家族を亡くして3ヶ月、心を落ち着かせるために、何冊もの仏教書や動画の法話など聞いておりました。いろいろと疑問も出てくるので、大学通信教育で専門に学ぼうとさえ思うようになりました。 しかし、最近は仏教がおとぎ話のように感じるようになり、易行と言われる浄土真宗についても、本当に信じることができる方がいるのだろうか、苦行とさえ思ってしまいます。せっかくの心の拠り所が無くなってしまうのはとても辛いことです。僧侶になられた方はどのように信心を深めていったのでしょうか。
私は精神疾患を持っていますが性格みたいなものだと医師から言われています。 質問ですが、ヴィパッサナー瞑想を行っていて逆に精神疾患の症状が悪化したり自我、我が逆に強烈に強くなってしまうのはなぜでしょうか? メカニズムというか原因といいますか・・・ またその状態におちいった際の対処も教えて頂けると助かります。 この反動みたいなものが日常生活にも影響がでてきて非常に困ります。
祖父の葬儀を境に改めて仏教を学び始めました。 宗派は、曹洞宗です。 お坊様が唱えて下さるお経を理解した上でご先祖様や祖父に手を合わせ今後、向き合いたいと強く感じたからです。また、現在の生活の中でお経について調べる事は、小さな安らぎを感じられる学びの場になっています。 現在の学び方ですが、hasunohaにてお経についての質問をブラッシュアップしたりしながら般若心経や修証義について調べています。 また修証義については、以下の現代語訳をみつつ内容を深めています。しかし、解釈や内容が正しいのか不安もあります。 https://www.zen-essay.com/entry/soujyo そもそも、現代語訳事態がダメでしょうか? 曹洞宗の教えが分かる書物があれば知りたいです。浅い状態ですが曹洞宗の教えに…悟ることすら手放す(悟りたい欲求を手放す)座禅スタイルが凄く衝撃的で素敵な考えでもっと色々と知りたいのです。 また、触れてみた状態な上での発言で恥ずかしいのですが…お経を調べると供養する相手よりも供養する側に対する生きる上での教えを説いている様に感じました。間違ってたらすみません。 余談ですが、普段、お世話になっているお坊様の爺様に法事後、お経について調べている事や内容を理解したいとの相談をしましたら笑顔で学んで来なさいと言って経本を頂きました。宿題を逆に出された気分で終わりましたので次の法事が違う意味で緊張します…。後、曹洞宗の本山は、身近な場所にあるので一度行ってみようと思っています。 ※質問して申し訳ないのですが現在、生活苦なので「お気持ち」は後々にさせて下さい。申し訳ありません。
毎回相談させていただくたびにありがたいご回答を賜り、本当に本当に感謝しております。 毎日夫とともに朝晩仏壇に向き般若心経を唱えています。 私はお経を唱えるとき、精神というか意識が100%完全にお経に集中できていません。 夫が般若心経を読む脇で手を会わせるのがいつものかたちですが、私は亡き娘を思いながらなので生前の娘のあれこれが頭に浮かんで、 娘との面白おかしかったことを思い出したり、仏前に備えてある供花に目がいけば、花がいたんでるから取り替えなきゃいけない→どこの花屋にいこうかな→そういえばいつもいくあの花屋は…などといろいろなことが頭に浮かんできてしまい、 そうしている瞬間は、仏様に気持ちを向ける大事な時であるのはわかっているに、集中できていないということで、 これでは仏様に失礼で供養になっていないのでしょうか。正しく向き合う姿勢はどのようにあるのでしょうか。ご教示いただき改めたいと思います。
いつもご丁寧な回答ありがとうございます。 心願成就についてお尋ねいたします。 どうしても叶えたいことがあり、9月にいつもお世話になっている厄除大師で心願成就をしてもらいました。 その場では「いつまで」ということは明言しませんでした。 家に帰り、毎日お願い事をすることを初めて知ったのですが、毎日お願いをする際の言い方に「いつまで」も言うということを知り、「9月まで」で毎日お願いしていました。 しかし、残念ながら叶う様子はありません。 ですが、どうしても叶えたく、明日からは「今年中」に変えて毎日お願いしたいと考えています。 このようにお願い事は途中で変えても良いのでしょうか? 叶わなかった際は、キッパリ諦めるしかないのでしょうか? また、心願成就をした厄除大師以外の神社・お寺にお参りするのはご法度でしょうか? ご教示よろしくお願い申し上げます。
