に興味を持ちはじめ、 自分なりに様々な本を読んだり、知識を深め始めています。 そして、私の心の支えになっています。 仏教を学ぶにつれ、 「仏教徒になりたい」という思いや 「お寺さんと繋がりたい」という思いが湧いてきています。 私が現在住んでいるのは、 古くから住んでいる人が多い、いわゆる「田舎」の地域です。 私は、夫の仕事の都合でこの地域に引っ越してきたため、 地縁などもなく、つながりのあるお寺が全くありません。 お寺はありますが、檀家さんは皆、何代も前からのお付き合いのようだし、 「写経の会」などの対外的に開かれているイベントなども特別実施されていないようなので、 興味はあるものの、 「完全なよそ者が訪れても受け入れてもらえるだろうか」 と、不安になってしまい、敷居が高く感じられ、一歩踏み出せずにいます。 また、まだ特定の宗派を信仰する、 というところにまでは至っていないため、 そのような状態で、檀家寺さんを訪れるのも もしかしたら迷惑になってしまうのかな・・・とも考えてしまいます。 昔からの檀家さんばかりのお寺に、 私のような、仏教初心者が訪れるというのは、 お坊さんの本音として、いかがなものでしょうか? 都市部に足を延ばせば、 私のように、仏教に興味を持ち始めた人でも 気軽に参加できるイベントなどが行われているお寺があるようなので 遠いけれど、そういうものに参加した方が良いのかな・・・とも感じます。
『駆け込み寺』という言葉があるように、なにか迷ったり、困ったりしたらお坊さんの所へ行き、叱咤激励をもらう。 このようなイメージが私にはあります。 しかし、いきなり訪れて事情を説明し、「どうすればいいでしょうか?」というのはお坊さん側からしてみたら少し迷惑じゃないだろうか?という気もあります。 このような素晴らしいサイトもありますし、お坊さんにも優先すべき様々なお仕事があると思います。 しかし、面と向かってでしか話せないことはあると思います。 なので私はいつも「話を聞いてもらいたい。でも……」という状況です。 皆さんはこのことについて、どうお考えでしょうか? ご回答よろしくお願いします。
日々忙しく過ごしており、そんな中でも、静かに、心穏やかに、過ごす時間を作りたいと思っております。 実家は無宗教で、もちろん仏壇などありません。 今は独身で、独り暮らしではありますが、小さな小さな仏壇でよいので準備をして、お経を唱える環境を整えて、静かな時間をつくりたいと考えております。 身内に亡くなった人もおらず、先祖からの決まった宗派はわかりません。 私自身は真言宗への傾倒があり、自分なりに学びを深めてきました。 このような状況で、お経を唱えるというのは、不謹慎なことなのでしょうか。 アドバイスいただけたらと思います。 よろしくお願いいたします。
京都や奈良のような有名で大きな寺がない県に住んでいます。 お参りして御朱印をいただきたいのですが、神社より敷居が高く感じます。特に小さなお寺は敷居が高く感じます。 どうしたらそのように感じなく素直にお参りできますか?
最近初めて座禅会というものに参加しました。 そこでの座禅の目的は、自分の歩む道を見つける為に自分を見つめる。浮かんだ煩悩はちぎって捨てる。無明を捨てれるように煩悩を捨てる、と教えて頂きました。 座禅をしながら自分の反省点を浮かべては、あぁ、ここが悪いから煩悩だ。と悪い点を思い浮かべ捨てるようなイメージ。その繰り返し。 お家でも数分間ですが座禅をしていますが、果たしてこんな感じの座禅でよろしいのでしょうか。 自分を見つめ直し道を見つけるということが難しいように思います。ただ反省点を思い浮かべ捨てるだけ。 どのように座禅と向き合えばよろしいのでしょうか?どのような考えで座禅をしていけばよろしいのでしょうか。座禅について教えて下さい。
私は仏教徒かどうか確認したことはありませんが、仏教徒でなくても写経や写仏の体験をしてもいいのでしょうか。 仏像を眺めることが好きで、京都や奈良などのお寺に行くことがあります。 仏教に関して知識があるわけではありませんが、何故か惹かれるものがあります。 最近、写経や写仏に興味を持ち体験してみたいのですが、仏教徒でないといけないのでしょうか。