(編集部より。hasunohaでは基本的に質問時に対する回答で完結する形をとっています。お礼の欄での新たなご質問に回答することは必須としていないので、新たに回答を求められる場合は新規投稿をお願いします。また文章でのやりとりなので、書かれていない部分は背後を想像して回答する場合もあります。そのため誤解を生じてしまう場合もあるかもしれず、申し訳ございませんが、hasunohaは字数制限ある文章でのやりとり上、そのような性質を持っていることをご了承の上ご利用をお願いします。) 前回、『呪いの代行について』で質問させて頂きました。その時に、 『どんな人に対してであれ、人の不幸を祈るようなことをする、そのこと自体が、そういう気持ちが、貴女の人格として滲み出し、人とのご縁を遠ざけてしまいます。先祖のせいにしてはいけないことです。 まず、貴女が人の不幸ではなく、幸せを祈れる人になってください。』 とご回答を頂きました。 人の不幸を願う人間と決めつけられて、凄いショックでした。でも、そのお坊さまからしてみれば、『呪いの代行』とあったので、『呪い』ということにこだわってしまわれたのかなとも思い、お礼欄に人の不幸を祈り依頼したわけではないこと、恋愛成就の相談をしたことを記載させて頂いたのに、それに対してはご回答を頂けませんでした。 お坊さまとは、私の中では、もっと心に寄り添って下さる方と思っていました。一方的にアドバイスされ、それに対して返答しても、ご回答を頂けず、とても残念です。
いつもありがとうございます。今回も僧侶の先生方にご指導賜りたく、よろしくお願いいたします。先日尊敬する先輩からお話を頂きまして、お坊さんになる為にお寺で働けることになりました。労働条件として、宿坊業務はやらず法務見習いをするとの事でしたので、長年働いていた会社を辞めてお寺に行きました。行くなり宿坊業務と台所仕事、掃除等の外回りの仕事ばかり指示されました。前々からいる事務員は何を尋ねても答えませんし、的確な指示もなくどうしていいか分かりませんでした。独りで何から何まで抱えることになりまして、いっぱいいっぱいになり「これはちょっと違うぞ」と思いました。先輩に助けを求めても「とにかく耐えろ」しか言われませんでした。しまいにはその事務員は、やってもないことを住職に告げ口され、住職から注意される始末でした。もう限界と住職にありのままをお伝えして辞めて来た次第です。職を失い、年齢的にお坊さんになる夢も絶たれ、途方にくれています。どうか先生方のご指導をよろしくお願いいたします。
こんばんは この前も相談しましたが 赤ちゃん引っ越しすることにしました 納骨堂に引っ越しして、精神的にも楽になりました。共同墓地なので 寂しくないと思います。多分引っ越ししたのわかってると思います。 妹かなって思ってたけどお坊さんに聞いたら男の子っていってました。 見ただけで、分かるんだね すごいと思いました。弟が母のお腹にいるとき 母は薬飲んでたから、奇形児が産まれると私が大変だと思ったから かわいそうだけど、おろすことにしたみたいです。学校にいくようになったら いじめの対象になるから、かわいそうだから、産まれなくてよかったかもって 男の子か女の子かわからなかったから 名前はないけど たまに弟の墓参りにいこうって思います。姉ちゃんは線香と花あげることしかできないけど怒らないと思います。 バチ来たことないから、弟もわかってるのかもですね
