私は、約12年前からうつ病や不安障害などのために治療を受けております。 約1年8ヵ月前に父がガンのために他界いたしました。 自分の発病後からは友人などとの接点が全くなくなり、完全に孤立無援の生活が続いております。 毎日、誰かと話すこともない生活が続いています。 そして、父が他界した後は、それまでよりもずっと悲しく、寂しい生活が続いております。 以前に質問をさせていただいた時には、お寺参りを勧めていただきました。 早速調べてみましたところ、父のお墓があるお寺で7月に法要があるようですので、それに参加させていただきたいと思っております。 しかし、それまでの間のことなのですが、やはり毎日寂しくて、悲しくて仕方がない日が続いていて、とても苦しいです。 誰とも話すこともなく、電話やメールが来ることもない毎日です。 寂しくて、悲しくて、いい年をした中年男が泣いている毎日です。 こんな私にとって、何か救いになるような仏教のお言葉と言いますか、お教えみたいなものはございませんでしょうか。 この寂しさや悲しさがほんの少しでも楽になることができるような仏様のお言葉やお教えはございませんでしょうか。 ほんの少しのお言葉でも構いませんので、どうか教えていただきたいと思っております。 どうかよろしくお願い申し上げます。
2回の質問への回答ありがとうございます。 私はお坊さんと結婚したいと考えています。 精神科の薬を飲んでいてもお坊さんと結婚することは可能ですか? 日常生活には支障のないレベルです。 また、わたしは健常者ですが、障害を持っていてもお坊さんと結婚することは可能ですか? さて、本題です。私は親を殺そうとしたことを警察の方に報告して保護されたことがあります。 そのときチャッパーという骨を切る包丁を持っていたので(チョッパーと検索した方が出てきやすいかもしれません。)措置入院となりました。 薬は措置入院したせいで飲むことになりました。 家が汚かったのと、母親が痩せてくれなかったのと、父親が毎日母親をどなっていたのがいやだったからです。 加えて、私が無職だったので金銭的にこれからうちは破産する!と、 思ったからです。 母親は私を妊娠しているときにケーキやポテチを食べて急激に太ったことにより、椎間板ヘルニアになりました。 いまでは太りすぎで、脊髄の2か所目が潰れてもう車いすです。 私は、結局母が太って不幸になったのが受け入れられなかったんです。 今幸せ?と聞くと、母は、不幸だ。といいます 今では半年間の入院を経て、母や少し怒鳴らなくなった父を受け入れて介護できるようになりました。 あたらしく、尊敬できるお坊さんという家族を迎えて、妊娠して人生をやり直そうと思っています。 また、障害のある母と健常者の父とで、お寺に引っ越して新婚生活を歩むことは、お寺の規模によっては不可能なのでしょうか? こんなわたしでも受け入れてくださるお坊さんはいるでしょうか? 回答よろしくお願いします(´◉◞౪◟◉)
こんにちは はじめて質問させていただきます。 以前、自ら死のうと考えた時期があり、その時に仏教の「賽の河原」の話を思い出したのですが、賽の河原は子供が親不孝をしたために行く場所ですよね?成人した人でも親より先に死んだ場合は賽の河原に行くのでしょうか? 今はもう元気なのですが、どう解釈したら良いのかとても気になっています。 ご多忙とは思いますが、どうぞよろしくお願いいたします。
私は、最近よく読書をするようになり、そのなかで「禅」に興味を持ち、「100歳の禅語」や「道元『禅』の言葉」などを読んでもっと学びたい、もっといろいろな事を知りたいと思うようになりました。 本屋の宗教や自己啓発のコーナーなどで「これだ」と思う本を探していますがなかなか良いものに巡り会えません。 何かお坊さんオススメの本のはありますか? 「禅」や「仏教」以外の分野でも「これはためになる」「この本はぜひ読んでほしい」「これはおもしろい」というような本があればぜひ教えて下さい。
