いつもお世話になっております。 私の古巣、浄土宗の教えには「法然上人の厠念仏」の話が 伝えられています。 時間がなかったら、または思い立ったら、トイレで用を 足しながら、お風呂にかぽーんと浸かりながらお念仏しても バチは当たらない、むしろ尊い、といった趣旨だったと思います。 ですがこれは「念仏」の場合であって、真言や陀羅尼、 偈頌や宝号はどうなのかしら?と疑問が浮かびました。 カップラーメンや煮炊きの番、 または体幹トレーニングで一定の姿勢をキープするのに、 ただ数えただけでは気が遠くなって続く気がしない! そんな時に、 「のーまくーさーんまーんだーばーざらだーん…」 「なーむみょーうほーうれーんげーきょーう…」 などとお唱えしたら失礼でしょうか? 喉の鍛錬も兼ねたいので… お知恵をお貸しいただければ幸いです。
お忙しいところ失礼致します。 お聞きしたいのですが、お坊さんや、お上人さんは、生年月日を聞いただけでその人の現在や未来が分かるのでしょうか。 私は大学3年の頃に原因不明の足の腫れが現れ、父と母に連れられてお寺に行きました。 病院でも原因が分からなかったので万が一にも霊障かもしれないと思ったからだそうです。 お寺にお邪魔する前に父が私の生年月日をお上人に伝えていました。 お寺に到着して、お上人が私のことについて話をし始めました。(このお上人は「なんでも分かる人」であると、父が別のお上人から聞いていました。) 腎臓や肝臓など、健康に支障がでやすいこと。性格はわがままであること。友達と長く続かないこと。また、母が恋愛について聞いた際にも「話していいんですか?」と少し鼻で笑うような感じで言われました。 家に帰ってからも言われた言葉を気にしてしまっていて、私はこれからもダメなんじゃないかと思って来たりします。 そこでお聞きしたいのですが、お寺のお坊さんやお上人は生年月日で相手のことがなんでも分かる(視える?)のでしょうか。 ネットで調べてみたのですが出て来ず、同じお上人に話を聞きに行くのもまた嫌だと思うことを言われそうで聞きに行けないので、同じ立場の方の意見をお聞きしたく、質問させていただきました。 長文にもかかわらずお読みいただきありがとうございました。
仏教に興味を持ち悟りについて考えるようになりました。 そして最近物に対する執着が薄れこだわりなどが無くなって来ました。 ですが、今まで物欲をエネルギーに仕事を行っていた部分もありそれが薄れてしまいました。お金のためではなくやりがいや人の為に仕事をしようとふうに考えたのですが、そうすると長時間の残業、休日出勤、出世競争などに矛盾を感じるようになりました。 今は自分のコントロールが難しいと感じている状態です。 どのように考えればよいのか、どうかご教示のほどお願い致します
お世話になっております。教えていただきたいのですが、この度祖父の一回忌の法事をします。その際に、お寺で法事をさせていただきます。その後はお坊さんを私の車に乗っていただいて移動し、お食事をとる民宿までいきます。 お布施として3万円を包ませていただくのですが、移動に関しては私の車を使うのでタクシーなどは利用しませんが、お車代などは必要なのでしょうか?お車代としてはお布施プラス5000円程必要とうかがったことがありますが、自分の家が車を出すのでお車代は必要ではないと思うのですが、この場合はどのようにする事が良いのか教えて下さい。
いつも回答ありがとうございます。 本日まで大学受験を受けてきました。 そして、来週合格発表です。 私は今回受かれば実質二浪で、友達と遊ぶのも控え、一昨年よりも受験勉強を頑張りました。 そして、受験勉強のために年月を費やしてきました。 しかし、いざ終わってみるとあと結果だけだって思うと不安で不安で仕方ありません。 私は今まで受験のために時間を費やしてきて受かることしか考えずにやってきたので、もしもの時のことを考えると、失望感で病んでしまいもう次こそは立ち直れる気がしません。(1年目がやばかったです。今まで以上にネガティブになってしまっていました) そして、今さっきテストを終えて、本当に不安で不安でたまりません。 合格発表まで何か私にアドバイスをくださりませんか。 また、同じような経験をされた方やその後の結果などありましたら是非おしえてほしいです。 1人で耐えきれません。 親にもなんども受験失敗してるのでこんな悩み言えませんし、適当にしか聞いてもらえないとおもいます。どうかお坊さん、よろしくお願いします。
