hasunohaで善因楽果・悪因苦果との説を目にしました。善因善果・悪因悪果ではなく、本来はこちらが正しいとのこと。 善因楽果・悪因苦果とは、善い行いをすれば自身の心が報いを受けて、楽(幸せ)を感じられる。悪い行いをすれば自身の心が報いを受けて、苦悩という形で返ってくる、との内容であったかと。 衝撃でした。まさしくその通り、なるほど納得、目から鱗。今まで善果・悪果説に疑問を感じていた事が全て合点。 しかし、善果・悪果説もこれだけ広く一般に知られているのだから、全くの間違いとも思えず。別の説が形を変えてそのように言われるようになったのでしょうか。 もしかすると、宗派によって言い方が違うだけなのでしょうか。 それとも言い方が違うだけで、どちらも同じと考えてよいのでしょうか。 ご教授下さい。よろしくお願いします。
こんにちは。最近受験で落ちて少しだけ休憩しようと思って、小説を読み始めました。中国の作家が書いた、天龍八部という本を読んで、中の住職さんたちはいつもちえのある言葉を言っているのを読みました。そして心がすっきりして、受験で落ちて悩んだ気持ちも少し穏やかになりました。 最近 人間関係でのイライラがスーッと解消する方法という お坊さんが書いた本も読みました。本当に、すごかったです。 そして前にもここのサイトを通じてお坊さんたちに質問して、なるほど!と思わせてくれた答えをいくつかくれました。本当に有り難いと思いました。 本とハスノハをきっかけに、仏教に興味を持ち始めましたが、何かオススメの本や映画などの、私みたいな仏教を全然知らなかった人にもわかる本はありますか。あったら教えてください。
父方は浄土真宗、母方は浄土宗、当人はキリスト教カトリックという宗派宗教ごちゃ混ぜのからすたろうと申します。また、ご縁があり法相宗薬師寺に何度かお世話になっています。(ややこしくてごめんなさい。) 昨年、母方の祖父と父方の近い親戚が亡くなったことから仏教に興味を持ちはじめ 法相宗薬師寺にて少しながらご奉仕をさせていただいたりしています。 法相宗では般若心経を1日に何回も読経するので自分にとって般若心経は暗唱できるほど一番身近なお経です。奉讃文に 「神前にては寶の御經、佛前にては花の御經。 況して人間の爲には祈念祈禱の御經」(引用) とあるように祖父(浄土宗)の仏前では読経させていただいています。 さて、父方の仏前でも親戚一同からお前の読経は声が良い。染みる。なんて囃し立てられまして何度か般若心経読経させていただきました。 しかし、先日 浄土宗のお坊さんとお話ししていましたところ どうやら浄土真宗は般若心経と教えが違い般若心経は上げないと教えていただきました。父方の親戚の仏前にてお唱えしてしまったことを申し訳なく思っています。 ・やはり、浄土真宗の仏前にて般若心経をお唱えする事は避けたほうが良いのでしょうか? ・浄土真宗の仏前にてお唱えするときは何というお経が良いのでしょうか? ・浄土宗では南無阿弥陀仏を十念4+4+南無阿弥陀仏+南無阿弥陀ぶー とお唱えしますが、浄土真宗では「なんまんだぶ」と聞こえます。どのようにお唱えすれば良いのでしょうか。 長くなってしまいましたが3点、よろしくお願いいたします。
前回の質問にて、浄土宗の三宅章聖様にお答え頂き。元々無神論者でしたが、【仏教】に興味が湧き、色々と調べてみました。 各宗派、色々な僧侶の方が居られる事。 各宗派、様々な教え、導き方がある事。 この歳でようやく、ほんの少しだけですがわかってきました。(気がする?) そんな中、一人のお坊様に興味が湧きました。 そのお坊様は、 【散る桜 残る桜も 散る桜】 と詠われたそうですが、、 これを見た時。言葉では表現できぬビリビリっと不思議な感覚がありました。 人間ってのは、全て等しく【寿命】という致死率100%の大病に冒されてるんだよな……と、改めて思いました。 儚いですよね……。 そもそも、この【儚い】(はかない)という言葉 これも、漢字の構成は 【人の夢】 …… 我々人間なんぞは、そもそも存在自体、地球規模で見た時には必要さえ感じれぬ矮小な存在です。 改めて曹洞宗のお坊様。聞きたいのですが、、 なぜ、良寛禅師は、楽して暮らせるはずの家から苦行(俗人から見れば財を捨てた世捨人?)を選ぶ必要があったのですかね? 良寛禅師はなぜ曹洞宗を選ばれたのですかね?
