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「仏教・お坊さん」を含む問答(Q&A)一覧

南無阿弥陀仏をおとなえする意味について

私の家は浄土宗の檀家です。 浄土宗(浄土真宗も同じだと思います)では、「ただ南無阿弥陀仏を唱えれば、臨終に際して阿弥陀様が現れて浄土に連れて行ってくださり、そこで悟りをひらいて救われる」という思想だと理解しております。 しかし、どうしても心の中にもやもやが残ってしまいます。 といいますのは、「南無阿弥陀仏を唱えれば浄土に連れて行ってもらえ、悟りをひらける(=救われる)」というのを裏を返せば、「南無阿弥陀仏を唱えない人は悟りをひらけない(=救われない)」ということになってしまわないかと思うのです。 「自分に帰依しないもの、信じないものは救わない」などと、阿弥陀様はおっしゃるようには思えないのです。そんな心の狭い方ではないと思うのです。 おそらく「信じるものは救われる、でも信じてない人も救ってあげるよ」とおっしゃると思うのですが、ではそうなると「南無阿弥陀仏」をお唱えするのに果たして意味があるのかどうか、唱えても唱えなくても救われるのであれば、なぜ「南無阿弥陀仏を唱えると良い」とされているのかという疑問がわいてきます。 つまり 「南無阿弥陀仏を唱えないと救われない」→阿弥陀様はそんな心の狭い方だろうか? 「南無阿弥陀仏を唱えなくても救われる」→じゃあなぜ南無阿弥陀仏を唱える必要があるのか? という板ばさみといいますか、ジレンマに陥った気分になるのです。 これについて、お坊さんの見解をお聞きしたく、よろしくお願いします。

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空についての理解

2回目のご質問になります。前回も真摯なご回答を ありがとうございました。 尚、今回のご質問も優先ではありませんので、深刻な ご相談を優先させて下さい。 仏教を学ぶ上で「空」の概念が定まりませんので、 ご教示頂ければ幸いです。 世俗諦としての表現でしか質問できませんので、 質問の意味も理解されるのか心配でもあります。 これまでの仏教の学習から、全ての物事は「現象」 であり、その瞬間の状態であり続ける「実体」は なく、全て川のように流れていくものだと理解し ました。=無常・無我 →この理解で正しいでしょうか? 物事が「ある」でもなければ「ない」でもない。=空? この意味が正直、理解に苦しんでいます。 「空」(から)という世俗諦としての言葉のイメージ だと、「からっぽ」のように感じます。 でも、何もないと定義すると六根センサが何も作動 しないと思います。 「見えた」「聞こえた」・・・は、実際にあります。 私の理解したことは、 全ての物は「地水火風」の構成のされ方で、現象 としての現れ方が異なる。 →物質、人、動物、植物・・等々 全ての物は、エネルギーと言えるのではと、感じました。 エネルギーという表現が適切かわかりませんが。 物質には、質量というエネルギーがある。 生命にも質量もありますが、心があり、生存欲求や色々 な欲求がある。これらをエネルギーと表現しました。 このエネルギーが他のエネルギーとぶつかりあって変化 を生み、因果法則によって、現象として常に変化し続ける。 物質も空気に触れ、物質と空気のエネルギーのぶつかり 合いで酸化し、そのもの自体も変化し続ける。 自分の心(本当は自分という実体はないのでしょうが)も 六境が六根センサにぶつかり、物事を認識し(エネルギー がぶつかる瞬間)、六識で心が何らかの反応をする。 ぶつかるという表現より影響し合う方が適切かも しれません。 ですから、「空」とは、ある/ない(虚無)ではなく、 あるエネルギーが他のエネルギーとぶつかり(影響)、 因果法則によって変化し続ける現象と理解するのは 誤りでしょうか? 空=無常=無我と感じられます。 以上、初歩的な質問で恐縮ですが、宜しくお願いします。

