キリスト教を、信仰してます。 12才の、時から孤独で、親にもあきらめられ、 酒と堕落の日々を、送って参りました。 22才ごろの時に、転機があり、山に籠り、神仏に、祈り始めました。 その後、数奇な、運命をたどりました。 仏教に興味があります。ハスノハ様の、お坊様には、アドバイスを、沢山頂きました。 悟りとは、なんですか? 真言、カルマ、神仏と言うもの、なんとなく、解ります。 キリスト教は祈りによって、解決します。 仏教が、あらゆる全ての、解らないもの、についての、答えがあるのでしょうか? 私は今公的扶助の、恩恵に預かってます。 仏教の、軽い本を、読みましたが、当たり前のことを当たり前にする事、が、一番納得できました。 放送大学を始めようと思います。仏教についてより良く、学ぶことは出来るのでしょうか? ご助言をおまちします。
私は海外に移住していて、家にお仏壇がありません。日本に帰ったときに小さなものを購入したのですが、それでも大きすぎて持ち帰ることができず、まだ実家にあります。 日々の勤行をしたいのですが、お供えやお経を読む対象がありません。如来さまの仏画をプリントアウトして、自分なりに簡易仏壇のようなものを作ってもいいものでしょうか? 勝手にそんなことしたら、バチが当たっちゃいますか? あと、身内の多くがまだ健在なのに、仏壇を設置したら縁起が悪いと親に言われちゃいそうだな、とも思っています。笑 ご意見をお聞かせください。よろしくお願い致します。
「回向」と言うのは、どういう意味なのでしょうか?
いつもお世話になっています。 日々のご回答に感謝いたします。 質問者の方々が励まされ心情に変化をもたらし心が好転していることが伺えます。仏道を志す者としても嬉しい限りです。 在家ですが、日々坐禅を行って心の清浄に努めています。 多くの質問者は、他人の質問を読むことでも勉強になっていると思います。 「苦」を観察しました。 我々は見るものであると同時に見られるものです。我々は現象を観察するものであると同時に観察される現象そのものです。 いつも主体と客体という目線でしか観察できていませんでしたが、己を客体として観察すると、己は他人(=現象を見ている主体)から見れば「客体」であって、見られる現象そのものです。 現象は諸行無常であり縁によって起こっています。この世は、全てが縁によって起こっているので恒常不変の「我」など無いので無我であり管理や制御のできない世界に生きています。 現象は常に未知であり無常であり無我であるゆえに実体のない蜃気楼か幻想のような実体のない「空・無」です。この身体や五感も現象であって、無常です。この世は、一時的な現れの現象が連続で展開されているだけでしかありません。 己に視点を移すと、我々は未知なる一瞬一瞬の刹那を体験してるだけです。この幻想の「世界」では掴むことのできない「空・無」を一生懸命につかもうとしています。しかし、己の頭の中では「現実」として展開されていて掴めるものと思い込んでいます。できもしないのになんとか掴み取ろうともがき苦しんでいます。しかし、叶わないので「苦」となっていると思います。 存在していない仮想の「わたし=無我」を使って、掴むことのできない世界で掴もうとする「渇愛」がありつづけます。「渇愛」を消すこともできずに「苦」のままに生かされています。 我々は、楽で「苦」をカバーしきれなくなり、「苦」に耐えきれなくなるようです。やり場のない怒りや憤りが募り、仏道に拠り所を求めるようになっているのでしょうか。「苦」を認識することによって仏道に入っていくなら、「苦」は避けるものではなく直視しなければなりません。「苦」は消滅できると証明されたのがお釈迦さまでありその道が仏道であると日々感じています。 お坊さんのますますの活躍をお願いいたします。
恁麼の道理なるゆえに、尽地にて万象百草にあり の、意味を子供にわかるようにせつめいするには適切な言葉はありますか? よろしくお願い致します。
YouTubeで、お坊さんの怪談話の動画を観たんですが、怖くて最後まで聞いてられませんでした( ;∀;) 他の話なら面白くて、楽しいからいつまででも聞いていられるのに。 お坊さんて何でそんなに、話をするのが上手いんでしょう・・・。 私が下手すぎるだけなんでしょうか。 怖いなら、怪談話なんて、見なければいいのにって思われるかもしれませんが、見てしまいましたΣ(ノд<) くだらないこと言ってごめんなさい
