チベット仏教について調べておりますが、「一時的な常住」という言葉のがどうしてもよくわかりません。 ツオンカパによると常住とは「それ自体が消滅しないこと」だそうですが、これは一体どういう意味でしょうか? 一見永遠の実体を肯定しているようにも見えますが・・・。 また、「常住な物には未来(未だ生起していない状態)も現在(現に生起している状態)も過去(既に消滅した状態)もない、非時間的(dus bral)な存在である」、というのはどういう意味でしょうか?
原始仏教や小乗仏教、南伝仏教では夢精さえ厳禁らしいです。 夢精を予防する方法を教えてほしいと思います。 苦行や節制、断食や瞑想によりチャクラを開き、一応プラーナも見えてきました。 もっともっと高みの世界を目指すために。 夢精をしてしまうことに大変困っています。 知恵を分けてほしいと思います。
コラムパがツオンカパの時間論をどのように批判したのか、 またツオンカパがコラムパに対してどのように反論したのか教えて頂けませんでしょうか? 以下の文章はCINIIから抜粋したものです。 コラムパが「「消滅状 態」の連鎖が無限に起こるというツォンカパの見解」をどのように批判したのか、 またツオンカパがどのように反論したのか、 手元に該当する書籍がないのでさっぱりであります。 「ある有情が業を積むと,直ちにその業は消滅し「業の消滅状態」 と呼ばれる事物が発生する. ツォンカパの理解する帰謬派説では「業の 消滅状態」も刹那的存在であるので,それが生起した次の刹那には消滅 し 「業の消滅状態の消滅状態」が発生する。 このようにして「消滅状 態」の連鎖が無限に起こるというツォンカパの見解は,後にサキャ派の コラムパによって批判されている.」
長年の病が明けて、現在暇です。仕事なんかを考えているのですけど、リハビリが必要です。 御坊様、私はキリスト教の洗礼を受けているのですが、思うところあって通っていません。日曜礼拝のように、仏教者の集まりはないのでしょうか。 神奈川県伊勢原市に住んでいます。私は金がなくて、、、。 よろしくお願いします。
お線香が切れてしまいました。今、家にあるのは、インドの長い棒状のお香です。 何もないよりいいかと思い、今朝はそれを使いましたが、代用になるのでしょうか? あと、お寺で売っている箱のお線香とスーパーや百貨店などの箱のお線香で付加価値に違いはありますか? 例えば、お寺のお線香は、境内にあったものだから清められているとか、お経があがっているとか、そのようなことがあれば、教えてください。
仏教でいう「お浄土と地獄」。キリスト教の「天国と地獄」 お浄土と天国、呼び名が違うだけで、同じ所だと思いますか? 地獄もまた、同じ場所だと思いますか? 私の娘は仏教で供養して頂いていますが、 もしも、私がこの先、 仏様を信じられなくなって、違う宗教を信じたら お坊さんは、私が死んでも、娘には会えなくなると思いますか?
いつも回答有難うございます<(_ _)> YouTubeの法話(浄土真宗系)をよく聴きます。 ある法話で阿弥陀如来は 「そのまんまで救われる」とか 「すでに誓願に叶われている身である」 などと全て者は救われると説かれてます。 が、疑問があります。 第十八願には五逆の罪は救わないと説かれてます。 さてこれは、どのように受け止めればいいのでしょうか? ※五逆の罪 すなわち (1)母を殺すこと (2)父を殺すこと (3)僧(阿羅漢)を殺すこと (4)仏の身体を傷つけること (5)教団の和合一致を破壊すること また、日蓮聖人は「念仏を唱える者は無間地獄に落ちる」とも言って、日蓮系や新興宗教の中では第十八願の五逆罪を除くの部分を指して邪宗と理由付けます。 第十八願の五逆罪の除く部分が凄く引っかかるのです。 阿弥陀如来は、全て者を救うのか?救わないのか? 教えて下さい、よろしくお願いします。
友人の誘いで仏教系の新興宗教?に顔を出しています。 宗教といっても、軽いサークルのような所です。 それは置いておいて。 今ある環境が私はとても苦しく大変だなと感じているんですが、これもお釈迦様の計らいというものでしょうか? 私を成長させるために仕向けたものなのですかね。そんな感じで言われたのですが。 最初は納得するのですが後で本当かなぁとちょっと疑ってしまいます。 教えを聞いて、納得して、疑問に思っての繰り返しです。 相手を変えないで自分が変わる、親や先祖を大事に。感謝。 人としての基本だと思うことを教えていただいて、実践しています。 ただ、私が若いせいか、親や親戚が宗教=危ない という考え方でちょっと探るために知り合いが宗教を〜と話すとやってはいけないと言われます。 なので通っていることは秘密です。 そこは生活の制限など何かをしてはいけないというのは全くないので、たまに顔出して色んな人の悩みを聞かせていただいています。 色んな宗教があって、中には危ない場所もありますが全部が全部悪いわけじゃないですよね。若い私たちは、安全な宗教とそうじゃない所を見極める必要がありますが。 しかし宗教をやってない人には言えないこの罪悪感はなんなのでしょうか。
心が強くなれそうと言う単純な理由で、座禅を始めました。 始めて見たら、座禅より、仏教の教えを勉強する方が、心のささえになるのではと思うようになり、座禅の意味が良く判らなくなりました。 座禅は、仏教の教えのひとつなのか? 仏教の教えと、座禅は、同列でどちらも仏教の修行なのか? 座禅で悟りを開いたものが、仏教の教えも理解出来るようになるのか? 仏教の教えを理解したものが、座禅で悟りを開けるのか? 初歩的な質問で凝縮ですが、教えて頂けますでしょうか?
