1.仏教では如来、菩薩、明王、天部とありますが、天部様の役目は何なのでしょうか? 2.天部様は仏様ではなく神様と聞いたのですが、般若心経を唱える時は最初の『仏説』は読まなくていいのでしょうか? 3.神仏習合では大黒天様=大国主様となりますが、大黒天様は大黒天様!大国主様は大国主様!と分けるのではなく、大黒天様=大国主様と考えて問題ないのでしょうか? 私は神棚に伊勢神宮のお札、嚴島神社のお札、大黒天様を祀っているのですが、神様として般若心経を唱える時、『仏説』はつけていません。 詣り方は合っているのでしょうか? 少し前までは大黒天様は天部様だから仏様になると思っており、頭に『仏説』をつけ伊勢神宮(天照大御神様)、嚴島神社(宗像三女神様)とは分けて般若心経を唱えていました。 今ではどれが正しいのか分からず少々混乱しております・・・。 教えて頂けたは幸いです。
昨年11月に夫が他界しました。原因不明の病で3週間の入院生活、回復の兆しが見えてきたと思った矢先に突然亡くなりました。 火葬の後、お坊さんがお経を唱えている際に目を開けてみると、お骨の横にとても明るく光る金色ともオレンジ色とも見えるグリッターのような光りがキラキラと見えました。 あまりにもはっきり見えたので、周りの人たちにも見えているのかと思いキョロキョロと見回したのですが、私にしか見えていないようでした。 とてもキレイな、グリッターのような、温かみのある光が、骨壷の周りで光っていました。 お経が終わったのと同時に光はさっとなくなりました。 今日は49日でした。お別れはとても寂しいですが、あの光に今でも見守られているのような気がし、心が落ち着く感覚になります。あの光は何だったのでしょうか?
いつもお世話になっております。 私は仕事などでお寺への参拝が困難な日は、家の仏壇で 勤行をしています。私は浄土宗の檀信徒、日常勤行式には、 開経偈のあとに四誓偈とあります。 * ですが私の祈願寺は真言宗、本尊はお不動さんです。 仕事が休みの日にはそこのお護摩で一緒にお経をあげています。 そこで、開経偈の後に四誓偈に次ぎ、理趣経や観音経をお唱え しても失礼ではありませんでしょうか? また、ご真言はどこに挟めばいいですか? * 私の仏壇の荘厳は、 上段に阿弥陀様の像、両脇に両祖大師様のお軸。 中段には先祖代々の位牌、件の寺(爆)の本尊が写った 記念テレホンカード。下段は仏具。以上です。 * テレホンカードは開眼などしていませんが、私自身思い入れが 強いのでご安置しています。 お不動様に罪はない。むしろ被害者だと思っているので… * お教えいただけたら幸いです。よろしくお願いいたします。
いつもお世話になっています。「金剛経5章」の勝手な考察です。お坊さんからのヒントをお願いいたします。 我々凡夫は、如来であるとの確証を得た(=如来は凡夫にとって価値があるということを知った)後に、如来を探し出せるような特徴を必死に見つけ出します。如来(=価値がある存在)と確証する前は如来でも何でも無いので特徴など詮索しません。探す目で見ていないので特徴はあっても特徴は認識できないので特徴はありません。特徴があるとは、気づいた後に作り出すものであり前には特徴はありません。 誰かが発見する前から重力や浮力は存在していて誰もが目にしています。特徴などないので気づきません。発見した人が「万有引力」やら「浮力」などの名前をつけて特徴としています。 そもそも、あらゆるものに特徴などなかったのです。人間だけに利用価値や意味があるので特徴を見つけ出します。人間以外の動物に「偽札」の特徴など知る必要はなく、特徴などありません。 動物には「言葉」がないので、臭いとかまずいとかの概念はなく本能的な反応だと思われます。我々人間も味を「言葉」にして分けていますが、親に教えられて「にがい」という味覚と経験を記憶しているだけです。 特徴があると断じても、諸法は無我であるので縁によって以前の特徴がいつまでもあるわけではありません。宇宙空間での「音」の特徴は、空気という縁がないので音は振動として伝わらないので音の特徴などありません。