お線香が切れてしまいました。今、家にあるのは、インドの長い棒状のお香です。 何もないよりいいかと思い、今朝はそれを使いましたが、代用になるのでしょうか? あと、お寺で売っている箱のお線香とスーパーや百貨店などの箱のお線香で付加価値に違いはありますか? 例えば、お寺のお線香は、境内にあったものだから清められているとか、お経があがっているとか、そのようなことがあれば、教えてください。
仏教でいう「お浄土と地獄」。キリスト教の「天国と地獄」 お浄土と天国、呼び名が違うだけで、同じ所だと思いますか? 地獄もまた、同じ場所だと思いますか? 私の娘は仏教で供養して頂いていますが、 もしも、私がこの先、 仏様を信じられなくなって、違う宗教を信じたら お坊さんは、私が死んでも、娘には会えなくなると思いますか?
いつも回答有難うございます<(_ _)> YouTubeの法話(浄土真宗系)をよく聴きます。 ある法話で阿弥陀如来は 「そのまんまで救われる」とか 「すでに誓願に叶われている身である」 などと全て者は救われると説かれてます。 が、疑問があります。 第十八願には五逆の罪は救わないと説かれてます。 さてこれは、どのように受け止めればいいのでしょうか? ※五逆の罪 すなわち (1)母を殺すこと (2)父を殺すこと (3)僧(阿羅漢)を殺すこと (4)仏の身体を傷つけること (5)教団の和合一致を破壊すること また、日蓮聖人は「念仏を唱える者は無間地獄に落ちる」とも言って、日蓮系や新興宗教の中では第十八願の五逆罪を除くの部分を指して邪宗と理由付けます。 第十八願の五逆罪の除く部分が凄く引っかかるのです。 阿弥陀如来は、全て者を救うのか?救わないのか? 教えて下さい、よろしくお願いします。
友人の誘いで仏教系の新興宗教?に顔を出しています。 宗教といっても、軽いサークルのような所です。 それは置いておいて。 今ある環境が私はとても苦しく大変だなと感じているんですが、これもお釈迦様の計らいというものでしょうか? 私を成長させるために仕向けたものなのですかね。そんな感じで言われたのですが。 最初は納得するのですが後で本当かなぁとちょっと疑ってしまいます。 教えを聞いて、納得して、疑問に思っての繰り返しです。 相手を変えないで自分が変わる、親や先祖を大事に。感謝。 人としての基本だと思うことを教えていただいて、実践しています。 ただ、私が若いせいか、親や親戚が宗教=危ない という考え方でちょっと探るために知り合いが宗教を〜と話すとやってはいけないと言われます。 なので通っていることは秘密です。 そこは生活の制限など何かをしてはいけないというのは全くないので、たまに顔出して色んな人の悩みを聞かせていただいています。 色んな宗教があって、中には危ない場所もありますが全部が全部悪いわけじゃないですよね。若い私たちは、安全な宗教とそうじゃない所を見極める必要がありますが。 しかし宗教をやってない人には言えないこの罪悪感はなんなのでしょうか。
心が強くなれそうと言う単純な理由で、座禅を始めました。 始めて見たら、座禅より、仏教の教えを勉強する方が、心のささえになるのではと思うようになり、座禅の意味が良く判らなくなりました。 座禅は、仏教の教えのひとつなのか? 仏教の教えと、座禅は、同列でどちらも仏教の修行なのか? 座禅で悟りを開いたものが、仏教の教えも理解出来るようになるのか? 仏教の教えを理解したものが、座禅で悟りを開けるのか? 初歩的な質問で凝縮ですが、教えて頂けますでしょうか?
真宗大谷派の門徒です。 仏教に興味があります 法蔵菩薩は、48の誓願をかがえて阿弥陀如来になったと言われてますが、最後に誰を救って如来になったのでしょうか? 人や菩薩は次々と生まれ、南無阿弥陀仏と唱えていくので、終わる事のない営みの中で、「これでよし如来になれた‼」と言うタイミングは何時、誰を救った時なんでしょうか? それと すでに阿弥陀如来に救われているとよく法話で説かれてますが、「救われている」自覚ないのは信心がないのではと思います。 救われていると言う感覚(自覚)はどのように感じるのでしょうか?
