今回はお経について質問が三つあります。 1.『浄土宗のお経』という本を読んでいます。初心者向けの本です。毎日のおつとめで読まれるお経が収録されています。懺悔偈のところで、「普賢菩薩が毘盧遮那仏の前で〜過ちを反省して、許しを請う偈文」と説明されているのですが、普賢菩薩が毘盧遮那仏に許しを請う、というのはどのようなエピソードでしょうか?普賢菩薩といえば、智恵を司り、白い象に乗ったクールなイメージなので、意外に感じて伺う次第です。また、毘盧遮那仏、普賢菩薩、阿弥陀仏はどのような関係にあるのでしょうか? 2.法要の時に「サンバラ〜サンバラ〜」と聞こえることがあるのですが、何というお経の一節かお心当たりがありましたら、教えてください。上記の『浄土宗のお経』を「サンバラ〜」と読めそうなところに注意して見てみたのですが、それらしいところが見つからないのです。 3.今度七回忌があるのですが、そこで読まれるお経とその順序は「浄土宗勤行式次第」と同じでしょうか?法要で読まれるお経が聞き取れるようになりたいです。 教えていただけるとありがたいです。よろしくお願い申し上げます。
いつもお世話になっております。 今まで日和を気にしたことはあまりなかったのですが、子どもが生まれてから少し気になるようになりました。 というのも、長女が生まれた日は仏滅、次女が生まれた日は赤口でした。二人とも日が悪く、気の持ちようかもしれませんが、少し気になっているので、お坊さんからのアドバイスをいただけるとありがたいです。
現在、京都の佛教大学に通ってます。浄土宗の教義を勉強しております。家の仏壇や大学の礼拝堂で、半年間ほど開経偈から真身観文までの助行と本願念仏を唱えてきました。 しかしながら、阿弥陀仏の浄土の存在と死後浄土へ往生できそうだという手応えを一度も感じることができず、今は念仏をやめてしまいました。 例えば、自転車に乗る練習を何回かすれば乗れる手応え感じるはずです。 しかし、念仏に関してはそれが無いのです。 善導大師や遊蓮坊園照は証覚を得たと言います。私も手応えを得れば、今後の人生を明るく有意義に暮らせるとおもいます。 念仏をされてるお坊さんで、浄土の存在と死後往生できそうだという手応えを得てる方はおられますか?それともやはり、極楽浄土は絵空事のフィクョンなのでしょうか? よろしくお願いします。
仏様が叱っても悪いとこが直らないやつはどうしようもないってことでしょか
いつもお世話になっております。 もう当面は例の法要会にいけそうにないので、仏事の質問は ここでさせていただきたく存じます。 * 仏は誰かを傷つけよう、陥れようとする願い、それから自分の 欲求だけを満たそうとする願いは聞いてくれない。 皆さんの願いと一緒に、わたしのお願いも聞いてくださいと 願うのが正しいお願いの仕方だとお話をいただきました。 * ですが私自身も難儀を抱えており、 愛し守ってくれる親も無し、お不動様や阿弥陀様を父母と思い、 慕い縋って生活している次第でございます。 * 私自身、人のために願い事をして、その人に裏切られるのが 恐い、という思いがあります。一度成功しましたが… 大祭などでお札を奉安するときも「信徒安全」と書きますが 基本的に普段はご本尊様の前で自分の感じる辛さを吐露して 時には涙すらこぼします。 * でも普段の生活においては赤ちゃんに笑いかける、席を譲る 、お礼とねぎらいの言葉を忘れないなど多々気を付けています。 * 私のやり方は間違っていますか。 どうかお教えいただきたく存じます。
こんにちは。お世話になってます。 このサイトで色々な悩める人達のご相談に乗っているのをお見かけします。 心優しいお坊様方の親身な助言により明るく前向きに生きていこうとする人も沢山いるでしょう。 ですが世の中どうにもならない事があることが現状かとは思います。 熱意をもって真心をこめた言葉が届かないことは本当に悲しく残念なことだと思います。。 皆さんはこういった事が続いたらどのようにして気持ちを切り替え活動を再開するのでしょうか。 もし私がその立場なら自分には向いていないのか、と考えてしまいしばらくサイトに来なくなってしまうと思いますが…;
去年のくれ、あるお坊様に 「途方もなく難しいからこそ願いを立てる、そして願いを成すために誓いを立てるのです。願いのないところに達成するための努力や自覚は生まれません。 」 と言ってもらい、 『衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど) - 生きとし生けるものをすべて救うことを誓って願う- 煩悩無量誓願断(ぼんのうむりょうせいがんだん) - 無量の煩悩をすべて断つことを誓って願う- 法門無尽誓願智(ほうもんむじんせいがんち) - 無尽の法門をすべて学び智慧とするち誓って願う- 仏道無上誓願成(ぶつどうむじょうせいがんじょう) -無上の仏道を成すことを誓って願う-』 というお経を教えていただき、あれからたまにそのとき願った、自分の力で生きれるようになること、娘たちの幸せを願って写経してきました。 今の私、まだまだで先が永いですがあの頃よりは願いに近づいているだろうと思っています。 こちらのサイトのお陰です。ありがとうございます。 あれからなんと100円均一のお店で般若心境の写経セットを見つけて書いてみました。 どういう意味なんだろうと考えながらあまり理解できなかったけど、なんとか仕上げました。 長いので気力が要りますね。 疲れました。修行不足ですね(;_;)