人相の特徴ですら、三十年も経てば全く変わってしまい以前の特徴はなくなっているでしょう。 特徴がないと断じたとしても、人間が価値を認めれば特徴を必死に見つけて特徴を定義します。 「ぶどう」は房に実が鈴なりについていて、甘酸っぱくて黒や緑色をしているという特徴によって「ぶどう」と名付けられます。この共通認識によって、市場で果物として流通しています。「ぶどう」は「ぶどう」と名付けられる前から存在していました。「ぶどう」は「ぶどう」と呼ばれなくても「ぶどう」ですから、明日から「ぶどろ」と呼ばれてもいいのではないでしょうか。 特徴によって存在しているのではなく、存在に特徴をつけて勝手に思いつくままに適当な「名前」をつけているだけではないでしょうか。 結局、あらゆるものは概念と名前によって個別の存在として有るだけで本来は区別差別のない一体であると認識しました。
いつもお世話になっております。 私は幾度か、目の前で人が逮捕されて連行される瞬間を 見たことがあります。 「あぁ…これが枷鎖難か」と思うと同時に、 それじゃ、警察や軍隊(我が国では自衛隊)は、仏教では 悪者扱いってことなのか?時折、「王様は悪い、怖い」 と言っているとも取れる記述があったり、 解説書も、著者によっては君主を避難するようなことが 書いてあったり、 実際に私が以前通っていた寺も、 住職を初め、組織的に当時の政策を法話等々で非難していたり、 悪質なうわさに便乗し、若者世代や、神経系の内部障害の人を、 そうとは気取られぬように叩いたり… 私自身も、嫌がらせを数え切れないほど受けました。 ですが、私が今通っている数カ所の祈願寺は、そう言った ことはありません。 むしろ、境内で生活安全キャンペーンを開く等、 警察、消防からしっかり指導を受け、お寺を運営、 もっとも現実的な仕方で衆生の教化に当たっている印象です。 私自身も、特に公安関係の方々に、自分が仏教徒であることを 告げたり、境内でお顔を合わせても、肩身の狭さを感じることは ありません。むしろ、 「こんにちは」「いつもありがとうございます」 とお声掛けすると、非常に喜んで下さいます。 確認になりますが、仏教は、政府や国家に歯向かう為の 教えではありませんよね?たまに、そう言うことを言っている 人を見かけると不安になります。
今や自分はともかく親が何を信仰しているかも分からない場合が多いと思います。そして特定の菩提寺を持たない場合において、祖父母の墓参りなどで直面する、お墓の前で唱える言葉の意味についてどう考えたらよいのか悩んでいます。 基本的には自分が信仰する宗派において、自分自身のために唱えるのは理解できるのですが、故人のために唱える場合は、どういう意味があるのでしょうか。 そもそも故人は自身の信仰によって成仏されていると思うのですが、それに対し後世に他人(親族です)が言葉を唱えることの仏教的な意味を知りたいです。 また、〇〇宗を信仰された祖父のお墓の前で、▲▲宗を信仰している(もしくは何も信仰していない)孫が唱える言葉は何が良いのでしょうか? 一般的には〇〇宗のお墓の前では、〇〇宗の言葉(例えば南無阿弥陀仏など)と教えられたのですが、よくよく考えていくと自分の信仰していない宗派の言葉を「形式的」にだけ唱えるという事になってしまい意味があるのかな、と思い始めました。 浄土宗などは念仏を唱えることに意義があるという点では、形式上であったとしてもある程度は理解できるのですが、浄土真宗やその他禅宗などにおいては意味があるようには思えないのです。 今まで深く考えず、親に教えられた通りに唱えていたのですが、勉強すればするほど分からなくなってきてしまいました。 迷える子羊をお救いください。
こんにちは。 お坊さん、いい声でお経あげられるなぁ、と子供の頃からお経あげに来てくださる際は同席して聞き入っていました。 とはいえ きっと得意!不得意!ってあると思うんです。 「あの人すっごいええ抑揚で唱えるよね〜」 「私、このお経がどうも苦手で」 みたいなの、やっぱりあるんでしょうか? また、カラオケに般若心経が入っていますが、お坊さんが選曲(選経?!)されるんでしょうか?
