現実的でなくても構いませんので、お坊さんが考える「この世があるべき究極の状態、仕組み」について、ご意見をお聞かせください。
以前、師僧の事で相談したものです。 先日の説法会でのことです。 個人名をあげて同宗派のお坊様の悪口を言っていました。 参加者は、しーん。顔を見合わせる方も。 まずいと、思ったのか「このごろちょっと荒れとるんですわ」と、自分で言ってました。じぶんでも、お分かりのようです。理由も薄々わかりました。 弟子としては、ハラハラ。近々面談する予定なのですが、その時にさりげなく何かお伝えした方がよいでしょうか。でも、畏れ多いですよね。 ちなみに、その会に出席している弟子はわたしだけです。 へんな噂がたたないようにと、気をもんでいます。 どうお伝えすればよいでしょうか。
アニメの一休さんの考える時の姿勢は坐禅をしているように見えるのですが、仏教では何かを考える時ああいう姿勢になることはあることなのでしょうか?
こんばんは。 度々失礼します。 近畿圏内でご住職の法話を聞けるお寺がありましたら教えて頂きたいです。 お願いします
法会、雑務中に、説明できない体験談、生々しい夢などございましたら、教えて頂けますでしょうか。
合った時、宗教に関する話をされることがありますか? あえてそういうのを避けて、世間話とかで抑えますか?
真言宗の「伝法灌頂阿闍梨位事」という書類について 江戸時代の伝法灌頂阿闍梨位事という画像を図書文庫のインターネットサイトで 何点か閲覧したのですが、これらは江戸時代のものでした。 今も、まったく同じ内容の文言で、伝法灌頂の書類として使用されているのでしょうか。 また文書の中に「弘法大師八葉、今至、愚身第四十四葉、大悲胎蔵第四十三葉伝受」との 文言がありますが、これは伝受を受けた僧侶が、金剛界での血脈の師匠を遡ると人数が四十三人、胎蔵界の血脈では、一人少ない四十二人いるという意味でしょうか。 以上、お教えください。
空海さん、法然さん、親鸞さん、道元さん、栄西さん、日蓮さんなど各宗派の宗祖に会えるとしたら、お坊さんはどういうことを聞きたいですか?
相談ではなく質問で申し訳ないのですが、お坊さんは普段どのような1日を過ごしているのでしょうか? 私の中では朝早くから夜遅くまでお勤めをされているイメージです。 やはりお坊さんの生活は私のイメージ通りなのでしょうか? それとも案外私たちの生活とそれほど変わらなかったりするのでしょうか?
hasunohaでの問答で勉強させてもらっています。 ふと思いました。 僧侶の先生方は 僧侶を辞めたいと思われた事はないのでしょうか? 『クソ坊主』だの『生臭坊主』だの 『税金を優遇されてる』だの 気分が悪くなる事も有るかと思います。 どう対処されてますか? 師走でお忙しくなるかと思いますが 先生方、どうぞご自愛くださいませ。
師僧が、ヘンです。 お目にかかってもお金の話か、ほかのお坊さんの悪口ばかり。お経を唱えても何の役にもたたないとか、座禅を組んでも集中なんかできるわけないとか。一体どうされたのか、、、。 壮大な、でも怪しい事業プランに取り掛かっておられ、周囲は困惑。副住職さんのお諫めの言葉も耳に入らず逆効果で余計にいきりたたれます。 老人性鬱?認知症? 感情的、突発的な言動の奥に何か大切な教えがあるのかな?と、思ったりもするのですが、どうもそうではないみたい。 なにか、寂しいのかな?とか思ったりもします。 師僧として尊敬できない、、、。辛いです。どうしたものでしょうか。先輩がた、アドバイスお願いします
はじめまして。めぐみと申します。 不謹慎かもしれませんが、祖父の葬儀でお見かけした、親戚の菩提寺の副住職さんを好きになってしまいました。 葬儀後の法要でお話しする機会があり、その後お寺の行事にお誘いいただいたことがきっかけで、個人的な連絡先は知っております。 しかしながら、お寺様と檀家(側)、というと、教師と生徒といった壁を感じ、私から何かしらお誘い等してもよいものか、烏滸がましいのではないかと躊躇われてしまいます。 私は20代後半、お相手は30代前半で、ご住職とお話しする限り、明確な恋人や婚約者はおられないようです。 ただ、確りしたお寺さんのようで、お寺関係のお見合いは多いのではないか、また、私は在家でお寺関係者ではありませんので、身分が不釣り合いなようにも思います。 また、共通の知り合いや接点が全くない状態です。 これら背景を踏まえ、この恋は諦めるべきか、諦めなくてもよいのであれば、どのようにアプローチをしたらよいのか、ご助言をいただきたく質問致します。 (現在親戚は代替わりしており、先々代まではお寺様との繋がりはそれなりにあったようですが、現在では月参り、葬儀等程度のお付き合いとのことです。) 現在は、私から連絡をすればお返事をいただけますが、お相手から連絡をいただいたことはなく、また、二人きりでプライベートでお会いしたことはありません。 久しぶりに、好きだ、と思えるお方に出会え、何とかご縁を結べたなら幸せだな、と考えています。 よろしくお願い致します。
可能な範囲で教えてください。 出家なさった理由はなんですか? そして、出家して良かったと感じたこと、悪かった(大変、辛いなど)と感じたことはなんですか? 立ち入った質問で恐縮ですが、在家で仏教に関心を持つ者にとっては興味のあることです。 宜しくお願い致します。
お坊さんに在家で天部の仏様は祀らないように言われて手放すように言われてしまいました。仏教的には師僧にあたると思っています。 その天部の仏様には特別に縁を感じているのですが、師僧はその天部の仏様自体に疑問があるようです。 魂抜きをして安置してもダメでしょうか?
