宗派によっては、お盆の際には、迎え盆、送り盆でお墓に行きますが、仕事で迎えには行けたものの送りが難しい場合など、どうしようかと困る場合があります。先日は遅い時間になり、おまけにどしゃ降りでした。お盆だけお客様として迎え入れるのではなく、毎日がお盆のようにしてはいけないのでしょうか?
こんにちは。 私は、高校・大学と仏教(曹洞宗)の学校を卒業しております。 高校卒業時には禅師様直々に戒名を頂いたりと、かなり本格的な学校でした。 社会人になってからも仏教に関する本を読んだり、時には座禅会に参加したりと、仏教については興味を失わずに来ました。 しかし、先日インターネットで 「在家僧侶養成講座」 という、初めて目にする通信講座を見付け、これが仏教に興味を持つ方に役立つ物なのかどうか全く分からず、頭の中が「?」だらけになってしまいました。 どなたかに 「僧侶って通信教育でなれるの?」 もしくは 「仏教の修行は通信教育でできるの?」 と質問されても、今の私には答えられる自信がありません。 実際、通信教育で「在家僧侶」と認定されているお坊さんもいらっしゃるのでしょうか?
本日、仕事中にお客様が「僧侶にさえ袈裟の色で階級をつけたりしているのはおかしい。本来仏教とは身分差別したりしないはずだ」とおっしゃっているのを聴き、疑問に思いましたので質問させて下さい。 僧侶によって?宗派に違いはあれど袈裟の色で階級があるのは何の為でしょうか? また、それは誰が判断、ジャッジし決められるものなのでしょうか?
真言に関する質問です。 光明真言や大日如来の真言など様々あるかと思いますが、スローテンポのもの・アップテンポなもの…音楽の楽譜のようなものが存在するのでしょうか?それとも師からの口伝なのでしょうか? もし宜しければ、どのように学んでおられるのかを教えて下さい。 宜しくお願い申し上げます。
臨済宗妙心寺派なのですがお彼岸、お盆、法事などの時にお坊さんにお経をあげて頂いているのですが、臨済宗のお経の本を見ながら「今どのお経をあげているのか?」と思いながら探しているのですがわかりません。開経偈、般若心経、大悲咒、四弘誓願文、坐禅和讚などいろいろたくさんのお経が本に書いてありますがお彼岸、お盆、法事などの時に読むお経は決まっているのでしょうか? 同じ時(たとえばお彼岸)でも家に来るお坊さんによって読むお経が違うように思う時もあるのですが 決まっているのであればそれぞれの時に(お彼岸、お盆、法事などの時)読むお経の名前と順番を教えて欲しいのですがよろしいですか? お願いします。 それと私の父がなくなってから毎日母と一緒に般若心経、舎利らい文、延命十句観音経、坐禅和讚を仏壇の前で呼んでました。これだけお経をあげないとだめなのでしょうか? 般若心経だけでもよいのでしょうか? またお墓参りに行った時にはこの4つのお経を読んでも良いのでしょうか? それとも他の(何の)お経を読めば良いのでしょうか? 教えて下さい。
輪廻転生するのならば、亡くなった人はもう違う人生を歩んでることもあるのでしょうか? あるいは、転生まちでいるのでしょうか? もしそうだとしたら、お墓参りにいったとき、「いまはこういうことをがんばってるよ、見守ってね」と言うと、転生するのを引き留めていることになってしまいますか? また、もう生まれ変わっていたら、語りかけてしまったら邪魔になってしまうでしょうか? それとも、付喪神のように、その人の骨などに気持ちが残っている感じになるのでしょうか? 子供のころからふとしたときにやたらと寂しくなることがあります。 それが、もし私が前世で転生するまえに知り合った人とかが辛いことがあって、私のお墓とかで「守って、助けて」と願っているのが伝わっているのだとしたら、何もできないのは悲しいです。 それに、私がなくなった人にそう願ってしまって、同じように寂しい気持ちにさせてしまうのだとしたら、それはとてもつらいです。
70台の母が迷信深く困っています。母の実家は曹洞宗で、結婚後は浄土真宗です。父はすでに他界しました。母の両親も他界しており、実家のお墓や仏壇の世話もしています。母にとっての信仰とは仏事をとにかくつつがなくこなすことのようで、仏壇に線香を上げたり、墓参りをしたり、法事をこなしたりは熱心ですが、お経をあげたり仏教書を読んだりしているところはみたことがありません。毎月のお坊さんへの謝礼や、法事の出費に加えて、本山に分骨したり、収入にみあわない出費をしています。そのような生活スタイルはもう変わらないと諦めていますが、自分の死語に私に法事を引き継いでもらいたいと思っているようです。しかし私は無信心なので儀式を引き継ぐつもりはありません。母に信仰の自由を認めさせるにはどうしたらよいでしょうか?
