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「仏教・お坊さん」を含む問答(Q&A)一覧

仏教徒に対する疑問パート8

前にウィトゲンシュタインの形而上学の話をしたお坊様がいて その人が形而上学の世界を考えたり言葉にしたり探そうとすること自体間違ってるといってましたが そのウィトゲンシュタインの形而上学の話でさえ形而上学から来た考えじゃないですよね? だからその考えが必ずしも正しいとは思わないんですがもしもそれが正しいなら 悟りは考えたり言葉にしたり探そうとすること自体間違ってる・・・ それなら菩提樹で瞑想して悟りへ行けるのも間違ってるんじゃないですか お釈迦様が怪しくないですか? 自殺大国日本を救うような奇跡を見せたりすればなんとなく信じれるんですが 都合よく無記って言葉で片付けて良いなら どんなカルト宗教も成立しますよね わざわざアビダンマや大乗や密教やらが一貫性のない色んな経典使って 色んな山の麓からアプローチして悟り目指す必要もない 最終的には無記なんですもん わかんないですもん  ウィトゲンシュタインの話しが正しいなら 形而上学の世界は考えるのも言葉にするのも探すのも色んな経典で計るのも悟りが存在することも間違ってませんか?そもそもそんなもの無いのでは・・・ 有るんだったら誰が作ったんですか?人間から神様になったお釈迦様ですか?それともこの世の最初から有った原因のわからない結果ですか?それとも過去仏ですか?やはり無記ですか・・・ 本当に悟りを開いてる人がいたら今のこの戦争や犯罪や自殺が蔓延する ナイトメアストリートダンジョンな世界を救ってると思うんですけどね

有り難し有り難し 74
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仏教徒に対する疑問パート7

前回の質問で回答したお坊様に言いたいことがあるんです 実は僕は丹下様が薦める瞑想をやってるんですよ 瞑想やってて気づいたんです 瞑想で雑念を払いリラックスしてるとヒッグス粒子みたいな赤や黄や青の粒が見えてきて そしてその状態でいるとだんだん神妙な気分になって 我欲の全てがその粒の流れと共に消えていく感じになってボーっとするんです その状態でいるとだんだん無になってく感じで無になったような瞬間 瞑想してたことも忘れたかのようにハッとしてまたさっきの状態に戻るんです この繰り返し まるで息を吸って吐くように 煩悩と悟りが交互でくるように 蕎麦食ってまた腹へって蕎麦食ってまた腹へってそれを繰り返してたら なんで腹減らなきゃいけないんだなんで蕎麦食べなきゃいけないんだ 誰がそんなルール先に作ったんだってなりません? そうなると人間もこの世界も全てを先に作った原因と結果だってなりますよ でもそれを作ったのは?それすらも作ったのは?それすらも作ったのは? こうなると原因はわからないでもなんかの原因と繋がってて結果が出る 因のわからない果の法則じゃないですか そうなると悟り開いても原因はわからないでもなんかの原因と繋がってその結果で煩悩が湧くと思うんです この因のわからない果の法則が悟りであればなぜ人は煩悩があって生まれるのか?それが煩悩ならば悟りは諸行無常で形を変えただけの煩悩ではないのか? それが量子力学みたいに悟りと煩悩なら両者とも同じ境地にいるのではないか? とにかく悟り開いても原因はわからないでもなにかの原因と繋がり煩悩が湧くと思うんです この因のわからない果の法則や因果関係は実体があって悟りは空だから悟り開けばそことは無縁になれるってぶっ飛びすぎじゃないですか? 実という原因あっての結果の空なんですから その空に行ったお釈迦様の前に過去仏がいるって変ですよね それが居座る場所をまるで因のわからない果の法則がすでに結果となって作ったような 因のわからない果の法則や因果関係から解脱できなければ悟りと煩悩は共存し続けると思うんです だから悟り開いたお釈迦様は梵天に煩わしい娑婆の世界に行かされたと お釈迦様が煩悩のない悟りを開いたと証明できないなら そんな人は全知を知りえないそんな人の教えは瞑想を神格化して ありもしない悟りという虚像の神を拝んでるだけじゃないですか?