タイトル「現実と理想の狭間で」を書かせていただいたことで、1つ疑問がわいてきたのですが… 私たち医療従事者って守秘義務がありますし、それに反したら守秘義務違反になりますが… お坊さまには、そういう罰せられるような守秘義務というか…そのようなものはあるのでしょうか? 基本的な質問ですみません。 「絶対誰にも言わないから」という学校の先生の言葉に、一喜一憂した自分の経験と、最近おきた虐待死事件と、とが頭の中をぐるぐるしているうちに思い付いた、あっ!そうだ!お寺さんは全国にあるし、もっともっと、お寺さんが子どもたちの駆け込み寺になったらいいなぁ…とか、もっともっとお坊さまに相談出来るようになったらいいなぁ…とか思ったもので。 絶対誰にも話さない、秘密は守る、大丈夫、助けてあげるから、君を救いたいんだ、さあ話してごらん… そういう流れが自然と子どもたちの心に宿るといいなぁ… と思ったりして… どうなのでしょうか…? そんなこと言ったら…私は無責任でしょうか? 分からないので… 先に謝らせていただきます… お坊さま方、申し訳ございません。
私は今、リストバンドを片手につけて悪口や愚痴を行ったらリストバンドを片方の腕に変えることを行っています。 『もう、不満は言わない』という本の内容を実践しているのですが、小林正観さんは「いくらありがとうを言っても不満をいうと帳消しになる」とおっしゃっています。 そこで質問させていただきたいのですが、愚痴や不満を言わない、または言わないように気をつけているお坊さんはいらっしゃいますか? 愚痴や悪口を言うのは仏教的にどのような影響を及ぼすかもご教示いただきたいです。 いつも本当にありがとうございます。
こんにちは。 もう3年程前の冬に、奈良の真言宗のお寺(もしかするとそのお坊さんの特定が出来てしまうかもしれないので、お寺は伏せます)に行った時のことです。 境内がとても広く、小道がとても綺麗で、私ははしゃいで歩き回っていました。 すると、目の前からお坊さんが歩いてこられて、目があった私に、合掌し軽くお辞儀をしながら「こんにちは。」と声をかけてくださいました。 でも、その時は今ほど仏教のことを知らず、悪い気はしませんでしたが、とてもびっくりしてしまい、3秒ほど固まったあと、小さい声で「こんにちは…」と言うしかできませんでした。 私が固まったのは、びっくりしただけじゃなく、そのお坊さんが纏っていたオーラに圧巻されたのもありました。 すごく綺麗な茶色のお着物に、オレンジ色の大きな?(裾まで隠れる大きさの)袈裟を着ていらして、通り過ぎたときにお線香のとても良い香りがしました。 家でお線香を焚くと、ふと思い出します。 私の知っている、黒い衣のお坊さんと全く違い、絵画や彫刻でしか見たことないようなお着物で、お顔つきも、本当に仏様のようで、とても穏やかな雰囲気の方でした。 失礼ながら、別次元の方のように思えるほどでした。 もう3年前の事ですが、そのお坊さんの出会いが、私にとって強烈な体験で、今でも忘れられません。 またどこかで出会えたら良いなぁと思います。 ここにご質問させて頂いたのは、この話を誰かに聞いてほしかったのと、どういう方だったのか、なぜそのお寺にいらしたのか、推測できる範囲で教えていただきたく、投稿しました。 袈裟の色や形によって何か立場や宗派が異なるのですか?そのお寺のお坊さんかもしれませんが、袈裟を着たまま他のお寺にお参りすることはありますか? ご回答お待ちしています。
旦那の実家がお寺です。 わたしは一般家庭からの出なので、お寺の世界にはまだまだ未熟さがあります。 そこでこの世界を知っている皆さまのお力をお貸しいただけないかと思い相談致しました。 お寺とは噂されるものですか? 小さな街なのであれやこれやを言われて、悲しい思いをすることがあります。 また、気にしない方法はありますか? 皆さまどうされているか教えてください。
今日とある祭りの星祭りに行きました。 お経を長く聞いたのですが、お経を聴いてる 時何度も寒くないのに鳥肌が全身にたちました。 なぜでしょうか?