こんばんは。(・ω・)ノ あるローカルニュースでターミナルケアを専門にやっている臨床宗教師というお坊さん達が新しく取り始めた試みを前から気になって観てました。(^ω^) 京都のある病院と連携してお坊さん達が末期癌のターミナルケアをしてはる方々の特集は別の番組で観て知ってますが、その方々と臨床宗教師というお坊さん達は別の人達なのかとそもそも臨床宗教師というものを知りたいのでよろしくお願いします。m(_ _)m 京都の龍谷大学という仏教の大学にその臨床宗教師を育成するコースがあるみたいですが、hasunohaの御僧侶の方々で臨床宗教師に詳しい方がおられましたら教えて頂けたら幸いです。(・ω・)ノ お坊さん達が末期癌やターミナルケアを必要としてはる方に死についてホスピスで旅立ちを安らかに迎える取り組みは前から気になって私は良い取り組みだと共感している人間なので、臨床宗教師というお坊さん達にも関心があるので、質問させて頂きましたので、よろしくお願いします。m(_ _)m
貪・瞋・癡を知り自分の愚かさを感じます。 例えばハスノハでもっと多くの回答を得たい、有り難しの多い質問にしてみたい。とか。 良く思われたい、こうありたいと欲深く、その基準に人と自分を当てはめる その「こうあるべき」から外れる人、事、自分に怒りが湧く自分がいます。 他者のあるべきへの期待が強く、怒りが起きやすく、愚かな考えが根本にあります。 理解し一歩進んだのですが、まだまだ修行?がいりそうです。愚かだ、よろしくないなと思いつつも自分のこれまでの習慣だからです。 たくさんの他の質問を見て、我を減らしていく段階はある程度分かりました。 宜しければ、回答者の方々が、三毒をコントロールしていくきっかけや、体験談をお聞かせいただければと思います。
いつも質問に丁寧にお答えして頂きましてありがとうございます。m(_ _)m 一昨日にTVで市川海老蔵さんが奥様のご病気についての記者会見を観ていた時に得度という言葉が記者会見で出ていたので、リポーターの方からは出家するみたいな言葉が出ていたので、hasunohaに参加されてる僧侶の皆さまに分かりやすい得度の意味を教えて頂けたら助かるので、あの記者会見を観られていた方の中では私みたいに意味を知らない方もおられると思うので、御多忙かと思いますが、よろしくお願いします。(・ω・)ノ
お仏壇を新しくした際、古い仏壇の中にあった古い人形も処分したのですが、僧侶がウチに来たら、それは大事なものだから捨ててはダメなのだ!と、眼を血走らせ、口角泡を飛ばし怒鳴られ読経もせず帰っていかれた。同じ宗派の僧侶に訊いたところ、廃棄しても問題なく、新しく掛け軸を用意し、仏壇に置けばよいとのこと。人を怒鳴り付ける年のいった僧侶、こういう者が僧侶という悲しさ、憤り。それ以来、ウチには一度も来なくなりました。この僧侶をどう思われますか?日蓮宗です。
はじめてこちらに質問させていただきます、菩提心です。 現在、一切衆生の救済の為、また困っておられる方、悩みを抱えている方をお救いしたく、僧侶の道を志している者です。在家の者なのでなかなか師僧に巡り合えず難儀しております。いくつかの寺院の御住職に相談にのっていただいたりはしているのですが、基本的には「またいつでも参りにおいで」という感じでなかなか師弟関係を結べずにいます。まだ機が熟していないのかはたまた縁が巡ってこないのか、とにかく現在はそんな感じです。とにかく師僧の方と巡り合いたく、現在自分に行をかして(近所の寺院に100日間毎日参拝して一回15分程度読経しております)おります。また、これから先の人生、縁がなく師に巡り合えなかった場合、最終手段として単立寺院で得度出家を考えているのですが単立寺院での得度・出家には問題が(意味が)あるのでしょうか?もちろんその場合はいいかげんなところではなく、きっちりとした修行をさせていただける寺院様を探すつもりです。一応2件ほど常時得度・出家・伝法灌頂まで受けさせて戴けるお寺は見つけています。 ちなみに得度から伝法灌頂の最後まで諸々の費用は40万から50万程かかります。私自身、まだ20代後半とまだまだ人生経験の浅い青二才ですが、これまで様々な苦労や苦痛にさいなまれながらも生きてきました。なので、自分と同じように苦しんでいる方々を仏教を通してお救いして差し上げたいのです。また仏教の尊い教えを一人でも多くの方にお伝えしたいです。 なので、どうしても僧侶になりたいのです。ちなみに自分は真言密教が大好きなので、真言宗の僧侶になりたいです。とりあえずは単立寺院での得度出家に関してアドバイスをいただきたく存じます。長文になり誠に恐縮ですが、どうかよろしくお願いいたします。