お坊さま方には彼岸後のご多忙の中、失礼いたします。 我が家は日蓮宗ですが、この質問は宗派関係ないかと思います。 母が先月、救急車で運ばれ肺癌ステージ4と診断されました。 数ヶ月前に、同じ病院でレントゲンを撮ったにも関わらずです。 母はその時分かってくれてたらと話しました、私も同じ気持ちです。 主治医や家族は、時間がないと諦めモードです。 そんな病院の入院生活の中、母は『もっと生きたい、治療をやってみる』と言いました。 一時意識がなくなってもです。 【写経について質問】 母の本当の願い『もっと生きたい』を叶えて頂けるよう行動の一つとして、写経を始めました。 日蓮宗はあまり写経がなかったのですが、観音経をみつけました。 知っているお寺さんが写経を納めて頂けることも分かりました。 初めて写経を納めて頂くので、分からないことがございます。 ①写経をやっている最中に、誤って手で擦たり筆が触れて汚してしまったものも納めて頂けるのでしょうか? やはり汚れなどないもの、所謂きれいに仕上がったものだけでないと、仏さまやお寺さんに失礼に当たるのでしょうか? 私は20年近く精神病(鬱病)を患っており、なかなか集中力が継続しないながらも時折休みながら(日を跨ぎながらも)、書き始めました。 ②万が一、汚れた写経を納めるのは失礼な場合、それは破棄してよいものでしょうか? 【お参り・お礼参りについて】 母の病で、私はずっと神社やお寺を回りました。 縁の深いお寺には、ご祈祷をお願いしました(遠方で行かれないお寺には郵送で)。 自分の病気のせいか、記憶が定かではないのですが、途中母が意識を失った際に、お願いごとに『母の意識が戻りますように』とも加えました。 当病平癒の場合、病気の症状によってお願いが、少し変化しやすいのです。 ③お礼参りは、母の治療の途中、良くなったらその都度行くべきでしょうか? 私の最終的な願いは『母の本当の願いであるもっと生きたいが叶うように』です。 『もっと生きたい』がどのくらいかは分かりません。 例え5年生存率が数パーセントでも、私の本心は『長く生きてほしい』ですし『治ってほしい』です。 拙い文章で申し訳ございません。どうか3つの質問よろしくお願いいたします。
法華経に魅了され、法華経を読み続けていますが、一つだけ気になる点があります。 譬喩品の後半には、法華経を誹謗した者は来世において身体に障がいをもつことや、病人になり死に至ることや皮膚病になることなどが書かれています。 実際にこのような状況にあり苦しんでいる方々がいる中で、法華経のこの部分を理解することがとても難しく、苦しいです。
観音経に出てくる無尽意という方に方について以前よりどういう方か気になっています。 それで、真言宗のお坊様に質問したら80種類位の法門を説く方だと教えて貰いました。 そして、禅宗のお坊さんなら詳しく分かるかもしれないともお聞きしました。 観音経の本や訳を読んでももさっぱり分かりませんでした。
いつもお世話になっております。先日、こちらで、「お寺で、私に だけあれこれ言ってくる怖い奥様」のご相談をしました。それの続きの ようになるのですが、近頃、思った事があります。 「宗教と危険物は、似ている」 適切な管理と用法用量を守れば人の助けになるけれど、盲信… つまり、管理方法や使い方を間違えれば、プシュー、ドカン。 その奥様は、博識で、元から教えたがりの性格のようです。 他の事を話すときは和やかに見えるのですが、仏事の事になると豹変、 「私の知っている事が正しい。私の知っている事を聞け」 といった感じの態度や表情になります。後からお坊様に尋ねると、 「ああいった作法やしきたりは、定めていないよ。そこまで、 こだわらなくてもいい」 と笑っています。もしかしたら、カルトなのかもしれませんが… 家に誘われたこともあるので。 宗教映画を手掛けた、カルト問題にも詳しいある映画監督さんが、 「宗教は、必要ではあるが、危険を伴う」 とおっしゃっていました。なるほどと思いました。 「いい」「悪い」の二極で言うと、宗教は、「いい」事を説いて いるものでしょう。ですが、先述の奥様のように、「私たちが一番 正しい、一番いい」と盲信し、儀式行為等に執着する、つまり、 用法用量や管理方法を間違えると、宗教は、たちまち、「薬」から 「毒」…はたまた、「化学兵器」にもなりえると思います。 この奥様の延長線上が、新興宗教や、海外のテロ組織でしょう。 こちらの問答でも、しばしば、先生方が質問者様に、 「独学は危険なので、お寺のお坊さんに教わってください」 とご助言なさっているのをお見掛けします。 私は、独学の結果か、親鸞上人のお歌にあるような、誤った認識を 持っているご信徒様が多いように感じており、憂慮しております。 「かなしきかなや道俗の 良時吉日えらばしめ 天神地祇をあがめ つつ 卜占祭祀つとめとす」 拝む事だけ熱心で、何かが起きれば、全部「霊」や「神様、仏様」 のせい。祈りというより、たたり信仰。拝んでさえすればいい… 「薬」だったはずの宗教が、「毒」や「化学兵器」になりかけて しまっている印象です。 半分、私の愚痴でした。どうにかしたい、でも、できない。 先生方のご高見、賜りたく存じます。
