今まで全く宗教とは無縁だった訳ではなくごく普通のかと思いますがいつも法事などでお寺に行ってもお坊さんの説法を短時間聞くのみでいろんな宗教的な悩みなど聞いてもらえる場所がなかったです。 普段は特別故意にしているお寺がある訳でもなくただお参りして帰ってくるのみで、何かの節目があれば特別にお祓いなどしてもらうだけです。 もっと気軽にお坊さんと宗教の話ができる機会ができる場所はないのでしょうか? ただ新興宗教のような信仰の亡者にはなりたくなく、普段仏壇にお参りするだけではなくもっと生活の中に溶け込んだ宗教が欲しいです。 それともっといろんな宗派がありますがその教えを一方的に説法などで聞くだけではなく質問や詳しい話を聞きたい場所を提供して欲しいといつも思っていますがなかなかそのような機会や場所はないです。 実際の所、先祖や親がやっていたので自分も同じ宗派と言われてもどうして良いか全くわからずじまいです。 例えばお経一つとっても何を言っているのかさっぱりわかりません、他宗派のは意味はわからなくても言葉はわかるのもあります。 あなたの修行が足りないと言われても修行の仕方すら誰も教えてもらえないです。 般若心経は解説等たくさんありますがそのほか話目にすることはありません。 もう少し誰にでも平易にわかりやすく教えてもらいたいといつも思っていますが。 日本の仏教界はこんなものなのでしょうか? お坊さん忙しいのでそんな暇はないのでしょうか?
お坊様 仏教についてもうすこし深く知りたくて色々調べたのですが やはりわからないことがあってモヤモヤします なのでお答えください 仏教のテーマは苦しみから逃れて悟りの境地に行くことですよね でも釈迦様は菩薩に悟りとは何かを聞かれても何も答えなかったんですよね それをバックボーンに諸行無常とかそういう言葉が出てきてもなんか怪しいです それに四諦、八正道、中道など苦しみから逃れて悟りの道を歩もうとすることを意識すること自体が結局は五蘊無我になれないと思いますし 釈迦様が五蘊無我になって悟ったならそれは感覚器管すべて感じなくなって死んでるんじゃないですか? 生きてるんだとしたらその生きてる我はなんですか? 自分の我じゃなくて動物、人間、植物、全宇宙の我ですか?だとしたら我々みんなも悟らないと釈迦様も悟れないんじゃないですか 釈迦様だけが自分ひとりで悟って救われてるならそれはまだ自我から出られてないと思いますし 出ているならなんで菩薩に悟りとはなにかを聞かれても教えないのか それを答えないのは我があるからじゃないですか我がなかったらペラペラ喋ると思うんです それとも真理は言葉で表現しちゃダメなものなんですか?だとしたら言葉にした瞬間それは真理で無いなら諸行無常とか言う言葉も真理じゃないんじゃないかと思ってしまいます それとも言葉にしたものは完全には間違ってないけど半分真理なんですかね 色すなわち空のように 言葉にしない次元が完全に真理で言葉にする次元は半分シャバで半分真理 でもそうだとしても言葉にしない次元と言葉にする次元は既存の世界としてありますよね まるで色すなわち空のように そうしたら結局この世界なんて半分真理で半分シャバで 究極の悟りなんかないのかと思って もうこうなるといくら悟ったって究極の悟りを得られないなら この世の全てを作った全能なる神にひざまづいた方がいいんじゃないかと思いまして
こんにちは。昨日は私の質問にご回答頂きまして、誠にありがとうございました。非常に勉強になり、今後の参考にしたいと思いました。 立て続けで申し訳ありませんが、輪廻転生について、あと一点だけ質問したいことがございます。この質問で最後にしますので、ご回答頂ければ幸いです。 日本の仏教関係者の中には、和辻哲郎博士など輪廻転生を否定する説を述べられる方もおられます。その一方で、魚川裕司氏は著書「仏教思想のゼロポイント」で和辻哲郎博士の説を批判し「無我輪廻説」こそがお釈迦様の説かれた教えだ、と主張しております。