何度も質問失礼いたします。 私は現在、毎朝念仏(浄土真宗の勤行)をしているのですが、最近座禅も少し始めるようになりました(座禅会に参加したことがあり、座り方はある程度心得ています)。念仏すると心がすっきりして良い気分になりますし、座禅をすると翌朝の目覚めがすっきりして、健康に良いように思います。 そこで質問なのですが、念仏と座禅は両方行っても構わないものなのでしょうか? それぞれの宗派の教えを勉強すると、念仏か座禅どちらかしか行わないようなので、両方やってもいいのか疑問に思い質問させて頂きました。 どうぞよろしくお願いいたします。
こんにちは。先日は私の拙い質問にご回答頂き、誠にありがとうございました。また、こちらで何度もご質問させて頂いておりますが、その度毎に丁寧なご回答を頂いておりまして、大変感謝しております。本日は、多少突っ込んだ質問になってしまいますが、自分の中でどうしても整理がつかない点があり、それを質問できるような場が他にありませんでしたので、この場を借りて質問させて頂きたいと思います。どうぞよろしくお願いします。 こちらのサイトを拝見しておりますと、「霊は存在しない」と回答しておられるお坊さまが何人かいらっしゃいます。お坊さまの中でも意見が分かれる問題なのだと思いますが、私は霊魂の存在を信じており、また輪廻転生もあるのではないかと考えております。霊魂の存在を否定されるお坊さまは、霊感商法やカルト教団への対応など、現実的な対策の観点から、またお坊さま個人の世界認識から、そのような発言をされているのだと思います。しかし、素人の私から見ると「悟り」や「阿弥陀仏の救い」を前提としてお話をされているお坊さまが、「霊魂」の存在を否定されることが、どうしても理解できないのです。 素人の私から見ると、「悟り」も「阿弥陀仏の救い」も、それが一体何であるのか分かりません。そのため、お坊さまが「悟り」や「阿弥陀仏の救い」をお話されることは、「霊魂」や「輪廻転生」のお話をされることと同じくらい荒唐無稽なもののように感じてしまうのです。唯物論者の方が霊魂の存在を否定されるのは理解できるのですが、お坊さまが否定されることは、私にはどうしても理解できません。霊魂の存在については、「分からない」とおっしゃることが最も妥当なのではないでしょうか。 実際に、現代には様々な宗教がありますが「霊魂」や「輪廻転生」の存在などを説いている宗教も数多くあります。もし、お坊さまが霊魂は存在しないと考えておられるのであれば、それらの宗教についてはどう理解されているのでしょうか。 このような突っ込んだ質問をして、誠に申し訳ありませんが、霊魂を否定されるお坊さまのお考えをどうしても伺いたいと思いました。ご回答頂ければ幸いです。どうぞよろしくお願いします。
自力の念仏では阿弥陀さまは救ってくださいませんか?
教えてください。 般若心経読んでみました。 つまり般若心経は。 リラックスしようよ。 あなたが思っているようなことは 何も起こらないよ。 感情は浮かんでは消え川のように流れ、 大海に流れていく。 そして、 あなたは大海そのものだから、 決して溺れることも沈むこともない。 だから身を委ねてマントラ?を唱えましょう。 みたいなことですよね? 全てはひとつ。(ワンネス) と言っていても、 色と空は一つにできない って書いてありますよね。 そこらへんがわからない。 色と空がさっぱりなんですが、 そんなに深く考えなくてもいいところでしょうか?
浄土真宗勤行聖典を入手したんですが、お勤めで読み上げる部分がよくわかりません。ネットで探しても人によって違う… 三帰依文→正信偈→和讃→讃仏偈→重誓偈→十二礼→意訳勤行→阿弥陀経→御文章の順番でいいですか?
極楽に往生したのち、この世に戻ってきて衆生を教化する、とはどういう意味ですか?目に見えない形で戻ってくるのか、それとも人間として戻ってくるんですか?