社会生活に馴染めず、現在ひきこもりで、両親のおかげで生かしてもらっています。 学生時代に読んだ正法眼蔵を読み返し、道元禅師やお釈迦様のような境地に至れば、生き苦しさは少しはマシになるかなと、最近、坐禅会に行くようになりました。 坐禅を通して、仏教の世界に少しずつ惹かれ始め、出家を考えるようになりました。しかし、ネットで調べると、出家後の僧侶の生活は、お葬式や法事などの時間が大半で、坐禅をする時間はほとんどないとのことでした。 私が思い描く出家後の生活は、お葬式や法事はしないで、収入はお寺以外の副業で賄いながら、自分と似たような境遇のひこもりの方達の居場所を作れるようなお寺を創っていきたい考えています。 このような考え方は、仏教の立場から外れたものになるでしょうか。 やはり、お葬式や法事をしないお寺というのは非常識でしょうか。 身近に僧侶の方がいないので、出家後の僧侶の生活がよく分かりませんので教えて頂きたいです。
先日祖父の三十三回忌の法要に行きました。 私が生まれる前に亡くなっており、一度も会ったことがなく父の話の中でしか知らない祖父のはずなのですが、何故かお坊さんのお経を聞いている時自然と涙が止まりませんでした。 父が幼くして祖父と死に別れた苦しみや、祖父の死後1人で子供を育てた祖母、そして今それらを乗り越えて私を育ててくれている感謝や、祖父がどれほどこの病気で苦しんだのだろうかという思いなど様々な気持ちが込み上げてきて焼香するまで涙が止まりませんでした。 父には「会ったことないのにね」と言われ、自分でも本当にその通りだと思いました。 私はあの時何故涙が出たのでしょうか。 自分でも分からず悩み抜いたのですが、お坊さんにお聞きするのが1番かと思い質問させて頂きました。 乱筆失礼致しました。
初めまして、この度自分では消化できない思いが芽生えまして。 お時間のある時に疑問に答えて頂けたらと思います。 先日、身内に「お坊さん方が相談にのって下さるサイトがあるんだよ」とこのハスノハを紹介したところ、身内が「なんか脱サラして僧になった人や元プロレスラーの僧がいるんだな……」となにやら神妙な顔で呟いたなと思いきや、 「この人らって僧になる前に大なり小なり犯した罪ってどうしたんかな?」 「人の悪口を言ってしまった、ネットで誹謗中傷してしまっただの相談に説教かましてる坊主がいるけど、この坊主らは今までやってきた前職でおかしてきた罪や行いはどう折り合いつけたんだ?」 「例えば元プロレスラーならそういう職業とはいえ汚い言葉で相手に暴言吐いたり殴ったりしただろうに」 「仏の道に入るんだから前に殴った相手だとか1人1人にちゃんと謝罪したんかな?それとも仕事だから別に悪い事じゃないとか思ってんのかな?もしくは過去は過去ってことでその事は切り捨てたり忘れたりしてるのかな?仏道に入ればそういう行い全部帳消しになったつもりでいたりするんかな?」 「なんにも過去を清算してない坊主が、ここで必死な思いでどうしたら良いか相談しに来られてる方々に説教してる姿に違和感がある」 「自分の事棚に上げて説教してるんならある意味偽善者よりタチが悪い気がする」 と、そのような事を言っておりました。 私はそれを聞いた時にギョッとしたものの、確かに…とちょこっと共感するところがありました。 お坊さんになられる前の職業でいろいろあった方々がいらっしゃると思いますが、過去の自分の行いにはどのように向き合っていらっしゃるか教えて頂きたいです。とても気になります。
はじめて質問させて頂きます。 私はお寺関係の血筋でもなく、付き合い?のあるお寺もありません。 福祉の相談関係の仕事をしており、身寄りもなく独り身で、お金も全くない、菩提寺もないかたを見送ることがあります。 そんな時、せめて私が僧侶なら小さいお葬式をあげて差し上げられるのに。と思うようになりました。 あと、現在新型コロナウイルスの関係で、福祉施設にお坊さんを呼ぶことができません。毎月みなさんとても楽しみにしており、他のことで喜んでもらおうと楽器の演奏など自分に出来ることをしますが、やっぱりお坊さんの話を聞きたい、みんなで正信偈を唱えたいようです。私が僧侶なら法話ができるのにと思うようになりました。 動機としてはハテナ?な点もあるかと思いますが、僧侶になりたいと思っています。アドバイスよろしくお願いいたします。 補足・現在、通信制の大学院で福祉を学んでおりますが、仏教の授業がひとつだけあります。その授業の時に、仏教にものすごくひかれまして、上記の思いが強くなりました。 「浄土真宗」と書かせていただいたのは、私が住んでいる地区では浄土真宗が1番多く信仰されているからです。私や主人は実家が天台宗のお寺にお墓がありますが、実家が県外でお寺との付き合い?もなく、乱暴な言い方ですがお墓があるだけといった感じです。実家の親たちもお墓参りに行くくらいで、信仰してるかどうかといえばそうではないといった状態です。