先の質問で、お坊さまがおっしゃっておられた輪廻の本意はこのことなのかな、と思っております。 そこで、さらに疑問が湧いてしまったのですが、チベットやブータンでは、「輪廻転生による生まれ変わり制度」が存続しています。上記の解釈ですと、生まれ変わりを認めることは難しいように感じるのですが、この制度は民衆を導くための方便ということになるのでしょうか。 このような知識欲自体が煩悩なのかもしれませんが、どうしても知りたいと思ったので質問させていただきました。お暇なときで結構ですので、ご回答頂けるお坊さまがいらっしゃれば幸いです。よろしくお願いします。
私は仏教哲学を勉強し始めたばかりの凡夫でありますが、仏教の縁起説に関して一つ疑問に思うところが有ります。 もちろん、縁起説の欠点だとかそういう物ではありません。 仏教には時間的生起を認める「此縁性縁起」と、時間や空間を論理的に関係づける「相依性縁起」の二つが代表的だと聞きます。 主に前者は釈尊の説かれた縁起とされ、後者は龍樹大師の説かれた縁起とされていますが、これらは学者によって意見が真っ二つであることを、最近本で知りました。 例を挙げるならば松本史朗博士が「龍樹は此縁性縁起を説いた」といった感じですね。 1.果たして今現在の仏教界(?)のこれらに対する見解の主流はどうなっているのでしょうか? 2.また、以下の二つのリンクに対するご感想を伺っても宜しいでしょうか? ネットの意見を鵜呑みにするのもどうかとは思いますが、個人的にはこの方の縁起説は大変興味深いものだと思われます。 http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/ku02.html http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/ku03.html
上山春平・梶山雄一編 「仏教の思想 その原型をさぐる」 より 縁起ということは相依性(idappaccayata)ということで、相依性とは「これがあるとき、かれがある。これが生ずるとき、かれが生ずる。これがないとき、かれがなく、これが滅びるから、かれが滅びる」ということであると説かれている。後の中観学派では、この相依性は交互因果・交互媒介の意味でAとBとが、AがあるときBがあり。BがあるときAがあるという、A⇔Bの関係を成立させることであるという。『中論』の立場は空すなわち無自性(自己原因としての実体概念の否定)ということを、一切の存在(法)の交互媒介性によって考えようとするのである。 原始仏教の縁起説で縁起支の相互の関係が一方的な基礎づけの系列であるか、あるいは交互媒介的であるかは、わが国の学者の間でも議論のあったところで、一方的基礎づけと考えるのは和辻哲郎説であり、交互媒介説は宇井伯寿説が代表的である。和辻説によると、縁起支の関係がもし全く相互的であるとすれば、根拠付けの系列に縁起支の全体を秩序付けることも、本来不可能なことになる。これに対して宇井説は、原始仏教の縁起では、それぞれの縁起死が自己の中に全系列を映じ、いわば世界とモナドのような互いに映じ合う関係にあるとする。その結果縁起支AとBとの間に予定調和に基づく相互融入の関係が成立する。要するに相即相入という華厳哲学の交互媒介を───一即一切の世界観を前提としながら───原始仏教の縁起説の相依性を及ぼそうとするのが宇井説の特色である。 宇井伯寿や和辻哲郎は共に十二支縁起を「相依性」と解釈していた筈ですが、これによると両者の縁起観に若干の違いが有ると見受けられます。 和辻の主張する「一方的基礎づけ」と宇井伯寿の主張する「交互媒介」にはどのような違いが有るのでしょうか? 両博士は縁起の「相依性」を主張していた筈ですが、私にはこれらの差異が何を意味しているのかさっぱりです。