有り難し有り難し 112
回答数回答 7

南無阿弥陀仏?

お世話になります。 ここでご相談させていただいているうちに大事なことに気付き、気付かせていただいたお坊様に、手を合わせて『南無阿弥陀仏』と唱えるだけで落ち着けると教わり、とりあえず意味も分からずやっています。 毎日何かに向かって唱えていると、病気の原因の1つである母の声を電話で聞くだけでイライラし、調子が悪くなっていた私の状態が、今までと違い、ある変化をしたことに驚きました。 最初の頃、主治医から『自分のために、家族とは縁を切りなさい』とアドバイスされていました。最近は『なるべく接しない様に』と言われています。私の調子がとても悪くなるからです。ときには自傷してしまうほどのストレスを抱えてしまいます。 その私が、電話口で私が電話したことを喜んでいる母の様子を、何となく…“喜んでいるよ..良かったなぁ..”と感じました。発症して以来、初めてのことです。電話を切ったあとも、特別調子が悪くなることはありませんでした。 このまま順調に回復するとは思えませんが、これが南無阿弥陀仏の力なのでしょうか? だとしたら凄いとは思うのですが・・・・よくわかりません。 お坊様の皆様は、この変化をどうお考えになりますか? まだ、1回こういうことがありました…というだけですが・・・。 お考えを聞かせていただけると、参考になります。 宜しくお願い致します。

有り難し有り難し 62
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仏教徒に対する疑問パート6

では回答率99.9パーセントのお坊様に質問です 前回の質問の答えに大慈様が言われた内容ですが 仏教では世界の始まりは「わからない」、「無始」、「無記」であると これって原因である始まりを無視して結果であるこの世界だけを見てる 因を無視した果の法則ですよね そして「蕎麦のレシピばかり論じる(原因)蕎麦がのびる(結果)とっとと食え(対策)」 「頭の中でこねくりまわすから(原因)迷いが続く(結果)頭の中でこねくりまわすのを止めましょう(対策)」 この対策こそが瞑想で悟りを開くことですよね お釈迦様は生まれた時から瞑想すれば悟りを開けるなんて知らないですよね ではお釈迦様に瞑想を教えた人は誰ですか?そしてその人にも教えたのは?そしてその人にも教えたのは? 仏教→バラモン→ヒンドゥー→ゾロアスターと土着信仰の融合→メソポタミア こうやってどんどんどん突き止めると悟りを開く瞑想を教えたのは因を無視した果の法則ですよ 因を無視した果の法則が悟りの瞑想法を作り因果関係のシルクロードを渡って我々に瞑想を教えたというのに 瞑想で悟りを開けばこの因果関係や因を無視した果の法則からも解脱できるってぶっ飛びすぎてないですか 悟りの境地の空間ですら先に因を無視した果の法則が始まる前から終わった状態での結果として作られたと思うんです そうすると煩悩と悟りは最初から二つの性質が同時に存在する量子力学みたいに共存してると思うんですが? あと諸行無常の教えで全てのものは変化するなら 善業も悟りも幸せも形を変えただけの煩悩ではないんですか? 涅槃の境地で夜に眠り煩悩で朝に起きて  涅槃の境地で瞑想してて煩悩で仕事行かなきゃいけなくて 涅槃の境地のお釈迦様は煩悩の梵天に娑婆の世界行かされた様に 悟りと煩悩は共存してると思うんです もしくは形を変えただけか 良文様が言われたヴィトゲンシュタイン様の形而上学的な疑問は言葉で説明できないという話 最初から量子力学としてある言葉に出来る世界と言葉に出来ない世界 その言葉に出来ない世界のような概念のないような形而上学の世界に神ならまだしも人間がいけると思いますか? たった6年の修行で・・・この6と言う数字・・・666 お釈迦様が実はフリーメーソンのメンバーで仏教をある理由で作ったとか思ったことないですか? 物事を理屈で考えさせない政治的プロパガンダのためとか