お坊さんは、普段から、体力増進のために特別なトレーニングなどされていますか。日々の修行・仕事で、それは培われますか。
長文を失礼いたします。 私の母が亡くなった折、私の父が私の母の永代供養のお願いのためにお寺へ出向いた折、私からいくつか住職に質問をいたしました。 「私、葬儀社の方にかなりお世話になりまして、で、その方たちは亡くなった方に対して一礼を欠かさず、敬意を尽くしているようにみられました。 私はお経の意味などはわかりませんが、この一連の(お経をあげる式の)動作中に、何かそうした「敬意を表す」ような行動は含まれるのでしょうか」 といった内容のものです。その住職の言動などに、どこか投げやりっぽい感じを受けましたもので。 住職の回答ですが、端的に「お経をあげることがこうした敬意になります」というものでしたが、なんとなく私は納得できませんでした。 続けてあげていただいたお経の意味をおたずねして、それについても説明していただきました。 「納得いただけましたか」という問いに対して、私は「あとは個人個人のとらえ方になってくると思います」みたいなことを言ったと思います。 その直後にご住職が激高しまして・・・。 「お前、俺のあげるお経より葬儀社の人間のほうが礼を尽くしてるっていうのか、そうなら全部葬儀社の人間に供養してもらえ!」 「俺の方が(葬儀社より)上にきまってるだろ!」 「こっちは商売でやってるんじゃないんだ!お前がそんな態度なら金は返す、そのかわりこの戒名は返してもらう」 「●●(父の名前)とのご縁もあって、特別に永代供養という形をとったが、こんな態度をとられるとは思わなかった」 私も「それは違う」「誤解だ」と色々言いましたが、聞き入れようとはされなかったように見受けられます。 最終的には「お前の言うとおり誠意なんてのは個人個人のとらえ方だろうから、それならお前が納得する寺を探せ!」と怒鳴った後、住職は席を立って退席されてしまいました。 私自身「お経なんて何の役に立つのか」といった気持ちがありましたし、そうした気持ちを見透かされていたのかもしれません。 それにこうした質問は「場」にそぐわないものでしょうし、私のような気持ちを持つ人と接する場合、かなり不愉快であっただろうとも思います。 しかし、あそこまで面罵されるとは思いませんで・・・。 二人で平謝りしたことでとりなしを得ましたが、個人的には今後の事も考えています。ほかの方のどんな見解でも聞きたいです。よろしくお願いいたします。
そのテの大学へ行くなり、 しっかり手順を踏めば一般家庭出身でもなれない事はなのでしょうか? 僧侶でも構わないのですが、お給料が少ないとのこと。正直、お金要りませんけど、親孝行したい・・・仕送りしたい・・・
以前とても丁寧なアドバイスを頂き、少しずつ前向きな気持ちで過ごせるようになりました。 ありがとうございます。 先日身内の初七日後にお坊さんの説法を聞き、心が洗われ元気を貰えました。 あ~もっと聞きたいなと。 どうしたら説法が聞く事が出来るか教えて頂きたいです。 検索しましたが今一つ方法が解りませんでした。 よろしくお願いいたします。
