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臨済宗では南無釈迦牟尼仏 ではなく、 南無本師釈迦牟尼仏 だったり、 南無大恩教主本師釈迦牟尼仏 と唱える場合があると聞きましたが本当でしょうか? そして、それはどのような場合でしょうか? あと、南無本師釈迦牟尼仏は「なむほんししゃかむにぶつ」 南無大恩教主本師釈迦牟尼仏「なむだいおんきょうしゅしゃかむにぶつ」と読むのでしょうか? 解説願いします。
質問させて下さい。 「徳を積む」とは具体的に何をすれば良いのでしょうか? 最終的に自分の利益になる行為は違うのではないかなぁと思うのですが…。 宜しくお願い致します。
今日は新暦での涅槃会ですが、 涅槃経を読誦する宗派・寺院はありますか? その涅槃経はどの漢訳のを使用するのでしょうか? また、涅槃経の全文を読誦するのでしょうか? それとも一部でしょうか?
正見正思がどういうものかこちらのサイトで教えていただいたのですが、つい自分の価値観や判断を挟んで見てしまいます。 最悪なのは、そういった価値観や判断を挟んで見ているということさえ気づけずそれに囚われてしまうこも非常に多いです。 お坊さんは正見正思をどのようにおこなっていますか?やり方を教えてください。
タイトルの通りですが、それぞれの宗派によって戒律?というか日常生活の送り方に違いはあるのでしょうか? (浄土真宗だと肉食妻帯が許可されていると聞き、興味を持ちました)
(すべての宗派がそうではないことは理解していますが)座禅をすることによって悟りへの道が開かれる、ということへの質問です。何十年も修行をしたり座禅をしたりすることは確かにその僧侶にとっては悟りへの一歩かもしれません。 でも、その間に途上国ではその日をも生きられるかわからないひとたちがたくさんいます。この日本でも貧困層は存在します。もしも座禅をするかわりにそのひとたちの手をとってくれたら、パンを与えてくれたら、生き延びる道を一緒に検討してくれたら、助かる命もたくさんあるはずです。 修行の道(とくに長い期間社会から断ち切る行為)というのは、ある意味で自分を選択、優先することになる、と思ったことはありませんか?(これは侮辱ではなくて、本当に疑問、のレベルです。本当に本当に悪い意味でいっているのではないことをご理解ください) 自分の道に専念するその思いは素晴らしいと思う。そして得たものを周りのひとに伝えていこうとする気持ちも。でも、現実のこの社会のなかで、仏教が天台宗で言うような「一隅を照らすひとになる」ことが大切だとすれば、それはどこか矛盾していると感じてしまうことは間違っているでしょうか。 僧侶として、途上国や先進国を問わずに、貧困や飢餓などで今日をいきられるかわからないひとたちを前に仏教はなにができると思われますか?
半年ほど前からお寺で受付をしています。 不思議な縁で主人がお坊さんになり、そこのお寺が人手不足になり、お役にたてればと思い働かせて頂くことにしました。 ところが、元々信仰心がそれほど無い事もあり、信者さんとの温度差に罪悪感が生まれてきました。 夫婦で働いている為、我が家の生活が信者さんの支えのみで賄われていることが、有り難くもあり、申し訳なく思います。 熱心になれれば一番良いのですが、心を変えることはなかなか難しいのです。 はやり、信仰心の薄い私がお手伝いするというのは浅はかだったのでしょうか?
高野山の真言宗の僧侶に質問です 高野山で オンゼンバラシャレンダラヤソワカ という御真言を聞いたのですが、何の御真言でしょうか? そして、これは正確な発音・読み方でしょうか?
はじめて質問させていただきます。こんにちは。げんげんと申します。 私は昔、おじいちゃん・おばあちゃんっ子で、自分でいうのも何ですが、小さいうちから蝶よ花よと大事に大事に可愛がられていました。 そんな祖父母も、私がまだ学生だったうちに3か月程度の間をおいて相次いで亡くなり、昨年7回忌を迎えたばかりです。 とくに祖父は92歳で亡くなる前、90歳くらいまでは元気いっぱいで畑まで一人で作り、何を言っても怒らないような、人に慕われる好々爺を画に描いたような人でした。 亡くなる前、本当は大好きなのに、あれだけ元気だった人が弱っていくところを見るのはなかなかに怖くて、ベッドの上の手を握れなかったのをよく覚えています。 亡くなった後から、じいちゃんはこんな人で、ばあちゃんはあんな人で、と、もう何年も経つ今でも、少なくとも月一回は食卓の笑い話に上がります。 夢にも見ます。なんだか取り留めのないような話をして、そういえばじいちゃんはばあちゃんはもういないんだったっけなぁと思い出しながら目が覚めます。 さて、私は仏教徒ではないのですが、私が入っている宗教では、亡くなった人は現世に写真があったりすると、それだけでとらわれたりするから、棚の中に裏を見せて隠せとか、そんなことを言うのです。 でも、私はじいちゃんのこともばあちゃんのことも、忘れたくない。じいちゃんのお化け沼の話とか、もっとたくさんしたい。 いやいやでも、向こうに行ってから、何年たっても私たちにとらわれつづけていたら、じいちゃんもばあちゃんも可哀そうだ。亡くなる前に手も握ってくれなかった孫に、笑い話にされるなんて、迷惑かもしれないし。 私たちがこちらで何か、祖父母について語るたびに、写真を動画を見るたびに、宗教のせいか、それとも自分の中にあるなにやら決まりかで、祖父母に要らぬ引き留めをしているのかも? …と、思ってしまうわけです。 亡くなった後の世界は、私にはわかりません。お坊さんなら、わかるかなぁ。そんな願いを込めて質問させてください。 おじいちゃんとおばあちゃんは、向こうで今、昔みたいに夫婦仲よく、楽しくやれていますか?私は迷惑をかけていないですか?