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仏教と神道

 こんばんは。先日は私の質問に真摯にご回答下さりまして、誠にありがとうございました。こちらで質問させていただいて、お坊さま方の回答から今後の生活のヒントになることを沢山学ぶことができました。本日は、さらに質問したいことがございますので、ご迷惑かとは存じますがご回答頂けますと幸いです。  私は、仏教について勉強していく中で、日本では仏教と神道が結びついて独自の文化を形成してきたということを学びました。それは、ヨーロッパのような激しい宗教対立ではなく、大乗仏教の柔軟な教えがあったがゆえに土着の信仰を包摂できた結果生まれたものであり、世界の中でも珍しい信仰体系であると思います。  しかし、仏教の教えと神道の教えは相容れない所があるようにも思い、そこが自分の中で考えの整理がつかない点でもあります。例えば、先祖崇拝はもともと仏教の教えには無かったと学びましたし、神道の荒魂・和魂といった概念も仏教の教えとは異なるもののように感じます。この両者の教えの違いをお坊さまはどう整理されているのでしょうか。  なぜ、このようなことを申し上げたかと言いますと、私の実家の信仰と上記の問題が関連しているためです。私の実家の宗旨は浄土真宗なのですが、仏壇の他に神棚もありますし、両親は仏壇の他にも調理場や庭石などにお供えをしています。また、お寺にも神社にもお参りに行きますし、お墓へもお参りに行きます。これまではこれらを当たり前のこととして受け取っていたのですが、仏教を勉強していくうちにこれらの習俗に対して疑問が湧いてきてしまいました。  浄土真宗を信仰する家庭では、神棚は基本的には置かないと伺っております。また、死んだら即成仏という考え方であるため、位牌も必要ないと聞いております。しかし、私の実家には神棚もありますし、黒塗りの位牌もあります。この両者の間の矛盾をどう整理すれば良いのでしょうか。菩提寺の住職様に質問はしてみたのですが、曖昧な答えで納得のいくものではありませんでした。私は、人生を生きていく上で道標となるものを得たいと思い、仏教の勉強をしてきたのですが、現実の生活に活かせるように整理しようとすると、矛盾点が多く悩みはむしろ以前に比べて増えてしまっているような気がします。  お忙しいと思いますが、お坊さま方のご意見を伺えましたら幸いです。よろしくお願いします。

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仏教に生きる

先日、どなたかの質問に対するお坊さん方の答えが目の覚めるようなものでした。 実はつい最近まで原始仏教こそ仏教なのだと信じて瞑想に励んでいたのです。幸い海外の夏休みは二ヶ月以上あるので、俗世間から離れて実に充実した心の平安を保つことは容易でした。 ところがそんな調子で実生活が始まり、いつものように社会と関わって生活するようになり、欲がないのでなすこと全てが無意味に思えてきたのです。確かに、感情や欲に左右される問題は解決出来たのかもしれません。しかし、私という人間が仕事を持ってお金を稼ぎ、親として子供の健康や幸せを考えたときに、その立場を無視して一人原始仏教徒として忠実に生きてゆくことは不可能だと感じました。 そこで日本の仏教のお坊さん方の言葉を聞き、とても救われました。 生きるからには精一杯生きたい。 無責任に心の伴わない行動はしたくない。 完全とはいかないけど、仏教徒として出来るだけの努力はしつつ、人間人生を全うしたい。 人間くさく、泥臭く生きても救われる道がある、それが日本の仏教なのだ、そう理解しました。 このような理解で良いのですか? 何せ、不器用でくそ真面目な性分で、熱血にお釈迦様の教えに従おうと思うが故に行き過ぎて壁に打ち当たる、の繰り返しです。

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僧侶の威厳と戒律

毎回、私のは質問というよりイチャモンと言った方がよいかもしれませんが、今回もよろしくお願いします。 私(S40年代生まれ)の子供の頃は、現在よりもずっとお坊さんは尊敬される存在であった気がしますが、現在の僧侶の威厳の低下(私にはそうみえる)はどこに原因があるのでしょうか? それは、現在の僧侶の大半に、戒律を厳守して生活している印象が全く無い、というところが大きいのでないか(あくまで部外者の印象で、実際のところはわかりませんが)と私は考えます。 「威厳なんていりません」とおっしゃるかもしれませんが、毎日、朝夕「三宝に帰依します」と唱えている側にしてみれば、やはり僧侶には、仰ぎ見る存在であってほしいのです。 現在、僧侶(日本仏教界)にとって戒律はどのようなもので、どれくらい重要視されているのでしょうか? ぜひ、ご意見をお聞かせください。 ちなみに、私は仏教徒であることを強く意識するようになって、五戒のうち、せめて不飲酒戒の一つだけでも、死ぬまで守り通そうと決めて、十四年間一滴も飲んでいません。それ以前は、ひどいもんでした...。       私は本当に仏教に救われたと思っています。