真言宗の僧侶になりたいと強く思っている方がおります。 元々幼い頃から仏の道に触れ、家に神棚があり御大師さまなどを祀っていたり、お経を唱えたりなどされている方です。 ですが、身体の一部に刺青(獅子)が入っているため僧侶になれないのではないかと、心配しております。 刺青があっても本気で仏道を進みたいと思っていれば師を取らせて頂き、仏道を学び僧侶になることは可能なのでしょうか? 回答よろしくお願い致します。
お坊さんは、現代日本を襲う少子化、人口減少をどのように捉えているでしょうか。仏教の衰退にも関わる重大な問題だと思うのですが、移民を受け入れて、彼らに仏教の未来を託すべきでしょうか。
宗派のラベリングに重要性が見いだせず、むしろ弊害を感じることが多いです。 (800文字と長めです。) 以前とある牧師さんに教わりました。「キリスト教は浄土宗とソックリだ。日本向けのローカライズのために、あえて仏教に化けて広めた可能性を疑う研究者すらいる(笑)」 真偽はさておき、個人的には同感です。核心部たる念仏などは酷似しており、言葉が違うだけで内容はほぼ一致かと(素人目には)感じています。となると、キリスト教と浄土宗の本質的な違いは何でしょうか?人智を超えた神仏を※※教だけが独占できると見なす構造にも疑問があります。 ここからが本題です。その違い(ラベリング)は、諸々の軋轢を覚悟してまで保つべき、重要な違いなのでしょうか? 些細な見解の差で派閥や宗派が分かれていき、しまいには宗教戦争が起こるのだとしたら、単なるセクショナリズムと何か違うのでしょうか?5%の違いのせいで協力できず、残り95%の共通点を捨てているように見えます。ましてや同じ宗派や寺院の所属でも、個人ごとに意見はバラバラだというのに。宗派の上納金制度?などを聞いても、宗派はいわゆるビジネス上の"のれん"に過ぎないのでは?との現実的な疑問も浮かびます。 問いの対象は浄土宗だけではなく、宗教と道徳の境界線についてです。話がそれますが、中東問題などを理解する上でも避けて通れないテーマです。奇譚のないご意見を頂けると嬉しいです。 問を整理します。 「学べば学ぶ程に、宗教や宗派のラベリングに重要性が見いだせません。むしろなぜ拘るのかわかりません。私に欠けている視点を、どうかお聞かせください」 以下は補足です。 私はキング牧師やガンジーを尊敬しています。彼らは別々の信仰を持ちつつも、※※教徒のためではなく、社会全体の差別撤廃のために活動しました。それでいて、全ては信仰に基づくと明言しています。このスタイルに敬意を持つ反面、宗教宗派のラベリングに違和感を持つということは、何かを見落としているのでしょうか? 宗教とか宗派に拘りがなく、人に言われるまで気づきもしないのはダメなのでしょうか?
お寺での生活や、僧侶として従事する方の日頃の暮らし、なぜ仏門に入られたのかきっかけ等に興味があり、件名の通りの質問をさせていただきます。 不躾な質問でしたら申し訳ございません。 お寺や宗派によってもまた違うかと思いますが、できるだけいろんな方の回答を伺えたら幸いです。 質問数が多くなってしまい大変申し訳ありませんが、差し支えのない範囲でご教示いただけますと幸いです。 何卒よろしくお願い申し上げます。 ①一般的に、住宅街にあるような比較的小規模な寺院には、住職以外のお坊さんは大体何名ほどいらっしゃるのでしょうか? ②お坊さんが一通りの修行を終えたとされるのはどのような段階ででしょうか? ③修行を終えたのち、学校職員など他の職業と兼任しながら、お寺に住み込みで役僧や僧職員として住職のお手伝いをして暮らす言うことはあるのでしょうか? ④お寺に住み込みで働く場合、住職にご家族がいらっしゃる場合、同じ場所で暮らすのでしょうか?別棟などが用意されてるのでしょうか。 ⑤実家がお寺で家業を継ぐ以外で、お坊さんになられた方がいらっしゃいましたら、なぜ仏門を目指されたのかお話を伺えますと幸いです。 以上です。 もし失礼なことを伺っていたら申し訳ありません。
