先日、父親の葬式がありまして代々檀家としてお世話になっているお寺のお坊さんに来ていただいたのですが、お坊さんの態度とか振る舞いがなんとも偉そうなカンジで親類一同イヤな思いをしました。 まずはお経をお願いするためにお寺に電話した時から上から目線で日にちや時間を指定されました。 お経をあげる前にお布施を前払いで要求したりお布施の金額を指定してきたりするのは普通なのでしょうか? 今まで参加したお通夜ではお経の後に親族を励ますような説法をしてくれたりしているとこが多かったように思うのですが、事務的にお経をあげて挨拶もそこそこにさっさと帰って行かれました。親戚の叔父さんの話では、お坊さんが代替わりしてから檀家からの悪評をあちこちで聞くらしいです。お坊さんは世襲で檀家の者はお坊さんを選べないんですかね? 私の兄弟も檀家をちがうとこにしたいとか言ってました。インターネットで調べても最近檀家を抜ける人が多いとか出てますが、しかし先祖代々お世話になっていますから簡単にはかないようにも思いますし… どうなんでしょうね? 宗派に不満とかは無いので同じ宗派の別な檀家に入れてもらったりするのは可能なのでしょうか? あるいは本山に連絡してお坊さんを変えてもらったりできないのでしょうか? これから行事毎にそこのお寺にお願いして来ていただくことが苦痛になりそうです。 最近インターネットでお坊さんを派遣したりするビジネスがあると聞いて馬鹿々々しくて笑っていたのですが、今回自分がこのような体験してみると派遣して来ていただいたほうが正しいような気がしてきました。 今の時流がひとつ理解できました。 どうするのがよいとおもわれますか?
有難き法縁を最近恵まれて、僧侶になることを考えている者です。仏道に生きることは自分にとって良いだけでなく、それを世に広めることは非常に大きな意味があると思っています。教行信証を読んで、これは広めるべき教えだと深い感慨を得ました。寺族でない者が僧侶になる道もいろいろと調べました。 しかし、私が今まで積んできた学業を捨てて僧侶になることは本当に社会にとって最善なのか、と思いました。(現在、米国の大学に在籍し工学を勉強しています。ちなみに浄土真宗の寺に毎週通うようになったのもこの地です。) もちろん、そこには自分が工学をやりつつ仏教もやるという煩悩もありますが、私がここまで工学の勉学を多額の費用が掛かるにもかかわらず進められてきたのも立派なご縁で様々な人のおかげです。技術者になれば社会に貢献できるとも思います。寺族でない者が別の職業に就きつつ僧侶になり寺を開くことは現実的でしょうか。 親鸞聖人は非僧非俗といいました。関東の農民とともに農作業にも励んだと聞いています。今日でも、別の職業に就き世の荒波に揉まれつつ、僧侶として(例えば、毎週日曜日に自宅をお寺にするなど)人々とともに仏道を歩むのは意味があることだと思うのです。 休日を持たない覚悟はあります。また、通常の寺という形に囚われず、布教所のように小さな形でも仏法を広められるのなら良いと思います。しかし、寺族でない人が別の職を持ちつつ寺を開くケースを拝見したことがありません。実際のところどうなのでしょうか。
いつもお世話になっております、先月四十九日の法要が終わりとてもほっとした自分がいました、四十九日の法要がいかに大切かということがわかり素晴らしい1日になったと思っています。その後から仕事に復帰しました朝晩読んだことのなかったお経をあげることで1日がはじまり1日が終わります、朝お仏壇に行ってきますと言い帰ってきたらただいまという毎日、ふと思うんです最愛の主人はいつもどこにいるんだろうと、毎日うちで可愛がっていたペットたちと留守番をしてくれているのか、仕事中もずっと私のそばにいてくれるのか?今どこにいるのと毎日何度も思います、仕事の帰りは運転しながら毎日号泣してしまうのですが、そんなとき私の前を走っている車が主人と同じ車だったり信号待ちをしてるとびっくりするくらい大きくてきれいな雲をみたり飛行機雲がみえたりします、そんな時は主人が合図してくれてるんだと思うのですが、夕べは主人が生きててよかったって主人に抱きついている夢をみて目覚めるとやっぱりいないんです、たまらないです、すぐにお仏壇の前に座り私からは行くことはできないから、あなたが迎えに来て私の手を引っ張って連れて行ってと泣いてました、いま主人はどこにいますか?私の姿は主人から見えているんでしょうか?教えて下さい。