僕は真言宗豊山派の信徒です。真言宗のご本尊様は大日如来様ですが弘法大師様は全ての仏様は大日如来様の化身だと教えておられます。また。豊山派の祖である興教大師様も浄土信仰を取り入れ新義真言宗を興されました。 我が家の仏壇には弘法大師様御真影と善光寺さんで頂いた善光寺如来様を祭っております。豊山派信徒として弘法大師様、興教大師様の教えに沿っているのか解りません。何卒ご教示をお願い致します。 また仏壇に手を合わせる時、真言を唱えるべきなのか、お念仏を唱えるべきなのかご教示頂ければ幸いです。よろしくお願い致します。
質問、宜しくお願い致します。 私の母方は、元々お寺であったらしく、先祖代々のお爺さん、また、その上のお爺さん又 …と、皆んなお坊さんの自画像の家系図がありました。しかし、私は、今、何も信仰をしている訳では無く、この先、私が信仰を持つとすれば、どうすれば良いのでしょうか?因みに、私は、幼い時、兄からの性的虐待がトラウマになり、未だに、精神的に、立ち直れません、親にも相談しましたが、兄がしていないと言っていると、解決にもならず、私は、家族が、嫌いで、お墓参りも行っていません、この家に生まれなければよかったと、心底思うのです。話が、まとまらず、申し訳有りませんが、宜しくお願い致します
お坊さんは怒ったり、嫉妬したり、だれかを嫌いになったり、ぜんぶめんどくさくなったり、悲しくなったり、頑固になったりするのでしょうか。 私は時々、煩悩まみれの人間であることがいやになります。
可愛がっていたハムスターが死んでしまいました。 病気に苦しみ、痩せ細りながらもガッツ溢れる子で、いつも走り回っていました。 せめて死後は病気から解放され、安らかにいてくれたらと願うばかりです。 恥ずかしながら私は仏教について全く無知なため、動物の死後について調べてみましたがよくわからず不安になってしまいました。 ハムスターなど動物も救ってくださる仏様はいらっしゃるのでしょうか?私の大事な家族が今救われているのか、心配でたまりません。よろしくお願いします。
檀家です。正確には実家のお墓を守っています。 この10年で4人見送りました。 最近、ご住職とのお付き合いの仕方が分らなくなりました。 昨年お寺に伺う際に時間に遅れ、ご住職にご迷惑をお掛けしてしまったことから、態度が厳しく変わられました。4人見送り漸く自分の時間が取れるようになったとは云え、私は更年期という年齢のせいか体力のせいか、何事もまだ休み休みといった態です。傍からみれば只の怠け癖に見えたのだと思います。時が経てばとも考えていましたが、法要の際も、お彼岸の際も、その後はご住職にまともに取り合って頂いたことがありません。私はお寺さんの望むような檀家ではないでしょうが、お彼岸のお墓参りの際には必ずお布施を納めています。 昨日、新年のご挨拶とお年賀、お布施と年会費の納付に行った際も、本堂に入られたままでした。お正月と云うことで主人と参りましたので、主人の家の親しみやすいお寺さんとの差に彼は驚いていました。 私の親戚は少ないですが、これから先も未だ何回も法要も続けて執り行わなければなりません。こんな様子では正直お墓参りですら気が重く困っています。春先に法要を控えているのですが、考えただけで気が滅入ります。お寺は気軽に行くような場所ではないのでしょうが、足が重くなっては元も子もないと思います。どうしたら良いのでしょうか。このまま機械的に必要な際にはお寺に向かい、お布施をし、と云うことで割り切った方が良いのでしょうか。 宗派は日蓮宗です。相談窓口のようなところがあれば教えて頂けると助かります。
初めて質問致します。 11年前に父を亡くし、昨年母が亡くなりました。父母ともに生前、特に入信していた宗派は無かったため、父が亡くなったときには葬儀社にお任せして『浄土宗』で葬儀を執り行いました。戒名・お位牌も家の近くの浄土宗のお寺さんで頂戴し、お墓を公営墓地に建て開眼供養の読経をして頂きました。その後の法要・お彼岸もすべて宗派は浄土宗で行っていますし、母の葬儀も家の近くの浄土宗で行いました。父が亡くなったときに家に保管してあった小さな仏壇に色を塗り父母ともにお位牌はその中に入れてあります。昨年母が亡くなったときにご本尊が仏壇にないのは良くないと思い、最近小さな弥陀三尊立像の彫り物を購入して仏壇に納めました。