有り難し有り難し 160
回答数回答 7

仏教徒に対する疑問パート5

お坊様これは対機説法の修行だと思って怒らずに聞いてくださいね 因果の法則についてですが 前回の質問の答え見て思ったんですよ 蕎麦のレシピなんか見ないで(原因)蕎麦を食え(結果) ごんぎつねは悪戯の過去を見ないで(原因)今反省して修行しろ(結果) 理屈で考えるから真理がわからない(原因)実際に修行して真理をわかれ(結果) 過去や未来や死後なんかより今という悟りの境地 これって因を無視した果の法則ですよね 前回言った、人間も娑婆の世界も全てのものは最初何に作られたのか? きっと煩悩の塊の無明でそれは 何かに作られそしてそれも何かに作られそれも何かに作られ 永遠と原因と結果が連なって最終的に本物の原因は見つからず結果だけが見つかる 因を無視した果の法則 悟りも煩悩の塊の無明も因を無視した果の法則なら 悟りも煩悩も同じフィールドにいるんじゃないですか? というかこの世界そのものを先に作った煩悩の塊の無明のほうが先に 因を無視した果の法則としてあったわけですから悟りすらこれの産物じゃないですか? だとしたらやっぱり悟りも煩悩と同じフィールドにいるんじゃないですか? 悟り開いたら煩悩はなくなるらしいんですが お釈迦様が悟り開いて涅槃の境地行ったのに梵天に頼まれて 輪廻から解脱しないでまた娑婆の世界へ戻るって話って 煩悩である梵天と悟りであるお釈迦様が同じフィールドにいるような気がします お釈迦様は本当に煩悩がなくて悟ってる根拠はなんですか?

有り難し有り難し 81
回答数回答 5

仏教徒に対する疑問パート4

それではさっそく質問です この世の最初の最初にあった無明それはなんの原因と結果で生まれたんですか? 無明を作った原因と結果それを作った原因と結果それすらも作った原因と結果 そうやって全ての原因を作った犯人を永遠と見つけれないでただ結果だけあったら 因果の法則というより因を無視した果の法則じゃないんですかね そしてその無明が業を作り出しこの娑婆の世界を作ったそして自分の存在も 最初の最初だった頃は自分は何の業も作ってないのに無明が勝手に業を作り 業の濡れ衣を着せられた自分はこの娑婆の世界へ落とされた これも因を無視した果の法則じゃないですか? ホントに最初の最初の状態 そこには原因の犯人がわからない結果だけがただ無明としてあり その無明は業を作り続けて 勝手に自分も業を作ったことにされるなら 悟りを開いても勝手に業を作らされれるんじゃないですか 無明は因果なんて無関係に悟りにも襲ってくると思います 無明は因果の法則というより因を無視した果の法則として 無明は最初の最初に始まりの原因と終わりの結果の全てを作ってしまった この世の法として襲ってくるからですよ まるで神のような速さで煩悩として悟りに追いつくと思います それなのになんで悟りはそこからも解脱できるんですか? 毒矢のたとえでそんなこと考えないで修行しろと説いた お釈迦様は無明からも解脱した根拠はなんですか? 人前で誰にも出来ない奇跡を起こしたりしたんですか? なぜお釈迦様は周りの娑婆僧とは完全に違うと周りは気ずいて その人の言うことが真理だとして宗教にしようとしたのですか? もしも何の根拠もないなら そこらへんの神を妄信するカルト宗教と大して変わらないですよね

有り難し有り難し 37
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悟りを開いても倫理観を持てるのは何故でしょうか?

