感情が無い、肉体、つまりただの「物質」になれという事とはまた違うのでしょうか?
みなさまから今まで頂いたご回答から、仏教は耐えるという教えだ、ということを学ばせて頂きました。 そこでなのですが、苦しみがないよう対策をとる(犯罪対策や、関わったら危険な人へちかづかないなど)ことなどはもちろんした上で、でいいのですよね? 例えば目の前に水があり、喉がかわいたらのむ、これでいいのですよね。のまずに喉のかわきにたえる、という教えではなく。ただ「ここには水しかないの?ジュースがいいのに」などの不要な欲から離れる、ということでいいでしょうか。
この掲示板に2度目の質問をしに来た者です 本日もよろしくお願いします 最近仏教について色々調べたんですが 仏教にも原始仏教と大乗仏教があるそうですね そしてそれぞれの宗派ではお釈迦様に対する供述が違うようで・・・? どちらを信じればいいかわからないのですが なんとなく原始仏教のお釈迦様について考えることにしました そしてある疑問にぶつかりました お釈迦様は全ての煩悩を絶って涅槃入滅されたんですよね? そして輪廻の輪から出て2度と生まれてくる必要もなくなった それなのになぜ人々を救おうとするのですか? 人々を救おうとする考え自体も煩悩なのではないのですか? 五陰盛苦?を超越して全く煩悩がない白紙の状態になると一切の考えはもはや沸き起こらなくなり 人々を救おうなどとも考えなくなるんじゃないんですかね? たとえ当初のお釈迦様は人々を救いたいために修行してても 涅槃入滅した状態になるともう昔のことなんてどうでもいいやってなるんじゃないですかね? それなのにお釈迦様はまた人間界に戻って人々を救おうとしてるのはなぜですか? お答え出来る方がいらっしゃったらお答えください
御朱印を頂きに行き、賽銭を入れようかと思い境内を見回しても賽銭箱が無いお寺さんがあるのですが、そういった場合はどのようにした方が良いのでしょうか? また「御朱印を頂きたいんですけど」とお尋ねしたら、「住職の方は、今、手が離せないです。」とお断りの言葉が返ってきました。 しかも、その日は丁度、お昼時で御迷惑だったのでしょうか?
ご閲覧頂きありがとうございます。 仏教から見た「他者を助けること」について教えて頂きたいです。 仏教では相手の苦しみを理解し取り除くという慈悲がありますが、どれくらいの意気込み(?)のものなのかよくわかりません。 例えば、困ってる人が近くにいたらできるだけ力になろうと努力する、というくらいなのか 、自分のことを後回しにしてでも助けようとするのか、全てを投げ捨ててでも助けるものなのか、死を覚悟してでも助けるのか…… 仏教ではどのように説かれていますか?よろしくお願いいたします
以前に親の事でご相談しましたがその際に、浅はかだ、最低だ、愛情は無いなど、親に対する誹謗を書き連ねました。正直な気持ちとはいえ少々言い過ぎな気がして窘められるのではと思いましたが、それに対してのお言葉はありませんでした。 また他の方の投稿を拝見していますと、親とはいえ所詮は他人、親から離れなさい、とアドバイスされているお坊さまがいらっしゃいました。 宗教に限った事ではないですが、先祖や肉親の関係は大事にして然るべきものと思っていましたので、意外な気がします。(私自身の事は横に置かせていただきます(汗)) 仏教では親兄弟など肉親を、どう捉えるのでしょうか。
ここには沢山のお坊様がいると聞いたので見参しました よろしくお願いします では早速質問 仏教の基本の教えは釈迦様が説いた右でもない左でもない上でもない下でもない中道で その位置にこそ美しい琴の音を響かせる軸の位置があるという考えですよね でも仏教の教え自体が中道の位置からずれてる気がします たとえば教えの一つである因果関係とは良いことをすると良いものが返って来ることですよね でも本当に良いことをすると良いことが返って来るのか?答えYESだったりNOだと中道の位置の考えから右や左や上や下にずれてしまうのでは・・・ 同じように煩悩をなくして無になれば苦から逃れられるという教えも 本当に煩悩をなくして無になれば苦からのがれられるのか?答えYESだったりNOだと・・・ このように仏教の全ての教え自体がYESとNOに偏ってて釈迦様の基本の教えである中道の考えからずれてる気がします もしかしたら私自身が白痴であり中道の考えやお釈迦様の考えをよく理解してないのかもしれないかもしれません もしそうでしたら誰か教えてください