こんにちは、 般若心経について詳しく知りたいです。 オススメのわかりやすい書籍などを教えてください。 いろいろと自分で読んで見たのですが、 基礎知識?がないとわからないことばかりで 正しくきちんと理解したいです。 一体どこから踏み入れれば、般若心経を 正しく理解を深められるのでしょうか。 私のいまの知識は 般若心経とは、 御釈迦様?の優秀な弟子が作ったもので その弟子の後輩に対して渡した、 「悟りっていうのはこんなことだよ。」的な要約レポートだと思っていて、 (これすら間違ってたらすみません。) ほんと、へんな知識しかないです。 中身が難しい。 この優秀なお弟子さん?もなんだか正体つかめないし、 般若心経は仏教上級者向けですか? ご回答よろしくお願いします
我が家は浄土真宗なのですが、最近お笑い芸人さんが般若心経について書いた本を読んで、般若心経に興味を持ち写経とかも、余計な事を考えないように、心を落ち着かせて集中するのには良さそうだな、、と思っていたのですが、 恥ずかしながら仏教のルール(?)を全然理解しておらず、浄土真宗では般若心経は唱えないと知ったのがほんのつい最近でした。普通に曽祖母の仏壇の前で般若心経を音読していた事もあったので、しまった!!と思いました。浄土真宗では何のお経がベストでしょうか?曽祖母のために読みたいなと思うのです。 色々仏教についてネットで調べているうちに真言(マントラ)というものも知り、これについても素人が唱えるのはやめましょうとか、出来れば唱えた方がいいとかネットの情報が錯綜していて、理解するのが難しかったです。 例えば我が家で言えば、御守本尊の一覧を見ると、私と父は阿弥陀如来様で一緒なのですが、母だけ不動明王様だったり、 そうなると、我が家は浄土真宗で私と父は御守本尊が阿弥陀如来様だから、真言も阿弥陀如来様の真言のみしか言わない方がいいのかな。 とか、でもブレない強い気持ちを持ちたいので、不動明王様の真言を唱えてみたい気持ちがあるのですが、それを私がすると良くないことなのか、、など、ネットの情報だと何が正しいのか分からなく、 本当に何も分かっていない自分が恥ずかしいのですが、こちらに質問させて頂きました。 それからせっかくお経や真言を唱えるにあたり、何か作法というか、これだけは、、というルールがあれば教えて頂きたいです。 あるサイトで○○の真言を唱える時は手をこのようにしましょう。とか祈り方まで書いてあったのですが、、ただ手を合わせる形じゃいけないものなのかな?と気になったので。 もっと仏教について色々知りたいです。 このサイトで色々読ませて頂けるのが楽しいです。 宜しくお願い致します。
お坊さんたちってクリスマスを祝うことはありますか?
お坊さんになったあと、大学進学は可能でしょうか。教えてください。
何回かここで悩み相談をさせて頂いている者です。 厳しいながらも温かいお言葉を頂いて自分に決心がつき覚悟を持ってことに臨んでいきたいと思っています。 今回は悩みというより疑問に感じたことがあります。 過去の質問を見てい頂けると分かるのですが、私の母は、結婚に反対しており、彼女やそのご両親が合わないと感じ、後々私が苦労するだろうと直感し、ある仏教の信徒さんに相談しに行ったそうです。 信徒さん(母が言うには、神様のお告げ)の答えが母自身が感じてた通りの答えとなり、この結婚をないことにするためには、私と彼女が喧嘩別れをするのが良いと助言されたそうです。 神様のお告げの割には随分乱暴な助言だと思いました。話を聞くうちにその信徒さんは、真言宗の方らしいです。 真言宗には、十善戒という戒律があると知りました。その中で"不両舌:他人を仲違いさせない"という教えがありました。 私は、宗教の教えには疎いのですが、その教えを受けている筈の信徒さんがどうして十善戒の戒律に反するような助言を母にしたのか疑問に感じました。決して真言宗の方を批判するわけではないので誤解されないでください。 もしかすると何か本当の意味があるのかとも思いました。出家されていない信徒さんは、未来が見えたり、神様のお告げ聞けたり、相談に乗るということをするものなのでしょうか?
浄土真宗には五戒、十善戒が存在しないのですか?
他の人の幸せのためにお念仏を唱えると、阿弥陀如来はその人を救ってくださいますか?
阿弥陀さまは、念仏を唱える人を救われるという誓願を立てられ如来になられたんですよね。でもお経をよく読むと、救われる者から「五逆罪と正法誹謗を犯した者を除く」とあります。 では、現代において親を殺した人や仏教を誹謗した人は、罪を悔い改めたあとでも救われないのでしょうか?
極楽浄土へ行くためには 戒律を守らなければならないと聞いたことがあります。 では戒律と私がしたことについて 殺生をしない まずこれはどんな生き物とて殺してはいけないのですよね? 蚊やゴキブリなど殺していますし 肉や魚も食べています。 盗みをしない 盗みは少年時代よくやりました。 しかもつい数年前万引きをして 警察に捕まりました。 このことについては 反省しています。 酒を飲まない ビールを飲んでます。 悪口を言わない 極力言わないようにしていますが 嫌なことされたり頭にくることされると 時に反論や悪口を言ってしまう時があります。 嘘を言わない 嘘はついたことはよくあります。 大人になってからは正直に生きたいと 思ってましたが会社などで働いていると 普通に本音を言うと怒られたり 敵対されいじめの標的にされた事がよくあります そういう経験をして以来 時に思ってもいない嘘を言って ごまかしその場を乗り切ることがあります。 ふしだらなことをしない これはあまりしませんがエロ動画や画像などは 鑑賞します。こういってことでも ふしだらなことになるのでしょうか? 心から懺悔をし善行を積み 南無阿弥陀仏など毎日唱え修行をすれば 罪罰から遠ざかるとありますが本当ですか? そもそも地獄は実在するのですか?
