お疲れ様です。 いつも真摯なご回答をありがとうございます。 又、日頃お忙しい中のご回答をありがたく存じます。 尚、今回のご質問も優先ではありませんので、深刻な ご相談を優先させて下さい。 仏教には色々な宗派がありますが、最初に出会った のが、初期仏教で、以下サイトから学び始め、 スマナサーラ長老の書籍も購読してまいりました。 ■根本仏教講義、パティパダー巻頭法話 http://www.j-theravada.net/kogi/index.html http://www.j-theravada.net/howa/index.html このhasunohaで、井上貫道老師の以下サイトが あることを知り、拝見させて頂きました。 ■貫道老子の言葉 http://zazen.blog.jp/archives/cat_958260.html 仏教は、苦集滅道の四聖諦、縁起などの教えが 基本となっていますが、では何を常に精進するか を考えておりました。 初期仏教では、観瞑想(身受心法の随観)を、 禅宗は座禅を重要視するように感じます。 どちらも、今この瞬間の自分の身・口・意の行為の 事実を観ることを大切にしていると思います。 (今の瞬間に気づいていること) 普段の生活でも、朝起きて朝食を摂り、歯磨き 洗顔、通勤、仕事、掃除、風呂・・・・ 色々なことをやっていますが、それぞれの行為 に集中できていないことがほとんどです。 それぞれの行為の最中にも、他のことや過去、 未来のことを思ってみたり、「今この瞬間」の 事実から離れてることが多いかと思います。 だから、考えたり、悩んだりするのかと 思いました。 貫道老子もスマナサーラ長老も、今この瞬間を 見続けていれば、変化しない「もの・こと」は ないってことが、自然と分かるでしょ。 と言っておられるように感じたのですが、 この理解で宜しいのでしょうか。 普段の修行などの内容について、ご教示頂けたら 幸いです。 勿論、慈悲の実践など利他行の善行為も修行 の実践の1つと考えています。
お坊様に質問です なぜ人は輪廻転生をするのですか? 人が生まれる理由はなんですか?
真言宗について興味がありますが、本に書いてるものは難しいく理解がしにくいです。 真言宗とはどういう教えなのですが?
ご覧いただきありがとうございます。 突然ですが、久しぶりに口内炎ができました。あまりの痛さにろくに食事を取れず、辛かったです。 仏教のいう「執着から離れる、苦しみから離れる」というのは主に「精神的な執着、精神的な苦しみ」として解釈していたのですが、何かのお話しで、お坊さんを殺すため(すいません)寺に火を付けたら、お坊さんたちは慌てたり逃げ惑ったりすることなく死ぬまでお経を唱え続けた……というのを聞いたことがあるので、「精神的な苦しみだけでなく、身体的な苦しみからも離れることができる」のだと思いますが、一体どうなっているのでしょう?どうやっている(?)のですか? 口内炎でこんなにも痛いのに、火をつけられて動じないなんて……。無我の境地というものでしょうか。
1年ほど前から仏教に興味がわいて、 本を読んだり地元の浄土真宗のお坊さんをしている友人に質問したり、 自分なりに勉強しているつもりですが、全然頭に入ってきません。 過去に一度祖母の法事で初めて法話を聞かせてもらった時に とても分かりやすかったので、また実際にお坊さんから聞きたい思っておりますが、 どうしたらいいかわかりません。 インターネットで今住んでいる福岡市内の法話を調べてみても仕事が日曜日しか休みが 無いので、福岡市内で日曜日に行っている情報を見つけられません。 ですので、お寺に行って聞いてみようかなと思いますが、 急にお伺いして法話の情報等の質問をするのは迷惑でしょうか? お坊さんの友人は、よほど悪い人ではない限りどんな相談でも乗ってくれる、 と言うのですが、どうも勇気が出ません。 普通はどうやって情報を得るのでしょうか?
ブッタのことばの蛇の章「ダニヤ」について質問させて頂きたいです。 悪魔が「子のある者は子について憂い、また牛のある者は牛について憂う。執著するもとのもののない人は、実に喜ぶことがない」と言うのに対する師の「子のある者は子について憂い、また牛のある者は牛について憂う。実に人間の憂いは執著するもとのものである。執著するもとのもののない人は、憂うることがない。」とのお答えに、なるほど……と感動しました。 そこで気になったのが、では「執着するもとのもの以外で喜びを得ることはできないのか?」という疑問です。 あるとしたら、それは一体なにでしょうか。 ご回答宜しくお願い致します。
自性として「固定」や「流動」が存在しないと、龍樹風に説明するとどうなるのでしょうか?