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「般若心経不信」になってしまいました。

こんにちは。 何か心の拠り所が欲しいと思い、仏教の勉強を始めました。般若心経を読む宗派・読まない宗派あると思いますが、皆様の解釈を教えてください。 私が読んだ本に依ると、 ブッダは五蘊や十八界、十二因縁は存在するが、その「持ち主としての私」という確固とした存在は錯覚だ、「空」だ、と説いた。大乗仏教ではそれすら錯覚で、「空」という法則のようなものがあると説いている。 ブッダは「世の中はこのように構成されていて、だから生きることは苦しいのだ。ひたすら瞑想をして煩悩と戦いなさい」、 大乗仏教は「今見ている世界は全てが錯覚だから、思い悩むことはない。ひたすらお経を唱えれば、必ず救われる」という教えだ、と解説されていました。大乗仏教が「宗教」であるのに対し、ブッダの教えは「思想」であるとも書いてありました。 科学が進歩しておらず世界が何も解明されていなくて、生まれた環境を受け入れるしかなかったような時代、貧しい庶民の心を救ってきたのは大乗仏教に他ならないと思います。今でもそうです。私はお経にある呪術的な力も信じています。 でも、大乗仏教の僧侶の皆さんには大変失礼なことを申し上げるようで、申し訳ないのですが、般若心経を読むと全てが幻だと言われているようで、納得できません。現代社会においては、ブッダの考え方の方が合理的で理にかなっているような気がするのです。 それに般若心経は、ブッダが瞑想している間に、そのすぐ隣で観音様が舎利子に対してブッダの説を全否定して新しい呪文を教えて、それにブッダ自身にその通りだと言わせる、という舞台設定ですよね。それは、大乗仏教が原始仏教を越えようとしてできたものだからだと学びました。「日本人として般若心経を心の支えにしたい」という気持ちと、「ブッダの説の方が自分は納得できる」という気持ちが自分の中で葛藤してしまっています。 先日も、近所のお寺の座禅会に参加し、全員で般若心経を唱和しました。ブッダが推奨していた座禅の前に彼の教えを否定する内容のお経を読んで、裏切っているような罪悪感にかられてしまいました。 (私が読ませていただいた本は、仏教系の大学で教えていらっしゃる権威ある先生の本です。以上の解釈は私独自のものではなく、その方の受け売りです。) 私のこのような理解はものすごく偏っているのでしょうか? 皆様は般若心経をどのようにお考えですか?

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死後の世界観

 初めまして。  私は、横浜で会社員をしている伊藤と申します。先日、テレビでこちらのサイトが紹介されていまして、仏教の教理に関して長年疑問に思っていたことがありましたので、質問させて頂こうと思い書き込みを致しました。  私は、大学生のころから仏教に興味を持っておりまして、仏教に関する本をいくつか読み、修行の真似事もさせて頂いたことがあります。仏教との出会いは、私の人生の中で非常に貴重なものでした。これからも、修行を重ねていきたいと思っています。  ただ、その中で未だに釈然としないことがあります。それは仏教の説く「死後の世界観」がなぜ宗派によってここまで大きく異なるのか、ということです。  仏教では、もともと「輪廻からの解脱」が一番の目的であったと聞いています。それが、現代の仏教では死後の世界観について「極楽浄土で仏弟子となる」といった立場や、「死後のことなど考えず、今を生きる」といった立場など、様々に分かれています。  私は、どうしても理屈っぽいので、このように死後の考え方が異なっていることに疑問を感じてしまいます。例えば、「極楽浄土に行けるなら、今は努力せず楽をしていた方が良いではないか。」と思うこともありますし、「死後の輪廻転生を否定するなら、そもそも修行する必要さえないのではないか」と思うこともあります。  先日、上座部仏教のお坊さんの著書を拝読して、私の考えに近いことが書いてあって共感を覚えました。そのお坊さんは、「死んですぐ極楽浄土に行けるのなら、どうして早く自殺しないのでしょうか。」といったことや、「輪廻転生が無いなら、どうして修行する必要があるのでしょう」といったことを述べておられました。  もし、輪廻転生があるのであれば、私もなるべく善行をしようと努力すると思います。逆に、輪廻転生がないと考えると、やる気を削がれ厭世的な気分になってしまいます。  人間がこのような気分になることを見越して、お釈迦様は死後の輪廻を説かれたのかもしれません。しかし、今の私にはそれ抜きで前向きに生きる心構えを持つこともまた難しいです。また、死後の輪廻を否定するならば、自殺を否定することもまた難しくなるのではないでしょうか。  こういった点を、お坊さんはどう考えているのか、どうしても気になったので質問させて頂きました。失礼なことを伺ってしまい申し訳ありません。

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