「縁」という言葉ですが、人との出会いや別れ、子供を授かるなど様々な出来事や物へなどいろいろな事柄で使われていますよね? 何となくですが、よくわからない事柄を「縁」という言葉で片付けてしまっている人が多いような気がするのです。悪いことが続くと悪縁が、、、とか。 本来、「縁」とはどのようなことをいうのでしょうか?「運命」とは違うように思うので、気になってしまいました。
父が、急死して母は毎日泣いてます。 「お父さんは自分が死んだ事に気付いてないと思うから、あっちにいけるか心配」と母は言います。 もちろん、ささやかですが葬儀を済ませ、実家には毎週、曹洞宗のお坊さんがきて下さりお経をあげて下さってます 実家へも車で片道三時間かかりますが、出来る限り私も行って、父に手を合わせ「お父さん大丈夫だからね、私達も頑張るから!」と声をかけに通っています。 父は、一瞬過ぎて、死んだ事にきづいていないのでしょうか? 私達の事は見えているのかな? 49日までに、してあげると良い事、その後出来なくなる事など何か些細な事でも、ありましたら教えて頂けたらありがたいです。 一番近くにいた父がなくなり、49日までのお互いの過ごし方やマナーなど、きっと知らない事もあるのでは、と不安です。 お花、お経、ロウソク、通常のお供え物の他に仏様が、喜んでくれる物や事もあれば、ぜひお教え下さいm(__)m いまだから、父にしてあげられる事、してはいけない事、初歩的な質問かも知れませんが、改めて教えて下さいm(__)mませ。 お忙しいところ、最後までお読み頂き感謝です ありがとうございますm(__)m よろしくお願い致します。
仏教では不倫は罪にならないと教えにあると聞きましたが本当ですか? また、お坊様は不倫についてどのような考えをお持ちでしょうか教えて頂きたいです。
こんにちは。過去にも質問させていただきましたが、ここ最近、法律を身近に考える出来事がありました。 そして政治に関しても、選挙がありましたので、普段よりも自分の中で考えていた時期でした。 お坊さんは、私のような一般市民と同じ、日本という枠の中にいらっしゃいますが、 もっと大きな目で見ると、仏教という世界にいらっしゃいますよね。 そんなお坊さんからみて、人が作った法律や政治とどのような付き合い方、解釈をされていますか? ニュースをみても、良い出来事はニュースにならず、悪い犯罪ばかりを報道し、 選挙に関しても、選挙期間中は一切メディアに露出しなかった方が、 落選した時だけ、挙って報道される世の中に、ほとほと嫌気がさしています。 他のことに関してもそうです。 よろしくお願い致します。
こんにちは。今日は出家するということの意味について質問いたします。 俗世間は修行の場であるとつくづく思います。この数週間、こちらは夏休みということもあり、毎日仏教について学んだり瞑想したり、とても大きな生きる知恵を得ています。もちろん、知れば知るほど自らの至らなさや愚かさにビックリがっかりして足踏みすることも有ります、仏教初心者ですが残りの人生かけて努力するつもりでおります。 そこで質問です。俗世間は生きてゆく上で避けられない修行の場です。 ですが、出家するということはこの俗的な苦しみを出来るだけ避けて清らかな心にする、悟りに最適の場所を選ぶ、そういうことなのでしょうか。 出家できる環境の人もいればそうでない人もおります。 学校に例えますと、ある専門学校があるとします。そこにいくと専門職につく最適な近道になるわけです。 ところが、学校に行きたいけど状況が整わず行けない人もいます。学校になど行かなくても通信教育を受けたり、別の道は沢山あるでしょうけど、指針がしっかりないのです。 それに、こういう状況を、まあ縁だからしょうがないだろうととることもできるかもしれません。(今世はそういう時でないとか) 出家しないと得られないこととはなんですか? また、出家する人としない人の違いはなんでしょうか? お坊さんがたが、なぜ出家なさって生涯にわたってお釈迦様の教えに忠実に生きて世の中の人々の役に立とうと考えられたのか、ご自身の経験などを教えていただけると幸いです。 子供が三人おりますし、修行のみならず毎日はたくさんの喜びと幸せに満ちていますので、何もほかの人生を望んでいるわけではないのですが、出家されてお寺に従事されておられることが理想的だなあ、とちょっと思ってしまうのです。それは現在に不満があるからなではなく、仏教の生き方がまさに真の道だなあと思うからです。 回答お願いいたします。