こんばんは。 突然ですが、至急御回答を頂きたいです。 先日、祖父が白血病で入院し、一週間もつかわからない、とお医者さんに言われたそうです。 私は子どもなので何もすることができず、お見舞いに行ったり、母の代わりに家事をやることしかできません。 なので、お守りを作って祖父に渡そうと思い、その中に手紙とお経を入れたいと思いました。 ですが、お経に触れたことがなく、何もわからないので、もし病気が治るような意味のお経がありましたら原文と意味を添えて御回答頂きたいです。 どうぞよろしくお願い致します。
以前にも質問された方がおられるようですが、現在の日本仏教において「仏」とはどんな存在というか、”もの“なのですか?先生方は、どのような概念をおもちでしょうか? 私のように僧呂でない者の多くは、“神”に近い形而上的存在のイメージでとらえている人が少なくないと思います。 僧侶の方にもそのようなイメージでとらえている方はいらっしゃいますか? また、いらっしゃるなら、”仏”を信じるに至るまでに(当然、信じておられるでしょうから)、なにか不思議な出来事を経験されましたか?そのようなことがありましたら、お聞きしたいです。 自分でいうのもなんですが、私は自身を、わりと信心深い方だと思っているのですが、自宅の仏壇の前に座り、お勤めをしているときにふと、なにか虚しいことをしているように思ってしまうことが多々あります。そのたびに「信心が弱いんだなぁ」とガッカリしてしまいます。そんな私の信心を強固にしてくれる証というか、サインというか、そんなものが欲しいのです。 以上のような理由で、今回質問させていただきました。 何卒、よろしくお願いいたします。
ウチの家は西本願寺系なので、ペットの供養を頼みにそこそこ有名な寺に行きました。 するとどうでしょう、御坊が言うには「あなたの気持ちはわからないこともないですが、そもそも宗教というものは、人の幸せを願ってできたもの。ゆえに人の供養、御先祖様の供養はしても、動物は言葉も発せず、理解もできず、ただただ人が擬人化したものにすぎません。人は人、動物は動物とお考えて下さい。ゆえにその動物のための法要はしません。」と・・・ 以前猫の死んでここで相談した時、「必ずやそのこは仏様のもとにて心安らかに成仏なさいます。そしてこらからもあなたをお見守りなさってくださいます。 いずれあなたの生命が全うされた時にはあなたは仏様のもとにてそのこに必ず巡り会います。そして以前のように親しくなさることでしょう。 」と書かれておられ私も喜んで頼みに行ったのですが・・・ その時は口では言いませんでしたが、「御坊だって、木や金属でできた像を拝んでるじゃないか!思いが大切なんだよ、思いが!オマエさんにはガッカリした!」と思って帰りました。 ウチが火葬を頼んだ東本願寺系は予約をすれば猫の法要しますと書いてあるのですが、動物に対する供養は、同じ仏教の浄土系のお寺、お坊さんでも考え方は違うのですか?
宗派によっては、お盆の際には、迎え盆、送り盆でお墓に行きますが、仕事で迎えには行けたものの送りが難しい場合など、どうしようかと困る場合があります。先日は遅い時間になり、おまけにどしゃ降りでした。お盆だけお客様として迎え入れるのではなく、毎日がお盆のようにしてはいけないのでしょうか?
こんにちは。 私は、高校・大学と仏教(曹洞宗)の学校を卒業しております。 高校卒業時には禅師様直々に戒名を頂いたりと、かなり本格的な学校でした。 社会人になってからも仏教に関する本を読んだり、時には座禅会に参加したりと、仏教については興味を失わずに来ました。 しかし、先日インターネットで 「在家僧侶養成講座」 という、初めて目にする通信講座を見付け、これが仏教に興味を持つ方に役立つ物なのかどうか全く分からず、頭の中が「?」だらけになってしまいました。 どなたかに 「僧侶って通信教育でなれるの?」 もしくは 「仏教の修行は通信教育でできるの?」 と質問されても、今の私には答えられる自信がありません。 実際、通信教育で「在家僧侶」と認定されているお坊さんもいらっしゃるのでしょうか?
