悟りとは何でしょうか?
最近得心して、主人の家の宗派に入ることに決めました。 ついては以前も質問させていただいたのですが、生前戒名の件です。 お師さまは生前戒名はつけられないとのこと、ただしエンディングノ ートなどに書き残しておけば、出来るだけ希望に沿って名前をつけま しょう、とのことです。それはいいのですが、大姉を希望したら、余 程のことがないとつけられないと断られました。 実家の父方は居士に大姉、母方は院号に居士・大姉なので、ひとり信 女になるのに抵抗があります。主人は信士でもいいようですが、自分 の心をどうやって納得させればいいでしょう。よく戒名は金額の違い といいますが、お師さまはそのようなつもりではなさそうです。 総本山に問い合わせもしましたが、菩提寺に相談しなさいとしか言っ て下さいません。実家では先日も叔父が亡くなり信士を居士に替える ようお願いしていました。
お坊様方、お坊様に公開している私のプロフィールをご覧ください。 元気さがいまいち足りないのですが、何かアドバイスを頂けますか? 以前の私の質問(ニックネームもメールアドレスも異なりますが)の中の善神という言葉は神様方に悪神がいるかの誤解を受けかねないものでした。失礼しました。すべては欲(無心を続けたいのも無意識の欲)で少しの嫉妬心などがあり得ますが、優しく弱さのある良い!人で普通、、普通、、普通、、、普通、、、普通、、、普通、、、普通、、、(^^)ですね?
明日、祖母の命日です。 祖母の家には明日は行けませんが、自分の家で手を合わせたいと思っています。(仏壇はありません) 祖母の家は浄土真宗で、私の父方の実家は曹洞宗です。(私は独身です) 亡くなった祖母の家の宗派で念仏をとなえるのか、自分の実家の宗派で念仏をとなえるのか このように考えること自体が間違っていることであるのかもと とても不安なのですが、教えていただければと思います。
わたしの家は真言宗大覚寺派の檀家ですが、私は興教大師さまを尊敬していて、朝のおつとめは、高野山真言宗のやり方です。これでもいいのでしようか。
仏陀はなぜほかに苦しんでいる者を助けるのですか? それから、仏陀はどのようにして無執着という教えからそれないで世界を救おうとしたのですか?
仏教の教えで、なぜ私たちは他人の幸せを気にするべきとありますがなぜですか? また、経典に従えば道徳的な心の改善はできますか?
真言宗を信仰している祖母に、夫の胆嚢ポリープに悪性の可能性が出てきた。と相談したら千枚通しをもらいました。 南無大師遍照金剛と三回唱え、お願い事をいい、千枚通しを一枚お水で飲み、また南無大師遍照金剛と三回唱えなさい。と教えてもらいましたが、ネットで調べたところ手順が違うようで、どれが正しい頂き方か分かりません。 どうかお教えいただけたら嬉しいです。 よろしくお願い致します。
おはようございます この国に生まれてよかった/村下孝蔵 日本の良さが歌われています ヴィジュアル系ではないので御安心下さい 個人的には「故郷へ」という歌も、感慨深くて味わいがあって、好きです 村下孝蔵さんの歌は秀逸です 他にも良い曲が沢山ございますので、是非お聴きになって下さい お坊さんは日本が好きですか? 愚問ですかね よろしくお願いいたします
不寛容な社会だともがいていたら、自分の中にも差別感があることに気付き、「自他不二」という世界の観方を探究したく仏教に興味を持っている一般人です。 仏教において、「空」や「仏性」ということが大切であることを知りました。それは思考や感情に囚われない普遍的な「全体性」ともいうべきもの(こと?)であり、全てのものは「自性」を持たないということかと思うのですが、そうすると私達の「意識」にも「自性」はなく、「自己選択をしているようで、実は選択していない」ということになるのでしょうか?そして、我々は様々な関係性の中で「刺激」に対する「反応」としてのみ「行動」しており、そこに「自己選択」などというものはないということになるのでしょうか? 教えて頂けると助かります。 どうぞよろしくお願いいたします。