十三仏が密教系であるとお坊さんからちらっと聞いたことがあるのですが、調べても関係性がよくわかりませんでした…。 どの宗派も御本尊様がいらっしゃるのに、どうして十三仏は密教系なのでしょうか? 初歩的な質問で申し訳ないのですが、初心者の私にもわかるように教えて頂けると幸いです。
幼少期から生きることに苦痛を感じ、死んでしまいたいと思い、「なぜ生きるべきのか?」という疑問を己の中に持ち続け、考え続けてきました。 そして、たくさんの本を読み、哲学を学び、経験し、行きついた先が仏教の教えでした。 仏教の教えをお坊様から学びたいです。本から仏教を学ぶのも良いとは思いますが、恥ずかしながら文字から真意をくみ取る読書は不得手でして、お坊様との対話を通して仏教を学びたいと考えております。 仏教をお坊様から学ぶためには具体的にどうすればよいのですか?また、いろいろな宗派がございますが、どの宗派の仏門を叩けばよいですか? そして、将来的にはお坊さんになりたいと考えております。あまりお坊様について詳しく知らないので、よくわかりませんが、他の仕事(例えば建築士)をしながらお坊さんになることはできますか? 蛇足かもしれませんが、自分は地方都市の大学で専門的な勉強をしており、hasunohaに登録されている真言宗のお寺が、通える距離にあります。
少し前に質問させて頂いた者なのですが、その時にあるお坊様の方から「見方次第ですが、縁起には重大な欠点があります」との御回答を頂いたのですが、 果たして縁起の欠点とはどういうものなのでしょうか? 自分でも明確な答えを出せないままなのですが、強いて言うならば 私のような凡夫がお釈迦様の教えである縁起を間違って解釈してしまうことで、 本来執着を捨てる為の教えである縁起が、更に強い執着を生み出してしまうからだ、と解しました。 どうか皆様のご意見をお聞かせ頂けませんでしょうか?
自灯明 法灯明なのですが、 どんな素晴らしい教えも その教えを鵜呑みにするのではなく 本当にそうなのかを自分で掴みにいき確かめないといけない と、思うのですが、 もうここで聞くのが間違っているのですが、 自分に自信がありません。 だからいつも知識に走ってしまいます。 知識しかつかまないから 何も身にならないわけです。 でも自分ではわからないことがあって不安です。 それを聞くことが間違ってるのは承知なのですが 自分で掴むことの アドバイスください。
悟ったら毎日どんな感じですか? 悟ったら毎日たのしいですか? たのしいだと つまらないが対極について回るから たのしいというより 静かな感じですか?
悟りとは 実はすべて幻だった!ときづくことですよね? 悟りすら単なる概念ですよね?