いつもお世話になっています。「金剛経5章」の勝手な考察です。お坊さんからのヒントをお願いいたします。 我々凡夫は、如来であるとの確証を得た(=如来は凡夫にとって価値があるということを知った)後に、如来を探し出せるような特徴を必死に見つけ出します。如来(=価値がある存在)と確証する前は如来でも何でも無いので特徴など詮索しません。探す目で見ていないので特徴はあっても特徴は認識できないので特徴はありません。特徴があるとは、気づいた後に作り出すものであり前には特徴はありません。 誰かが発見する前から重力や浮力は存在していて誰もが目にしています。特徴などないので気づきません。発見した人が「万有引力」やら「浮力」などの名前をつけて特徴としています。 そもそも、あらゆるものに特徴などなかったのです。人間だけに利用価値や意味があるので特徴を見つけ出します。人間以外の動物に「偽札」の特徴など知る必要はなく、特徴などありません。 動物には「言葉」がないので、臭いとかまずいとかの概念はなく本能的な反応だと思われます。我々人間も味を「言葉」にして分けていますが、親に教えられて「にがい」という味覚と経験を記憶しているだけです。 特徴があると断じても、諸法は無我であるので縁によって以前の特徴がいつまでもあるわけではありません。宇宙空間での「音」の特徴は、空気という縁がないので音は振動として伝わらないので音の特徴などありません。人相の特徴ですら、三十年も経てば全く変わってしまい以前の特徴はなくなっているでしょう。 特徴がないと断じたとしても、人間が価値を認めれば特徴を必死に見つけて特徴を定義します。 「ぶどう」は房に実が鈴なりについていて、甘酸っぱくて黒や緑色をしているという特徴によって「ぶどう」と名付けられます。この共通認識によって、市場で果物として流通しています。「ぶどう」は「ぶどう」と名付けられる前から存在していました。「ぶどう」は「ぶどう」と呼ばれなくても「ぶどう」ですから、明日から「ぶどろ」と呼ばれてもいいのではないでしょうか。 特徴によって存在しているのではなく、存在に特徴をつけて勝手に思いつくままに適当な「名前」をつけているだけではないでしょうか。 結局、あらゆるものは概念と名前によって個別の存在として有るだけで本来は区別差別のない一体であると認識しました。
お世話になります。 子供にも分かりやすく説明したいのですが、何と説明すると、分かりやすいでしょうか? 以下の文です 恁麼の道理なるゆゑに、尽地に万象百草あり、 一草一象おのおの尽地にあることを参学すべし。 かくのごとくの往来は修行の発足なり。 到恁麼の田地のとき、すなはち一草一象なり、会象不会象なり、会草不会草なり。 正当恁麼時のみなるがゆゑに、有時みな尽時なり、有草有象ともに時なり。 時々の時に尽有尽界あるなり。 しばらく今の時にもれたる尽有尽界あるやなしやと観想すべし。 よろしくお願いいたします。
法然様や親鸞様は専修念仏を教化しておられますが、出家せずとも在家のままでも有意義な念仏はできるものでしょうか? やはり、浄土教系の寺院で指導を受けるべきものでしょうか? 在家のままでも有意義な念仏が可能だとすれば、どのような点が大事になるでしょうか? ご教示頂ければ幸いです。
強迫性障害があり、精神科に通院しています。 お寺や神社を通る時に極度に緊張してしまいます。仏様に対してのひどい言葉などが頭に浮かんでしまうことが多くあります。 祖母の3回忌がもうすぐお寺であります。 私が悪いことを考えてしまうせいで、祖母の成仏に関係するのではないか等、とても心配です。 私は3回忌に参加してよいものでしょうか?
千手観音像は実際手が千本ない仏像が多いのにかかわらず、唐招提寺の千手観音像は手を千本(真数千手)造ることができたのか、、、 、教えてください…
おはようございます。質問に戻ってきてしまいました。余裕のある時に、よかったら教えてください。 智慧の意味を人に訊かれてとっさに自分なりに理解している範囲で説明してしまったのですが、あれでよかったのか気になって、ここで確認させていただきたいと思いました。 「智慧とは、自分の主観を介さずに物事をありのままに見ること。事実をそのまま捉える心の目を持つことであって、頭が良いという意味で知恵があると呼ばれるのとは違う」。 これでいいでしょうか。違っていたら人にごめんねと言って直せばいいだけのことなのですが、本を読んだりしてきてもう全くの「初心者」という程ではないので間違えていたら私は少し恥ずかしいです。
如来のモデルは釈迦である。と、授業で習ったのですが釈迦はこの世界でたった1人の存在であるのに如来には複数種あるのでしょうか。中には釈迦如来もあり頭が混乱してます。教えていただけますか?
木心乾漆と脱活乾漆の違いとそれぞれのメリットデメリットを教えてください!!