両大師様掛け軸もその下に飾るつもりでいます。南無阿弥陀仏のお念仏は定期的ではありませんが、唱えています。 前段が長くなりすいませんが、一つ心に不安があります。父が亡くなる随分前に、もし自分が亡くなった際には読むように、と封筒に入れた書簡を、実は私は預かっていました。父が亡くなって数か月後、その書簡が出てきて内容は「できれば『真言宗』のお寺さんで葬儀をして欲しい」との内容でした。そのときは、亡くなった父に「申し訳ない」程度の感覚で済まし、今まで父が亡くなった後はずっと私は阿弥陀様を尊んでおりましたので、さほど気にしておりませんでした。ところが昨年母が亡くなった際に遺品整理をして思い出したのですが、以前母が小豆島に私と旅行に行った際、フェリーの中の弘法大師様に何度か合掌していた姿が思いおこされ、また、父母の毎年の初詣は成田山新勝寺へのお参りだったことを思うと、両親の意思に反していることをやっているようで心が痛みはじめてきております。 父母の戒名も浄土宗で頂いておりますし、私自身としても、今となって浄土宗から宗派を変えることは考えたくありませんが、ここへきて父母に対し一体何を語ればよいのか、何かしてあげなければならないことがあるのか、思い悩んでいます。宗派をこえた質問となってしまいますが、ご助言戴ければ有難く存じます。
次郎長親分が山岡鉄舟に悟りとは?と 問いました。 山岡鉄舟曰く「精神満腹」と返したそうです。 その精神満腹になるにはどうしたら良いでしょか?
先日、パートナーに連れられて念佛宗という宗派のお寺の無量寿寺という所へ一般参詣で参加してきました。 広大な敷地に煌びやからな装飾に圧倒され、更にはこの建造物は韓国の人間国宝が制作した、今まで各国の要人が訪問して仏像を奉納したなど自慢とも取れる内容の説明が多く、これまでの仏教に対するイメージが良くない方向に傾きました。 これまでの物を建築するのにいくらかかってそのお金の出所は。 調べてみると入信するのにも40万近い御布施をし、毎月二千円ほどの支払いをしなければならないが他の宗派もそうなのか。 私のこれまでの考えによるものでは金額は御布施する側によってその多寡が決められるものであるし、決して宗派から金額を明示されるものではないと思ってまいりました。 そして念佛宗こそ仏教の総本山であり、幸せの答えはここにある、極楽浄土にも行けると断言されておりました。 上記の事から私の不信感は強くなり、帰宅後パートナーと話し合い今後どうすれば良いのかわからなくなりました。 近い将来、結婚も真剣に考えていただけに一晩中話し合っても答えは出ず。 私としては確信がないもののこういった布教活動をする宗派は信用するに値しない、パートナーにやめてほしいがそれは強制するものではないし出来ることではないと思います。 そしてパートナー自身(両親に連れられて小学校低学年から入信)やめる気もないし、完全に信じていると言っていました。ただ私の言う事も理解が出来るし、説得はしたいが教えの内容は伝えられない。だから入信して話を聞いてもらいたいと。その結果、信じられなくてやめてもいいと言っていました。 しかし念佛宗にはもう関わりたくないというところが本音です。 ちなみに私の実家は浄土真宗で幼い頃に何度か話を聞いた経験があり、仏教自体に偏見もなく、その教えや歴史に興味はありました。 また、これまでに高野山のあるお寺で奉仕させて頂いた経験もありますが、凄く高尚な地で好意的な印象を持っていただけに、今回のことが残念でなりません。 良い宗派だと感じられれば入信も考えておりました。仏教を学ぶに良い機会だと。 念佛宗は仏教の総本山を謳っていますが、日本の他宗派の僧侶の方々はどうお考えでしょうか。 無量寿寺建設の費用はどこからなのでしょうか。 パートナーとの関係について何かアドバイスがあればよろしくお願い致します。
おはようございます。 かねてから疑問を抱いていたのですが、何故振興宗教は人を勧誘するのに、仏教は勧誘されたという話を聞いたことが無いのか?ということです。 日本は仏教徒が9割を占めると聞いたことがございます。 だから必要ないということでしょうか? よろしくお願いいたします。
