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「仏教・お坊さん」を含む問答(Q&A)一覧

自分がやばいです

自分のことについてはこちらを読んでいただくとありがたいです。 https://hasunoha.jp/questions/17526 https://hasunoha.jp/questions/18461 非常にまずい状況です 今は離れて暮らしてますが、ちょくちょく「よし、殺しに行くか」など 母親の殺人について具体的に考えてしまいます。 それはやっぱり自分には更生が無理なのか。何かに見捨てられたような時に起こるのです この手の投稿は何度かしましたが、今日これはやばいと感じました すごい冷静に考えしまうんです、こういうことを。なんとか別のことを考えたり、まあそう思うのもしゃあないよな。とか考えたりしてしのいでます。 たとえ離れて暮らしてるといっても、会いに行けないわけじゃないです。同じ国にいるわけですから。 以前の投稿で母親との記憶に関して話しましたが、具体的ではありません。そのあとよくよく考えてみると、僕はすっかり過去の記憶を思い出せないことに気づきました。なにせ、直前のことまで忘れるのです。うそでしたらごめんなさい。 過去の記憶はほんの一瞬の光景が思い出せるか思い出せないかなのです。それもわずかな。 描き忘れてしまいましたが、事件が起きたとき、罪の意識を感じましたので警察のほうへ自分で出頭しました。そのあと何人かの警官があつまり事情聴取となりました。聞かれたことは動機と過去に虐待があったかどうかです(これは受けてないと答えました)そのあと事件で起きたことを説明となりました。 処分に関しては母親が「犯罪歴をつけたくないから」ということ、警察のほうも「今回は注意」とのことで放免。知らせを聞いた父親につれてかれるというので終わりました。 現在は警備員のアルバイトをしています。 しかし現在母親に強い恨みを持ってるのも事実なのです 僕にはもう、僕がよくわかりません。助けてください

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お釈迦さまが自殺をとめられた話について

インターネットをみていたら、以下のような お釈迦さまが自殺をとめられた話がありました。 とても分かりやすいのですが、 これは、何というお経に出ているのか教えて頂けないでしょうか。 ある時お釈迦さまは托鉢中、 大きな橋の上で辺りをはばかりながら一人の娘が、 しきりと袂(たもと)へ石を入れているのをごらんになられました。 自殺の準備に違いない、と知られたお釈迦さまは、 早速近寄られ、優しくその事情を尋ねられると、 相手がお釈迦さまと分かった娘は、 心を開いてこう打ち明けました。 「お恥ずかしいことですが、ある人を愛しましたが、 今は捨てられてしまいました。 世間の目は冷たく、おなかの子の将来などを考えますと、 死んだほうがどんなにましだろうと苦しみます、。。 どうかこのまま死なせてくださいませ」 と娘は、よよと泣き崩れました。 その時お釈迦さまは哀れに思われ、 こう諭されています。 「愚かなそなたには、譬をもって教えよう。 ある所に、毎日、重荷を積んだ車を、 朝から晩まで引かねばならぬ牛がいたのだ。 つくづくその牛は思った。 なぜオレは毎日こんなに苦しまねばならぬのか、 自分を苦しめているものは一体何なのか、と考えた。 そうだ!この車さえなければオレは苦しまなくてもよいのだと、 牛は車を壊すことを決意した。 ある日、猛然と走って、車を大きな石に打ち当てて、 木っ端微塵に壊してしまったのだ。 ところが飼い主は、こんな乱暴な牛には、 頑丈な車でなければまた壊されると、 やがて鋼鉄製の車を造ってきた。 それは壊した車の何十倍、何百倍の重さだった。 その車で重荷を同じように毎日引かせられ、 以前の何百倍、何千倍苦しむようになった牛は、 深く後悔したが後の祭りであった。 牛がちょうど、この車さえ壊せば苦しまなくてもよいと 思ったのと同じように、 そなたは、この肉体さえ壊せば楽になれると思っているのだろう。 そなたには分からないだろうが、 死ねばもっと苦しい世界へ飛び込まねばならないのだ。 その苦しみは、この世のどんな苦しみよりも恐ろしい苦しみなのだよ」

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普賢菩薩と懺悔偈など、お経について

今回はお経について質問が三つあります。 1.『浄土宗のお経』という本を読んでいます。初心者向けの本です。毎日のおつとめで読まれるお経が収録されています。懺悔偈のところで、「普賢菩薩が毘盧遮那仏の前で〜過ちを反省して、許しを請う偈文」と説明されているのですが、普賢菩薩が毘盧遮那仏に許しを請う、というのはどのようなエピソードでしょうか?普賢菩薩といえば、智恵を司り、白い象に乗ったクールなイメージなので、意外に感じて伺う次第です。また、毘盧遮那仏、普賢菩薩、阿弥陀仏はどのような関係にあるのでしょうか? 2.法要の時に「サンバラ〜サンバラ〜」と聞こえることがあるのですが、何というお経の一節かお心当たりがありましたら、教えてください。上記の『浄土宗のお経』を「サンバラ〜」と読めそうなところに注意して見てみたのですが、それらしいところが見つからないのです。 3.今度七回忌があるのですが、そこで読まれるお経とその順序は「浄土宗勤行式次第」と同じでしょうか?法要で読まれるお経が聞き取れるようになりたいです。 教えていただけるとありがたいです。よろしくお願い申し上げます。

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みんなの幸せを願う。仏様に甘えちゃいけないってことですか?