初めて、お便りさせて頂きます。 最近、仏教の教えを知り教えを学ぼうと考えています。 現状の仏教の理解や考え方の方向性が正しいのか確認をさせて 下さい。 現在、深刻な悩みはなく本件のご相談は、急ぎではありません ので悩みごとのご相談の皆様を優先させて下さい。 ■現状の理解内容(超要約して記載します) 1)仏教の目的:涅槃(解脱)に至ること。幸せを説くこと。 2)涅槃(解脱)への到達の方法として「四聖諦」があり、日々の 実践として「八正道」がある。 3)最初に苦諦の理解の為に、無常・無我、因縁を理解することが必要 以下は、私の解釈した定義です。 無常:この世の全ては移り変わるもの 無我:全ては繋がりの中で変化している現象である 因縁:原因+条件(環境等)があって結果がある 4)今後の方向性(考え方や実践内容)について ・目的: 日々の生活や仕事で、怒りなく、平穏で周りの役立つ人生を送る ・行動や思考の指針 日常生活では、八正道、慈悲喜捨、五戒などを意識し、正しい判断 基準で行動する。 ・貪瞋痴に支配されない為の手段として、ヴィパッサナー冥想があり 今の瞬間に気付けるようにする。これにより、無常・無我、因縁が 頭でなく、身体で理解(体験・体感)できるようになる。 常に、今の瞬間の自分に気付くようにし、正見・正念・正定の向上 を図ることにより、煩悩が湧いてこないようにする。 以上の認識や方向性で、大きな誤りや重大な認識漏れがないか、 ご指導を頂けましたら幸いです。
本日はよろしくお願いします 職場で私は責任者なのですが、経営者の男性から 長年モラハラをされています。 肉体関係になった事もあります。 給料がいいので子供が大学を卒業するまでは辞められません。 それを知っているので、何をしても何を言っても我慢すると思われている様です その人が、身内の方が病気になった時、いきなり社寺巡りを始め、地図にのっている有名な社寺を片っ端から巡り、地図に印を付けています。 どんな人間でも拝めば救われるのが仏教ですか? その時だけ拝めばいいのですか? 私は悪い人間にはバチを当てて欲しいです。
母が亡くなった切っ掛けですが 日程が合えば法要法話には必ずうかがっています。 両親が居なくなったさみしさからもあると思います 今も私は ご住職とも法要法話でお会いする門徒さんとも良好な関係だとおもいます。 ただ私は正式な門徒になっているわけでは無いのです。 昔高校時代の先輩がある他の仏教系宗教にはまり 夜中でも連絡してきて怖い思いをしました。 今はあきらめてくれたのかほとんど連絡もこなくなりました。 このまま正式な門徒さんになり色々な事を学んでいくうちに 自分もあの先輩みたいになっていくのではないのか でもご住職さん門徒さんに自分の辛さを話していくと 気持ちも 楽になります。 正式な門徒になることを勧められらことは ご住職にも門徒さんにも勧められたことはありません 私からもお話していません 私も亡くなれば両親と同じように 釈の法名はいただくつもりなのですが。 宗教が怖いなどと はっきりとはご住職に申し訳なくて聞きづらいのです。 自分は、今は今のままが一番良いのですが 私が生きているうちに いずれ正式な門徒にならなければいけないものでしょうか?
本日はよろしくお願いします 職場で私は責任者なのですが、経営者の男性から 長年モラハラをされています。 肉体関係になった事もあります。 給料がいいので子供が大学を卒業するまでは辞められません。 それを知っているので、何をしても何を言って我慢すると思われている様です その人が、身内の方が病気になった時、いきなり 社寺巡りを始め、地図にのっている有名な社寺を片っ端から巡り、地図に印を付けています。 どんな人間でも拝めば救われるのが仏教ですか? その時だけ拝めばいいのですか? 私は悪い人間にはバチを当てて欲しいです。
私の姉が、生後8ヵ月で亡くなっていて、死後50年以上経過しています。 お墓も仏壇もありますが、死後50年以上たっていると、もうすでにそこには居ず、何か仏様の別世界に居るのでは?とか、すでに新しい命として生まれ変わっているのでは?と思ってしまいます。 今、姉はどこに居るのでしょうか?