学習性無力感に陥っているベテラン(若手も?)僧侶をよくお見かけします。そして、それは無理もないと感じています。現場の本音を、差支えない範囲でお聞きしたく思います。 法話で何を話しても響かないし、葬儀や法事の際も、飾りとしてしか求められてない本音を感じるし、一見したところ支持してくれている方も、実は事なかれ主義の惰性だったりで、、。傍から見ていても気づくので、いたたまれない時がややあります。そんな現実の中、気力を振り絞って活動しているお坊さんをよくお見かけします。私にはそう見えますし、時折ボヤくお坊さんが実際におります。責めるつもりは微塵もありません。 ここで本音を語るのは難しいとは存じますが、虚しくなることはないのでしょうか?また、なぜこんな状況が長年続いてしまったのか?今後はどうする方針か? 考えをお聞かせください。 宗教家の宿命なのかもしれませんし、開き直って腐敗していく方も多いようなので、、そんなマジメなお坊さんにこそ、もっと暴れまわってもらいたいです。
(編集部より。お礼ありがとうございます。回答者の指名はできませんのでよろしくお願いします) 前回このhasunohaで相談させてもらった時に、小林覚城様に答えてもらったことで自分が今後どうするべきでどういう心構えで生きていけばいいかわかったような気がして少し心が楽になりました。 本当に感謝申し上げます。 まだまだ人間的に未熟ですが、しっかりとした人間になれるようにがんばります。 数多くの相談に乗ってる中、自分だけ個人的なお礼で申し訳ございません。
以前とある聖職者(?)が言っていました。「宗教家は失業すればいい。失業するために頑張っている」 つまり必要とされなくなるために、存在しているのだと。 仏教離れが進みつつ、仏教以外にも悩みを解決する智慧が豊富にある今の時代、お坊さんはどんな気持ちで活動しているのでしょうか? 仏教を大切にすることと、僧侶として生計を立てるのは別であり、どうしても資本主義とは相容れない部分もあるかと思います。そのあたりは、どうお考えなのでしょうか?そこがわかると「宗教とカネ」という悩ましいテーマの理解が進む気がしております。 個人的には、未来の職業僧侶は、少数精鋭になるかと考えています。作家やユーチューバーのように、一部の人が活躍し、その他は趣味のような活動になり、狭き門になるのかと。 率直な意見をお聞かせ下さい。よろしくお願い致します。
今、ご住職がお越しいただくのを待っています、一生懸命自分なりに準備をしてきましたが忘れていることはないかと落ち着くことができません、そんな私を主人は今、みてくれているでしょうか? 何も感じることはできませんが今日は頼むぞ!と主人が言ってるような気もします、どなたか教えて下さい。
先日、ご相談させて頂いた際にはお世話になりました。 そのことと関係してご質問させていただきたいことがございます。 20年前にお付き合いしていた男性が、5年前に銀行を辞めて実家のお寺を継いで僧侶になっていたことを、とあるお寺のホームページを見て知りました。 お付き合いしていた時、彼は法律事務所でアルバイトをしている大学生で、その法律事務所での就職が決まっている状況でした。当時は「地元に帰る気はない。帰ってこいって言われてるけど3年くらい帰ってない」と言っていました。 法律事務所から、銀行へ転職し、そこからの新発意で、その時の年齢はおそらく38歳だと思います。得度式を受け、正式に僧侶になるまでにどれくらいの期間を経て、彼はどのような勉強をしたのか、そしてそれからはどのような修行や勉強をしているのか、とても気になっています。一般的なことで良いので教えていだけたらと思います。よろしくお願いいたします。 また、彼のお寺は周りに何もない、里山にひっそりとあるお寺のようですが、そこにいつもいるとゆうことでしょうか。 …(今頃、どんなお坊さんになっているかしら。。。)
前回からの続きです。 以前、仲良くなりたいお坊さんがいると相談しましたが、 偶然にも共通の知り合いがおり、連絡先を交換することができました。 仲良くなったのは良いのですが、会話の中で同期の仲間とよく風俗に行っていることが発覚しました。 知り合って間もないものの、彼は誠実で真面目な人だと思っていたのに、女性をお金で買うようなこと(私はこの世で一番悲しいことだと思います…)を平然としていることに、ショックが隠せません。 御祈願など彼に執り行ってほしい、お経を上げて頂きたいと思っていたのに、このような人間に私の悩みや胸の内を話しても理解されないのではないかと思ってしまいます。 彼氏に話したら、笑っていましたが『そういう場所を利用するのは良いけど、客の自分達にはバレないように配慮すべきだね』と言っていました。 上記の理由でいきなり交遊を断つのも失礼なのはわかりますが、気分的に我慢できません。 護摩、供養を上記の理由で断っても構わないでしょうか? 彼より上の立場の方に聞かれた時には別の理由話すつもりです。 彼氏はこのまま彼に御祈願を任せても良いと言っていますが、気持ちの持っていきようがありません。 仏道に邁進すべきはずの人がなぜこのような事を? それとも、お坊さんには良くあることなのでしょうか? 彼との縁を継続するにせよ、辞めるにせよ、悩むばかりでお諭しを下されば幸いです。