初めて質問致します。 よく先祖供養やご祈祷などで「ご先祖様にお願いします」「仏様にお願いします」と言いますが 私の供養をご先祖様は受け取り 私のお願いを 仏様は本当に聞いて下さっているのだろうか…と思います。 と いうのも私は 生前の両親とは 仲はあまり良くなかったし、怒られていた記憶しかありません。 そんな私がお彼岸やお盆などに「先祖供養」しても その思いは亡くなった両親やご先祖様は受け取って下さっているのかどうか、気になります。 否、多分私が本当に真心込めて供養したとしても 「何を今更 ゴマすっているんだ?」と嫌がっているように思います。 仏様へのご祈祷でも 穂特様側から見れば 「はぁ?お前 普段 信心も何もしてないくせに”ご利益を下さい”なんて 図々しいにも程がある!」と思っていらっしゃっるのではないかと思い ご祈祷をためらってしまった事もあります。 やはり ご先祖様や仏様から見守って頂き またお願いなどを聞いてもらうには お坊さん方のように 欲を断ち切り善行を行うしか 他に方法は無いのでしょうか? 例え純粋な思いで供養しても ご先祖様から疎んじられ 純粋な気持ちでご祈祷をお願いしても 仏様に門前払いされてるような気がしてなりません。 やはり お坊さんのような修行をしないと 仏様はご利益を与えて下さらないし、両親や親戚縁者と 仲が悪かったら どんなに供養しても受け取ってもらえない…と思うと悲しくなります。
初めまして。 私はすごく仏教に興味があります。 お寺・神社・仏像等々、前々から興味はありまして「ぶっちゃけ寺」の影響だったりここ何年かの悩みもあり、仏様に救いを求めたいという事なのかもしれません。 ただどのようにして足を踏み入れて良いのか分からず、まずは何か仏教関係の本を読みたいなと思っているのですが、色々な種類の本がたくさんありどれから手をつけて良いのか分かりません。 初心者が読んでも分かる入門書の様なものはありますでしょうか?? よろしくお願い致します。
悟りを得るのに最低限知っておかねばならない知識を教えてください。 仏教には膨大な教えや経典がありますが、私は仏教学者になりたいわけではないので、悟りを得るために最低限必要な知識を教えてください。 例えば、カップラーメンを食べるにはお湯を注いで指定された時間待てばいいということだけ知っていれば十分で、お湯がなぜ沸騰するのかといった物理的な知識やどういう製造工程でカップラーメンができるかといった知識は不要です。 なので悟りを得るに最低限知っておかなければならない知識を教えてください。 この経典だ!とか三法印を知っておかなければならない!とか具体的なことを教えてください。
小さい頃から何気なく、音楽に携わっています。 恥ずかしながら…少し前に"雲中供養菩薩"の存在を知りました。 実際にまだお会いした事はありませんが…一度足を運び、一目見てみたい…!と思っています。 楽器、音楽が昔昔から存在するなんて…不思議です。 仏教と音楽、もしくは楽器…深い繋がりがあるのでしょうか…? 音楽演ってる者としては、雲中供養菩薩…衝撃的です‼︎
禅に興味を持ち始め、禅に関する本などを読んだり、このサイトにもよく見にきます。 こうして仏教と触れていくうちに、自分の雑念などそういったものに振り回されないような生き方を身に付けたいと思うようになりました。 しかし、だんだんとその雑念というものを振り払うというのが、自分の大切な感情を無視しているように思えてならなくなり、何か大事なものを見落としてしまいそうな気がしてしまうのです。 なんともまとまらない文章になってしまいすみません。一体どうしたら良いのでしょうか
グローバルという言葉が当たり前になった現代でも、宗教はいまだ閉鎖的であるように感じます。 中東をはじめ宗教を理由にした紛争はいつまでもなくならず、中世の時代から少しも変わっていません。 それぞれの宗教はいい教えだと思うのですが、なぜ対立という方向に走ってしまうのでしょうか。 宗教の教えはよくても、それを運用する人間に問題があるのでしょうか。 仏教会(?)は宗教を理由とした紛争について、どう考えているのですか? いまこそ一致団結し、世界平和に向けてなにか活動してもいいのではと思うのですが、人任せで無責任な考えでしょうか。 ちなみに私は神社の町で育ったので神道が好きですが、仏教も尊重しています。
大学で仏教の事を学んでいる真宗の信徒です。先生には質問しづらい内容ですのでここで質問させてください。 大学で四諦の教えや空の思想を知り、苦しみの生まれるプロセスを理解しました。 ただ私は意思が弱い凡夫ですので、渇愛煩悩を絶つために修行し自力で悟りを得られるような人間ではありません。 やはり阿弥陀仏の本願に縋るしかないと考えております。 しかしながら、偽経について学び、同時に観経が偽経である事を知ると疑いの心が生じてきました。 信じたいと思っているのですが、釈尊が説かれた教えではないものと知ってしまうと、阿弥陀仏は本当に自分を救ってくださるのかどうしても心配になってきます。 この心にどう折り合いをつければ良いでしょうか?