時代が時代だから隠してただけで、昔もそういう人は日本にもいたらしいですし。現代で、僧侶の方々はLGBTの人たちをどう考えてらっしゃるのか知りたいので、どうかご意見をお聞かせください。俗世的な質問をお許しくださいませ。
どうして、全国各地の寺院は、葬式、法会が中心なのでしょうか。 学校のいじめに悩む子供たちが気軽に住職に相談しに行けるのが理想なんでしょうけど、やっぱり多忙だからしょうがないのでしょうか。 だからこそ、ハスノハのようなウェブサイトが貴重だけど、本来はお寺がその役割をしなければ、葬式仏教と揶揄されるのも仕方がないのかと個人的に思います。
以前に得度について質問したものです。 あれから、自分でも色々調べてみました。まず、わたしのような者の師僧になって下さる僧侶の方に深く感謝します。 費用についても、ほぼ工面できます。 僧侶になった後、入りたいお寺も、あります。(実家のある田舎のお寺の僧侶が事件を起こし、懲役刑となり 解任となったあと五年も住職不在です。このままつぁは廃寺になりそうなので、これは大変と、墓は都会にうつしましたが、いまは早まったかなと後悔しています。子供の頃から親しんできたお寺なので、もし、お許しがあればそこに入りたいです)自分一人の生活費は、なんとかなります。過疎の限界集落で若い人はほとんどいませんが、それでも残って生活している知り合いのおじちゃん、おばちゃんの力になりたいのです。(平均年齢は90近いです) で、今日の相談なのですが、いろんなお坊さんのお話を聞いているうちに、お坊さんの世界にも権力闘争とか、色と欲にまみれている方とかが、いるようです。高名な僧侶の方の耳を疑うようなスキャンダルも耳にしました。 そんな深い闇があるとは!わたしに、つとまるのか!ここに来て少しびびってしまいました。 もう、師僧(お墓を移した都会のお寺の住職さん)に法名をつけてもらっているのですが、自分のこころを整えるために、修行を進めるのを少し待ってもらっても良いものでしょうか。 つけ加えると、中学生の頃から仏道や出家への憧れがありました。菩提寺の住職さんといろいろと話しているうちに「得度してみるかね」「はい」とお答えしました。いろんな条件も整っているので、周りからの異論はありませんが、以前した質問のように仏教界には、ほとんど無知なのです。実情を見聞きして、少し気持ちが萎えてきました。
先日、母の一周忌でお坊さんを派遣して頂きました。初めてお会いする方です。 その方に、お仏壇について色々お教え頂きました。中に入れてはいけないもの、必要なもの。ありがたいこととは思いますが、親の宗派で私自身は特に信仰しているわけではなくなく、全てを揃えなければいけないのか?と疑問に思いました。また、母の好きなもの、生前大切にしていたものを置いておいたのですが、それもいけないと言われてしまい悲しくなりました。もちろん、決まり事はあるでしょうが。 お仏壇は、きちんと決まりを守らなければいけないものでしょうか。マンション住まいで立派なものは用意できませんし、私たちにとっては精一杯の母への供養のつもりで用意したものなのですが。 また、私と兄、2人だけの参列だったのですが。「そもそも、法要は親しいものが集って行うもの。集って行わなければ意味がない」というような趣旨のお話をされました。私たちは親戚が遠方にしかおらず、年老いた親戚を呼び寄せることも出来ません。 少ない人数では、法要は行っては意味がないのでしょうか。 母のために、一通り供養をしたいという想いでお坊さんをお呼びしましたが、とっても悲しくなってしまいました。 もう、お坊さんを今後お呼びしたいとも思わなくなりました。 もちろん、そのお坊さんは悪気があって仰ったことではないとわかっていますが。 他のお坊さんは、このようなこのお坊さんの言葉をどう思われますでしょうか? 教えて頂きたいです。
こちらで質問回答を読み進めるうちに、いろんなお坊さんがいらっしゃるのだなと思いました。今まで、お坊さんとは職業名に近い印象でしたが、今はもっと奥行を持って感じられます。 お坊さんも人間で、頭があって手脚が生えてて、目鼻口がある。 小中学校では机を並べて学んでいたでしょう。 同じ2019年、同じ日本に生きる個人として、不思議に思えました。 お坊さんは、人に向き合い、救おうとし、ハスノハで回答をなさっている。 私は、お坊さんに質問し、救いを求めている。 なぜ、私は自分を救えず、救われることを願う側に疑いなく居座るのでしょう。 私ももっと強くなりたい。 お坊さんと私の違いは何でしょうか? 仏教の教え、智慧をどれほど会得しているかでしょうか?そして日々の心の修練でしょうか?それから、覚悟でしょうか?何なのでしょう…?気になります。企業秘密でしたら無理にとは申しませんが…