今、母が受けた新興宗教を亡き母の代わりにしています。先祖供養という宗教でお金も会費だけであまりかからないのですが、今起こる事は過去世に自分がしてきた事だから、ご先祖さんにお経をあげて救わせてもらって因縁さんに謝る。という考えです。自分のした事は返ってくる。というのは聞いた事がありますが、本当にそうなのでしょうか?宗教を否定するわけでもなく、一生懸命されている方は素晴らしいなぁ。と思いますが、自分の未熟さなのか、新興宗教をしていない時でも事故に遭っても無傷だったり、ご先祖さんに守って頂いてるように思い、今の宗教に半信半疑でいます。家は浄土真宗なので、やめようと思いますが、悪いものではないと思うので、正直迷っています。それがある事で悩むようなら、やめたほうがいいでしょうか?よろしくお願いいたします。
ご閲覧ありがとうございます。仏陀の教えについて知りたく本を購入したのですが、しょっぱなから疑問が多数あり行き詰まっています。もしよろしければ以下の質問にお答え頂きたいです。 さいの角より 1「また子を欲するなかれ。」 とこの後の 2「況んや朋友をや。」 3「愛情にしたがってこの苦しみが起こる。愛情からわざわいの生ずるのを観察して、さいの角のようにただ独り歩め」 4「朋友、親友に憐れみをかけ、心がほだされるとおのが利を失う。親しみにはこの恐れのあることを観察して、さいの角のようにただ独り歩め」 1、子を欲しがるなとは、どういう意味でしょうか?見たまま考えると人類が終わってしまいます。読解力のない私にお釈迦様の意をどうかお教え下さい。 2、これは「精神的な自立を完全に目指すためには、他者に依存してはいけない。また、友とは欲しがらなくてもできるものである」という意ととらえましたが自信がありません。 3愛情はわざわいのもととなるので、愛情を持つな、という意味ではないと思うのですが私には他の答えを見つけられませんでした。 4こちらもまた私が考えても、自分が損をするので友人が困っていても助けるな、親しみをもつな、となってしまいます。これは損をするけどそれも含め理解した上で友人を助けよ、ということでしょうか。 このように、私の読解力ではお釈迦様の考えは非常に破滅的で自立というより孤立しそうなのですが、もちろん本当はこのようなことではないと思っています。 しかし、ネットで色々調べていると「釈迦の考えは非常に危険なものである」「釈迦の教えは一生独身ニートになることである」とする本まで出てきて、よくわからなくなってしまいます。 まだ読んで本当に最初の方なのにこんなに行き詰まって大丈夫でしょうか。 今後の人生にかかわるほど自分に重大、必要なことが書かれていると感じるのに、頭も要領も悪い自分に理解できるものなのか不安で仕方がありません。
妙法蓮華経の天台宗での読誦についての質問があります。 日蓮宗諸派では、方便品、如来寿量品、如来神力品、普門品を主に唱えて、他の品も時には読誦するようですが、 天台宗では方便品、如来寿量品、如来神力品、普門品以外で 読誦することがある品は何があるでしょうか? 天台宗以外の僧侶の方の回答も大歓迎です。 また、妙法蓮華経を理解するには、どの品が一番重要でしょうか? 二番目の質問では天台宗諸派や日蓮宗諸派の僧侶にもできればお聞きしたいです。 大きな質問になってしまいましたが、申し訳ありません。
はじめまして、瑠璃と申します。 私は子供が大好きで、また、子供を育てる全ての方々を尊く思います。 しかし、私は生きることは苦であるということを徹底的に思い知ってしまっため、子供を産もうと思いません。 そして、子供を産む意志が無いことを結婚を前提にお付き合いさせていただいている方にお伝えしたところ、私との別れを考えているようです。 私は、生きることが苦であると知って安心しました。 煩悩を捨てる、お釈迦様の道を歩みたいです。 それなのに、まだ少し、お別れは辛いです。 お知恵を拝借出来たらと思います。 よろしくお願い致します。
