釈尊は自己の体は虚しいものだし生老病死は必ず来るものですし執着する価値がないといってるように解釈しております。 また私は今1日8時間程度用事を作ったりして意識的に体を動かすなどをしています。 釈尊がいっているように執着で運動したところでいつかは病気になるんだし無意味だとしても出来るだけ医学が推奨するように執着的な健康な行動(ウォーキングや食事、プログラム的に体を動かす)などをしていったほうが単純に得ではないでしょうか。 お坊様方のような清い心を持っていれば運動も食事も自然に健康的になるとおもいますが、今!人格的に未熟で運動ができないため、執着的な運動をしてでも奇病や早期的病気や腰痛足痛などを予防することを釈尊は実際どう仰っていますでしょうか。 人格が未熟で運動できないのが原因で病気になったとしても気にとめないということでしょうか。 ブッダの言葉(どこかの記事でブッダの言葉で体を動かすことにかまけないことと見たことがあります。)や一部動画ででてるような説法を聞いてもいまいち理解できていない状況です。 そもそもの私の解釈の違いなどがあればぜひともお教え頂ければと思います。よろしくお願い致します。
私は数年前に自分の意思で浄土宗を選びましたが、現世利益も欲しい俗物なのでこの初詣には真言・天台のお寺に観音菩薩を拝みに行ったりもしました。参拝に行くとこの両宗のお寺はきらびやかで拝み応えがありますね(笑) 天台宗の念仏部門が独立してできたのが浄土宗だとするなら、こんな僕は天台宗の方が合っているのではないかとか、真言宗でも僕の周りには新義真言宗のお寺が多いのでそれなら阿弥陀信仰と現世利益を両立できるのではないか……などと心が少し揺れています。 ただ、浄土宗には在家者の往生の方法として称名念仏がハッキリと確立されていますが、真言宗や天台宗では僧侶ではない在家者は何をすれば成仏・往生できるのでしょうか? そんな方法論が無いから法然上人は凡夫のために浄土宗を開いたのさと言われればその通りかもしれませんが……。 枝葉たる現世利益を求める余りに本幹たる往生・成仏の道筋を失う改宗なら本末転倒だよなと思っています。
アレルギーや疲労やストレスで定期的に通院し服薬をしていますが、しんどい時があるので、写経の願文に心身回復健康祈願と書いたのですが、問題は無いでしょうか?
どのような縁で悟りと呼ばれるものが明確になったのか、その時の話を聞きたいです。そしてその後それによって生き方にどのような作用がもたらされましたか? よろしくお願いします。
いつも私の独特な質問にお答えいただきありがとうございます。 大晦日の夜に仏様、ご先祖様に1年間のお礼と謝罪のために自分の部屋で(仏壇はありません)手を合わせようと思っていますが、不安なことがあります。 浄土真宗のサイトで「数珠を持たずに合掌をすることは仏様を手づかみにする失礼なこと」と書かれたものを読みました。 部屋で手を合わせる時にも毎回数珠が必要でしょうか? 私は独身で、実家(父方)は曹洞宗ですが母方の亡くなった祖父母は浄土真宗です。数珠の持ち方や念仏も違いますが、別々に手を合わせた方がいいでしょうか? 考えてみると、ご先祖様には曹洞宗や浄土真宗じゃないご先祖様もいらっしゃる・・・と思うと、どの宗派で数珠を持ち、どの念仏を唱えるのがいいのか、頭の中がごちゃごちゃになってしまいました。 また、仏様とご先祖様と亡くなった祖父母と、一度に手を合わせても失礼にはあたらないでしょうか? 不安な点が多くあり、たくさん質問してすみません。よろしくお願い致します。
仏教の示す所は「事実がある。あとは妄想」という事で合ってますか。そしてその事実に嘘をつかない生き方を「修行」と言っているのでしょうか。 言葉の示しているものへの誤解釈があればご指摘をお願いします。
私は十年以上前でしょうか、ずいぶんとこじらせニヒリズムにずっと苦しめられました。 生い立ちから、何でもかんでも疑って、ここにいる私の存在もよくわからなくなって頭の中ぐるぐる。 そんなあるときアメリカの芸術家が孤独に地下室でつくり続けた一連の作品と、その作品に捧げられたオマージュの詩の美しさに心を鷲づかみにされ、 この美があれば孤独で、否定されどおしだった人生も、たとえ人間存在に意味がなくてもいい、救われる、という思いを抱き支えになりました。 私自身、小説をはじめとした文学を学ぶ大学の創作コースで研鑽し、自分を、誰かを救えないかと思っていました。 そんななか、スマナサーラ師の動画を拝見していて師が文化、芸術の意味を問われて、私にとってはそれらは子供のおもちゃみたいなものという趣旨のことをおっしゃられました。 美にしても一つの執着、ということなのでしょうか? 芸術も、短期的に、ということなのかもしれないのですがその他の苦を紛らわすというか、得られない愛とか得られない社会的成功とかを相対化してそれらからの苦しみからは解き放ってくれるのでそこに固執しなければ歩いてゆく杖になるのではとも思うんですがどう考えたらよいのでしょうか。
2ヶ月ぐらい前に鶴見の総持寺に参拝したのですが、瓦志納の貼紙を拝見し7口奉納致しました。 瓦の意味は分かるのですが、志納とはどういう意味でしょうか?