本日、仕事中にお客様が「僧侶にさえ袈裟の色で階級をつけたりしているのはおかしい。本来仏教とは身分差別したりしないはずだ」とおっしゃっているのを聴き、疑問に思いましたので質問させて下さい。 僧侶によって?宗派に違いはあれど袈裟の色で階級があるのは何の為でしょうか? また、それは誰が判断、ジャッジし決められるものなのでしょうか?
真言に関する質問です。 光明真言や大日如来の真言など様々あるかと思いますが、スローテンポのもの・アップテンポなもの…音楽の楽譜のようなものが存在するのでしょうか?それとも師からの口伝なのでしょうか? もし宜しければ、どのように学んでおられるのかを教えて下さい。 宜しくお願い申し上げます。
臨済宗妙心寺派なのですがお彼岸、お盆、法事などの時にお坊さんにお経をあげて頂いているのですが、臨済宗のお経の本を見ながら「今どのお経をあげているのか?」と思いながら探しているのですがわかりません。開経偈、般若心経、大悲咒、四弘誓願文、坐禅和讚などいろいろたくさんのお経が本に書いてありますがお彼岸、お盆、法事などの時に読むお経は決まっているのでしょうか? 同じ時(たとえばお彼岸)でも家に来るお坊さんによって読むお経が違うように思う時もあるのですが 決まっているのであればそれぞれの時に(お彼岸、お盆、法事などの時)読むお経の名前と順番を教えて欲しいのですがよろしいですか? お願いします。 それと私の父がなくなってから毎日母と一緒に般若心経、舎利らい文、延命十句観音経、坐禅和讚を仏壇の前で呼んでました。これだけお経をあげないとだめなのでしょうか? 般若心経だけでもよいのでしょうか? またお墓参りに行った時にはこの4つのお経を読んでも良いのでしょうか? それとも他の(何の)お経を読めば良いのでしょうか? 教えて下さい。
輪廻転生するのならば、亡くなった人はもう違う人生を歩んでることもあるのでしょうか? あるいは、転生まちでいるのでしょうか? もしそうだとしたら、お墓参りにいったとき、「いまはこういうことをがんばってるよ、見守ってね」と言うと、転生するのを引き留めていることになってしまいますか? また、もう生まれ変わっていたら、語りかけてしまったら邪魔になってしまうでしょうか? それとも、付喪神のように、その人の骨などに気持ちが残っている感じになるのでしょうか? 子供のころからふとしたときにやたらと寂しくなることがあります。 それが、もし私が前世で転生するまえに知り合った人とかが辛いことがあって、私のお墓とかで「守って、助けて」と願っているのが伝わっているのだとしたら、何もできないのは悲しいです。 それに、私がなくなった人にそう願ってしまって、同じように寂しい気持ちにさせてしまうのだとしたら、それはとてもつらいです。
70台の母が迷信深く困っています。母の実家は曹洞宗で、結婚後は浄土真宗です。父はすでに他界しました。母の両親も他界しており、実家のお墓や仏壇の世話もしています。母にとっての信仰とは仏事をとにかくつつがなくこなすことのようで、仏壇に線香を上げたり、墓参りをしたり、法事をこなしたりは熱心ですが、お経をあげたり仏教書を読んだりしているところはみたことがありません。毎月のお坊さんへの謝礼や、法事の出費に加えて、本山に分骨したり、収入にみあわない出費をしています。そのような生活スタイルはもう変わらないと諦めていますが、自分の死語に私に法事を引き継いでもらいたいと思っているようです。しかし私は無信心なので儀式を引き継ぐつもりはありません。母に信仰の自由を認めさせるにはどうしたらよいでしょうか?
