如来のモデルは釈迦である。と、授業で習ったのですが釈迦はこの世界でたった1人の存在であるのに如来には複数種あるのでしょうか。中には釈迦如来もあり頭が混乱してます。教えていただけますか?
木心乾漆と脱活乾漆の違いとそれぞれのメリットデメリットを教えてください!!
いま訳あって賽の河原について調べております。 そこで質問させていただきたいのですが、 ①賽の河原の考え方はどの宗派のものでしょうか。また、子供たちは河原で仏塔を組むことによって功徳を積むと聞きましたが、仏塔を組んで功徳になるというのはどの経典に書いてあることでしょうか。 ②またそれと合わせてお聞きしたいのですが、閻魔様による裁判というのはどの宗派の考え方でしょうか。またその際、地蔵菩薩が弁護人のような立場になってくれるというお話を聞きましたが、それは間違いないのでしょうか。 仏教のことには明るくないので、ズレた質問でしたら申し訳ございません。 ご回答いただければ幸いです。
夫は、日本で働く外国人です。 今回、漢字圏の国と仕事をする際、書類に名前を漢字表記しないといけない場面がありました。今回は職場の人に、あて字をしてもらいましたが、次回のために、きちんと、よいご縁に繋がりそうな漢字を、御坊さまに考えていただくことはできるでしょうか。 ご回答、ご指導、よろしくお願いします。
カクヨムなどの小説投稿サイトでムトウゲンジ名で人間の真理の考察しております。 とりあえず自分の行き着いた人間の真理が仏陀に近い事は理解しました。 仏陀もまだ甘いですがね。 そこで質問。 仏陀は死んだ後とかそんな事は教えてないよね? 人間が人間として生きる道を説いていた。 どう生きたら良いかを説いてました。 生きていくための道をですよ? なのに念仏唱えりゃアータラコータラ。 極楽だ浄土だ。 昔の高僧が栄養不足の睡眠不足でトリップした妄想を大事に残してこれが仏の教えとか仏陀をバカにしすぎてないですか?仏教全般。 仏陀が生きていたら仏教の信者に助走うつけて殴り付けるレベルまで落として仏陀の教えバカにしまくり。 本当にそれにすら気が付かないぐらい何も考えないのが修行なんですかね? 悟りの境地ぐらいあちこちの人がしてますよ。 アインシュタインから宮本武蔵、今はイチローと下手したら江頭2:50もね。 昔のシリアルキラーもしてた可能性高いのはいますね。 仏陀が半端な知識なため善人しかできないと思っただけで。 自分も到達しましたしね。 さて? 仏教なんぞしてると悟り開くのは無理なのになんで悟りだのなんだの言葉を使うか知りたい。
お上人方にご相談です 私自身は、寺の長男一人っ子として生まれで父が実父であり師匠となっています 父は、都会の檀家1000件の大きなお寺の三男として生まれ、修行はどこへも行っていません。人の紹介があって、今のお寺(地方寺院、檀家200件)に婿にきて私が生まれました。 先代(私の祖父)はもう20年前に亡くなり、父が新住職として主導しております。 私は、幼い頃から父とは親子仲はよくなく、高校卒業と共に大本山の小僧として入り、その後、父から「うちにはお前の給与はだせないから、他で勤めなさい」と言われ、昨年末まで都会のお寺で勤めさせて頂きながら、そこのご老僧に配慮を頂き宗門の修行はすべていくことができました。(費用は寺から出なく自費で出だしてきました) 昨年末、勤め先のお寺もご老僧から若上人へ代が変わり私も仕事が無くなり、言わば退職となり、自分の年と両親の年など考え、正月から実家の寺に戻りました。 僧侶となってはじめて、師匠と一つ屋根の下で暮らし始め、いろいろ気づくことが増えてきました。 1、お寺のお金をおよそお寺の活動とはほど遠い趣味の分野としてお金を使っていること 2、お経を法事葬儀以外朝夕のお経などを一切あげない、本堂にすらはいらないこと 3、風俗へ通っていること 4、母への暴言 5、私には仕事はさせないこと(することもないので、自費でゴミ袋と箒を買って掃除をします。それも嫌な顔をされます) 6、給与は月に50000円頂いています(食事は三食寺で頂き、寝るところは幼少の時の部屋があります) お寺には貯蓄はなく、借入金もあるそうです。(総代さん曰く) 親子とは言え、出家した時点で親子でなく子弟であり、僧侶として師匠と弟子との関係は絶対であるという認識でいます。しかし、上記の理由など疑問に思うことが多くここのところ悩んでいます。 師匠の僧侶としてのあり方に異を唱えることは果たしていいことなのか? それとも、黙って反面教師としてでも仕えるということが進みべき道なのか葛藤しています。 ことあるごとに、「だれがここを継いでもいい」と後継はお前で無くともということをちらつかせています。今まで一度も反論したことはありません。 恥ずかしい話し、仲間にも顔を合わせて聞けずにいます。 どうすべきなのでしょうか?