いま訳あって賽の河原について調べております。 そこで質問させていただきたいのですが、 ①賽の河原の考え方はどの宗派のものでしょうか。また、子供たちは河原で仏塔を組むことによって功徳を積むと聞きましたが、仏塔を組んで功徳になるというのはどの経典に書いてあることでしょうか。 ②またそれと合わせてお聞きしたいのですが、閻魔様による裁判というのはどの宗派の考え方でしょうか。またその際、地蔵菩薩が弁護人のような立場になってくれるというお話を聞きましたが、それは間違いないのでしょうか。 仏教のことには明るくないので、ズレた質問でしたら申し訳ございません。 ご回答いただければ幸いです。
夫は、日本で働く外国人です。 今回、漢字圏の国と仕事をする際、書類に名前を漢字表記しないといけない場面がありました。今回は職場の人に、あて字をしてもらいましたが、次回のために、きちんと、よいご縁に繋がりそうな漢字を、御坊さまに考えていただくことはできるでしょうか。 ご回答、ご指導、よろしくお願いします。
カクヨムなどの小説投稿サイトでムトウゲンジ名で人間の真理の考察しております。 とりあえず自分の行き着いた人間の真理が仏陀に近い事は理解しました。 仏陀もまだ甘いですがね。 そこで質問。 仏陀は死んだ後とかそんな事は教えてないよね? 人間が人間として生きる道を説いていた。 どう生きたら良いかを説いてました。 生きていくための道をですよ? なのに念仏唱えりゃアータラコータラ。 極楽だ浄土だ。 昔の高僧が栄養不足の睡眠不足でトリップした妄想を大事に残してこれが仏の教えとか仏陀をバカにしすぎてないですか?仏教全般。 仏陀が生きていたら仏教の信者に助走うつけて殴り付けるレベルまで落として仏陀の教えバカにしまくり。 本当にそれにすら気が付かないぐらい何も考えないのが修行なんですかね? 悟りの境地ぐらいあちこちの人がしてますよ。 アインシュタインから宮本武蔵、今はイチローと下手したら江頭2:50もね。 昔のシリアルキラーもしてた可能性高いのはいますね。 仏陀が半端な知識なため善人しかできないと思っただけで。 自分も到達しましたしね。 さて? 仏教なんぞしてると悟り開くのは無理なのになんで悟りだのなんだの言葉を使うか知りたい。
お上人方にご相談です 私自身は、寺の長男一人っ子として生まれで父が実父であり師匠となっています 父は、都会の檀家1000件の大きなお寺の三男として生まれ、修行はどこへも行っていません。人の紹介があって、今のお寺(地方寺院、檀家200件)に婿にきて私が生まれました。 先代(私の祖父)はもう20年前に亡くなり、父が新住職として主導しております。 私は、幼い頃から父とは親子仲はよくなく、高校卒業と共に大本山の小僧として入り、その後、父から「うちにはお前の給与はだせないから、他で勤めなさい」と言われ、昨年末まで都会のお寺で勤めさせて頂きながら、そこのご老僧に配慮を頂き宗門の修行はすべていくことができました。(費用は寺から出なく自費で出だしてきました) 昨年末、勤め先のお寺もご老僧から若上人へ代が変わり私も仕事が無くなり、言わば退職となり、自分の年と両親の年など考え、正月から実家の寺に戻りました。 僧侶となってはじめて、師匠と一つ屋根の下で暮らし始め、いろいろ気づくことが増えてきました。 1、お寺のお金をおよそお寺の活動とはほど遠い趣味の分野としてお金を使っていること 2、お経を法事葬儀以外朝夕のお経などを一切あげない、本堂にすらはいらないこと 3、風俗へ通っていること 4、母への暴言 5、私には仕事はさせないこと(することもないので、自費でゴミ袋と箒を買って掃除をします。それも嫌な顔をされます) 6、給与は月に50000円頂いています(食事は三食寺で頂き、寝るところは幼少の時の部屋があります) お寺には貯蓄はなく、借入金もあるそうです。(総代さん曰く) 親子とは言え、出家した時点で親子でなく子弟であり、僧侶として師匠と弟子との関係は絶対であるという認識でいます。しかし、上記の理由など疑問に思うことが多くここのところ悩んでいます。 師匠の僧侶としてのあり方に異を唱えることは果たしていいことなのか? それとも、黙って反面教師としてでも仕えるということが進みべき道なのか葛藤しています。 ことあるごとに、「だれがここを継いでもいい」と後継はお前で無くともということをちらつかせています。今まで一度も反論したことはありません。 恥ずかしい話し、仲間にも顔を合わせて聞けずにいます。 どうすべきなのでしょうか?
先日祖父の十三回忌がありました。お坊さんにお経をあげていただいている時に奇妙な景色が頭の中に流れてきました。 どこか分からない場所を、お遍路さんが持つような長杖を支えにして祖父が歩いていました。祖父の顔は遺影よりも若く、少し苦しそうでした。 死後の世界とは苦しいものなのでしょうか。それとも供養が足りないから祖父は苦しんでいるのでしょうか。ただの幻覚ならいいのですが状況が状況なので気になります。
仏教は、決定論を支持しているのですか? それと、お坊さん達は他宗教徒の方々についてどう思っているのですか?