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hasunoha 問答検索結果 : 「私 死後 地獄」
検索結果: 327件

長男からの質問です

ここ最近、7歳の長男が死や死後の世界、そして生まれ変わりについて聞いてきます。 僕はいつ死ぬの?ママは僕より先に死んじゃうの? 死にたくないなぁ。ママが死ぬのは嫌だ。 僕は死んだら地獄に行くの?地獄は針山とかマグマとかあって苦しいんだよね? どうしたら地獄に行かずにすむの? 僕は誰かの生まれ変わりなのかな? 僕になる前は別の人で、死んだら僕に生まれ変わって、でも前の事は覚えてない。どうしてだろう? 僕も死んだら別の人に生まれ変わるの? じゃあ幽霊は何でいるの? などです。 私はこういった事に詳しくないので、想像や人から聞いたなんとなくの記憶を繋ぎあわせて答えていますが、長男の疑問は解決しないようです。 長男が生まれた時、寝たきりだった長男の曾祖母に無事生まれた事を伝えた翌朝、曾祖母は亡くなりました。 不思議な事に次男の誕生日が曾祖母と曾祖父が同じということもあり、命のバトンの様なものはあるのではないかと思っています。 なのでみんな誰かの生まれ変わり、その前の記憶を持っていないのは今の自分の人生を生きるためだよ、警察に捕まるような悪い事をしなければ地獄には連れて行かれないから大丈夫、いつ死ぬかは誰にも分からないから死ぬのを考えるのはやめて楽しい事を考えよう、と話しているのですが間違っていますでしょうか? 長男にどのように伝えてあげたらよいでしょうか? それと、それでも気になるならお寺に行ってお坊さんに聞いてみようか!お坊さんはこういう事をよく知っているからきっと色々教えてくれるよ!と話したのですが、直接お寺さんに行って相談したことがなかったり、参拝目的ではなく相談目的でお寺さんに行くのは気が引けてしまったり、どこのお寺さんに行けばいいのか分からなかったりと、ハードルが高いです。 どういった手順をふめばお坊さんに会ってお話させて頂けるのでしょうか? 世間知らずで恥ずかしいのですが、教えて頂けたら幸いです。よろしくお願いします。

有り難し有り難し 15
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兄が自死したことについてです

5月2日に兄が自死しました。 何年間も連絡をとってなく、特別仲が良かったというのもないのですんなり自分の中で受け入れていたつもりですが、 死後の世界や自死だとどうなるのかが気になってしまい、ずっと調べてしまいます。 ただでさえ自死してしまうほど悩んで苦しんでいたのに、自死は地獄に堕ちるだの現世にとどまるだの救いのない事ばかりでてきて悔しいです。 もちろん、良いことではないですし親不孝者だというのもわかります。 ですが『生きていればいいことがある』『生きてさえいてくれればそれでいい』なんて綺麗事だと思ってしまいます。 兄の人生を歩むのは兄自身です。 その兄が一生懸命たたかって、考えて、悩んで苦しんでだした答えが自死なのに、そんなに間違っていることなんでしょうか? 自死してしまった人にこれ以上、苦しんで欲しくないと願ってしまうのは贅沢ですか? 話は変わってしまいますが、夜や鏡が怖くなってしまい、眠るのが難しくなってしまいました。 兄がみえてしまうんじゃないか、なにか心霊現象なるものが起きるんじゃないかと思ってしまいます。 きちんと心からお祈りして成仏してほしい気持ちと、兄が怖くて怖くてたまらない気持ちが入り交じってしまいます… 火葬場が空いていないため、お経も火葬もまだですが、兄はいまどういった状況にあるのでしょうか? 何が聞きたいのか、なにが言いたいのかまとまってなくてすみません。 とにかく、兄には成仏してもらい、楽になってほしいと願っていますが実際はどうなんでしょうか? また、なぜこんなにも怖いと思ってしまうのかなにかご存知であれば教えていただきたいです。