 いつもお世話になっております。  もう当面は例の法要会にいけそうにないので、仏事の質問は ここでさせていただきたく存じます。               *  仏は誰かを傷つけよう、陥れようとする願い、それから自分の 欲求だけを満たそうとする願いは聞いてくれない。  皆さんの願いと一緒に、わたしのお願いも聞いてくださいと 願うのが正しいお願いの仕方だとお話をいただきました。               *  ですが私自身も難儀を抱えており、 愛し守ってくれる親も無し、お不動様や阿弥陀様を父母と思い、  慕い縋って生活している次第でございます。               *  私自身、人のために願い事をして、その人に裏切られるのが 恐い、という思いがあります。一度成功しましたが…  大祭などでお札を奉安するときも「信徒安全」と書きますが 基本的に普段はご本尊様の前で自分の感じる辛さを吐露して 時には涙すらこぼします。               *  でも普段の生活においては赤ちゃんに笑いかける、席を譲る 、お礼とねぎらいの言葉を忘れないなど多々気を付けています。               *  私のやり方は間違っていますか。  どうかお教えいただきたく存じます。

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願って誓う

去年のくれ、あるお坊様に 「途方もなく難しいからこそ願いを立てる、そして願いを成すために誓いを立てるのです。願いのないところに達成するための努力や自覚は生まれません。 」 と言ってもらい、 『衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど) - 生きとし生けるものをすべて救うことを誓って願う- 煩悩無量誓願断(ぼんのうむりょうせいがんだん) - 無量の煩悩をすべて断つことを誓って願う- 法門無尽誓願智(ほうもんむじんせいがんち) - 無尽の法門をすべて学び智慧とするち誓って願う- 仏道無上誓願成(ぶつどうむじょうせいがんじょう) -無上の仏道を成すことを誓って願う-』 というお経を教えていただき、あれからたまにそのとき願った、自分の力で生きれるようになること、娘たちの幸せを願って写経してきました。 今の私、まだまだで先が永いですがあの頃よりは願いに近づいているだろうと思っています。 こちらのサイトのお陰です。ありがとうございます。 あれからなんと100円均一のお店で般若心境の写経セットを見つけて書いてみました。 どういう意味なんだろうと考えながらあまり理解できなかったけど、なんとか仕上げました。 長いので気力が要りますね。 疲れました。修行不足ですね(;_;)

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一体、何を第一に尋ねたらよいでしょうか?

5月末に、坐禅会に行くのですが、情けないのですが、何を尋ねようか考えあぐねています。 そのお方の坐禅会は、3ヶ月待ったもので、 決して少しでも無駄にしたくなく、有意義なものにしたいのです。それならば、大分前から考えられただろう!と思われると思いますが、 ある程度は、質問を纏めたのですが、いまいちパッとせず、煌めかないのです。 なぜ坐禅会に行こうと思ったかというと、随聞記に自分で正しいと思うところがあっても、 もっと正しいところがあるかも、しれぬ。広く師僧たちにも尋ね、先人の言葉なども調べてみるべきである。と書いてある事と、僕の師事している方も、色んな方に会って、尋ねるのがいいよ!と言った事です。 もう一つあって、今、思うところ、僕は、すぐに自惚れて得意になり一つの見解に落ちて、それで人や物を見て、聖や凡に振り分けていたけれども、そもそも何に気付いたかといえば、 鳴かぬカラスはなんとでも鳴く、鳴らぬ屁はなんとでも鳴る。 人に、カラスの鳴き声は、どんなもの?と、尋ねれば、人の数だけのカー!!が、あるでしょう。一人一人が鳴き声を思い浮かべ、それは異なります。カラスの鳴き声は、このようなものだ!と、持ち込んでも実際の鳴き声はその瞬間だけのものです。 過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得という実際、僕らの有りように気付いたのに、後から頭で分別し、悟った立派な人と、悟らぬ凡夫という具合に分けていたのです。 今、私には凡人も別格の人もおらず、ただその人が見えます。誰にも鎖など、ついていません。既に救われております。 大海という土壌の上に波が立ち、風という縁で波という僕らが生まれて、やがて波の一つ一つも大海という仏に還る、といった具合に考えていたけれども、それは大間違いで、 僕らは初めから、波などではなく、大海どころではなく、どこまでも際限のない無限の広がりそのものであり、陽光が照らす花そのものだった。 宇宙に比べて人間は、ちっぽけである。と人は言うが、あなたが宇宙そのものだとしたら、どうか?今から目指して成るのではなくすでにそうなってあるのだと、今、世界中で起こっている争いに限らず、僕らの苦しみが、世界中のいわゆる悲劇は、ほんの些細な勘違いによるものだとしたら、なんと悲しく哀れに思う。自惚れているかもしれませんが、僕は、仏法以外に人の世が、救われる方法は、ないと思います

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