先日祖父の十三回忌がありました。お坊さんにお経をあげていただいている時に奇妙な景色が頭の中に流れてきました。 どこか分からない場所を、お遍路さんが持つような長杖を支えにして祖父が歩いていました。祖父の顔は遺影よりも若く、少し苦しそうでした。 死後の世界とは苦しいものなのでしょうか。それとも供養が足りないから祖父は苦しんでいるのでしょうか。ただの幻覚ならいいのですが状況が状況なので気になります。
仏教は、決定論を支持しているのですか? それと、お坊さん達は他宗教徒の方々についてどう思っているのですか?
いつも有難うございます。 本日、御住職様から、私の戒名を頂きました。 真言宗なので、一番上に梵字が入り 『・〇〇〇〇信女位 』 を授けて頂きました。 とろろで、 最後は位号の「信女」で終わると思っていたのですが、 その下の「位」という文字は、何なのでしょうか? また、御住職様が四国のお遍路回りに行ってこられたとの ことで、 戒名と一緒に立派な「御朱印帳」を頂き、開いてみたら、 最初のページに、 私の名前と、御朱印・御寺様の御名前・御住職様の御名前など が書かれていました。 そして、この朱印帳を持って、宗派に拘らず、いろいろな御寺様を まわってみなさいと言われました。 私は「御朱印帳」を見たのも初めてでしたので、 ただ御礼を言って帰ってきてしまいましたが、 これは戒名料とは別に「お布施」みたいなものを 置いてくるべきだったのでしょうか? 世間知らずなので教えてください。 よろしくお願い致します。
タイトルに書いてある通りお坊さんが何かハマっている事はありますか? 私は多趣味なのですが、ミニ四駆、スパイスだけでカレーを作る、ドライブ、キャンプ、料理、精進料理(昨日は精進うどんを作りました)、座禅、YouTubeを見る事(こばしりちゃん、まこみな、URA-KISSが好きです)、ゲームをする事、パワースポット、将棋、オセロ、カラオケ、盆栽、古武術、手品、音楽鑑賞、映画鑑賞、野菜育て、物作り(小2年生の時に段ボールだけでパチスロ等々を作っていました。)、お茶の飲み比べ等々です。他にもあります。
浄土真宗の三帰依文に、 この身今生に向かって度せずんば、更にいずれの生に向かってかこの身を度せん という文が有ります。 度、と言うのは彼岸に渡る事ですが、これは聖道門の文では有りませんか? 極楽往生は、度とは言いませんよね?
今年は色々あって「自業自得」を身を以て体験し、胸が苦しくなる日々を送っていました それで、ネットでたくさんの情報を得て却って混乱し、苦しみを増幅させた感じです そんな中でこちらに出会い、いくつか相談させて頂き少しずつ心が軽くなっていくのを感じており、大変感謝しております それでも気持ちは常に揺らぎ、ネガティブ側に引っ張られ暗い気分に陥り、ネット内の心理カウンセラーやスピリチュアル系サイト発信者に頼りたくなってしまいます 考え過ぎなのだと思うのですが、今までに見てきた情報の殆どは「潜在意識を書き換えれば世界が変わり幸せになれますよ」という内容なので、「潜在意識を変えなければ!」という焦りが生じてしまいます 頭のどこかで「早くその方法を教えてもらい気持ちを楽にしたい」という思いがあり、飲み込まれそうになります その一方で、それらは【商売】なのだ!、という信じ切れない気持ちもあり、踏み留まっています hasunohaを知り、お坊様からのご助言やお優しいお言葉を頂くとホッとする気持ちになりましたので、仏教を学ぶことが「心の平穏」を得ることになるのではないか、と思うようになりました そこで、表題のサイトを見付けて少し読んでいますが、本当は実際にお坊様から仏教の真髄を分かり易く教えて頂き、「安心」を得たいと思っております 当家や実家に来て頂いているお坊様からは、教えて頂きたいお話しは聞けそうにありません 実家の宗派は「浄土真宗」で、主人側は「真言宗」です 仏教の根源は同じで、それを親鸞聖人や弘法大師方々のご解釈(?)によって宗派が分かれたのですか? また、浄土真宗の【南無阿弥陀仏】というお念仏は、いつでも何処でも唱えて良いのでしょうか? 上記サイトでは、「【南無阿弥陀仏】とは、無明の闇を晴らしてくださったときの御礼の念仏」とありました むやみに唱えるものではない、ということですか? お聞きしたいことが色々あって記載内容が支離滅裂ですが、要は「仏教で救われたい、平穏の心で過ごしたい、それにはどうすれば良いか」、という事をお聞きしたいのです その為には、仏教を学ばなければいけないと思うのですが、どのように学べば良いのでしょうか? 標題のサイトにも「無料メール講座」があります こういう形でも学べますか? 仏教なので、今までのように混乱に陥ることはないでしょうか?
聖書では創世記がありますが、仏教ではこの世のはじまりはどのようにできたと教えられているんですか?
授戒会では何をやるのですか?また、受けたら何が起きるのでしょうか?