主人が亡くなり、両親に会えたかな…と何気なく話をしたら、Sの方に、仏教は3年経たないと会えないんだよ、Sならすぐ会えるから、入りなさいと言われましたが、本当ですか? Sに入る気もありませんし、Sの方達を否定もしておりません。それぞれ、信じる道を進んでよいと思います。ただ、本当なのかな、と思い、こちらに質問させていただきました。
5月末に、坐禅会に行くのですが、情けないのですが、何を尋ねようか考えあぐねています。 そのお方の坐禅会は、3ヶ月待ったもので、 決して少しでも無駄にしたくなく、有意義なものにしたいのです。それならば、大分前から考えられただろう!と思われると思いますが、 ある程度は、質問を纏めたのですが、いまいちパッとせず、煌めかないのです。 なぜ坐禅会に行こうと思ったかというと、随聞記に自分で正しいと思うところがあっても、 もっと正しいところがあるかも、しれぬ。広く師僧たちにも尋ね、先人の言葉なども調べてみるべきである。と書いてある事と、僕の師事している方も、色んな方に会って、尋ねるのがいいよ!と言った事です。 もう一つあって、今、思うところ、僕は、すぐに自惚れて得意になり一つの見解に落ちて、それで人や物を見て、聖や凡に振り分けていたけれども、そもそも何に気付いたかといえば、 鳴かぬカラスはなんとでも鳴く、鳴らぬ屁はなんとでも鳴る。 人に、カラスの鳴き声は、どんなもの?と、尋ねれば、人の数だけのカー!!が、あるでしょう。一人一人が鳴き声を思い浮かべ、それは異なります。カラスの鳴き声は、このようなものだ!と、持ち込んでも実際の鳴き声はその瞬間だけのものです。 過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得という実際、僕らの有りように気付いたのに、後から頭で分別し、悟った立派な人と、悟らぬ凡夫という具合に分けていたのです。 今、私には凡人も別格の人もおらず、ただその人が見えます。誰にも鎖など、ついていません。既に救われております。 大海という土壌の上に波が立ち、風という縁で波という僕らが生まれて、やがて波の一つ一つも大海という仏に還る、といった具合に考えていたけれども、それは大間違いで、 僕らは初めから、波などではなく、大海どころではなく、どこまでも際限のない無限の広がりそのものであり、陽光が照らす花そのものだった。 宇宙に比べて人間は、ちっぽけである。と人は言うが、あなたが宇宙そのものだとしたら、どうか?今から目指して成るのではなくすでにそうなってあるのだと、今、世界中で起こっている争いに限らず、僕らの苦しみが、世界中のいわゆる悲劇は、ほんの些細な勘違いによるものだとしたら、なんと悲しく哀れに思う。自惚れているかもしれませんが、僕は、仏法以外に人の世が、救われる方法は、ないと思います
以前の質問とはうって変わった内容で失礼いたします。 禅宗のお坊様方の中で、ご存知の方がおられましたらお教えください。 Wikipediaの「応量器」の項目に、こんな記述があります。 材質は鉄または土が本則とされ木製は禁じられているが、漆をかけたものは鉄製とみなすとして一般には黒塗りの漆器である ここで疑問に思ったのですが、なぜ木製が禁じられているのでしょうか? 器の腐敗を防ぐため、あるいは木片(ささくれ)がのどに刺さることを防ぐためなのかとも思いましたが、鉄製であれば錆もでましょうし、それがのどに悪影響を与えることもありましょう。 にもかかわらず、なぜあえて木製の器のみを指定して禁じたのか、その経緯をご存知であれば、お教えください。 また、昨今はプラスチックの器が増えておりますが、漆器ではなくプラスチック製を応量器(持鉢)に用いているということは無いのでしょうか?こちらも、お教えいただけましたら幸いです。
いつもお世話になります。 般若心経について質問させていただきます。 先日、いつもお世話になってるお寺で般若心経の経典をいただき般若心経を唱えているのですが、一つ引っかかる点が出てきました。霊能者やその類の人が言うには、般若心経には、悪霊や無縁仏の霊を寄せ付ける力があるので、僧侶でないものが唱えるのは危ないと言ってる人がいます。正直こんなことを言う人がいるとやりづらいです。どうしたらいいでしょうか?
