ブッタのことばの蛇の章「ダニヤ」について質問させて頂きたいです。 悪魔が「子のある者は子について憂い、また牛のある者は牛について憂う。執著するもとのもののない人は、実に喜ぶことがない」と言うのに対する師の「子のある者は子について憂い、また牛のある者は牛について憂う。実に人間の憂いは執著するもとのものである。執著するもとのもののない人は、憂うることがない。」とのお答えに、なるほど……と感動しました。 そこで気になったのが、では「執着するもとのもの以外で喜びを得ることはできないのか?」という疑問です。 あるとしたら、それは一体なにでしょうか。 ご回答宜しくお願い致します。
自性として「固定」や「流動」が存在しないと、龍樹風に説明するとどうなるのでしょうか?
よく仏教の教えとして「全ては諸行無常であり、変化しない物はない」と言いますが、これについて少し疑問に思う所があります。 たとえば仏教の中道では相対概念の一方に囚われる考えを執着として否定しますが、 「変化する」という概念も「変化しない」の相対概念ですから、 変化しないものを全面的に否定する「全ては変化する」という考えも執着とは言えないでしょうか? また、これらの言葉を「固定・流動」と置き換えて、龍樹の論理に当て嵌めて解説して頂いても構いませんでしょうか?
ご閲覧頂きありがとうございます。 仏教から見た「学問を勉強すること」についてお聞きさせて頂きたいと思います。 中村さんのブッタのことばを読んでいるのですが、賢者を説明するのに「貪りを離れ~」「妄執も存せず~」といったような文が並ぶのですが、その中に「学識あり」というものがありました。 誰だったか忘れてしまったのですが、「生きているうちに全てを学ぶことはできないし、今まで学んできたことだって(歴史など)事実かわからないんだから、そんな不確かなものに縛られるくらいなら勉強なんてやめて、今ある物事の姿から真理を見いだし自分のあり方を決める能力をつけろ」といったような内容の言葉を聞いたことがあり、またその人が確か有名な宗教家?だったので私は「宗教は学問に肯定的でない」、という偏見をもっておりました。 ブッタのことばで「学識あること」を良い意味で書かれているのを見て、「では、仏教での勉学はどのようにとらえられているのだろう?」と気になったために今回は質問させて頂きます。 仏教では勉強はするべきことなのかどうか、またするべきなら何故なのか、など仏教から見た勉強についてを教えて頂きたいです。宜しくお願い致します。
おはようございます お坊さんは負のエネルギーに流されそうになることはございませんか? どのようにして留まっていらっしゃいますか? よろしくお願いいたします
今、私は大学生なのですが、今通っている大学をやめて、僧侶の道を行こうと考えています。今の時代、東日本大震災や熊本地震、いじめなどで自殺する人など、苦しんでいる人々が数多くいます。 そういう人達のために、少しでも救いの手を差し伸べることができたらと思います。ですが、これまで大学に入るために色々資金面で援助してくれた両親、祖父母、親戚などに申し訳ない気持ちがあり、なかなか言い出せない所があります。おもいきって言うべきなのか、アドバイスください。お願いします。 後、誰かの紹介なしで一般の人でも出家して雲水さんのように修行をすることができるよう受け入れてくれるお寺が関東にあるならば、教えていただけるとうれしいです。
お坊さまがたは 輪廻転生信じていますか? ちなみに私は信じてません。
この数十年、お坊さんが身近になりすぎて、低俗な存在になったように思います。 テレビ番組や新聞で、「お坊さんが好きな焼き肉のメニュー」、「お坊さんも出会い系サイトを利用したり、身分を隠してキャバクラで遊ぶ」、「強姦や暴行で僧侶の男が逮捕される」等をよく見るようになりました。 この現状について、どう思われますか?
ハスノハのお坊さま方、いつも真摯なお言葉をありがとうございますm(__)m 私の家族は夫と子供2人と97歳のばあちゃん(義祖母)です。 若い頃に夫を亡くしたばあちゃんは苦労人で気の強い人でしたが90を過ぎてやっと丸くなり(!)、7年ほど前から私達と同居しております。 (夫の両親はともに還暦前に病死しています) ばあちゃんは歳の割には元気で身の回りの事はこなしており、当然信心深くよくお仏壇に般若心経をあげています。 そしてお経の前に必ず「なんまんだぶ」と「南無なんとか観音菩薩」と「南無大師遍照金剛」をお唱えします。 ちなみにうちは曹洞宗なのでご本尊はお釈迦様です(笑)。 私はこのどれも合っていないばあちゃんのお念仏?御真言?がすごくいいなぁと思いて、どうしてもお坊さま方にお伝えしたかったのです。 お忙しい中たわいもない話ですみませんm(__)m これから寒い季節になります、お坊さま方お体ご自愛なさってくださいませ(^^)
原始仏教を学び、仏陀の十大弟子に憧れを持ち、解脱したいという意志があります。 あまり深く考えずに教えてほしいのですが、世襲以外でどうしたら修行僧としてお寺で生活できるのでしょうか。
チベット仏教について調べておりますが、「一時的な常住」という言葉のがどうしてもよくわかりません。 ツオンカパによると常住とは「それ自体が消滅しないこと」だそうですが、これは一体どういう意味でしょうか? 一見永遠の実体を肯定しているようにも見えますが・・・。 また、「常住な物には未来(未だ生起していない状態)も現在(現に生起している状態)も過去(既に消滅した状態)もない、非時間的(dus bral)な存在である」、というのはどういう意味でしょうか?