祖父、父母がなくなり、また、菩提寺の住職もなくなり、菩提寺の住職は遠方のお坊さんが通い出来てくれています。自分の葬儀は知り合いのお坊さんにお願いしたいと思っています。何十年も菩提寺としていたお寺を、お坊さんが常時おられるお寺に菩提寺を替えたいと考えていますが、どのように考えていったらいいのでしょうか。
ご相談させてください。 40代後半の僧侶(副住職)の方と知り合い、デートをしたり旅行に行ったりする仲になりました。 そんな中先日私の妊娠がわかり産みたい旨を伝えましたが、責任は半分なので中絶費用は半分・同意書は自分でなんとかしてください・病院にも一人で行ってくださいとだけ言われました。 どうしても産みたいと言うなら会社や身の回りの人に言い生活の術を奪いますとまで。 そんな矢先に流産してしまい、命に対しての罪悪感でいっぱいでとても苦しいです。 彼からは、お互いに少しクールダウンして向き合いましょうと言われました。 とにかくとにかく苦しいです…
いつもお世話になっております。主人が亡くなりもうすぐ四十九日です、今までは主人かいた頃に戻りたい、今、主人が好きだったものに囲まれて過ごしている日々が止まってほしいと思ってました、でも時間だけは誰もが平等に過ぎていく、1秒ごとに新しい朝を迎えるごとに、これは確実にいつか主人に会える日が少しずつ近づいているのだから、やっぱり時は止まらず戻ることもなく毎日進む方がいい夜になると明日に向かってゴーと思うのに、朝になると毎日横に寝ていたはずの主人がいない現実をつきつけられます、四十九日が終わったら私は仕事復帰です、今までは1日職場であった嫌なこたや面白かったこた、夕飯を食べながら話すのが日課でした、体調が悪い時はいつも主人が仕事を休んで病院につれていってくれました、これからはそうはいかず何でも1人でしなくちゃいけない、はじめての1人暮らしです、仕事は続けなければ生活ができません、このまま仕事に復帰して1人で生きていけるのか不安でたまりません、どうしたらいいか教えて下さい。
二度目の投稿です、以前、主人が亡くなって26日目ですというタイトルで相談させていただきお二人のお坊さんから、目には見えなくても、あなたが想うとき必ずご主人は優しい眼差しであなたを見守ってくれています四十九日が過ぎても、ずっとそばにいてくれますよと回答いただき涙が溢れ心から嬉しくありがたく思いました、でもまた私の心は揺れています、毎日、時間ごとに分刻みに揺れ動きます、大変失礼な言い方だとわかっているのですが、お坊さんだって生きている人間なのにどうして亡くなった人がそばにいるとわかるのでしょうか?大切な人を亡くしてしまったらそのようにおもわなければ生きていけないから、そういう考え方をするんでしょうか?わからないんです、いくらそばにいてくれると思っても私には見えないし声も聞こえない何も感じない主人と出会って30年以上、今年の6月は結婚28年目でした、今思えば不思議なことに去年の結婚記念日には私が初めて手作りのケーキを作り、その前の年は主人が初めて、いつもありがとうと書いたケーキを買ってきてくれました そして娘がお腹にいる時の日記を読み返していたらなんの記念日でもないのに3月13日パパがママにピンクの花を買ってきてくれましたと書いてあり3月13日は主人の命日です、それと私はブラックなコーヒーが大好きだったのに主人がいなくなってからそれが突然飲めなくなり主人の好きだった甘い缶コーヒーを毎日飲んでいます、出会ってからずっと会えない日もあったけど声を聞かない日はなかったので亡くなってからずっと声が聞こえない手を握れないのがたまらない毎日作っていたお弁当はキッチンに置いたままです、失礼な質問かもしれませんがどうか教えて下さい。
この分野には詳しくありませんので、恥ずかしながら諸大徳にご相談致します。 私の師僧(60代独身)についてなのですが、元々精神的な問題を抱えている人で、感情が高ぶると御葬儀の場やお法事の席でも大声で叫んだり、真言宗の住職でありながら真言宗や弘法大師を否定してカルト宗教に入ったり、お檀家さんや周辺とも何かとトラブルが絶えない人なのですが、数年前師僧の母親が怪我で入院した頃からさらに言動がおかしくなり、私にも「これからは毎日8時間無料で留守番しに来なさい。」等々無理難題を言ってくるようになりました。 それまでも師が母親を病院に連れていく日などには勿論留守番やお手伝いにはこちらから行っていたのですが、それで何を勘違いしたのかだんだんと要求がエスカレートしてきた状態です。 