「縁」という言葉ですが、人との出会いや別れ、子供を授かるなど様々な出来事や物へなどいろいろな事柄で使われていますよね? 何となくですが、よくわからない事柄を「縁」という言葉で片付けてしまっている人が多いような気がするのです。悪いことが続くと悪縁が、、、とか。 本来、「縁」とはどのようなことをいうのでしょうか?「運命」とは違うように思うので、気になってしまいました。
父が、急死して母は毎日泣いてます。 「お父さんは自分が死んだ事に気付いてないと思うから、あっちにいけるか心配」と母は言います。 もちろん、ささやかですが葬儀を済ませ、実家には毎週、曹洞宗のお坊さんがきて下さりお経をあげて下さってます 実家へも車で片道三時間かかりますが、出来る限り私も行って、父に手を合わせ「お父さん大丈夫だからね、私達も頑張るから!」と声をかけに通っています。 父は、一瞬過ぎて、死んだ事にきづいていないのでしょうか? 私達の事は見えているのかな? 49日までに、してあげると良い事、その後出来なくなる事など何か些細な事でも、ありましたら教えて頂けたらありがたいです。 一番近くにいた父がなくなり、49日までのお互いの過ごし方やマナーなど、きっと知らない事もあるのでは、と不安です。 お花、お経、ロウソク、通常のお供え物の他に仏様が、喜んでくれる物や事もあれば、ぜひお教え下さいm(__)m いまだから、父にしてあげられる事、してはいけない事、初歩的な質問かも知れませんが、改めて教えて下さいm(__)mませ。 お忙しいところ、最後までお読み頂き感謝です ありがとうございますm(__)m よろしくお願い致します。
仏教では不倫は罪にならないと教えにあると聞きましたが本当ですか? また、お坊様は不倫についてどのような考えをお持ちでしょうか教えて頂きたいです。
こんにちは。過去にも質問させていただきましたが、ここ最近、法律を身近に考える出来事がありました。 そして政治に関しても、選挙がありましたので、普段よりも自分の中で考えていた時期でした。 お坊さんは、私のような一般市民と同じ、日本という枠の中にいらっしゃいますが、 もっと大きな目で見ると、仏教という世界にいらっしゃいますよね。 そんなお坊さんからみて、人が作った法律や政治とどのような付き合い方、解釈をされていますか? ニュースをみても、良い出来事はニュースにならず、悪い犯罪ばかりを報道し、 選挙に関しても、選挙期間中は一切メディアに露出しなかった方が、 落選した時だけ、挙って報道される世の中に、ほとほと嫌気がさしています。 他のことに関してもそうです。 よろしくお願い致します。
こんにちは。今日は出家するということの意味について質問いたします。 俗世間は修行の場であるとつくづく思います。この数週間、こちらは夏休みということもあり、毎日仏教について学んだり瞑想したり、とても大きな生きる知恵を得ています。もちろん、知れば知るほど自らの至らなさや愚かさにビックリがっかりして足踏みすることも有ります、仏教初心者ですが残りの人生かけて努力するつもりでおります。 そこで質問です。俗世間は生きてゆく上で避けられない修行の場です。 ですが、出家するということはこの俗的な苦しみを出来るだけ避けて清らかな心にする、悟りに最適の場所を選ぶ、そういうことなのでしょうか。 出家できる環境の人もいればそうでない人もおります。 学校に例えますと、ある専門学校があるとします。そこにいくと専門職につく最適な近道になるわけです。 ところが、学校に行きたいけど状況が整わず行けない人もいます。学校になど行かなくても通信教育を受けたり、別の道は沢山あるでしょうけど、指針がしっかりないのです。 それに、こういう状況を、まあ縁だからしょうがないだろうととることもできるかもしれません。(今世はそういう時でないとか) 出家しないと得られないこととはなんですか? また、出家する人としない人の違いはなんでしょうか? お坊さんがたが、なぜ出家なさって生涯にわたってお釈迦様の教えに忠実に生きて世の中の人々の役に立とうと考えられたのか、ご自身の経験などを教えていただけると幸いです。 子供が三人おりますし、修行のみならず毎日はたくさんの喜びと幸せに満ちていますので、何もほかの人生を望んでいるわけではないのですが、出家されてお寺に従事されておられることが理想的だなあ、とちょっと思ってしまうのです。それは現在に不満があるからなではなく、仏教の生き方がまさに真の道だなあと思うからです。 回答お願いいたします。