こんばんは。 はじめまして。 私は今大日如来様観音様不動明王様薬師如来様毘沙門天様をおまつりしています。 家でその仏様がたに読経をいまのところ毎日続けているのですが、雑念とかめんどくさいとか、お経にたいする疑問などがわきあがってきて、集中して、読経できません。今唱えてるのは開経文、懺悔文、般若心経と十三仏真言、延命十く観音経、観音経普門品げです。それプラス毘沙門天さんの真言をとなえています。 仏様が喜んでくれたらなと思い始めた読経ですが雑念が消えず、先ほどは、毘沙門天さんの真言唱えるのめんどくさいなと読経中思ったのですが、最終的にめんどくさいといってすみませんでしたと念じながら真言をとなえました。 こういうときお坊様たちはどうしておいでですか? 仏様と共にありたいのでこの雑念がきえたらなと思います。よろしくお願いします。
私は真言宗の、寺院でたびたびお祓いしてもらってるものです。 お寺からのアドバイスで般若心経と、佛説不動経と、薬師如来さま、十二天などの真言を唱えています。 昨日興味がでてしまって、理趣経をネットで、でていたから唱えてしまって、悪いことしたかな?て疑問になりお寺に確認したら理趣経よりは、お渡しした、般若心経と真言をよく唱えなさいてことでした。 なんか、悪いことをした気分になり、反省しました理趣経を一回唱えてしまって、反省しました。罪になりますか? あと、延命地蔵経は、一般の人が唱えてよいものですか? また、四国遍路さんが使う持鈴は、一般の人がもって鳴らして大丈夫ですか? すみませんが教えてください
今日セミナーに参加してきました。 セミナーが終わる20分ぐらいにいきなり右側から「お経」が聞こえて来ました。 お経と言えばつい最近職場の上司が亡くなりました。その時に聞いたのは覚えてますが……。 もしかして、その上司の方が自分の所に来たのでしょうか? 回りにお経をあげるような音はありませんでした。 そして自分も上司の方の事は考えていません。そしてセミナーの内容もお経の様なくらい話ではありませんでした。 周りを見ても自分しか聞こえてないようでした。 何だったのでしょうか? 今考えるだけでも、鳥肌が経ちます。
こんにちは。 以前こちらでお世話になった者です。その節は相談にのっていただき、ありがとうございました。 先日母の四十九日法要を終えたのですが、そこで二つの疑問が浮かびました。 ①成仏とは何か ②お経の内容(現代語訳)は何か 法要で「お経は生きている人に向けてのもの」と伺い、以上のような疑問が湧いた次第です。 お経は亡くなった人が成仏できるように唱えるものだと思っていたので、大変驚きました。 疑問を調べてみたところ、「仏教は今を生きるための知恵」とありました。 亡くなった人は、遺族が"今"を生きることで成仏するのでしょうか。 また、「生きるための知恵=お経」なのでしょうか。母を亡くした寂しさと悲しみを乗り越え、前向きに生きていくために"生きるための知恵"を具体的に知りたいです。 無学で恥ずかしい限りなのですが、二つの疑問について教えていただけると嬉しいです。 よろしくお願いいたします。 ※ちなみに宗派は日蓮宗です。葬儀や法要では南無妙法蓮華経を唱えました。
若いころから仏教に興味があり、5年ほど前から毎朝仏壇に向かいお経をあげています。(40分程度) ところが、ある生き神様(仏教系の霊能者)から「般若心経くらいにしときなさい」と言われましたので、いかがなものなのかお尋ねいたします。 我が家は浄土真宗ですが、真言宗に魅かれて四国八十八か所巡礼の際唱える、 「開経偈・懺悔文・三帰・三竟・十善戒・発菩提心真言・三摩耶戒真言・般若心経・光明真言・御宝号・回向」。 加えて「十三仏真言・観音経」を読誦しています。 ところが、生き神様が「それらは何のお経?」と言われましたので、 「遍路の際各お寺で上げるお経」と言いましたところ、あまりご存じなかったようです。 さらに「巡礼の経験もなくして、それらを上げるのは順序が間違っている。まったくムダです」と言われました。 家族や親族への日々の御守護に感謝し、これらのお経をあげているのですが、いけないのでしょうか。