真宗大谷派の門徒です。 仏教に興味があります 法蔵菩薩は、48の誓願をかがえて阿弥陀如来になったと言われてますが、最後に誰を救って如来になったのでしょうか? 人や菩薩は次々と生まれ、南無阿弥陀仏と唱えていくので、終わる事のない営みの中で、「これでよし如来になれた‼」と言うタイミングは何時、誰を救った時なんでしょうか? それと すでに阿弥陀如来に救われているとよく法話で説かれてますが、「救われている」自覚ないのは信心がないのではと思います。 救われていると言う感覚(自覚)はどのように感じるのでしょうか?
十三仏が密教系であるとお坊さんからちらっと聞いたことがあるのですが、調べても関係性がよくわかりませんでした…。 どの宗派も御本尊様がいらっしゃるのに、どうして十三仏は密教系なのでしょうか? 初歩的な質問で申し訳ないのですが、初心者の私にもわかるように教えて頂けると幸いです。
幼少期から生きることに苦痛を感じ、死んでしまいたいと思い、「なぜ生きるべきのか?」という疑問を己の中に持ち続け、考え続けてきました。 そして、たくさんの本を読み、哲学を学び、経験し、行きついた先が仏教の教えでした。 仏教の教えをお坊様から学びたいです。本から仏教を学ぶのも良いとは思いますが、恥ずかしながら文字から真意をくみ取る読書は不得手でして、お坊様との対話を通して仏教を学びたいと考えております。 仏教をお坊様から学ぶためには具体的にどうすればよいのですか?また、いろいろな宗派がございますが、どの宗派の仏門を叩けばよいですか? そして、将来的にはお坊さんになりたいと考えております。あまりお坊様について詳しく知らないので、よくわかりませんが、他の仕事(例えば建築士)をしながらお坊さんになることはできますか? 蛇足かもしれませんが、自分は地方都市の大学で専門的な勉強をしており、hasunohaに登録されている真言宗のお寺が、通える距離にあります。
少し前に質問させて頂いた者なのですが、その時にあるお坊様の方から「見方次第ですが、縁起には重大な欠点があります」との御回答を頂いたのですが、 果たして縁起の欠点とはどういうものなのでしょうか? 自分でも明確な答えを出せないままなのですが、強いて言うならば 私のような凡夫がお釈迦様の教えである縁起を間違って解釈してしまうことで、 本来執着を捨てる為の教えである縁起が、更に強い執着を生み出してしまうからだ、と解しました。 どうか皆様のご意見をお聞かせ頂けませんでしょうか?
自灯明 法灯明なのですが、 どんな素晴らしい教えも その教えを鵜呑みにするのではなく 本当にそうなのかを自分で掴みにいき確かめないといけない と、思うのですが、 もうここで聞くのが間違っているのですが、 自分に自信がありません。 だからいつも知識に走ってしまいます。 知識しかつかまないから 何も身にならないわけです。 でも自分ではわからないことがあって不安です。 それを聞くことが間違ってるのは承知なのですが 自分で掴むことの アドバイスください。
悟ったら毎日どんな感じですか? 悟ったら毎日たのしいですか? たのしいだと つまらないが対極について回るから たのしいというより 静かな感じですか?
悟りとは 実はすべて幻だった!ときづくことですよね? 悟りすら単なる概念ですよね?