いつも私の独特な質問におこたえ下さり、ありがとうございます。 お彼岸なのでお参りに行こうと思っているのですが、また不安なことがあります。 お寺の門から入ってすぐ横に、仏様がいらっしゃいます。 私はお寺で仏様に対して酷いことを考えることが度々あり、そちらの仏様に考えた時にも手を合わせて謝っていたのですが、 今日お参りに行く時にも門から出る前に「いつも失礼なことを考え申し訳ございません」と手を合わせた方がいいのか、素通りして良いのか・・・ 謝る時には 1 お辞儀をする 2 合掌して礼拝 3 手を合わせて謝る時に頭を下げる 4 合掌して礼拝 5 お辞儀をする で良いものでしょうか? 門の前で何度も頭を下げている姿を他の人に見られるのも恥ずかしいという思いもあります。お寺に行くのに罪悪感や気の重さを感じています。 また、お寺に行っても、いつも心が乱れていて、酷いことを考えるか謝るかばかりで、感謝の気持ちを伝えなきゃと思ってもその気持ちが不足していてしっかりと伝えられない私がお寺に行く意味は何だろう?そもそも行っていいものなのか?と考えています。 何かアドバイスをいただけないでしょうか。よろしくお願いします。
こんにちは 日本に住んでいる外国人です。 キリスト教で育ってきましたが日本で仏教を出会い、とても素敵だと思っています。仏教について本読んだり、お寺に訪問したりしています。 キリスト教から仏教に改宗するのは可能ですか?仏教の信者になるため儀式ありますか?
私の周りで「引き寄せ」に関して語る人達がいます。 自分が求めている事が叶ったイメージでプラス思考の気持ちで、無意識の所に(?)落とし込むと、忘れた頃に願いが叶っている。 芸能人やスポーツ選手や成功者でも、引き寄せで願いが叶っている。 一番大事なのは自分を幸せな気持ちにさせる事で願いが叶う。 強く思った事は実現すると言っていますが… お寺でも、恋愛成就・全体運アップにご利益がある、願いが叶うお寺と宣伝しているお寺もありますが… 自分が思った事(願った)事は叶う… みたいな考えは仏教でもあるのでしょうか?
先日質問をさせて頂きました。 今回はお盆にあった事と、つい最近あった事についての質問です。 私は曹洞宗です。今年亡くなった祖母は禅宗から浄土真宗になりました。(祖父が浄土真宗だったからです) 祖母の新盆があり、お寺にお参りしてきました。 納骨堂には祖母の遺影を置いてきました。 広場でお経をあげられた後、お坊さんから精霊馬を置いている人は居ないかと聞かれ、皆さん手をあげず、私は自宅では飾って居ますが、手をあげませんでした。 その際、皆さんよく勉強されている、浄土真宗では飾らない、また、故人はお盆には帰ってこない、何故ならもう成仏しているから。と喜々として語られていました。 ちょっとショックでした。 確かに浄土真宗教義ではそうなのですが 言い方を変えると二度亡くなった感じに感じました。 曹洞宗の私は成仏した成仏してないに関わらず、お盆とはそう言う物だと思って居たからです。本来の教義からすると離れるのかもしれませんが、こちらから成仏した成仏してないの確認は出来ませんので、一律に帰ってくるものだと思うようにしていました。 正直今後宗派が違う祖母のお寺のお盆参りには行かない方が良いのかとすら悩みました。 先日祖母の月命日があり、お寺にてお経をあげてもらったそうです。こちらからお願いして頂いたそうです。祖母の納骨堂の前でお経を貰ったそうです。 既に成仏していると言う考えなのであれば、納骨堂の前でするのではなく、本堂の阿弥陀如来の仏像の前でするのではないのか?と思いました。 浄土真宗では納骨堂に意味があるのでしょうか?そこに居ないで阿弥陀如来に手を合わせるのであれば意味が無いのかと思ってしまいます。 そしてそのお寺では死後の菩提寺が無い人に対して浄土真宗になればうちのお寺で対応すると言うような手法を使われているそうなのですが、こういう事は良くあることなのでしょうか? あまり祖父母が浄土真宗としてのお参りなどをこれまでしてきていなかった事と、子供の頃から曹洞宗のお盆で慣れて居た事もあり、面食らって居ます。