質問ではなくお礼なのですが……。 彼女との初デートで失敗して死ぬほど落ち込んでいたときに助けてくれたのがハスノハのお坊さんです。 今は立ち直ったのですが、落ち込むときも元気なときも両方ある。 だから落ち込んだときはハスノハを頼って、今はみたいに元気なときはハスノハのお坊さんのように自分が他人のためになることをしたいと思います。 良い自分も悪い自分もどちらも大切なんだと気づかせていただきありがとうございます。 全く質問になっていませんが、お坊さんに対するお礼のコメントってどこに送ればいいのかわからなかったので投稿させていただきました。
素朴な疑問ですみませんが… お坊さまというのは、お寺さんのお家に生まれたからお坊さまの道へ進むことになった方や、お寺さんのお家に生まれていないけれどお坊さまになった方など、いろいろあって「お坊さま」をしているのだろうと思うのですが… サンタさんにクリスマスプレゼントをもらったことがないお坊さまはいらっしゃいますか? また、もしサンタさんにプレゼントをもらったことがない方がいらっしゃるなら、子どもの頃、何故、他の友達がプレゼントをもらっているに、自分のところにはサンタさんが来ないのかなぁ?と不思議に思ったことがありますか? わたしにもサンタさんの存在を信じてやまない時期がありましたので、翌日目覚めた時のワクワク感を一度も感じたことのないお坊さまがいらっしゃいましたら、理解出来るまでの間、どんな気持ちを抱いていたのか教えていただきたいなぁと思いまして… 昨日、サンタさんの形をした(と書いてある)チョコレートをいただいたのですが、私には、どこからどう見ても、モコモコのお髭をはやした仏様に見えてしまうのです。 ベルギーのチョコレートなのですが…。 一応、お菓子をいただいたら、まずはお仏壇にお供えしてから、という風にしているので、一応、いつも通りお供えしてみたのですが…15個入りのサンタさんのチョコレートが、15体の仏様みたいで、「なんだこの景色は!」みたいになっているのです。 今夜は恵方巻を食べる予定で、今月はバレンタインデーがあって、クリスマスでもないのにサンタさんがいて、でも15体の仏様にしか見えなくて… 家の中が騒がしい… その仏様みたいなチョコレートを見ているうちに、ふと、お坊さまの世界にサンタさんが存在していた幼き過去があるのかな、全くないのかな、という疑問がわいてきまして、それなら教えていただけたらなぁと…。 宜しくお願い致します。
少し突飛な質問かもしれませんが…… 現在訳あって、縄文土器や、古い農具や民具、道具類(江戸時代~昭和)が大量に飾ってあるところで、1日の大半を過ごしています。 ですが、そういう古い「物」に、人の精神を不安定にさせたり、運気を下げたり等の悪影響ってあったりするのでしょうか…? 仏教的な立場や考え方の中では、昔の人たちが使用していた古い道具って、どういう位置づけがなされうるのですか? 大切にすべきものですか? いち早く手放すべきものですか? 使い古された道具は、生きている人間に何か影響を与えるものなのですか? 幽霊がいるらしい、と噂されるほど建物自体も古いので、そもそもの環境自体が精神的に悪影響を及ぼしたりすることってありますか? また、今度、髪が乱れていたり、装飾が破損している古い雛人形(怖い)を6セットほど物置から取り出さなければならず、少しドキドキしています。 古い人形を取り扱う際の心構えなども、アドバイスいただけると有り難いです。 この場所で過ごすようになってから、精神的に不安定になることが多発しているので、 ついつい「土器のせいでは(笑)」と精神的不安定さの原因を物になすりつけてしまいます。
去年からの数ヶ月の間に、数名のお坊さんに出逢いました。 hasunohaのお坊さんにも話を聞いてもらい、 親切にしてもらって、励まされ、背中を押してもらって、たくさんの愛をもらい、少しずつですが、自力で前に進めるようになりました。 感謝してもしきれないくらいです。 なので、微力ながら、恩返しがしたい、役にたちたいと思いました。 直接お坊さんに聞くのは、どうかなと思ったのですが、何かできることは、ないでしょうか??
