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「仏教」を含む問答(Q&A)一覧

仏教の理解と学び方

初めて、お便りさせて頂きます。 最近、仏教の教えを知り教えを学ぼうと考えています。 現状の仏教の理解や考え方の方向性が正しいのか確認をさせて 下さい。 現在、深刻な悩みはなく本件のご相談は、急ぎではありません ので悩みごとのご相談の皆様を優先させて下さい。 ■現状の理解内容(超要約して記載します) 1)仏教の目的:涅槃(解脱)に至ること。幸せを説くこと。 2)涅槃(解脱)への到達の方法として「四聖諦」があり、日々の  実践として「八正道」がある。 3)最初に苦諦の理解の為に、無常・無我、因縁を理解することが必要  以下は、私の解釈した定義です。  無常:この世の全ては移り変わるもの  無我:全ては繋がりの中で変化している現象である  因縁:原因+条件(環境等)があって結果がある 4)今後の方向性(考え方や実践内容)について ・目的:   日々の生活や仕事で、怒りなく、平穏で周りの役立つ人生を送る ・行動や思考の指針  日常生活では、八正道、慈悲喜捨、五戒などを意識し、正しい判断  基準で行動する。 ・貪瞋痴に支配されない為の手段として、ヴィパッサナー冥想があり  今の瞬間に気付けるようにする。これにより、無常・無我、因縁が  頭でなく、身体で理解(体験・体感)できるようになる。  常に、今の瞬間の自分に気付くようにし、正見・正念・正定の向上  を図ることにより、煩悩が湧いてこないようにする。 以上の認識や方向性で、大きな誤りや重大な認識漏れがないか、 ご指導を頂けましたら幸いです。

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日本人の食べるということに対する意識

私の食べ物に対する感覚は日本的な考えなんでしょうか? 仏教的な考え方なのでしょうか? それとも少数派なんでしょうか? 世界共通の認識だと思っていたのですが、そうではないようだと思うようになりました。 一般的に日本人の食べ物に対する感謝はいくつかの意味があると思います。 ①命を頂くことに対する感謝 ②食材を育ててくださった農家の方に対する感謝 ③食材を育んだ地球の恵みに対する感謝 ④調理人の方に対する感謝 ⑤食材を入手するための代金を稼ぐ労働に対する感謝 これらが一言で表されるのが「いただきます」という言葉だと思っていますが、特に①を強く意識していると思います。 そして食べ残すことは、奪った命をないがしろにすることだとして、食べ残さないようにします。 動物だけでなく植物に対しても同様に命を頂いていると考え、米粒一つでも無駄にしてはいけないと子供のころに教わりました。 私は「殺すのは出来るだけ少なく。食べ残すことは死ぬ必要のない生物まで殺す行為だ」「食べるために命を奪ったのだから、食べなくては無駄死にだ。」と考え、 そして動物はもちろん、植物も命を頂くと考えています。 欧米諸国では、日本とは比べ物にならないほど家畜の福祉に対する意識が高いです。 可能な限り家畜の苦しみを軽減しなければならないと考え、苦痛の少ない方法で飼育し、苦痛の少ない方法で屠殺しなければならないと考えています。 ですが、どうもそれは生きている時だけのようなのです。 食肉を食べ残すことに対しての意識がとても違うと感じています。 もちろん、もったいないとは思っているようですが、「死ななくていい分まで殺した」という風には思ってないようです。 「食べても食べなくても、いずれにしろもう死んでいる。」と考えているようです。 動物福祉に熱心な方でもです。 大乗仏教には精進料理がありますよね? 出来る限り殺生を避けるために動物性のものは取らず、植物にも命があるが感謝して無駄にしない、という考え方だと思います。 そして上座部仏教では「托鉢で頂いたら肉魚も食べてよい。食べ残してはいけない。」と聞きました。 このことから私の考え方は仏教的なのかな?と感じたのですが、仏教的でもなければ日本人の共通認識でもない、という意見の人がいて、疑問に感じ質問いたしました。 どうぞよろしくお願い致します。

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仏教の教えについて

 こんにちは。再びこちらで質問させていただきます。  以前読んだ呉智英著「つぎはぎ仏教入門」という書物の中では、私の従来のイメージとはかけ離れた仏教観が述べられており衝撃を受けました。お釈迦様の物語では、お釈迦様は家族を捨てて出家しており、出家者に対しても①家族を捨てること・②生涯独身でいること・③労働をしないことを要求しています。また梵天勧請のお話では、お釈迦様が悟った後に「私が悟った法は、その内容はあまりにも高度なものであるから、一般の人に説いてもわかるまい。」とそのまま涅槃に入られようとしていたようです。  これらの物語を読むと、仏教とは決してヒューマニズムのような耳障りの良い教えではなく、むしろ社会の常識を揺るがす危険な思想なのではないかと思いました。また、仏教の一番の目標は、やはり「悟りを開くこと」ですが、「悟り」とは私が今まで考えていた「あるがままの世界を観じる」というような単純なものではなく、もっと峻烈で幽玄なものではないかと思いました。  これらを踏まえると、日本の仏教ではお坊さんは妻帯をして、労働されている方もいらっしゃるのが普通の光景です。社会に歩み寄るという点では、ある程度の妥協も必要であるとは思いますが、釈尊の本来の教えから見ると、修行や悟りを軽視している面があるのではないでしょうか? また、その教義が初期仏教とは異なる宗派もいくつかありますが、ある教えが仏教であると言える条件は何なのでしょうか? 日本で悟りを開かれているお坊さんはどれくらいいらっしゃるのでしょうか?  その辺りを、お坊さんはどのように考えられているのか伺いたく、質問させていただきました。どうぞよろしくお願いします。

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仏教の「助け合い」

先日、大学の授業で教授が「福祉の考え方は西洋から日本に入ってきた。ヨーロッパやアメリカはキリスト教の隣人愛の精神にのっとって助け合う心が人々にあるから福祉が充実しているけれど日本ではキリスト教がメジャーではないからなかなか助け合いや福祉の精神が広まっていない。」と話していました。私は宗教についてあまり詳しい方ではありませんが隣人愛という言葉は知っていますし、確かにキリスト教を信仰する人が多い国で福祉の心が根付いているというのは何となく納得が出来ます。 でも、日本人にも助け合うという考えはあるはずだと思います。熊本の地震があった際も、火事場泥棒などひどいことをする人もいるようですが現地にボランティアに行ったり募金などの支援をしたり、困っている人を助ける動きがあるという話もたくさん聞きました。なので、教授の「キリスト教が浸透していない国では福祉の考えも浸透しない」といった話を聞いて何だかもやもやしてしまいました。 そこでお聞きしたいのですが、仏教においてもキリスト教でいう隣人愛のような、誰かと助け合う、支え合うという教えはあるのでしょうか。無宗教だという人も多いので何も宗教の考えだけが人の助け合いのベースではないと思いますが、日本は仏教が身近という人も多いと思うので、仏教にもそういった教え、精神があればぜひ教えてください。

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