原始仏教や小乗仏教、南伝仏教では夢精さえ厳禁らしいです。 夢精を予防する方法を教えてほしいと思います。 苦行や節制、断食や瞑想によりチャクラを開き、一応プラーナも見えてきました。 もっともっと高みの世界を目指すために。 夢精をしてしまうことに大変困っています。 知恵を分けてほしいと思います。
コラムパがツオンカパの時間論をどのように批判したのか、 またツオンカパがコラムパに対してどのように反論したのか教えて頂けませんでしょうか? 以下の文章はCINIIから抜粋したものです。 コラムパが「「消滅状 態」の連鎖が無限に起こるというツォンカパの見解」をどのように批判したのか、 またツオンカパがどのように反論したのか、 手元に該当する書籍がないのでさっぱりであります。 「ある有情が業を積むと,直ちにその業は消滅し「業の消滅状態」 と呼ばれる事物が発生する. ツォンカパの理解する帰謬派説では「業の 消滅状態」も刹那的存在であるので,それが生起した次の刹那には消滅 し 「業の消滅状態の消滅状態」が発生する。 このようにして「消滅状 態」の連鎖が無限に起こるというツォンカパの見解は,後にサキャ派の コラムパによって批判されている.」
相談にのってくれるのでしょうか。 なにかメリットがあるのでしょうか。 人の相談に乗ることが自分の修行の為、などと本当に心から思えているのでしょうか? 自分も色々相談にのってもらいつつも、こうした失礼なことを考えてしまいます。 基本的にボランティアや、善意ある人を信じられません。腹の中まで綺麗な人なんて本当にいるのでしょうか。 関係ないですが、昔働いていたキャバクラで、お坊さんの団体が泥酔して女の子のお尻や胸を触って馬鹿騒ぎしているのを見かけてから、お寺に行ってもお賽銭をしていません。
長年の病が明けて、現在暇です。仕事なんかを考えているのですけど、リハビリが必要です。 御坊様、私はキリスト教の洗礼を受けているのですが、思うところあって通っていません。日曜礼拝のように、仏教者の集まりはないのでしょうか。 神奈川県伊勢原市に住んでいます。私は金がなくて、、、。 よろしくお願いします。
以前見て頂いた時に 悩んだり 気持ちが沈んだり お経を唱えるといいと言われました どの宗教がいいのか分からず過ごしています 最近叔父が亡くなり真言宗とわかりましたが 母方のため 父方の方だと言われましたが父に聞いても分からないと言われました このような場所 お経は唱えない方がいいのでしょうか? 教えて頂きたいです よろしくお願いいたします
お線香が切れてしまいました。今、家にあるのは、インドの長い棒状のお香です。 何もないよりいいかと思い、今朝はそれを使いましたが、代用になるのでしょうか? あと、お寺で売っている箱のお線香とスーパーや百貨店などの箱のお線香で付加価値に違いはありますか? 例えば、お寺のお線香は、境内にあったものだから清められているとか、お経があがっているとか、そのようなことがあれば、教えてください。
死刑制度に関し、瀬戸内さんは反対の立場で、 「殺したがるバカどもと戦って下さい」と発言し ていました。 後に被害者感情を鑑み、謝罪はしていますが。 僧侶という立場を前提で、違和感を感じました。 ・世俗的なことについて、どちらか一方の立場に たつことは僧侶として、普通なことなのでしょうか。 ・上記発言自体が、怒り(瞋)ではないのですか 世俗のことは、民主的な手続きで決まったことです から、世俗に任せればと感じました。 確かに、仏教でも「不殺生戒」はあり、その意味では 理解できます。 また、これまでも冤罪もありましたので、その意味 でも、死刑反対は理解できます。 世俗的なものごとは、ある立場、ある目線を前提に 議論されることですから、普遍性もないし真理でも ないと思います。 僧侶という立場、仏教の教えとは、衆生の悩み・苦しみ などの煩悩をなくす為のものと考えていました。 その意味で、世俗諦と僧侶の立場についての見解を お聞かせください。
質問に答えてくれたお坊さんありがとうございました。速度制限かかるんでもうこれないかと思います。ありがとうございました。自分が嫌です。息をしていいか不安です。ありがとうございました。
仏教でいう「お浄土と地獄」。キリスト教の「天国と地獄」 お浄土と天国、呼び名が違うだけで、同じ所だと思いますか? 地獄もまた、同じ場所だと思いますか? 私の娘は仏教で供養して頂いていますが、 もしも、私がこの先、 仏様を信じられなくなって、違う宗教を信じたら お坊さんは、私が死んでも、娘には会えなくなると思いますか?