よく仏教の教えとして「全ては諸行無常であり、変化しない物はない」と言いますが、これについて少し疑問に思う所があります。 たとえば仏教の中道では相対概念の一方に囚われる考えを執着として否定しますが、 「変化する」という概念も「変化しない」の相対概念ですから、 変化しないものを全面的に否定する「全ては変化する」という考えも執着とは言えないでしょうか? また、これらの言葉を「固定・流動」と置き換えて、龍樹の論理に当て嵌めて解説して頂いても構いませんでしょうか?
ご閲覧頂きありがとうございます。 仏教から見た「学問を勉強すること」についてお聞きさせて頂きたいと思います。 中村さんのブッタのことばを読んでいるのですが、賢者を説明するのに「貪りを離れ~」「妄執も存せず~」といったような文が並ぶのですが、その中に「学識あり」というものがありました。 誰だったか忘れてしまったのですが、「生きているうちに全てを学ぶことはできないし、今まで学んできたことだって(歴史など)事実かわからないんだから、そんな不確かなものに縛られるくらいなら勉強なんてやめて、今ある物事の姿から真理を見いだし自分のあり方を決める能力をつけろ」といったような内容の言葉を聞いたことがあり、またその人が確か有名な宗教家?だったので私は「宗教は学問に肯定的でない」、という偏見をもっておりました。 ブッタのことばで「学識あること」を良い意味で書かれているのを見て、「では、仏教での勉学はどのようにとらえられているのだろう?」と気になったために今回は質問させて頂きます。 仏教では勉強はするべきことなのかどうか、またするべきなら何故なのか、など仏教から見た勉強についてを教えて頂きたいです。宜しくお願い致します。
お坊さまがたは 輪廻転生信じていますか? ちなみに私は信じてません。
ハスノハのお坊さま方、いつも真摯なお言葉をありがとうございますm(__)m 私の家族は夫と子供2人と97歳のばあちゃん(義祖母)です。 若い頃に夫を亡くしたばあちゃんは苦労人で気の強い人でしたが90を過ぎてやっと丸くなり(!)、7年ほど前から私達と同居しております。 (夫の両親はともに還暦前に病死しています) ばあちゃんは歳の割には元気で身の回りの事はこなしており、当然信心深くよくお仏壇に般若心経をあげています。 そしてお経の前に必ず「なんまんだぶ」と「南無なんとか観音菩薩」と「南無大師遍照金剛」をお唱えします。 ちなみにうちは曹洞宗なのでご本尊はお釈迦様です(笑)。 私はこのどれも合っていないばあちゃんのお念仏?御真言?がすごくいいなぁと思いて、どうしてもお坊さま方にお伝えしたかったのです。 お忙しい中たわいもない話ですみませんm(__)m これから寒い季節になります、お坊さま方お体ご自愛なさってくださいませ(^^)
原始仏教を学び、仏陀の十大弟子に憧れを持ち、解脱したいという意志があります。 あまり深く考えずに教えてほしいのですが、世襲以外でどうしたら修行僧としてお寺で生活できるのでしょうか。
チベット仏教について調べておりますが、「一時的な常住」という言葉のがどうしてもよくわかりません。 ツオンカパによると常住とは「それ自体が消滅しないこと」だそうですが、これは一体どういう意味でしょうか? 一見永遠の実体を肯定しているようにも見えますが・・・。 また、「常住な物には未来(未だ生起していない状態)も現在(現に生起している状態)も過去(既に消滅した状態)もない、非時間的(dus bral)な存在である」、というのはどういう意味でしょうか?