いつも楽しく拝見させて頂いております。 最初は自分の悩みを相談しようとアカウントを取得したのですが、 他の方へのお坊さま達の、温かいお言葉を拝読させて頂いているうちに、 関係の無いはずの私まで励まされ、勇気付けられ、優しい気持ちにさせて頂きました。 特に聖人や仏様の行いを、物語の様に教えて下さる回答が好きです。 色々と己の身を省みる事が出来ます。 そこで厚かましいお願いとは思いますが、お坊様がたの好きな法話(?)を一つ教えて頂けませんでしょうか。 どうぞよろしくお願いいたします。
私の家は浄土宗の檀家です。 浄土宗(浄土真宗も同じだと思います)では、「ただ南無阿弥陀仏を唱えれば、臨終に際して阿弥陀様が現れて浄土に連れて行ってくださり、そこで悟りをひらいて救われる」という思想だと理解しております。 しかし、どうしても心の中にもやもやが残ってしまいます。 といいますのは、「南無阿弥陀仏を唱えれば浄土に連れて行ってもらえ、悟りをひらける(=救われる)」というのを裏を返せば、「南無阿弥陀仏を唱えない人は悟りをひらけない(=救われない)」ということになってしまわないかと思うのです。 「自分に帰依しないもの、信じないものは救わない」などと、阿弥陀様はおっしゃるようには思えないのです。そんな心の狭い方ではないと思うのです。 おそらく「信じるものは救われる、でも信じてない人も救ってあげるよ」とおっしゃると思うのですが、ではそうなると「南無阿弥陀仏」をお唱えするのに果たして意味があるのかどうか、唱えても唱えなくても救われるのであれば、なぜ「南無阿弥陀仏を唱えると良い」とされているのかという疑問がわいてきます。 つまり 「南無阿弥陀仏を唱えないと救われない」→阿弥陀様はそんな心の狭い方だろうか? 「南無阿弥陀仏を唱えなくても救われる」→じゃあなぜ南無阿弥陀仏を唱える必要があるのか? という板ばさみといいますか、ジレンマに陥った気分になるのです。 これについて、お坊さんの見解をお聞きしたく、よろしくお願いします。
先日質問をさせてもらい、丁寧なアドバイスありがとうございます。 さて、質問なんですが、私は以前から知人から、般若心経を唱えると私はもちろん、私の周りの方、家族などにもよい影響を与えると言われたので、毎日寝る前などに唱えてます。 宗派は関係なく、唱えてOKと言われました。 般若心経を唱える効果をお聞きしたく質問させてもらいました。
2回目のご質問になります。前回も真摯なご回答を ありがとうございました。 尚、今回のご質問も優先ではありませんので、深刻な ご相談を優先させて下さい。 仏教を学ぶ上で「空」の概念が定まりませんので、 ご教示頂ければ幸いです。 世俗諦としての表現でしか質問できませんので、 質問の意味も理解されるのか心配でもあります。 これまでの仏教の学習から、全ての物事は「現象」 であり、その瞬間の状態であり続ける「実体」は なく、全て川のように流れていくものだと理解し ました。=無常・無我 →この理解で正しいでしょうか? 物事が「ある」でもなければ「ない」でもない。=空? この意味が正直、理解に苦しんでいます。 「空」(から)という世俗諦としての言葉のイメージ だと、「からっぽ」のように感じます。 でも、何もないと定義すると六根センサが何も作動 しないと思います。 「見えた」「聞こえた」・・・は、実際にあります。 私の理解したことは、 全ての物は「地水火風」の構成のされ方で、現象 としての現れ方が異なる。 →物質、人、動物、植物・・等々 全ての物は、エネルギーと言えるのではと、感じました。 エネルギーという表現が適切かわかりませんが。 物質には、質量というエネルギーがある。 生命にも質量もありますが、心があり、生存欲求や色々 な欲求がある。これらをエネルギーと表現しました。 このエネルギーが他のエネルギーとぶつかりあって変化 を生み、因果法則によって、現象として常に変化し続ける。 物質も空気に触れ、物質と空気のエネルギーのぶつかり 合いで酸化し、そのもの自体も変化し続ける。 自分の心(本当は自分という実体はないのでしょうが)も 六境が六根センサにぶつかり、物事を認識し(エネルギー がぶつかる瞬間)、六識で心が何らかの反応をする。 ぶつかるという表現より影響し合う方が適切かも しれません。 ですから、「空」とは、ある/ない(虚無)ではなく、 あるエネルギーが他のエネルギーとぶつかり(影響)、 因果法則によって変化し続ける現象と理解するのは 誤りでしょうか? 空=無常=無我と感じられます。 以上、初歩的な質問で恐縮ですが、宜しくお願いします。