仏教では、人間としてこの世に生まれてくることは極めて稀で有り難いとされています。おそらく人間は仏教に出会うことができ、信心により浄土へ往生できることを知ることができるから有り難いのだと解釈しています。 では、信心を得てから死ぬまでは、この苦しい世の中で、何のために生きているのでしょうか。浄土へ行けることへの感謝を、この世で恩返して過ごすということなのでしょうか。
こんにちは。今回、正信偈についてお伺いしたいことがあり、質問させていただきます。 先月亡くなった祖父のことが何かにつけて思い出されるのですが、自分なりの方法で供養をしてあげたいと思っていたところ、祖父自身が「両親(私から見て曾祖父母)の供養のため」として正信偈を書写していたことを思い出しました。15年ほど前のことになります。生前に書き残したものによると、長年交友のあった知人の方から書写を勧められたとのことです。 こうした祖父のおこないに自分自身を重複させることで、祖父の旅立ちが安らかなものになるようにしたいと思っています。同じ浄土真宗でも唱え方は宗派によって少し異なるようですが、書写に際して気をつけるべきことがありましたら教えていただきたいです。本当は法要でお経を上げてくださったお坊さんにお尋ねするべきなのですが、孫の私が聞くのも差し出がましい気がして、この場で質問してみようと思いました。 正信偈のなかで説かれている教えについてもこれから勉強していかなければならないような段階ですが、何卒よろしくお願いいたします。
お疲れ様です。北風小僧と申します。 今回の質問は 自分自身が自殺したい云々では無く、 仏教的な観点から見て "自殺"とは一体何なのか。 そこに興味を持って質問させて 頂きたく思います。 まず、なぜそう思ったのかと言うと 趣味で歴史や宗教について 調べていたところ、 様々な方が論文やブログ等で 自殺とは仏教において "許される"のか"許されない"のか という点に触れておりました。 人によって 「お釈迦様が自殺について明確に咎めた記述は無いから許される。」 という方、 「動物に対する殺生をそもそも禁じているのだから人間も動物だし、自らを殺めることは許されない」 という方、 十人十色の見解があり、非常に興味深かったです。 そこで、 「お坊さんの考えはどうなんだろう?」 と思いました。 是非とも多くのお坊さんにお答え頂きたいです。 どうかよろしくお願い致します。
最近、家族を亡くして仏教の本を読むようになりました。 浄土真宗では、浄土へ往生すると、またこの世へ戻り人々を救うとあります。 浄土へ往生できても、また苦しいこの世へ生まれ変わるのでは、救われた気がしません。還相が、前世で学べなかったことへの機会が与えられる慈悲ということでしょうか。また、現世に戻って生きるなかで、ある人にとっては、私の行動が救いになるということでしょうか。
仏教のどの教えがオススメとか、私は仏教のここが好きとか、もしあれば教えてください。 一人で仏教を勉強することに疲れました。 薬物依存の治療中の友達のいない一人暮らしの無職の男です。 よろしくお願いします。
先日、NHKで『戦禍のなかの僧侶たち〜浄土真宗本願寺派と戦争〜』という番組が放映されていました。 日中戦争、太平洋戦争の戦時下の動員に仏教自らも(当番組では対象を同派としていましたが、国民総動員法の元ですので宗派に関係はないと思います)戦争に加担してしまった、その実態を取材した内容でした。 77年前のはいえ、生々しい出来事の記憶です。 一方、日本史という仏教が伝来し、今日に至るまでの長い目で見たとき、お坊さんはある時、僧「兵」でもありました。また、信仰のため、民衆のため、中々アグレッシブな姿になる事もあったと思います。 私は、仏教については高校の教科書程度の知識しか持っていませんが、印象としては「穏やかな宗教」といったものです。 例えば、キリスト教やイスラームには「聖戦」という教義がありますよね。 では、仏教ないし仏教徒が「戦う」とき、戦いを「是」とする考え方はあるのでしょうか? もちろん、それぞれの事象の背景には「そうなる経緯」があります。ですので、一概には言えないと思いますが、こんな考え方、こんな教義があるというものがあれば、宗派関係なくご教示願いたいです。 あと、これは愚痴?ですが、いつも戦時下の鉄の供出にはがっかりします…お寺さんの鐘もさぞかし由緒があったろうに…。 お忙しい中とは思いますが、ご回答をよろしくお願い致します。