私の父は僧侶をしていました。 真宗の小さなお寺で、職業とは別で兼業していました。 でも、父は酔うと人に暴言を吐いたり、よそで女の人つくったり、言えないくらい、家族に迷惑ばかりかけていました。 私は母と家を出て、今は嫁いで家庭を持っています。 そんな父が急に亡くなりました。 僧をしていたので、父は「仕事」としてお経はあげていました。 悪人正機というのは、悪人であることを自分で認めた凡夫だからこそ救われると聞きました。 悪人であることを最後まで認めなかった父も、救われて仏さまになっているのでしょうか。 でも『地獄と極楽』という絵本を小さい頃読みました。 あの絵本では、生前ひどい人は地獄で苦しんでいました。 もう一つ、仏さまになったとして、その後どのように生活?するのでしょうか。 よく、私たちを見守って導いてくださる、と言いますが、この世でのつながりが深かった人のところに行き導くのでしょうか。 もし私が往生したら、父と同じ世界に行き、また娘としてくらすことになるのでしょうか。 とりとめなくすみません。 父の死も、生前の行いも、もう昔のこととして受け入れていますが、仏教の教えでは、このあとどのように生きているのか気になりました。 よろしくお願いいたします。
黄檗宗について調べているのですが、参考資料が少なく中々進みません。 寺院関係者ではない一般の人の書いた本で、黄檗宗についてのオススメの資料をいくつかご教示願えませんか。 手に入りにくいものでも構いません。高いものでも大丈夫です。ただ、20世紀以降に書かれたものでお願いいたします。
聞きかじりの知識なので正確さを大きく欠いている可能性が御座いますがご了承下さい。 仏教においては輪廻転生が唱えられてはおり、目指すべきは解脱であるため、本来仏教に天国や地獄といったあの世観は存在せず、日本内での布教の際に付随したという話を以前聞きました。 しかしいざ調べてみると、仏教にもあの世観(前世、来世での意味でなく、天国や地獄の意味で)は存在しているという記述を見つけました。 実際に仏教ではどのように考えられているのでしょうか? また、仏教の成り立ちや変遷について学べる読み物が御座いましたらお教えください。
昨年より般若心経を覚えようと、無理のない努力…しいて言うならば覚える過程を楽しみとして過ごしていました。 意味と漢字を意識しながら、通勤途中に「今日はここまで覚えれると良いな」とぼんやりとした目標を決め 仕事中に集中力が切れた際などは、覚えている箇所までを思い出しながら空想にふけり、頭のなかだけで気分転換の世界に入れる為ある意味生活のツールとしても勝手に役立てておりました。 「空」や宇宙のこと、そして色んな事に縛られない、とらわれないという事が仕事等の失敗を小さく感じさせてくれ、非常に日々のストレスを和らげてくれました。 しかしながら、順調に楽しく覚えていったのは良いものの どうしても引っかかるというか覚えられない、身につかない箇所があります。 無有恐怖 から 即説呪曰までがどうしても覚えられないのです。 冒頭から「無罣礙故」までは気が向いた日、時に楽しく覚えていたので1ヶ月半程でおぼえられたのですが、その後が詰まってからそろそろ1年が経過しようとしています。 その部分の意味の内容が自分にとって感銘を受ける度合いが低いのか、はたまた(自分の中で)読みのテンポの雰囲気が変わるからかは解りませんが 何か良い覚え方、考え方はないでしょうか? こんな事にとらわれている事自体がそもそも苦を産んでいるのかもしれませんが…