原始仏教や小乗仏教、南伝仏教では夢精さえ厳禁らしいです。 夢精を予防する方法を教えてほしいと思います。 苦行や節制、断食や瞑想によりチャクラを開き、一応プラーナも見えてきました。 もっともっと高みの世界を目指すために。 夢精をしてしまうことに大変困っています。 知恵を分けてほしいと思います。
コラムパがツオンカパの時間論をどのように批判したのか、 またツオンカパがコラムパに対してどのように反論したのか教えて頂けませんでしょうか? 以下の文章はCINIIから抜粋したものです。 コラムパが「「消滅状 態」の連鎖が無限に起こるというツォンカパの見解」をどのように批判したのか、 またツオンカパがどのように反論したのか、 手元に該当する書籍がないのでさっぱりであります。 「ある有情が業を積むと,直ちにその業は消滅し「業の消滅状態」 と呼ばれる事物が発生する. ツォンカパの理解する帰謬派説では「業の 消滅状態」も刹那的存在であるので,それが生起した次の刹那には消滅 し 「業の消滅状態の消滅状態」が発生する。 このようにして「消滅状 態」の連鎖が無限に起こるというツォンカパの見解は,後にサキャ派の コラムパによって批判されている.」
長年の病が明けて、現在暇です。仕事なんかを考えているのですけど、リハビリが必要です。 御坊様、私はキリスト教の洗礼を受けているのですが、思うところあって通っていません。日曜礼拝のように、仏教者の集まりはないのでしょうか。 神奈川県伊勢原市に住んでいます。私は金がなくて、、、。 よろしくお願いします。
お線香が切れてしまいました。今、家にあるのは、インドの長い棒状のお香です。 何もないよりいいかと思い、今朝はそれを使いましたが、代用になるのでしょうか? あと、お寺で売っている箱のお線香とスーパーや百貨店などの箱のお線香で付加価値に違いはありますか? 例えば、お寺のお線香は、境内にあったものだから清められているとか、お経があがっているとか、そのようなことがあれば、教えてください。
仏教でいう「お浄土と地獄」。キリスト教の「天国と地獄」 お浄土と天国、呼び名が違うだけで、同じ所だと思いますか? 地獄もまた、同じ場所だと思いますか? 私の娘は仏教で供養して頂いていますが、 もしも、私がこの先、 仏様を信じられなくなって、違う宗教を信じたら お坊さんは、私が死んでも、娘には会えなくなると思いますか?
いつも回答有難うございます<(_ _)> YouTubeの法話(浄土真宗系)をよく聴きます。 ある法話で阿弥陀如来は 「そのまんまで救われる」とか 「すでに誓願に叶われている身である」 などと全て者は救われると説かれてます。 が、疑問があります。 第十八願には五逆の罪は救わないと説かれてます。 さてこれは、どのように受け止めればいいのでしょうか? ※五逆の罪 すなわち (1)母を殺すこと (2)父を殺すこと (3)僧(阿羅漢)を殺すこと (4)仏の身体を傷つけること (5)教団の和合一致を破壊すること また、日蓮聖人は「念仏を唱える者は無間地獄に落ちる」とも言って、日蓮系や新興宗教の中では第十八願の五逆罪を除くの部分を指して邪宗と理由付けます。 第十八願の五逆罪の除く部分が凄く引っかかるのです。 阿弥陀如来は、全て者を救うのか?救わないのか? 教えて下さい、よろしくお願いします。
友人の誘いで仏教系の新興宗教?に顔を出しています。 宗教といっても、軽いサークルのような所です。 それは置いておいて。 今ある環境が私はとても苦しく大変だなと感じているんですが、これもお釈迦様の計らいというものでしょうか? 私を成長させるために仕向けたものなのですかね。そんな感じで言われたのですが。 最初は納得するのですが後で本当かなぁとちょっと疑ってしまいます。 教えを聞いて、納得して、疑問に思っての繰り返しです。 相手を変えないで自分が変わる、親や先祖を大事に。感謝。 人としての基本だと思うことを教えていただいて、実践しています。 ただ、私が若いせいか、親や親戚が宗教=危ない という考え方でちょっと探るために知り合いが宗教を〜と話すとやってはいけないと言われます。 なので通っていることは秘密です。 そこは生活の制限など何かをしてはいけないというのは全くないので、たまに顔出して色んな人の悩みを聞かせていただいています。 色んな宗教があって、中には危ない場所もありますが全部が全部悪いわけじゃないですよね。若い私たちは、安全な宗教とそうじゃない所を見極める必要がありますが。 しかし宗教をやってない人には言えないこの罪悪感はなんなのでしょうか。