お布施については既に回答して頂いている中に見ることできます。また、他のホームページにも沢山書かれいることなのですが、それでも解らない愚か者にご教授をお願い致します。 お布施とは三施のことである、といって間違いないと思います。 お布施は対価として支払うものではなく己の為の修行です、というのは理解できます。 しかし一方で、お布施はお礼ですと多くの方が仰っています。 また、お布施は謝礼ではありませんと仰る方もおられます。 謝礼は対価であるのか対価ではないのかということも、意見の分かれるところだと思います。 教えを説くことや読経も三施の中の法施ですから、見返りを求めないことが大前提でありますので、謝礼を受け取って良いのだろうか? と思います。 謝礼を要求することはしていませんと仰っても、謝礼を受けることはほぼ確実なので未必の故意というものです。 しかし私のような凡夫は、お布施をする時にお礼の気持ちを込めて無いのか?と問われれば、有りますと答えざる負えません。 お布施はお坊様が受け取るのではなくお寺に納めるものですと仰られますが、お坊様がお寺で生活をしたり給与を受けていれば、お布施を受け取っていないとは言えないと思います。 などと言ってますが、お寺やお坊様がお金を必要とすることを否定するつもりでは全く有りません。(重要) お坊様が畑を耕しているお寺もございますが、お釈迦様はそのようなことを推奨しなかったと信じています。むしろお布施を施したり受けることを積極的に推奨したと思っています。 しかし、新宗教の中には物欲を捨てるためにと言って多額のお布施を求めるものもございます。ここでは是非を問う事ができませんが、その様なことも考慮に入れてのご回答をお願いしたいと思います。 厳しいことを問うているように思われるかも知れませんが、「仏教しっかり頑張れよ!」っていう応援メッセージだと思ってください。 正しい気持ちでお布施できるようにご回答お願いいたします。
お忙しい中、申し訳ありません。 お釈迦様本来の教えに最も近いと言われる最古のお経の中には、 お釈迦様は、何がしかの行為を行った場合にお布施を受け取ることを拒否された、 と書かれていると聞きます。 またお釈迦様は、死者に念仏のようなものを唱えることは意味がない、と説かれたとも。 お釈迦様が対機説法を用いられたと言われていることを少しは存じておりますが、 お釈迦様の教えを学び実践する目的は、たった一つしかないと思っています。 現代のお坊さまの方々は、葬儀などでお経を上げお布施を受け取ることを、どのように考えておられるのでしょうか?
お世話になっております。 柴田秋です。 以前、こちらで葬式をあげてほしくないという質問をいたしました。 戒名をもらった時点で仏教徒になるのが嫌という理由を上げましたが、それは誤りとの指摘がありました。 戒名とは法号のことであり授戒の証、すなわち仏門に入ることのはずですが、何故、戒名をもらうことが仏教徒になるということではないのですか? 少し長いですが、それでも、詳しい経緯をお知りになりたい方は下記をご参照下さい。 http://hasunoha.jp/questions/5942 予想される答えとしては「私はすでに仏教徒である」ということと思います。 一度も同意したことはありませんが… 私が嫌いなのは仏教だけではなく、宗教全般なので、特別仏教がどうのこうのというわけではないので、ご理解ください。 ただ、ガウタマ・シッダールタや、イエスや、ムハンマドなど、一人の人間の言葉の元に集まった集団が起源なのが特に嫌という感じはあります。 神道に言及しているのは、少なくとも私は宗教ではなく、神話扱いしているという理由です。 ギリシャ神話、ローマ神話、ゾロアスター教、それから、特に好きというわけではありませんが、エジプト神話あたりは、私に対して「無害」なので、別に嫌いというわけではありません。
戦国時代の大河ドラマをみていました。 織田信長が比叡山を焼き討ちにした後、信長の奥さんがお坊さんをたくさん殺すなんてとんでもないと信長を激しく非難します。 しかし、信長は「比叡山の僧は酒をくらい女を抱き、夜盗のような暮らしをしている。あんなものは僧ではない」といいます。 だからと言って殺していいわけではないと思うのですが、確かにお坊さんなのに武器を持って武士を殺し、仏を敬わず酒色におぼれる。 お寺に住んでいるけれど、戒律を守らずに略奪ばかりしている。 とてもお坊さんと呼べるような人たちではありません。 もちろん時代劇ですので、面白いように脚色しているのはわかります。 しかし、現代でもお坊さんなのに悪いことをする人もいるし、権力闘争で世間を賑わす人たちもいます。 一度仏門に入ってしまえば、悪いことをした後でもお坊さんとしていられるのでしょうか。 お坊さんも僕らと同じ人間なので、誘惑に負けたり間違った判断をすることがあると思います。お坊さんが悪いことをするとどうなるのですか?悪いことをして死後地獄におちた場合、お坊さんだと仏様に近い生活をした分だけ罪が軽くなるのでしょうか?