有り難し有り難し 18
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納得のいかない法話

質問させていただきます。 回答しづらければ、スルーでお願いします。 母の四十九日法要の和尚さんの法話でのことです。 「亡くなった人はどこへ行くか?」と和尚さんは私の甥に尋ねました。 小学生の甥は、「心の中」と答えました。 それは、亡くなった母が教えたことです。 母は「自分が死んでも、いつも見守ってるから」という意味で、生前、そのように話したのだと思います。 が、その和尚さんは、それを完全否定しました。 人は死んだら「無」になる、と。 何もなくなる、心の中ということはない、と。 実際に仏教でどのように考えられているかは知りません。 和尚さんが仰ることが正しいのかもしれません。 ですが、そこはあえて否定する必要があるのでしょうか? マチガイハ タダスベキということですか? 甥だって大人になるにつれ、母の言葉の意味は理解するだろうし、何より母の法要で母を否定されたような気がして、何とも言えない気持ちになりました。(「黙れクソ坊主がっ!」と思ったことは内緒です) また、その話の流れで、ホームレスは人間のクズだから地獄に堕ちるという話をされました。 いや、ちょっと待て! 人は死んだら無になるんじゃなかったのか? 無になったら、地獄も何もないのではないか? それとも、ソレとコレとは違うとでも言うのだろうか? それより、ホームレスが人間のクズとはどういうことなのか!? それが仏教なのか? 和尚さんの偏見ではないのか? 和尚さんに対しての怒りの感情と、母に対して申し訳ない思いと… お前が地獄に堕ちろ!とマジ思いました… ホームレスの方達に炊き出しをするボランティアをしていたので、色々と思うところがありました。 もう数年前のことですし、そのことを引きずって悩んでいる訳ではありません。 過去のことに上書きすることはできませんし、それはソレで、そういう事実があった、でよいです。 ただ、その本当のところが知りたいです。 数年前のことを、なぜ今、このタイミングで?と思われるかもしれませんが、今まで聞く人がいなかったからです。 hasunohaのサイトを最近知りました。(遅っ!) よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 171
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ご先祖様について

初めて質問させて頂きます。 先日、知り合いの葬儀に参列して、お坊さんのお話を聞かせて頂きました。心にしみる良いお話だなと感動したのですが、ふと一つの疑問が生まれました。そのお坊さんは「49日まで生まれ変わりを繰り返し、そしてご先祖様として私達を見守ってくれる存在になります。ご供養をかかさないようにしましょう。」とおっしゃっていました。『ご先祖様』という存在は今まで何の疑問もなく受け入れてきましたが、興味本位で色々な仏教書を読んでおりますと「人は生前の行いにより、亡くなった後何に生まれ変わるか決まる」といった輪廻という考えがある事を知りました。 もし生まれ変わり、新たな命としてこの世に存在するのならば、ご先祖様は存在しなくなるのでは?という疑問が生じて、先祖供養やお墓参りの時に誰に手を合わせているのだろう??と考えてしまいます。 「ご先祖様」はその姿形で私達の近くにいて、守ってくれているという存在だと思っていましたが、生まれ変わるのならば、何か姿形を変えて違う生命として私達の近くにいるという事なのでしょうか? 長々とまとまらない文章で質問させて頂き恐縮ですが、よろしくお願いします。

有り難し有り難し 85
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2024/09/08

実父の葬式への出席について

お世話になります。 私は一人っ子で幼少期に母親が目の前で自殺しました。 父の浮気が原因でノイローゼになってしまっての事でした。 それから40年以上、今でも年に数回は父との交流(父からの電話で安否確認程度)はありますが、私の方では知り合い程度の認識で父とは思っていませんし「お父さん」と呼んだこともありません。 そんな父も齢を重ねてあと10年生きるかどうか、ぐらいの年齢になってきました。現在、当時の浮気相手であり母の死後わずか2年で再婚し私の継母となった女の実家がある遠方で暮らしているようです。 一応私が長男なので最近その父が死んだ時のことをよく考えてしまうのですが、このまま継母の実家で亡くなった場合葬儀もそこで執り行う事になるかと思います。継母は幼少の私をそれは凄惨な方法で何年も苛め抜いた存在であり、私は継母の実家には行きたくありませんし継母の顔を見る事もしたくないのです。 つまり父が彼の地で亡くなった場合は実子であり長男である私抜きで葬儀なり好きにしてくれればよいと考えていますし、父がどこの誰の墓に入ろうがどうでもいいとも思っています。要は父の葬儀を執り行うだとか参列はしたくありません。父の仏前で手を合わせる事もないでしょうし、そもそも故人を偲ぶ値打ちもないと思っています。 これは罰当たりな事でしょうか?周りから非難されるような事でしょうか?死ねば地獄に落とされるような事でしょうか? 私の母を自身の下の欲で死に至らしめた人間の屑とも言える父だったとしても、実子である私が葬儀やら墓やら供養やらをしなければならないのでしょうか?