いつも大変、お世話になっております。今日は質問ではありません。 先日、都内で電車に乗っていた時の事、旅支度のような姿をしたお坊様に出逢いました。私は初対面にも関わらず、すくっと立ち上がりお坊様の所へ行き、ご挨拶をさせて頂きました。そのお坊様は臨済宗の修行道場で修行をしてお坊様になられたそうで、ご自坊は九州だそうです。鎌倉の建長寺さんとは違う流派だそうです。一人で修行を続けているとおっしゃっていました。私はすかさず「托鉢中ですか?」とお尋ねして、ほんのお気持ち程度しか手持ちがありませんでしたが、お坊様にお気持ちをおわたししました。 お坊様とお話をすると何故か清々しく、心洗われた気持ちになりますね。私は現在は年に二回、曹洞宗の老師様のご法話を聞きに行っております。やはりお坊様に直接、お目にかかると身が引き締まります。私の実家も嫁ぎ先も浄土真宗お西なので仏壇やお墓参りをする時には南無阿弥陀仏をお唱えしています。
こちらで沢山、お世話になりました。 沢山のお坊様にご回答頂き、大分気持ちが楽になったり、視点が広がったり、大変お世話になり感謝しております。 来年もまだまだ沢山の課題が残っており、向き合って乗り越えていかなくてはいけないことがあります。 これからも沢山、お世話になると思いますが、今後ともどうぞよろしくお願い致します。 皆様、良いお年をお迎えください。
今年も大変お世話になりました。 私にとって今年は父が亡くなり、私は交通事故に合ってしまい、いろいろと忙しい一年でした。 ハスノハのお坊様方にはいつも心の支えになって頂きまして、感謝の気持ちでいっぱいです。 私はクレジットカードをもっておりませんので、ハスノハにお布施をする事ができません。よい方法があればよいのですが。 来年もお坊様の皆様にとりワンダフルな年になりますよう、お祈りしています。
年末の忙しい中お世話になります。 今日相談したいことは、幸せすぎることについてです。 私は、今 そこそこ幸福な状態です。 むしろ幸せすぎて怖いくらいです。 ただそこに悩みが出ました。 世の中には人並みの幸福と程遠い人生を歩んでいる人たちがたくさんいます。そんな人たちを差し置いて 私は、神さまから幸せをもらうのに値するのかな て前から思ってます。この悩みをどうしたらいいでしょうか?
私の友達に僧侶の方がいます。 たまに、『出張で●●県にいます』と言うのですが、 地元のお坊様はほぼ地元密着でいつでもいるイメージでした。 お坊様は出張があるのですか? なかなかお坊様の仕事について知る機会がないので教えてほしいです!
ふとしたことがきっかけで、観音経の魅力に心奪われた者です。 このたび気になっていることが3つあり、不躾ながらお尋ねいたします。 1.観音経を唱和するに当たり、せめて観音様の像を拝みたいのですが、どちらで入手すればよろしいでしょうか。やはり、仏具店で求めるのがよいのでしょうか。 2.経典中、観音様が娑婆世界において姿を変えて説法なさる部分がございますが、緊那羅様、(特に半人半鳥といわれる女人の)緊那羅様の像を入手したり、 緊那羅様に関する経文を学んだりすることは可能でしょうか。もし、像を入手したり経文を学ぶことが出来るとしたら、どのようにすればよいのでしょうか。 3.観音経の写経をしたいと考えているのですが、市販の写経用紙は偈文部分しかみたことがありません。観音経全文を写経するというのは愚かな事なのでしょうか。 以上、よろしくお願いいたします。
いろいろお話を読んで感銘を受けています。 またもやくだらない質問すみません。 最近AIの発展がよく取りざたされていますね。 私見ですがあと50年もすればいわゆるプログラマ系の会社員がAIに置き換わるような気がします。100年立てば営業職、公務員がAIになるでしょう。200年立てば芸術系の仕事もAIになるでしょう。 ある意味AIに飼われているとも言えます。新しい考えが広まり人間として進化してるかもしれません。 ここまで前書きです。 例え何百年経とうと宗教だけは人間の手で行われていると思います。まぁ、AIお坊さんが出てくるかもしれませんが。 何百年も先のことなので想像しかないですかこの先、お坊さんはどうなっていくと思いますか? また、世界の主導権が人でなくなった世界は仏教的にどうなのでしょうか?