ちなみに私はお寺に雇われているわけではなく、役僧でも内弟子でもありません。 2,3か月に一度御葬儀の助法をする程度なので、普段は他の仕事で生計を立てており「私も生活があるのでさすがに毎日無料奉仕というわけには・・・」とやんわりお断りしたところ激昂されてしまい、「そんな薄情な事を言うなら師弟関係を解消させてもらう!!」と怒鳴られ師弟関係を人質に度々大した必要性もないような用事などに呼び出されております。 近所に買い物に行くだけのほんの数十分程度の外出にも留守番に呼び出されるので、仕事場からも「そんなにしょっちゅう休むんなら辞めてほしい。」と通告され、年齢的にもかなり厳しい状況です。 その旨を師に伝えても「弟子が師匠のために多少の犠牲になるのは当然の事だ。」等々しれっと言うので最早信頼などとてもできませんが、それでも在家から苦労して20数年なんとか必死の思いで続けてきた僧籍だけは消したくないと思い、ギリギリまで我慢してきましたがこれ以上の師の要求はとても受け入れられず、離弟(僧籍削除)してもらうしかないかと覚悟しております。 総代会も30年余りの間に正式に開かれたことはほとんど無い状態で、相談してもどうにもならない状態です。 そこで離弟する(僧籍が無くなる)ことでどういったデメリットや僧侶としての行動に制限が出てくるのか、師僧が無くてもできることはあるのか等、様々なパターンについてお詳しい方がいらっしゃいましたら御教示いただきたく思います。
主人が亡くなってから様々な手続きや日常生活を無理に送っているような感覚です、毎日お線香をあげ唱えたことのなかった般若心経を唱え、毎晩主人の好きだったおかずをつくり、あっという間に一日が過ぎ、今は四十九日までしか主人と一緒にいられないのなら一日が過ぎるのが怖いです、このまま時が止まってほしいと思うのです、四十九日を過ぎたら私のそばにいてと思ってはいけないのでしょうか?
はじめまして。冷静になるために、ご相談させていただきます。1年ほど前から、ある禅宗の修行僧の方とお付き合いをしています。 ただ先日、私から将来の話を切り出したところ、師匠(老師)の跡を継ぐため妻帯はできないと言われました。 1年前は将来を考えて告白をしてくれたそうですが、そんな無責任なことがあるのでしょうか。 彼の人生ですから、私がとやかく言えることではないと思います。ただ、残された私の心はぼろぼろです。 日々の修行をしていくなかで、そういう選択肢が頭をよぎったとしても、1年前の気持ちを貫いて欲しかったのです。1人の人間を傷つけてまで、決心することでしょうか。 私には修行や仏教の世界はわかりません。その道で生きてこられた方々に、冷静なご意見がいただきたく、相談させていただきました。よろしくお願いいたします。
先日、ふと気になったのですが、お坊さんってどんなお菓子を食べるのですか? 私は、お菓子が大好きなので、ぜひ知りたいです。
出産から、寝たきりになってしまった息子がいました。 何ヶ月も、治療や手術をし乗り越えてきたのですが、最後8ヶ月を迎える前に亡くなってしまいました。 そこでご相談です。 来週四十九日を、迎えます。 お家に可愛いお仏壇を用意し、お位牌を用意しようと思っております。 ネットで入力して彫っていただくシステムのようで、どのように戒名を付けてあげたらいいのか分かりません。 義理実家は真言宗なのですが、今の所はお経を唱えていただいたり、納骨をする予定はありません。 今はまだ息子も私たち夫婦も近くに、そばに居たい気持ちが強く、納骨には踏み切れません。 ですが、お位牌は作ってあげたく自分たちで想い考えてあげたいのが本心です。 亥子とお付けしてあげると良い事は、わかりましたが、それ以外の決まり事が分からず戸惑っております。 お寺さんにお願いしないことを良くないことだと思われることも、承知しておりますが、出来ることなら夫婦で想って付けてあげたいと考えてます。 ご意見いただけますと嬉しいです。宜しくお願いします。
葬儀が無くて暇だと住職が愚痴って来たので 葬儀が無いと言うことは今日は悲しんでいる人が居ないということで良いことではないのか? と聞き返したところブツブツ言いながら去って行きました。 こういう態度は人の不幸を食い物にしているようで気分悪いのですが 皆さんどう思われますか?
高校生です。 最近、具体的な進路として、僧侶になることを志望しています。仏教系の大学に進学したいと考えています。 僕は、般若心経の教えに感動し、観音経には苦しかったときに救われました。みんなが幸せになれるようこの仏教の教えを広めたい!と考え、僧侶を目指しています。 そこで質問なのですが、僧侶のあるべき姿はどのようなものが挙げられるでしょうか。 上記の質問以外にも、いろいろ教えていただけるとありがたいです。