仏教には様々な逸話がありますが、阿修羅像の逸話についてずっと気になっていました。 逸話を端的に言うと「阿修羅の娘を帝釈天が無理やり連れ去り、激怒した正義の神・阿修羅が帝釈天に戦いを挑むも戦闘神の帝釈天には到底敵わない、そんな中で娘は帝釈天を愛し妻になる、戦う必要がなくなったにも関わらず怒りに我を忘れ戦い続ける阿修羅」 初めて見た時は結果オーライか⁈ なんだそりゃ‼︎ と思いましたがこの逸話の言わんとすることはよく見かける解説で 「阿修羅は怒りで自分を忘れ、戦いに目を奪われて、すでに娘が帝釈天の正式な奥さんだったのにも関わらず、相手を赦す心を失っていました。たとえ、正義であってもそれに固執すれば、善の心を忘れ、妄執の悪・復讐の鬼になってしまいます。過去を水に流し、人を赦すことは大切なのです。」 とあり理解出来るとこもありますが、この逸話を初めて見た時はいくら例え話しだとしてもこの話しを納得することは犯罪を容認するようで、なんとも気分が悪くこの逸話を簡単にそうかと理解するのは無神経なようでずっと引っかかってました。 程度は違いますが私の毎日はずっとこの引っかかっりです、私の煩悩が怒りなのか杓子定規な正義への固執なのか、両方ですかね? ここから質問なんですが、この逸話の中で娘が帝釈天を愛し娘に関してはある意味で結果オーライですが、実は最悪娘は帝釈天に連れ去られた後に殺されたとしてもこの逸話の言わんとすることは同じ(憎しみの先に救いはない)ような気がして、結果オーライはまだましな話しだったのかなと最近思うようになったんですがどうなんでしょうか。 上記とは違う解説等ありますか。
辛いことが、たくさんあって、独りで、泣いて生きてきました。 辛さに耐えられず、死のうとして、夜に高い場所に行った事もあります。 (お巡りさんに見つかり怒られました。) 無意識に呼吸をしないときもあります。 私は、どうして生きているのか。悩んでいました。 ある日、テレビで、お坊さんの本を紹介していたので、人は苦手ですが(苦手過ぎて震えます)、お坊さんだけは、何故か平気だったので、本に載ってたお坊さんに会いに行き話を聞いてもらいました。 SNSで、知り合ったお坊さんにも、直接会い、色々相談させてもらい、励まされ、応援してもらい、世の中には、こんなに優しくて、親切な人がいるんだなと思いました。 独りで、立ち上がれずにいた時に、生きる力を、心の安心をもらえました。 感謝してもしきれないほど、救われました。 今でも、私のほしい言葉をくれます。 めぐり逢えて本当によかった。 生きていてよかった。 生かされてきてよかった。 そう思いました。 大好きな存在になりました。 心の支えになってくれる存在(私が勝手に支えにしてます。)がいると、精神的に強くなれた気がします。 優しくしてもらった分、 お坊さんのように、私も微力ながら、人に優しくできるよう、役にたてないか模索中です。 子供の頃からですが、私の中で、何故こんなにお坊さんが、特別なのか良い存在になってるのか?わかりません(´・ω・`) 気付いたら、安心安全な存在になっていました。