実家の菩提寺が先祖代々浄土宗です。教義を理解していないのですが、父や伯父の葬儀のときに、心のこもった美しいお経を、長時間にわたり、読んでいただいたことがとってもありがたく、気持ちが救われました。 最近『うちのお寺は浄土宗』という本を読んでいて、次は、浄土三部経か選択本願念仏集について書かれたものを読んでみたいと思っています。どちらを先に読んだら良いでしょうか?この著者のものがいい、その前にこれを読んだ方がいいといったおすすめはありますか? 「浄土宗」や「浄土宗 本」でhasunoha の問答の検索をしてみたのですが、同じような問答は見当たらなかったので、質問させていただきました。よろしくお願い申し上げます。
身体の痛み、不調がある知り合いがいます。 病気を治してほしいとはいいませんが、その方が自分のやりたいことを十分できるように、お寺での祈願をしたいと思っています。 その方はお坊さんなのですが、他の宗派のお寺で祈願されたり、そもそも自分が祈願の対象となることは、不愉快なものなのでしょうか。
私は14年前、母を交通事故で亡くしました。 突然のことで、最後に話すこともできず お別れしてしまいました。 亡くなってからしばらくして、母の夢をみました。 私が母を抱っこしたら骨になった…という夢で、 その日が四十九日の日でした。 それから14年、ずっと母の夢をみていません。 自分も病気をして1度命の危機を感じたとき すごく母に逢いたいと思いました…。 思いついてお墓参りに行ったりしましたが なんとなくすっきりせず…。 仏教的には 夢にみたり、逆に全然夢に見なくなったのは 何か意味があるのでしょうか? 気になります。
お寺の小僧さんの生活について教えてください。 得度前の小僧さんは、どのような生活をされているのでしょうか。 下座行とはお掃除以外にもありますか。 朝の勤行などお坊さんのお勤めは、得度してからですか? ごはんの前にお経を唱えたりとか、夜もまたお勤めしたりとかあるのでしょうか。 得度前、あるいは得度後(一人前になる前)の小僧さんの暮らしについて知りたいです。 どうぞよろしくおねがいします。
先日はお坊様からのアドバイス頂き、ありがとうございました! そのアドバイスに、利他行をするようにとありましたが、具体的に利他行とはどのようなことをしていけばよろしいのでしょうか?
いつもお世話になっております。私は 去年から千手観音さまのお札を拝ませていただいております。そこで、質問なのですが、数珠を手にして拝むと言うのは、間違いでしょうか? 一応お寺のお札なので、 あと お札の両脇に榊をお供えしてます。やはり 榊ではなく、お花がいいでしょうか?
正座をされたまま畳に置かれたお茶を取るなど腰に響く動作が多いように思われます。 例えばお坊さんから「腰痛なんですよ」と言われた時などは 脚付きのトレーなどでお茶をお出しした方がよいでしょうか? お膳でお茶とお菓子というのも大層な気がするのでちょっと高さが出るお盆などがいいかなと思ったのですが、やはり畳に置くのが一般的でいいのでしょうか?
連日の投稿を失礼いたします。 「写経」という言葉がありますね。 平安時代くらいの物語を見ると、何かある度に写経。 これはどうやら、トラブルや揺らぎがあった際に心を落ち着かせる手段です。 ただ書き写すだけの単純な行為は冷静さをもたらしますが、 当時絶対的な力を持っていた仏教の……経典で良いのでしょうか? それを書き写すことにより、「お釈迦様のおかげ」となっているような気がします。 何故なら、お経は唱えるものです。 サンスクリット文字に、中国で「音に近い読みをする漢字」を当て、 それが日本に来たからです。 純粋に、釈迦の教えではなく、かつての中国文化が混じっています。 なので、口に出さず、ただ書き写すのは、ちょっと違う気がします。 # あえて「釈迦」と書いたのは、亡くなっているからです。 # 人々が「天智天皇陛下」と呼ばないのと同じです。 # 軽んじているわけでは、決してありません。 仏教に興味はありますが、わざわざサンスクリット語を勉強するほどか、と言われたら、否です。 なので、釈迦の教えを説く立場の皆様にお伺いしたいと思った次第です。
何処に行けば仏教を教えていただけますか? お金は無いです。