有り難し有り難し 18
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命に対するジレンマ、疑問

看護師をしています。 私は病院で働く中で多くの患者様を見てきました。軽症から重症まで。若い人から超高齢者まで。 その中で、看護師として働くことを諦めるような悩みを抱えました。 ご高齢の方や終末期の方は、死への恐怖というより現在ある痛みや苦しみ、排泄など恥ずかしい部分を他人に見られる羞恥心などから、もう楽にしてくれという方が多くいました。殺してくれとも。 命を救う側の私たちは、目の前の命を救うという責任があります。見捨てることはできません。 しかし、それでも何度も何度も楽になりたい、あちらの世界に生きたい、今自分の意思で生きているのではなく他者に生かされてるだけだと、涙ながらに、そして時には怒りながら訴えられました。 そんな方々を多くみる中で、私は看護師として生きることを諦めないようにお話をする機会もありました。 その中で私は、ここが生き地獄だと思っている人たちを救うことが本当に人のためになるのだろうかと疑問を持ちました。 本人の意思ではないのに、多くの管で繋がれ、ベッドに縛り付けられてまで命を守ることが本当に正しいのだろうかと疑問に思いはじめました。 私はこの疑問に対する自分の中での答えが出ず、看護師を一度完全に辞めました。このような疑問を持つことは、命を救う立場の者としてあってはならないと思ったからです。 世の中には尊厳死や安楽死などの言葉が存在します。尊厳死は、延命治療を無理にせず苦痛を取り除きながら、自然に死を迎えられるようにというものですが、日本の医療の現状としてなかなか行われていないのも事実です。苦痛は痛みだけではありませんし。安楽死などもっての外です。 以上の過程があった上で相談したいことは以下の通りです。 ・生命は大切にしようとよく言われるが、そもそもその考え方はどこから生まれたのでしょうか?生き地獄だったとしても必ず守らなければならないのでしょうか? ・安楽死などの考え方について、仏教の視点からはどのような考えがあるのでしょうか? ・命の大切さという根本的なところが分からなくなっている私は医療従事者として失格でしょうか? 長文で申し訳ありません。 お時間のある際にご回答いただけると幸いです。

有り難し有り難し 30
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大罪

はじめまして。 私は仏の道に近いところにおります。 そんな環境にありながら、 人道にも仏道にも外れる大罪を犯しました。 10年以上前になります。 内容は、煩悩の欄に記載しました。 大切な人を裏切ってしまいました。 その事を知るのは、 私と、当時その話をした友人二人だけです。 大切な人には話しておりません。 その当時は、とある事から 裏切られた、という思いからの 仕返しの気持ちでやってしまいました。 ただ、裏切られたという思いがあったため 罪とわかりつつも、そこまでの罪の意識はありませんでした。 それがつい、昨年の秋~冬になる頃 とんでもない罪悪感に襲われるようになりました。 罪の大きさ、重さにようやく気付いたのです。 それは、余りにも遅すぎました。 心の底から、本当に申し訳ない思いでいっぱいです。 なぜあんな事をしてしまったのか…。 とても重い罪悪感から、罪を告白しようと 思ったこともあります。 でも、できませんでした。 罪を告白する事によって、相手が深い傷を負うでしょうし、 私は全てを失うでしょう。 大罪を犯した私は、やはり救われる事はないのでしょうか。 また、そんな私が、子どもを叱るときに 嘘をついてはいけない 人を傷つけてはいけない 人を裏切ってはいけない 失敗しても、その失敗を認めて またやり直せばいい 悪いことをした時は、それを反省して 二度とやらなければいい などと言うのは間違っているのでしょうか。 そんな事を子どもに言う資格などないとも思います。 大切な人に、過去に悪い行いがあった時、 反省してもう繰り返さなければそれでいいのだろうか? と問いかけると、それでいいと言ってくれました。 もちろん二度と同じ過ちは絶対に犯しません。 長文になってしまいましたが どうかご指導いただきたいと思います。

有り難し有り難し 106
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自殺することは罪なのでしょうか