正信偈を読んでいて疑問に思ったことを質問します。 1) 仏様の師弟関係は、世自在王、法蔵菩薩、釈迦如来の順だと思うのですが、世自在王は何をしていらっしゃるのでしょうか?阿弥陀仏のように浄土をお持ちなのでしょうか?世自在王を御本尊とする宗派はありますか? 2) 釈迦如来は、今、どこにいて何をしていらっしゃるのでしょうか?阿弥陀仏のように浄土をお持ちなのでしょうか? 3) 「釈迦の前に仏なし、釈迦の後に仏なし」と言われ、地球上で仏の悟りを開かれたのは釈迦牟尼だけと聞きましたが、法蔵菩薩は人間の世界から出た方ではないのですか? 法蔵菩薩は国を捨て王位を捨てて出家されたそうで、お釈迦様のようにこの地球上の国王であったような気がします。 勉強不足の質問ですが、よろしくお願い致します。
お釈迦様は親から虐待される子供になんと仰っておられますか。また、子供を虐待する親のことはどのように仰っておられますか。 また、宗祖のお坊様など過去にいらっしゃった高僧の方々で、虐待について書いたり言われたりなさったものはありますでしょうか。 親への愛着を持ちながら親から虐められる子の苦しみはいかばかりかとよく考えます。現代では親子愛が称揚されることしきりですが、慈悲の心を欠いた親もいます。
以前テレビで島田紳助さんが以下のように述べていました。(ブログからの抜粋です) 「仏教っていうのはね、自分のための拝む人へのもの。 両手を合わせた瞬間に、自分の心の中が穏やかになる。 そこに極楽が生まれんねん。例えば、あーもうムカつくわ、競馬まけた博打負けたから墓参り行こうって思う人はいないのよ。心が乱れてるから墓参り行こうとは思わない。ある日、ふとあ、長いこと行ってないな。お墓参り行こうか。と思う。その、お墓参り行こうか、と思った時、自分の心が穏やかになる。その瞬間、心に極楽が生まれんねん。だから、お墓参りの行為自体よりも、行こうと思った時の穏やかな心、それが大事なの。仏壇だってね、仏様が中にいるけど、あれは職人さんか誰かが木かなんかを彫ったものだよ。所詮。もしあれがほんとに仏様なんだったら、供えてある花も、仏様の方を向けて供えなくちゃいけない。でも実際はそうなっていないでしょ。向こうからしたら、花の裏、葉っぱの裏しか見えないよ。拝む人に向かって、拝む人の心に向かって供えてあるから。だから仏教っていうのは、心の中、拝む人の心の中に極楽があり、仏があるという教え。」 私はこのような考えに感銘を受けました。実際、極楽というにはこのようなものなのでしょうか?お坊さんたちの意見が聞きたいです。
今も、心の支えとして仏さまのお人形を持っています。 これは信じる心ではないんですね。なんだろう……持っていたところで何も奇跡はないけど、自分が少しでも変われたら嬉しいです。自分を変えるのは難しく簡単にできたらみんな苦労しません。これからは、「自分の取扱説明書」というのをつくり、自分の決めたことはやりとげることを続けたいです。 別の話になりますが、今でも心に乗っている「痛いこと」は、太っていることに恥ずかしくないの?と言われたことです。自分が痩せたことは一度もないし、食べるイベントてきなものがあるとそれに流れて乗ってる自分……好きなことで頭一杯にすれば少しは、楽なのになーと思っています。