hasunohaでの問答で盗賊、奴隷少女、瀕死の老人などが釈尊の詩を一節聞いたくらいでワンサカ悟った。 らしいですが、釈尊の周りにいた修行者は(無知なので詳しくないですが、釈尊が住んでいた僧院?にいた修行者)みな悟った方々ばかりだったのでしょうか。
真言宗の家でお遍路にも行きだして気がついたのですが、本気で邪念なしに叶えたい願いがあり、本格的なお祈りがしたいことに気がついたことです。心願成就でしょうか。 でもなにからやったらいいのかわかりません。 今私が心願成就のためにやめたいと思ってることは、タバコを吸うことと、時々怒りっぽくなることと、占い師に頼ること、お金を使いすぎることがあるということです。 それをやめたら願いか叶うかというとそうでもないかもしれませんが、これを少しずつでもいいからやめたいことと、一般人が本当に仏様にお祈りするということはどういうことなのか教えていただきたいです。
仏教用語?で執着ってあるみたいですが、その執着心が問題であると説かれてるようですが、私は依存心が強いのでよく依存状態になりやすいし抜け出しにくいです。 具体的に執着心が芽生えたらどう切り離す?切り抜けたらいいんでしょうか。 ただの現象なので耐え抜くだけでしょうか。
大金剛輪陀羅尼について教えてください。 大金剛輪陀羅尼を覚えようと思い調べたのですが、 『ジビキャナン サルバ タタギャタナン』 と書いてあったのですが、YouTubeで大金剛輪陀羅尼を唱えているお坊さんの動画を見ると 『ジビキャナン タタギャタナン』 と『サルバ』が抜けてるのですが、どちらが正しいのでしょうか? 『サルバ』は唱えても唱えなくてもどっちでもいいのでしょうか??
仏教では色即是空空即是色とされていますが、全てが無であるならば、なぜ人間は苦の中で生きるのでしょうか。 生きたり、そのために働いたりする意味がわかりません。
こんばんは。 お寺にお参りする時に、お経とお線香と蝋燭とライターを持って行ってるのですが、間違いはないでしょうか?