ハスノハのお坊さま方いつもありがとうございますm(__)m たくさんのご質問へのご回答、ありがたいお言葉を生きていくうえでの糧にさせて頂いてます。 今回私は質問ではなくお坊さま方へお願いがございます。 重く苦しい思いに気持ちを馳せて丁寧なご回答をするのは容易な事ではありませんでしょうし消耗されることでしょう。 ご回答は本当にありがたいのですが長時間のスマホやタブレットの使用は目にも首にも腰にもよくありません。 どうぞご無理なさいませんように。 またご家族、特に小さなお子様のいらっしゃる方はご家族と一緒の時にはご回答なさらないで頂きたいです。 ご自分の時間を大切にして頂きたいです。 皆様のご好意にただただ感謝しておりますm(__)m ハスノハが長く続くことをお祈りしております。 ご回答はいらないですよ!
近年仏教に興味を持ち、機会があれば参加させていただいています。 座禅は臨済宗・曹洞宗に参加させていただき、阿字観は高野山の某宿坊でご住職自らご指導いただきました。 作法などの違いはわかるのですが、最終的に自分自身としてどちらを選択すべきかわかりません。 「梯子禅」という言葉も知りました。 ドクターショッピングに近い感覚でしょうか? 最終的にどちらを選ぶべきなのかわかりません。 それとも現状維持で、その時々にご縁をいただいた機会を生かすという形でもよろしいのでしょうか? 実家は西本願寺派、嫁ぎ先は新興宗教で、私自身は明確な信仰の宗派?を持っておりませんが、仏教徒であると幼いころから思っております。
私の食べ物に対する感覚は日本的な考えなんでしょうか? 仏教的な考え方なのでしょうか? それとも少数派なんでしょうか? 世界共通の認識だと思っていたのですが、そうではないようだと思うようになりました。 一般的に日本人の食べ物に対する感謝はいくつかの意味があると思います。 ①命を頂くことに対する感謝 ②食材を育ててくださった農家の方に対する感謝 ③食材を育んだ地球の恵みに対する感謝 ④調理人の方に対する感謝 ⑤食材を入手するための代金を稼ぐ労働に対する感謝 これらが一言で表されるのが「いただきます」という言葉だと思っていますが、特に①を強く意識していると思います。 そして食べ残すことは、奪った命をないがしろにすることだとして、食べ残さないようにします。 動物だけでなく植物に対しても同様に命を頂いていると考え、米粒一つでも無駄にしてはいけないと子供のころに教わりました。 私は「殺すのは出来るだけ少なく。食べ残すことは死ぬ必要のない生物まで殺す行為だ」「食べるために命を奪ったのだから、食べなくては無駄死にだ。」と考え、 そして動物はもちろん、植物も命を頂くと考えています。 欧米諸国では、日本とは比べ物にならないほど家畜の福祉に対する意識が高いです。 可能な限り家畜の苦しみを軽減しなければならないと考え、苦痛の少ない方法で飼育し、苦痛の少ない方法で屠殺しなければならないと考えています。 ですが、どうもそれは生きている時だけのようなのです。 食肉を食べ残すことに対しての意識がとても違うと感じています。 もちろん、もったいないとは思っているようですが、「死ななくていい分まで殺した」という風には思ってないようです。 「食べても食べなくても、いずれにしろもう死んでいる。」と考えているようです。 動物福祉に熱心な方でもです。 大乗仏教には精進料理がありますよね? 出来る限り殺生を避けるために動物性のものは取らず、植物にも命があるが感謝して無駄にしない、という考え方だと思います。 そして上座部仏教では「托鉢で頂いたら肉魚も食べてよい。食べ残してはいけない。」と聞きました。 このことから私の考え方は仏教的なのかな?と感じたのですが、仏教的でもなければ日本人の共通認識でもない、という意見の人がいて、疑問に感じ質問いたしました。 どうぞよろしくお願い致します。
仏教に生きる道を探しています。大学は仏教系で少しかじってはいます。たまにお寺にいったりする段階から、仏教に生きる道を探し、人生の悩みの解決を仏教に見いだしたいと思っています。 考え方や道筋を教えていただきたいです。自分の解決から家族などの悩みの解決に結び付けばと思います。 よろしくお願いいたします。
お寺の住職さん、お坊さんが行う修業は 実際自分自身にどんな影響を与えましたか? ・自分自身の価値化や考え方がかわった ・精神的に強くなった などといったことはありますか? あと、一般の人のお寺での修業はできますか? お待ちしてます。
悟りって本当にあるのですか?悟っているお坊さんはどのくらいいますか?