いつも有難うございます。 「逆修」で生前に戒名を授かることになりました。 (真言宗です) 戒名を「逆修」で授かったかどうか、 御坊様から見て判断できる点がありますか? 死後に授かった戒名と特に変わりは無いですか? 今度の日曜日に自分の戒名が分かるのでドキドキです。 本当は「慧」という字を入れてほしいなと思っていたのですが、 ご住職様から、入れてほしい字はあるかと聞かれなかったので、 自分から入れてほしいとは言えませんでした。
私は家が曹洞宗の息子です。 大悲心陀羅尼というお経ですが ネットで曹洞宗青年団というサイトでは 聖観自在菩薩よ と訳されています。 しかし、他のサイトでは 千手千眼観世音菩薩という説明がほとんどで 千手観音についてのお経と思っていましたが 実際はこのお経はどの菩薩様についてのお経ですか またこの功徳は、私たちが生きる上で内を伝えているのでしょうか? よろしくお願いします。
お坊さんは毎日精進料理を食べているイメージがあります。 思ったのですが、お坊さんの食事って精進料理だけなのかな?と。 肉や魚を使わないレシピがたくさんあるのですが、「精進料理」をネットで調べるとたくさん出てきたのです。すると中華料理や素麺、異国の料理等々がレシピに現れました。 お坊さんはカレーとか中華料理とか肉や魚を使わない料理は食べているのでしょうか? お坊さんは何を食べているのかが気になって質問してみました。 あと、和菓子とかは食べますか?
私が仏教の入門書で最初に目にしたのは「仏教の目的は輪廻転生からの解脱である」ということでした。 外国の仏教では輪廻転生が信じられていますが、日本の仏教ではその話は殆どおこなわれていません。 その理由を知りたいです。死に対する最も重要な事項だからです。
非我説(無我説)と仏陀の否定した我見について、差異が知りたいと思います 因果論も関わるかもしれませんが、私は「生き物は縁によってその在り様を生じる」と見ています そしてその見解は基本的に「仏教の見解と一弦する」と思っています しかしこの「生き物は縁によってその在り様を生じる」と「五蘊が我である」と言う「我見」は非常に親和性が高い様に思います そして、「我見」は仏陀によって否定されています 「行為」としての戒めであれば「我見を否定する」のもなんとなく分かるのですが(丹下さんありがとうございます)、 「事実はそうではないからそう見てはいけない」だとすると「え?それだと事実五蘊が我なのでは…?」となってしまいます あくまで仏教は実践宗教であって、真理や真実を追い求める様な科学や他の宗教とは違う、 とすれば、私がそもそも勘違いしていただけなのですが、仏教が余りに優れて科学的(妄想的な所が少なく真理と真実を良く見通している)せいもあってか、 特に「我」と「因果」については「真理や真実」の話だと思っている部分があります この件についての誤りについて教えて頂ければと思います この見方についての補足ですが、 そもそも私の仏教に対する興味がそう言った真理や真実からであったせいがあると思われます もっと言うと「正しいからそれをしてよいしそれをした方が良い」みたいな感じですね 恐らく悟りについても私の中ではそのような物だと思います 「悟れば苦しくないよ」と言われて「じゃあ苦しみたくないから頑張る」と言う領域ではないのだと思います 「善くなる」の「善さとは何か」とかそう言った部分はさておき「少しでも善くなりたいだけなら図書館にでも行きなさい」と言われたら、図書館に行ってしまうような状態ですね 仏教が一般的な意味での善悪からは外れた彼岸にあるのは分かっているのですが、ただ己の為にそこに辿り着くと言う類の物ではなく感じているせいだと思います
こんにちは。 これだけこのサイトにお世話になりながら、悟りについて良く考えた事がありませんでした。私の考え含めて質問させていただきます。 仏教の入門書だとよく「修行の完成」→「悟りを開く」→「輪廻の苦海から解脱」と解説されています。 しかし自分はこの解脱と言うか、輪廻転生が今一つピンと来ません。 生前や死後については無記とするのがお釈迦様の真意に近いと思うし、 輪廻とは一種の比喩と考えるのが適切と思うからです。 実際、輪廻を考えると色々と矛盾が生じます。 例えば虫の輪廻転生。一生無心に鳴き続けるセミ等に「善行」「悪行」などあるのでしょうか?善行を積んだセミが高次の存在に転生し悪行を積んだセミがさらなる悪趣に落ちるのだとしたら、誰がそれを判定するのでしょうか? そのような超越的な存在(判定者の類)は仏教では否定されるのではないでしょうか? となると、悟りも輪廻転生を前提にしている限り、よくワカラナイものになってしまいます。 悟った覚者は転生せず、凡夫が転生する・・・のでしょうか? だとしたら悟ったかそうでないか判定者がいる事になります。 (ここでまた超越的な判定者の問題にぶつかります。) 悟りによって体質と言うか、魂(?)の質が変わるとでも言うのでしょうか。 じゃあ輪廻とか死後が無記なら、結局「悟り」て何なの?って話になって 頭の中ぐるぐるで何だかよくわかりません。 こんな考えって戯論でしょうかね? お考えを教えて頂ければ嬉しいです。