ハッキリ言うと 死にたいです。 自分には悪い性格というのがあって、我慢が出来ない 正直に本当のことを言ってしまう(相手にとって嫌なことでも) その性格が子供のころからず~と続いていて、あるとき ADHDという言葉を見かけて検索してみると 自分の悩んでいた問題がそれに当てはまることを知りました。 頭がいい訳でもなく、人とトラブルになりやすいです。 友達もハッキリ言うと自分の悪い性格のせいでいません 仕事をしていても 人との会話が苦手で問題ばかりで辞めてしまう どうしてもうまくいきません ハッキリ言って致命的なくらいに 人は自殺をすると罪という言葉が根強くあって死にたいという気持ちの反面 死ぬと地獄に落ちるのではと怖くてなかなか出来ないでいます。 自分は死後の世界について インターネットを利用して沢山調べました。 臨死体験、前世さまざまな事例について 今では人は死んでも魂というものがあると関心はしていますが今悩んでいる死にたい気持ち(自殺)がどうしても怖くて仕方ないです。 かといって自分の生まれ持った悩みは一生変えられません どうしたらいいのかという答えは間違いなくないでしょう 死んで人生をもう一度生まれ変わりでやり直したいのに どうしていいのかまったく分かりません 世の中を見てみると 戦争、貧困と不幸な人、そうでない人がいますが 動物の世界は喰うか喰われるかの命にかかわる世界 自分はそれを見ると、まだ不幸じゃないんだと思う時期もありました。 だけど自分の持つ悩みが自分を苦しめている現実からは逃げることは出来ません

有り難し有り難し 148
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悟りと解脱、輪廻転生について

こんにちは。 これだけこのサイトにお世話になりながら、悟りについて良く考えた事がありませんでした。私の考え含めて質問させていただきます。 仏教の入門書だとよく「修行の完成」→「悟りを開く」→「輪廻の苦海から解脱」と解説されています。 しかし自分はこの解脱と言うか、輪廻転生が今一つピンと来ません。 生前や死後については無記とするのがお釈迦様の真意に近いと思うし、 輪廻とは一種の比喩と考えるのが適切と思うからです。 実際、輪廻を考えると色々と矛盾が生じます。 例えば虫の輪廻転生。一生無心に鳴き続けるセミ等に「善行」「悪行」などあるのでしょうか?善行を積んだセミが高次の存在に転生し悪行を積んだセミがさらなる悪趣に落ちるのだとしたら、誰がそれを判定するのでしょうか? そのような超越的な存在(判定者の類)は仏教では否定されるのではないでしょうか? となると、悟りも輪廻転生を前提にしている限り、よくワカラナイものになってしまいます。 悟った覚者は転生せず、凡夫が転生する・・・のでしょうか? だとしたら悟ったかそうでないか判定者がいる事になります。 (ここでまた超越的な判定者の問題にぶつかります。) 悟りによって体質と言うか、魂(?)の質が変わるとでも言うのでしょうか。 じゃあ輪廻とか死後が無記なら、結局「悟り」て何なの?って話になって 頭の中ぐるぐるで何だかよくわかりません。 こんな考えって戯論でしょうかね? お考えを教えて頂ければ嬉しいです。