各宗派の違いはあれど 仏教は釈迦の教えから発していると思いますが 端的にいってその教えの心髄、核心、エッセンスとは何でしょうか? 多くの宗派のお坊さんからご回答を頂けるとありがたく存じます。 なお恐れ入りますが、 仏教学的な、学べば分かるようなものは期待しません。
好きです。恋をしました それはあなた方です。お坊さんやお寺を見ると ドキドキします。普通の人じゃ駄目みたいです 仏教は色んな魅力がありますね。一週回って 見ていられなくなるくらい好きです 前は普通に行けたのに行きたくても勇気が出なくていけません.... それ関係で世の中で悲しいことや納得いかないことを見つけるとつい口を挟みたくなります この気持ちをどうしたらいいですか。 回答を頂けなくても呟かせて下さい。
おん ころころ せんだり まとーぎ そわか 上のご真言を唱えるに際し、お釈迦様のお弟子様の羅漢さまと娘さんのまとーぎーさんの物語を知っておきたいのが衆生というものです。 どうぞお教えくださいませ。
天台宗僧侶の方に、十界互具についてお聞きします。 十界互具とは、地獄界から仏界までの十界が、互いに他の十界を、具えあっているという事と理解しているのですが、私が考える仏とは、途方もなく長い時間(数えきれないほどの回数の生まれ変わり)に、たいへんな修行を積んだのち、辿り着ける境地であり、完全無欠の存在だと思っているのですが、その仏界が地獄界や餓鬼界、畜生界など他の九界(とくに六界)の性質というか、境涯を具えているという考え方が、どうにも納得できません。 私のような理解の浅い者にも、よく解かるような説明をいただければ幸いです。 よろしくお願いいたします。
ご本尊である阿弥陀如来像の写真をスマホの待ち受けにしているのですが、 今日ふと、「もしかしたら阿弥陀様をスマホに閉じ込めている??」 と心配になりお尋ねしてみました。 鞄には父と阿弥陀様の写真を持ち歩いてもいます。 いつも一緒にと言う思いからです。 カテ違いでしたらすみません、 よろしくお願いします。
タイトル通り、仏像をどう見ればいいのかが分からなくて悩んでいます。 仏像の種類や造りが詳しく載っている本を読んで仏像の知識自体は分かり、仏像を見てなんとなくすごい!という事は分かるのですが、それ以上に感動したり興味を持ったり感じ取ったりする事が出来ません。 仏像を理解するなら、まず仏教のことを勉強してからでないと仏像を好きになったりすることは出来ないのでしょうか? ……このような、本職の方に大変失礼な質問をしてしまい恐縮なのですが、 自分なりに努力はしているつもりですが、自分は物事に深く興味を持つことがなかなか出来ないんです。 自分は情が薄い、個性がないのではないか、 何でも浅くしか物事を考えられない馬鹿なんじゃないかと思い、情けなくなります。 このような質問ではありますが、宜しければどなたか回答よろしくお願いします。
何度も質問させていただいております。 毎回丁寧な回答をいただいて感謝しております。 さて、私は今までキリスト教の学校を卒業し、イスラム教の国に住み、特に宗教は持たずに全ての宗教は知識として学んできた程度でした。 元々追求すること、考えること、科学的にものを見る質なので現実的にに世の中を見てきました。 そして最近行き着いた答えは、科学と神秘、宇宙と人間は皆同じなのだということです。 バレエに人生のほとんどを費やしていますが、これはほぼ稽古、修行、メディテーションです。これを通していろいろなことを学んでいます。 そこでたまたま仏教について読んだところ、正に宗教という概念もなく実践してきたことそのものだったのです。 どんな贈り物よりも嬉しい発見でした。 それから毎日、宗派や教えを調べましたが、困ったことに『そう言われればそうかもしれない』という教えの違いばかりなのです。結局のところ、一つの目的をもって正しく生きることを遂行すれば宗派など問題ないのでは?と思うのですが、現実問題いかがなものでしょうか。 今後真剣に仏教を学びたいと思ったときに、どのようにして適切な宗派を選ぶべきなのでしょうか。
こん○○わ。初めまして。よろしくお願いします。 さいきんとある方から聴いたのですが、阿弥陀仏の48願というものがあるとききました。 今流行りのアイドルのような数字なので、気になり調べましたが、 センターの願いとでもいうべきでしょうか。 第18願を浄土宗の法然氏は一番大切と言ったそうですが、インド語の原文にはない部分で書き足された部分だという話をききました。 私も聞いた話なので、詳しいことは知りませんが、 このことが本当なら、これはどのように捉えれば良いのでしょうか?? お坊さんの皆様お願いいたします。