仏教にもいくつかの宗派に別れるとおもいますが…宗派が違っても教えは一緒ですか?また宗派によって違うところをざっくりと教えてください。ちなみに、私の実家、嫁ぎ先は曹洞宗です
こんばんは。先日は私の質問に真摯にご回答下さりまして、誠にありがとうございました。こちらで質問させていただいて、お坊さま方の回答から今後の生活のヒントになることを沢山学ぶことができました。本日は、さらに質問したいことがございますので、ご迷惑かとは存じますがご回答頂けますと幸いです。 私は、仏教について勉強していく中で、日本では仏教と神道が結びついて独自の文化を形成してきたということを学びました。それは、ヨーロッパのような激しい宗教対立ではなく、大乗仏教の柔軟な教えがあったがゆえに土着の信仰を包摂できた結果生まれたものであり、世界の中でも珍しい信仰体系であると思います。 しかし、仏教の教えと神道の教えは相容れない所があるようにも思い、そこが自分の中で考えの整理がつかない点でもあります。例えば、先祖崇拝はもともと仏教の教えには無かったと学びましたし、神道の荒魂・和魂といった概念も仏教の教えとは異なるもののように感じます。この両者の教えの違いをお坊さまはどう整理されているのでしょうか。 なぜ、このようなことを申し上げたかと言いますと、私の実家の信仰と上記の問題が関連しているためです。私の実家の宗旨は浄土真宗なのですが、仏壇の他に神棚もありますし、両親は仏壇の他にも調理場や庭石などにお供えをしています。また、お寺にも神社にもお参りに行きますし、お墓へもお参りに行きます。これまではこれらを当たり前のこととして受け取っていたのですが、仏教を勉強していくうちにこれらの習俗に対して疑問が湧いてきてしまいました。 浄土真宗を信仰する家庭では、神棚は基本的には置かないと伺っております。また、死んだら即成仏という考え方であるため、位牌も必要ないと聞いております。しかし、私の実家には神棚もありますし、黒塗りの位牌もあります。この両者の間の矛盾をどう整理すれば良いのでしょうか。菩提寺の住職様に質問はしてみたのですが、曖昧な答えで納得のいくものではありませんでした。私は、人生を生きていく上で道標となるものを得たいと思い、仏教の勉強をしてきたのですが、現実の生活に活かせるように整理しようとすると、矛盾点が多く悩みはむしろ以前に比べて増えてしまっているような気がします。 お忙しいと思いますが、お坊さま方のご意見を伺えましたら幸いです。よろしくお願いします。
父が亡くなり来週で49日になりますが、お坊さんの都合で、今日49日の法要がお寺で行われました。 墓は未定のため、三回忌くらいまで家にお骨を置いておくつもりでしたが、曹洞宗のお坊さんに、家にお骨をもって帰ると故人が亡くなってから修行したのがもとに戻って無駄になるから、もって帰らないで寺に置いておいた方がいいと勧められ置いてきたと母に言われました。 そのようなことはあるのでしょうか? 将来、そのお寺に埋葬するとか、そのようなことは何も決めていない状況です。母は檀家と信徒の区別もわからず、父の葬式に際し檀家になったとかで、契約書もありません。某県の田舎のお寺です。
先日、どなたかの質問に対するお坊さん方の答えが目の覚めるようなものでした。 実はつい最近まで原始仏教こそ仏教なのだと信じて瞑想に励んでいたのです。幸い海外の夏休みは二ヶ月以上あるので、俗世間から離れて実に充実した心の平安を保つことは容易でした。 ところがそんな調子で実生活が始まり、いつものように社会と関わって生活するようになり、欲がないのでなすこと全てが無意味に思えてきたのです。確かに、感情や欲に左右される問題は解決出来たのかもしれません。しかし、私という人間が仕事を持ってお金を稼ぎ、親として子供の健康や幸せを考えたときに、その立場を無視して一人原始仏教徒として忠実に生きてゆくことは不可能だと感じました。 そこで日本の仏教のお坊さん方の言葉を聞き、とても救われました。 生きるからには精一杯生きたい。 無責任に心の伴わない行動はしたくない。 完全とはいかないけど、仏教徒として出来るだけの努力はしつつ、人間人生を全うしたい。 人間くさく、泥臭く生きても救われる道がある、それが日本の仏教なのだ、そう理解しました。 このような理解で良いのですか? 何せ、不器用でくそ真面目な性分で、熱血にお釈迦様の教えに従おうと思うが故に行き過ぎて壁に打ち当たる、の繰り返しです。