中論では「四不生」として物事のあらゆる原因が否定されています。 この部分を読んでいつも不安に思うのは、一歩読み違えるとトンでもない意味になるかもしれないという事です。 人が他人に優しくしたり善行を積もうとするのは、自分が既に他人によって恩をを受けているとして感謝し、その恩を返そうとする恩義の心によって成り立っているからだと思います。 まず自分という肉体は両親によって与えられ、知識や教養は先生によって叩き込まれます。当たり前の事ですが、自分という存在は他者によって成り立つものですよね。 しかし中論では 「もろもろの「存在」は、どこにおいても、どのようなものでも、自身から、また他者から、また〔自身と他者との〕両者から、また無因から、生じたものとして存在することは、決してない。」 とします。 要するに他人から恩を受けたとしても、「これは貴方が原因で生じた訳ではない」とか、 自分が他人を殺したとしても、「その人の死は私が原因によって生じた訳ではない」と詭弁を弄する事も可能ではないのでしょうか? (私はそうは思いません) 自分が明らかに中論のこの説を読み違えている事は分かっているのですが、どこを読み間違えているのかが未だに分かりません・・・。 何卒よろしく御願い致します。

有り難し有り難し 13
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「法」という言葉について

「法」と言えば、真っ先に「法律」が思い浮かびますが、 そもそもの成り立ちは、「さんずい(川)」を「去る」と書きますよね。 そしてこれは漢字、すなわち中国が統一する直前の漢の時代に、 漢字文化を輸入したと考えられます。 紀元前300年程の、2300年程前ですね。 私なりに考えると、「(架空の)川を去るもの=魂」に行き着きます。 すなわち、仏教で言うところの輪廻転生という揺るぎのない約束事で、そこに疑問を感じてはいけないことです。 ところが、現在の法律の多くは、理由が存在しています。 民法で言えば、「20を迎えてタバコやお酒を許される」など。 20を超えると日本人は体の完成に近付くからかな、というきっかけがありますし、 刑法で言えば、「他人の物(命を含む)を奪ってはいけない」など。 堕胎なんかでは平気で殺しますよね。 精進料理だってそうです。 「命を授けてくれてありがとう」という意味なため、本来は動物も食べていいことになっていると思いますが、その文化は既に廃れています。 植物だって生き物ですし。 定理でありながらも、きっかけや理由が存在する。 その事自体が疑問です。 掘り下げて考える癖がついているため、ぜひ納得行けるご説明をお願い致します。

有り難し有り難し 30
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貫道老子とスマナサーラ長老の仏教の実践

お疲れ様です。 いつも真摯なご回答をありがとうございます。 又、日頃お忙しい中のご回答をありがたく存じます。 尚、今回のご質問も優先ではありませんので、深刻な ご相談を優先させて下さい。 仏教には色々な宗派がありますが、最初に出会った のが、初期仏教で、以下サイトから学び始め、 スマナサーラ長老の書籍も購読してまいりました。 ■根本仏教講義、パティパダー巻頭法話 http://www.j-theravada.net/kogi/index.html http://www.j-theravada.net/howa/index.html このhasunohaで、井上貫道老師の以下サイトが あることを知り、拝見させて頂きました。 ■貫道老子の言葉 http://zazen.blog.jp/archives/cat_958260.html 仏教は、苦集滅道の四聖諦、縁起などの教えが 基本となっていますが、では何を常に精進するか を考えておりました。 初期仏教では、観瞑想(身受心法の随観)を、 禅宗は座禅を重要視するように感じます。 どちらも、今この瞬間の自分の身・口・意の行為の 事実を観ることを大切にしていると思います。 (今の瞬間に気づいていること) 普段の生活でも、朝起きて朝食を摂り、歯磨き 洗顔、通勤、仕事、掃除、風呂・・・・ 色々なことをやっていますが、それぞれの行為 に集中できていないことがほとんどです。 それぞれの行為の最中にも、他のことや過去、 未来のことを思ってみたり、「今この瞬間」の 事実から離れてることが多いかと思います。 だから、考えたり、悩んだりするのかと 思いました。 貫道老子もスマナサーラ長老も、今この瞬間を 見続けていれば、変化しない「もの・こと」は ないってことが、自然と分かるでしょ。 と言っておられるように感じたのですが、 この理解で宜しいのでしょうか。 普段の修行などの内容について、ご教示頂けたら 幸いです。 勿論、慈悲の実践など利他行の善行為も修行 の実践の1つと考えています。

有り難し有り難し 22
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