ここ1.2年よく生きる意味を考えます。そこでネットで調べたら仏教での生きる意味や、それに連なる数々の話が出てきました。 それで形から入ってみようと、両手を合わせて生きる意味を考えようとしました。すると不思議と落ち着き、考えもまとまり辛さも軽減しました。 またすぐツイッターやYouTubeを見ようとするので、そのたびに煩悩、煩悩とつぶやくと意外と自分を制することができます。 すごいと思ったので、手を合わせる時に使おうと、ネットでちゃんとした数珠も買いました。 そこで、ふと思いました。自分は無宗教なのに手を合わせていいのか、数珠や数珠のブレスレットを身に着けていいのか、仏教の教えの美味しい所だけを掬っていいのか。自分に合う宗派も探して、自分と向き合う臨済宗が少し気になりました。 このような場合はどうすればよいのでしょうか、宗派に入らないといけないのでしょうか。また入信しなくても仏教徒を名乗ったり、数珠や、手を合わせるのはよいのでしょうか。 また少し浅はかだと思うのですが、臨済宗が少し気に入ってしまったので(響きがかっこよかったり、ぱっと見の教えが良かった)臨済宗用の数珠ブレスレットは身に着けてよいのでしょうか。これもちゃんと入信してからの方がよいのでしょうか。 多くてすみません、勝手に仏教徒を名乗る場合、自分は無宗教ではなくなり「自分は臨済宗だよ」となると思うのですが、それでゆくゆく臨済宗がしっくりこなくなり、他の宗、たとえば浄土真宗でしたら、急に「今は浄土真宗を信じてる」などと変えてよいのでしょうか。それとも一つ一つ手続きをしなければならないのですか? 宗教に触れてこなさすぎた為、どこまで許されるのか、こんな手軽に名乗れるわけがないと思ってしまいます。 長々と失礼しましたが、よろしくお願いいたします。
私の母親が54歳で自ら命を絶ちました。 母親は約25年統合失調症と戦いました。 最近は精神症状は昔ほどひどくないかわりに、手足のシビレや脱力に悩まされ。 排便や移動などを父親が介護する場面も多々あったようです。 本人は父親や周りの方に迷惑をかけてしまっていることや、自分で自分のことができないことで精神的に落ちていたようでした。その日は父親が仕事に出かけるため訪問看護の方がくる予定でしたが、訪問看護の方がきたときにはベッド柵にベルトをかけ亡くなっていたようです。まだ暖かっかったとの状況も聞きました。 手足のしびれと戦い、25年間も精神的な病と闘い。家族としてはとても頑張って生きていたと思っています。亡くなっていたその顔も窒息とゆう要因ながら、とても穏やかだったそうです。本人も辛さからも解放されたのかなと考えることしかできません。 ですがネットなどを調べていると、自害した人はあの世にいってもとてつもない苦しみを与えられる、いわゆる天国?という場所には行けないなどという情報がたくさんあり、今後の母親のことがとても心配です。 残された遺族が、49日までの7日ごとの供養以外できることはありますでしょうか? この世で苦しんだ分、少しでも楽にしてあげたいです。 読みずらい文法、文脈で申し訳ありません。お時間がありましたらお答えください。
仏教では 宗派が違うとあの世で別れ別れ 霊になっても生き別れになる と言う解釈になるのですか? 私は歴史小説などを読むのが好きです そこで出てきた話ですが 徳川家康が亡くなる前、病床で藤堂高虎(伊勢国津藩主)に対して 「宗派が違うからあの世では会うこともできない、今が名残惜しい」 のようなことを言い 藤堂高虎が 徳川家康と同じ宗派に改宗した と言う話があります。 これは 仏教では当たり前の考え方ですか? もし仏教ではなく、結婚や養子縁組などで 相手の宗派だけでなく宗教そのものまで違っていた場合 あの世ではもう会えないという考え方が一般的なのですか? ちなみに 徳川将軍家の菩提寺は 増上寺と寛永寺があったと思うのですが 宗派は違います。 どちらに葬られるかはそれぞれの将軍が遺言を残していたと思うのですが 先代将軍と違う寺に葬ってほしいと遺言した場合は 父親、兄、養父などには会えないで構わないという気持ちだったのでしょうか? そうなると 徳川家の血筋で かつ 江戸時代後期は 養子縁組を繰り返した 会津藩の場合は 代々仏教ではなく 神道でしたが 養子に出る→死後は親に会えない と言う覚悟が必要でしたか?
大変失礼な質問かもしれませんが、聞ける人がいないのでお願いします。嫌味でなく素直な疑問です。 仏は実際には助けてくれない(祈っても病気が治るわけではない)と言いますが、それならなぜお寺はお守りを売るんでしょうか? 私は子供の頃、神社仏閣で「病気平癒」とあるので「これで治してくれるんだ」と本気で信じていました。なので大変裏切られた思いをしたことがあります。 現在は「超常的な存在が良い人間を助けてくれる」という考えは本当の仏教ではない、あくまで学問という風潮ですが、ならなぜお守りを売ったり祈祷するんでしょう? 施餓鬼や戒名などで、なぜ「これで〇〇が良くなるよ」とするのですか。故人が対象だと、「故人には幸せでいてほしい」という感情を利用されているようで、複雑な気持ちになります。 お寺や宗派によって違いはあると思いますが、よければ教えてください。
24歳の男です。 もしも今死んだらどうなるんですか? 49日であの世に行くんですか? どうやってあの世行くんですか? 極楽に行けますか? あの世でもう亡くなった祖父に会えますか? 病気で死ぬのも事故で死ぬもの自殺も同じですか? 素朴な疑問です。質問攻めですいません。