守護霊・霊言があると言うのは、ブッダの教えに背いていると思いますが、 宗派によって様々な考え方が有るというのが現実なので、仕方ないのかもしれません。 しかし、僧侶が苦しんでいる人を救うことに努めるという事は、 全ての宗派に共通するのではないでしょうか? 最近話題の清水富美加さんが出家した宗教団体、について >その方々のことはよくわかりません。 と言うのは、僧侶の行を果していないと思います。 その教団に苦しんでいる人、苦しめられたと言う人々が沢山いるのですから、 その様な方々の事に思いを巡らした上で回答するのが、僧侶の責務ではないでしょうか?
いつもお世話になっております。 あるお坊さまから、阿弥陀仏さんとお不動さんでは教えもお誓いも全く違う事も伺いました。(阿弥陀様は、「すべて受け入れる」、お不動さんは「阻む物を追い返す」) 私の関わって来たお坊さま方はそれぞれ、 「左手の縄でもって無理やりにでも仏道に引き入れる」、「仏道を妨げる物を追い払う」という対極的な教えを説いています。 私は浄土宗の人間なので、あの寺の職員はお不動さんの教えにのっとって 「畑違い、出て行けや!」 的な行動をとったのかとも思いました。 遠い昔に法然上人が感じた肩身の狭さを知り、「女は成仏できない」と説かれていた事も知りました。 ですが、どうも私はお不動さんがその様な悪い神さま?には見えません。 あの細めた左目が、悲しそうに泣いているように見えるんです。 人によってはご気分を害してしまう様な質問かもしれませんが、 お不動さんはどんな想いを抱いて私たちを見ているのでしょうか。 国内の浄土宗寺院にも、不動明王をお祀りしている所があると聞きました。 なので余計混乱しています。 くだらない事かもしれませんが、 ご教授のほど、よろしくお願いいたします。
最近、周囲の人のことや、将来に対する不安、夢に対する執着が酷くなってきたので、坐禅を習慣にして心身を整えたいと考えています。 けれど、学生という立場上あまり時間が取れず、本に書いてあることも複雑すぎて、坐禅を実行することができてません。 結跏趺坐をする坐禅が理想なのですが、何かいい方法はないでしょうか。
三面大黒天さまをお祀りしている者です。 ご本尊(阿弥陀さま)、個人的な念持仏のお不動さまと共に、毎日お勤めをしております。 大黒様のお祀りの仕方を読んだ本には書いていなかったのですが、人づてに「天部の神様は怖い」と聞きました。 (聖天さまやダキニ天さまの噂は聞いていたので、遠慮しました。) 大黒様には怖い噂は当初は聞いていなかったので、大丈夫だと思っていたのですが。 しかし何人かの方々から、総じて「天部」の神様は、人間に近く感情をお持ちなので、気をつけなければならないと聞きました。 聞いたところによりますと、 ・粗末に扱う、罰当たりなことをしゃべる ・礼拝をさぼる ・信仰をやめる ・お祀りの作法を間違える ・お坊さんの真似をして、在家が本格的な祈祷をやる これらが要注意だと聞きました。 その後、いろんな人の意見を聞いたのですが、「怖い」、「いや怖くない」と意見はバラバラでした。 いずれも在家の人々です。 (開眼は大きな寺院で集団で行いましたので、そのお寺のお坊さんとは連絡しずらい状況です・・・) そこでお坊さまがたのご意見を伺いたくて、ご質問をした次第です。 よろしくお願い致します。
お坊さんの上下関係は、厳しいですか? 私は以前、テレビで、“お坊さんの上下関係は厳しい”と聴いた事が有ります。お坊さんには、はっきりした官位や地位(僧正、僧都等)が有るので、やはり上下関係は厳しいものなのでしょうか。 又、私は浄土宗の僧侶を志しているのですが、浄土宗でも、上下関係は厳しいのでしょうか? 法然上人の「敬上慈下」という御言葉は、上下関係を意識し、上の者には敬い、下の者には慈悲の心を以って接せよ、という意味ではないかと私は思うのですが、それは、今の浄土宗の上下関係にどの様に影響しているのでしょうか。 これを見て下さっているお坊様方、どうか私に教えて下さい。宜しくお願い致します。
はじめまして。先日、お寺の会に初参加させていただきました。 お経をみなさんと一緒に唱え、その後にお坊さんからのお話をいただきました。 その中で、「今日ここでお経を唱えたからといって、みなさんの悩みや、起こるかもしれない災いなどが無くなるという訳ではありません。仏教の道は厳しいのです。お経を唱えたことで、災いがこのくらいで済んだ、この程度で済んだ、という捉え方をして下さい。あとは努力をする事です。」 とのお話がありました。 仏教の世界でいうところの努力とは、どのような事をすれば良いのでしょうか。 あまりにも幼稚な質問で申し訳ありません。 よろしくお願いいたします。