四十九日法要のために、お坊さんサービスを介してお坊さんを頼みました。 直接、お坊さんからご挨拶のお電話があった時に、初盆と四十九日をいっしょにするなら、初盆の分を半額にしますよと言われました。しかし、四十九日はお盆を過ぎた後ですので、初盆は来年のはずですし、四十九日とは死者があの世に向かわれる日で、お盆とはあの世におられる死者の霊を迎える日ですよね?それでは、四十九日で送り出した数分後にまた呼び戻すということですか? 最近は合理化の為、葬式の日に初七日もいっしょに行なったりするようですが、四十九日と初盆を同時にというのも一般的なのでしょうか? 私には違和感があり受け入れられませんので、当然お断りいたしました。
昨日、母の初盆で自宅にお坊さんに来ていただき、読経していただきました。 今まで無宗教だのあの世は信じないだの威勢のいい言葉を並べて生きてきましたが、母の死に直面して、純粋に「苦楽から解放されてあの世では安らかに過ごして欲しい」との思いで父方の宗派の浄土真宗大谷派のお寺さんにお願いして節目の法要をお願いしています。 お坊さんの法話で、私たちが心配しなくても極楽浄土で過ごされているから心配は無用なんだとの旨を教えていただき、少しずつ自分でもネットで調べて仏教に触れ、今まで無知だった仏教に対しての印象も段々と変わってきました。 そんな私のお坊さんに対する疑問ですが、母の法事のお坊さんの読経中は生前の母は「こんなことあったな」「あんなことあったな」と色々思いを馳せたり、お坊さんの「南無阿弥陀仏」が聞き取れた時はお坊さんの言葉に重ねて頭の中で南無阿弥陀仏と唱えているのですが、未熟なものでそのうち「お経長いな」とか「お坊さん、歌うまそうだな」とか「お経は何て言ってるのかな」とか色々と雑念がわいてきて、母や法事と無関係なことを考えてしまいます。正直お経の意味すら知らない自分が読経に合わせて手を合わせることに意味があるのかなんていう素朴な疑問もよぎります。 自分でも失礼だと思うし、「せめて今日ぐらいはお袋や先祖さま、お袋も可愛がっていた先代のペットのことを考えてやれよ!」と自分自身に突っ込みをいれたくもなるのですが、失礼な言い方ですが読経に自分でか「飽きてしまってる自分」もいるのだと思います。 そこでお坊さん方にお聞きしたいのですが、法事はもちろんこれからも参列する機会もたくさんあると思いますが、お葬式やお通夜など含めてお坊さんの読経中はどういった心持ちでいるべきなのでしょうか? もし同じような雑念が出てきてしまったら、どのように持ち直す?脱線を修正したらよいでしょうか? またお坊さんたちは自身のお勤めの際、どのようなお気持ちで読経なさるのですか?例えば劇の時のように、感情を込めてそのたちばになりきるように、お経の中の言葉の意味に思いを込めて唱えられるのでしょう?また同じような雑念がわくことはありますか? 子供じみた質問で申し訳ありません。
初めまして。 「有難うございます。」 伝えたくて投稿致しました。 一年くらい、ハスノハさんの隠れファンです。私、自身過去に沢山の人を傷つけて生きてきました。(自己認識できていない事象さえあると思います)時折、それらが何かのはずみで、思い起こされ、罪悪感から解放されたいという身勝手な気持ちが芽生え、「許しを得るために謝りたい」「あの人は今頃幸せになっているだろうか」「傷を抱えていないだろうか」と思い悩み、この場を借りて、詳細を聞いて頂き、楽になるために懺悔をしたいなと思うことが何度かありました。いつか抱えきれなくなったらこの場を借りて懺悔させて下さい。 毎日アップされる相談を見ると、 本質的には、非常に似た要因や背景、思考で悩まれ、自分と向き合い、後悔し、受け入れるための努力をしようと(それをお坊さん方が支えようと)されているなと感じます。 なので、他の方の問答を拝見し、自分を客観的に省みることが出来、落ち込んだり、落ち着いたり、反省したりしています。こうした効用が、ハスノハ凄いところだと思います。 