いつも楽しく拝見させて頂いております。 最初は自分の悩みを相談しようとアカウントを取得したのですが、 他の方へのお坊さま達の、温かいお言葉を拝読させて頂いているうちに、 関係の無いはずの私まで励まされ、勇気付けられ、優しい気持ちにさせて頂きました。 特に聖人や仏様の行いを、物語の様に教えて下さる回答が好きです。 色々と己の身を省みる事が出来ます。 そこで厚かましいお願いとは思いますが、お坊様がたの好きな法話(?)を一つ教えて頂けませんでしょうか。 どうぞよろしくお願いいたします。
私の家は浄土宗の檀家です。 浄土宗(浄土真宗も同じだと思います)では、「ただ南無阿弥陀仏を唱えれば、臨終に際して阿弥陀様が現れて浄土に連れて行ってくださり、そこで悟りをひらいて救われる」という思想だと理解しております。 しかし、どうしても心の中にもやもやが残ってしまいます。 といいますのは、「南無阿弥陀仏を唱えれば浄土に連れて行ってもらえ、悟りをひらける(=救われる)」というのを裏を返せば、「南無阿弥陀仏を唱えない人は悟りをひらけない(=救われない)」ということになってしまわないかと思うのです。 「自分に帰依しないもの、信じないものは救わない」などと、阿弥陀様はおっしゃるようには思えないのです。そんな心の狭い方ではないと思うのです。 おそらく「信じるものは救われる、でも信じてない人も救ってあげるよ」とおっしゃると思うのですが、ではそうなると「南無阿弥陀仏」をお唱えするのに果たして意味があるのかどうか、唱えても唱えなくても救われるのであれば、なぜ「南無阿弥陀仏を唱えると良い」とされているのかという疑問がわいてきます。 つまり 「南無阿弥陀仏を唱えないと救われない」→阿弥陀様はそんな心の狭い方だろうか? 「南無阿弥陀仏を唱えなくても救われる」→じゃあなぜ南無阿弥陀仏を唱える必要があるのか? という板ばさみといいますか、ジレンマに陥った気分になるのです。 これについて、お坊さんの見解をお聞きしたく、よろしくお願いします。
先日質問をさせてもらい、丁寧なアドバイスありがとうございます。 さて、質問なんですが、私は以前から知人から、般若心経を唱えると私はもちろん、私の周りの方、家族などにもよい影響を与えると言われたので、毎日寝る前などに唱えてます。 宗派は関係なく、唱えてOKと言われました。 般若心経を唱える効果をお聞きしたく質問させてもらいました。
2回目のご質問になります。前回も真摯なご回答を ありがとうございました。 尚、今回のご質問も優先ではありませんので、深刻な ご相談を優先させて下さい。 仏教を学ぶ上で「空」の概念が定まりませんので、 ご教示頂ければ幸いです。 世俗諦としての表現でしか質問できませんので、 質問の意味も理解されるのか心配でもあります。 これまでの仏教の学習から、全ての物事は「現象」 であり、その瞬間の状態であり続ける「実体」は なく、全て川のように流れていくものだと理解し ました。=無常・無我 →この理解で正しいでしょうか? 物事が「ある」でもなければ「ない」でもない。=空? この意味が正直、理解に苦しんでいます。 「空」(から)という世俗諦としての言葉のイメージ だと、「からっぽ」のように感じます。 でも、何もないと定義すると六根センサが何も作動 しないと思います。 「見えた」「聞こえた」・・・は、実際にあります。 私の理解したことは、 全ての物は「地水火風」の構成のされ方で、現象 としての現れ方が異なる。 →物質、人、動物、植物・・等々 全ての物は、エネルギーと言えるのではと、感じました。 エネルギーという表現が適切かわかりませんが。 物質には、質量というエネルギーがある。 生命にも質量もありますが、心があり、生存欲求や色々 な欲求がある。これらをエネルギーと表現しました。 このエネルギーが他のエネルギーとぶつかりあって変化 を生み、因果法則によって、現象として常に変化し続ける。 物質も空気に触れ、物質と空気のエネルギーのぶつかり 合いで酸化し、そのもの自体も変化し続ける。 自分の心(本当は自分という実体はないのでしょうが)も 六境が六根センサにぶつかり、物事を認識し(エネルギー がぶつかる瞬間)、六識で心が何らかの反応をする。 ぶつかるという表現より影響し合う方が適切かも しれません。 ですから、「空」とは、ある/ない(虚無)ではなく、 あるエネルギーが他のエネルギーとぶつかり(影響)、 因果法則によって変化し続ける現象と理解するのは 誤りでしょうか? 空=無常=無我と感じられます。 以上、初歩的な質問で恐縮ですが、宜しくお願いします。