いつも、いろいろな事を教えてくださり有難うございます。 私の生家(真言宗)では、毎朝、仏壇に御飯を上げるのですが、 小さな茶碗で、必ず「六つ」 それと、子供達用にと、一回り大きい茶碗を「二つ」 合計「八つ」上げます。 御先祖様が六人いるという訳ではありません。 子供の御先祖様は、人数は分かりませんが確かに何人かはいます。 この、お茶碗の数には、何か意味があるのでしょうか? 昔から、そうしていたから当たり前のように、今でも同じように、 やっていますが、 まとめて「一つ」にしてはイケナイのでしょうか? それとも「六」という数字には何か意味があるのでしょうか? よろしくお願い致します。
前にウィトゲンシュタインの形而上学の話をしたお坊様がいて その人が形而上学の世界を考えたり言葉にしたり探そうとすること自体間違ってるといってましたが そのウィトゲンシュタインの形而上学の話でさえ形而上学から来た考えじゃないですよね? だからその考えが必ずしも正しいとは思わないんですがもしもそれが正しいなら 悟りは考えたり言葉にしたり探そうとすること自体間違ってる・・・ それなら菩提樹で瞑想して悟りへ行けるのも間違ってるんじゃないですか お釈迦様が怪しくないですか? 自殺大国日本を救うような奇跡を見せたりすればなんとなく信じれるんですが 都合よく無記って言葉で片付けて良いなら どんなカルト宗教も成立しますよね わざわざアビダンマや大乗や密教やらが一貫性のない色んな経典使って 色んな山の麓からアプローチして悟り目指す必要もない 最終的には無記なんですもん わかんないですもん ウィトゲンシュタインの話しが正しいなら 形而上学の世界は考えるのも言葉にするのも探すのも色んな経典で計るのも悟りが存在することも間違ってませんか?そもそもそんなもの無いのでは・・・ 有るんだったら誰が作ったんですか?人間から神様になったお釈迦様ですか?それともこの世の最初から有った原因のわからない結果ですか?それとも過去仏ですか?やはり無記ですか・・・ 本当に悟りを開いてる人がいたら今のこの戦争や犯罪や自殺が蔓延する ナイトメアストリートダンジョンな世界を救ってると思うんですけどね
今度知り合いのお坊さんが加行に入るのですが、応援の意味を込めてなにかプレゼントしたいと考えております。 加行に行くお坊さんに何をあげたらいいのわかりません。 何をあげたら相手に喜んでもらえるか、教えてくださるとうれしいです。
前回の質問で回答したお坊様に言いたいことがあるんです 実は僕は丹下様が薦める瞑想をやってるんですよ 瞑想やってて気づいたんです 瞑想で雑念を払いリラックスしてるとヒッグス粒子みたいな赤や黄や青の粒が見えてきて そしてその状態でいるとだんだん神妙な気分になって 我欲の全てがその粒の流れと共に消えていく感じになってボーっとするんです その状態でいるとだんだん無になってく感じで無になったような瞬間 瞑想してたことも忘れたかのようにハッとしてまたさっきの状態に戻るんです この繰り返し まるで息を吸って吐くように 煩悩と悟りが交互でくるように 蕎麦食ってまた腹へって蕎麦食ってまた腹へってそれを繰り返してたら なんで腹減らなきゃいけないんだなんで蕎麦食べなきゃいけないんだ 誰がそんなルール先に作ったんだってなりません? そうなると人間もこの世界も全てを先に作った原因と結果だってなりますよ でもそれを作ったのは?それすらも作ったのは?それすらも作ったのは? こうなると原因はわからないでもなんかの原因と繋がってて結果が出る 因のわからない果の法則じゃないですか そうなると悟り開いても原因はわからないでもなんかの原因と繋がってその結果で煩悩が湧くと思うんです この因のわからない果の法則が悟りであればなぜ人は煩悩があって生まれるのか?それが煩悩ならば悟りは諸行無常で形を変えただけの煩悩ではないのか? それが量子力学みたいに悟りと煩悩なら両者とも同じ境地にいるのではないか? とにかく悟り開いても原因はわからないでもなにかの原因と繋がり煩悩が湧くと思うんです この因のわからない果の法則や因果関係は実体があって悟りは空だから悟り開けばそことは無縁になれるってぶっ飛びすぎじゃないですか? 実という原因あっての結果の空なんですから その空に行ったお釈迦様の前に過去仏がいるって変ですよね それが居座る場所をまるで因のわからない果の法則がすでに結果となって作ったような 因のわからない果の法則や因果関係から解脱できなければ悟りと煩悩は共存し続けると思うんです だから悟り開いたお釈迦様は梵天に煩わしい娑婆の世界に行かされたと お釈迦様が煩悩のない悟りを開いたと証明できないなら そんな人は全知を知りえないそんな人の教えは瞑想を神格化して ありもしない悟りという虚像の神を拝んでるだけじゃないですか?