悩みは実家の事です。 三年前に両親が亡くなり兄弟三人(兄二人)で遺産分割をしたのですが、私が実家を相続したのですが、雪が降る地域のため、持ってるだけで経費がかかるため売りに出してるのですが、先祖代々の仏壇とお墓、檀家にもなっています。 次男の兄は神奈川県に居るのですが嫁さんも三年前に亡くして仏壇とお墓を買いまして、『実家が売れたら実家の佛事はこっちに移してもいいよ。』と言ってくれたのですが、実家のお寺が今年、永代供養を建てると言ってまして正直迷ってます。先祖代々としては無くさないのが一番だと思いますが実家を受け継ぐ者も居ない今後どうしたら良いのでしょうか? ※長男とはいろいろあって絶縁状態なので、帰る事はありません
問5366 を拝見して、思い出したのです。 http://hasunoha.jp/questions/5366 既にいったん行き詰まった、混乱した者には、何かちょっと、持たせてやらねばと思ってしまうのです。 その上つい説き【すぎて】しまうのは、全く己の弱さのなせるところなのですが。 かつて行き詰まった己を動かしたのは、偶然手に取った本でした。 支持以上の、なにか実践的きっかけのようなものが、必要だったのです。 そういえば、対機説法というそうですが(問1099ほか)、釈迦はいかに聞き、いかに応えたのでしょうか。 思索の深まる答を欲します。
以前、般若心経について書かれた本を家で見つけ、読んでみました。 その中に、「お釈迦様の幸せとは」というタイトルがありました。 私にとっての幸せは、無い物ねだりというのもありますが、心豊かに善の道へ進むことだと思っています。 しかし、生は苦と言いますし、なかなか実現しにくい、ただの欲望なのでしょうか。 お釈迦様の幸せなことって、なんでしょうか。 いろいろな考えを聞けると嬉しいです。
「他力本願」という言葉を、先日法事でのお説教で聞きました。とてもありがたい考え方だなと思ったのと同時に、少し腑に落ちないところもありました。 現代人のためか、「自分で努力して得た結果は自分の功績」という考え方が自分でも世間でも当たり前のようになっています。支えてくれる周りの環境や近しい人々の支えがあってこそという考えももちろんわかりますし、それがなければ絶対一人では何一つできないだろうと自分でも実感があるのですが、自分で何かをしたことも紛れもない事実なのに、それをまるでなかったことのようにしてしまうととてもがっかりすると思います。ひどい時は卑屈になることもあります。 他力本願という考え方をちょうどよく受け入れていくために、「自分自身」というものと「自分の行い」とをどのように折り合いを付けて考えていけばいいのでしょうか。心構えのようなものを伺いたく存じます。よろしくお願いいたします。
釈迦の入滅後、弥勒菩薩様が56億7000万年後に出現なさるまでの間を、地蔵菩薩様が六道をお救いなさるという話を耳にしました。 そこで、初歩的な質問で申し訳ありませんが、地蔵菩薩様の救いとはどの様なものなのでしょうか。
最初の質問は、言葉足りずでしたのでもう少し付け加えます。 法名を頂いた当時は浄土真宗でした。 ずっとそうしていたかったのですが事情があって 転居をする事になり、ご住職さまにも事情を話しご理解を頂いております。 近くに同じ宗派がなかった事もあり今のお寺さまにお世話になる事となりました。
浄土真宗のご本尊さまは 阿弥陀如来さまとお聞きしました ですが 法名に釈と付くのはお釈迦さまの お弟子さんになるとお聞きしたのですが なぜ阿弥陀如来さまのお弟子さんでは ないのでしょう?
浄土真宗のお寺でお世話になっておりました。 西本願寺でおかみそりを受け、法名を頂いておりますが、訳あって他宗の檀家になりました。 自分が亡くなると頂いてある法名から「釈」のみ省かれるのでしょうか?
御朱印を頂きにお寺さん周りや神社さん周りをしています。 住職さんや宮司さんは迷惑なのでしょうか? また、今、ひそかな御朱印ブームですが、住職さんや宮司さんはどのように思っているのでしょうか?