時折、「このお坊さんの回答は、ちゃうやろ!違和感有り」と思うこともありますが(笑)。貴重な時間を割いて、向き合おうとされるご姿勢だけでも。感謝です。 長くなり、すいません。 ここからが本題です。今日、カンブリア宮殿という番組をみて、築地本願寺が取材されてました。 人口減少に、コロナも重なり、お寺も、存続していくのに、今本当に大変なんだと改めて認識しました。当たり前ですが、お坊さんにも家族がいたり、生活があります。ハスノハで、相談にのって下さるお坊さんは、確か回答も無償で対応下さっています。親切に個別アドレスで対応下されてる方も見受けます 民間の心理相談サービスなら一相談や、数十分できっと数千円から一万円くらいで、提供されているはずです 人の心に、真摯に寄り添って下さるお坊さんや、お寺が永く続いていくように、自分も超超僅かながら、「おきもち」を使い支えていければと思いました。 今、大苦境の飲食店が、常連さんに応援されているように。素敵なお坊さんを、ハスノハユーザーも応援していく、世界が出来たらいいですね 〉事務局さん ライトな有難し感覚で数百円位から、あってもいいかもしれません。メルペイ可等。 最後に、私、決して関係者ではありません!有難うございました
いつもありがたいお言葉ありがとうございます。 ただいまお盆参りの時期で大忙しだと思います。そんな時期に申し訳ないのですが、この時期にもらって嬉しいプレゼントを教えてください。食べ物、飲み物、衣類、雑貨、何でも構いません。 暑い日が続きますが、気をつけてお過ごし下さい!
このようなタイトルを掲げてこちらへ来るのはとても勇気がいりましたが、お坊様側からの見解をどうしてもお聞きしたく質問させて頂きます。 6年前の父の火葬の際、檀家になっている寺の住職がお経を唱えた後、「貴女方お金無いんでしょ?30万円を20万円にしてあげますからご安心を」と周りに人がいるのも憚らず非常に通るいい声でおっしゃられました。 確かに我が家は貧しいのですが、お布施も苦しい生活の中からきちんと納めていましたし、今回の葬儀も安くしてくれとは一言もお願いしておりませんでした。気を使ってくださったのでしょうが、仏に支えるお坊様からお金の話が火葬場で出るとは開いた口が塞がりませんでした。 火葬場まで高級外車で乗りつける姿にも違和感を感じましたが、こんなお坊様は今時そんなに珍しくないのでしょうか? 寺での葬儀後も納骨にはいくらいくら、石材店にはこのくらいと、始終お金の話が絶えずさすがに腹が立って仕方ありませんでした。父を亡くして悲しんでいる家族にビジネス丸出しの言葉ばかりの住職に対し不信感しかありません。 先代の住職は緋の衣を纏うほどの立派な方との事で、祖父の代から檀家になったそうです。 現在の住職はゴルフはするし、高級外車を何台も駐車場に並べています。おまけに意味のない鐘突堂等の建築にも力を入れておられます。 そして肝心の寺の設備と言えば、檀家用のおトイレは和式のままでバリアフリーとはなんぞや?のような古寺です。 あれではお年寄りが気の毒です。 お布施や寄付は一体何に使われているのでしょうか? どんなにありがたい仏様のお話しも耳に入りません。 檀家離れが騒がれる今日、こうした生臭坊主が時代にそぐわないお金儲けに走っている事が原因なのか、そもそもコロンブスの卵のように檀家が減るからお金儲けを始める坊主が出てしまうのか どちらが先か分かりませんが、墓終いをしたくても今度はいくら吹っ掛けられるか怖くて相談も出来ません。 仏の名を借りたそれらしい説教をさ れそうで怖いです。 お寺って昔はそんな人を見下したりする所じゃなかったのに…と悲しみと怒りと今後の不安で夜も眠れません。 私は元々お墓参りやお盆、彼岸の古来からの習慣を大切にしてきました。金金金のお寺さんを目の当たりにして、今後続けていく気持ちが無くなりそうです。どうぞお導きのほどよろしくお願い致します。