はじめまして。よろしくお願いいたします。 私はこれまで、病気を抱えながら働いてきました。仏教の話に限らず、誰かと生きる意味などの話ができればと思います。 そのような集会はお寺などで行われていないでしょうか。 それから、お経をあげる意味とは何でしょうか。 今私が苦しんでいるのは、供養されていない霊の憑依があるからだという人もいます。 お経をあげることで、供養されるそうですが、私がお経をあげると、先祖が喜んでくれるのですか? 私は以前、お経をあげたり、瞑想したりしていましたが、本当に効果があるのかと思ってしまい(不遜な考えですが)、やめてしまいました。 しかし、このままだと、何かむなしい感じがしております。信じられるようになりたいです。そんな疑問から、このページを訪れました。 どうぞ、よろしくお願いいたします。
家のお仏壇にお参りする際、お経を唱える際は、リンを鳴らし、そうでない時は鳴らさなくても良いような気がするのですが。 表現しずらいのですがリンをチーンと鳴らすのは、始めに出す発生練習のようなものだったような? 世間が、お経も唱えないのに当たり前のように鳴らしているのが気になりました。
未だにうつの症状で、死にたいと思ったり、妄想に悩まされ、言葉のパワハラで痛め付けられた影響で外出もままならない状態ですが、なんとかこちらのお坊様がたのお言葉や導きに励まされ、最近、延命十句観音経と言うお経に出逢いまして、朝と夜にお経を唱えさせて頂き、メモ帳にもお経を書く様になりました。 まだまだ具合は1日1日違いますが、何とか人と話せるようになりたいと思います。 両親も気をつかってくれています。 自ら人と関わる事も辞めてしまいましたが、少しずつ立ち直りたいと思っています。 いつも見守り、心からのお導きを有り難う御座います、お坊様、これからもお体を大切にされ、ご自愛下さい。 私達に真摯に向き合って下さり有り難う御座います。
いつもお世話になっております。 我が家の仏壇は浄土宗のものです。上段に阿弥陀様、法然上人、 善導大師をお祀りし、中段には祈願寺(真言宗智山派)のお護摩札を お祀りしています。また、経典も、浄土宗信徒日常勤行式と、祈願寺の 護摩経典が手元にあります。 新型コロナウイルスが流行する前は訓練の休みの日に祈願寺まで赴き お護摩に参列していたのですが、現在は入堂規制が敷かれており お護摩に参列することはほぼ不可能です。 そこで自宅の仏壇で護摩経典を読みたいのですが、その際のお作法 や読み方等はどうすればいいのでしょうか? 経典の順序を改変したり、たとえば開経偈の後に四誓偈を上げ、 その後護摩経典を上げて、浄土宗の経典の終わりのほうを続けるなど… ご教授のほう、よろしくお願い申し上げます。
ご覧いただきまして、有難うございます。 早速、質問させていただきます。 私はご先祖様と亡くなったペットの御供養の為に読経をしたいと思っているのですが、どの宗派のお経を読めばいいのでしょうか? 私の両親はそれぞれ宗派が異なり、両親は離婚しています。 しかし、私は父親の苗字を名乗っています。 その場合、父親の宗派のお経を唱えた方が良いのでしょうか? 私は父方のご先祖様も、母方のご先祖様も御供養したいので、どちらの宗派のお経にすれば良いのか迷っております。 ちなみに最近は某現役僧侶の般若心経の本を読んでいるのですが、宗派に関係なく般若心経でも良いのですか? 今は読経なしで、毎朝お供え物と挨拶をして、毎晩仏壇の前で手を合わせご先祖様には『今日も1日有難うございました。安心して安らかにお眠りください…』、神様には『ご先祖様たちが安らかな気持ちで成仏されますように…』と心で唱えております。 その他、御供養にまつわる作法などございましたら、教えていただけますと幸いです。 宜しくお願い致します。
こんにちは、ここ3ヶ月くらい本を買うようになりました。 そのなかで今でも読まれている論語という本があるのですが、こういう難しい本はどう読んだらいいのかわかりませんし頭に入ってきません。一応解説はありますが(宇野哲人による) ふと思ったのですがお坊さんたちはあの長いお経を理解して覚えているのですよね? 難しい本の読み方の参考になりそうなので お経をどうやって頭に入れたのか教えていただけると嬉しいです。
家は浄土真宗本願寺派、戒名や法要は天台宗、私は四国八十八ヶ所巡礼に参ろうかと真言宗のお経を唱えたりしています。 もちろんお仏壇の掛軸は浄土真宗本願寺派、位牌は天台宗で開眼供養をしており毎朝夕私はどうしたら良いのか分からず開経偈、懴悔文、般若心経、回向文を唱えております。 息子の供養の為に、何をどうするのが1番よいのでしょうか?
大忍貫道 様 ご回答を有難うございます。 追記を見落としまして失礼しました。 私は初期経典は全く知らず、大乗経典の一部だけの知識しかありません。 般若経に勝る初期経典とはどんな内容の経典でしょうか? 大変興味深いです。