有り難し有り難し 85
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2023/07/09

毎日が不安と寂しさと後悔で生きづらい

死後の世界のことばかり考えてしまうのは「今」を一生懸命生きていないから、善行を積むことができていないから…だから地獄に堕ちてしまうと考えてしまうのですか? 
今を大切に生きたり、菩薩行や慈悲の心を持って自分だけではなく、周りの方々にも思いやりの心を持ち日常の中で少しでも良いことを行うことができたら死後の世界は怖く感じなくなりますか? 
最近HSPという言葉や記事を見かけました。記載されていることを見ると私はHSPという生まれつきの感覚で生きづらさを感じているのかもしれないと思いました。自分でそれなのかもしれないと思って、工夫しても生きづらさや考えることは変わらないです。 
友人から連絡は、ほぼ来ないので私から送っていますが「相手にとって私は友達ではなのかもしれない」、私は自分の体調のことを話したくて連絡を入れたつもりなのに、結局、友人の体調や友人の状況の話なってしまい、私の体調の話は軽く流されているので「私なんてどうでもいいよね…」と思ってしまいます。私は見た目では分かりにくい病気を抱えており、家族や友人にはお薬の副作用が辛いときがある、元気に見えるけど実際は体調が悪いなど話していますが家族や周りからは理解を得られず、私は病気を理由にして働いていないだけ、甘えているだけと思われているのかなと不安になったり、友人達から「仕事が忙しい、心身共に余裕がない、忙して連絡をとる暇もない」聞くと、私と関わりたくないのかな、私とは違って暇ではないんだよと言われているように思ってしまい「ごめんね」という言葉を言ってしまうことが多いです。関わり方も人それぞれなので、私とはこのように関わりたいんだなと考えても、私だけ雑に扱われていたり、うっとしいと思われていると思ってしまいます。 
「苦手」という感情をぶつけられるのが怖くて、これ以上嫌われることを避けたくて誰かに好かれたいという思いだけで知らない人まで巻き込んで、たくさんの嘘をついて、騙してしまい、心配されたり優しい言葉をかけられたら嬉しくて、心を満たしてしまいます。それを繰り返しては相手は優しい気持ちで私と話してくれているんだよねと思うと心が痛むときもあります。なのに、自分の気持ちを落ち着けるために繰り返してしまいます。「誰かに心配されたい」そのような煩悩はどのように考え方や行動を試すと人様を騙すことなく心を満たすことができますか

有り難し有り難し 25
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どうすれば楽になれますか

2回目の質問になります…。ジ病にかかり治るという事はないようです。 ですが、死ぬ事もない。 このしんどい身体で生きていくしかない…地獄です。 幼少期に親に捨てられ、自分一人でも食べていけるようにと資格をとり、やりがいのある仕事につきました。その後、心臓♿🏥で3回の手術。障害をかかえても向き合って生きてきました。そして今度は治る事のない難病。 私は刑事事件の被害者になった事もあります。 犯人は「証拠不十分で不起訴」になりました。 その人間が幸せに家庭を持ち何事もなかったかのように平和に暮らしている。 何故、そんな人間がのうのうと暮らしていて、私がこんなにも重い岩を背負わなければいけないのでしょうか。嘘をついて力の強い人間が笑って生きている。 岩が重すぎて…楽になる方法ばかり考えてしまいます。人はいずれ亡くなります。ならば、この先何十年も苦しんで生きていく必要はないのでは…と。 頑張っても報われない、治らないものなら。 気力体力限界です。 死にたくないのに亡くなる人がいる。しんどいだけで、ただ生きている。 どちらも地獄です。 💊😷🏥この病気は治らないそうです。ならば楽になるにはどうしたらよいのでしょう…。

有り難し有り難し 25
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いい加減にしないと 追記

(こちらの質問は編集部によって一部編集しています) 前回のご回答ありがとうございます。 文章の時系列がめちゃくちゃで、わかりにくいですよね。 まず、余命わずかな父に仕返ししたのは、私が高校生の時です。 未熟で愚かで、尊敬できる大人が一人もいないと思い込んでいた時。 親戚に呪いの言葉を吹き込まれたのは4歳の時。 それが原因で大人不信に。 父の死後、これではイカンと、目標になりそうな素晴らしい大人を探しながら、憎しみを消し去ろうと必死。 30歳の時、ようやく精神が落ち着いてきた時、主人と知り合いました。 頑張って、新しい家族を作ろうと決心できました。 もし、私の人格が高校生の時の様に憎しみにまみれていたら、主人は私を選んではくれないでしょう。 ただ、疲れたときや、義母の徘徊など、ショックなことが起きたとき、古傷が疼くようにネガティブになるので、御相談した次第です。 子供時代が過酷だっただけに、家族皆で囲む夕食がとてもうれしく、幸せです。 追記を読むと「このままでは、また地獄行きになる。目を覚ませ。」と言われているようで。 改めて投稿させていただきました。 完全ではありませんが、新しい家族のためにも非人間的な行為はするまいと心に決めています。 実母は今は姉と同居しています。接触することはあまりありませんが、もし、健康問題が発生したら、姉と協力して人間らしい人生のしまい方をさせてあげようと思います。 答えてくださった皆様の言葉を読み返しながら、頑張ります。

有り難し有り難し 10
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自殺して体験した恐ろしいこと

20年以上昔ですが、死のうと思い沢山薬を飲みました。 気がつくと暗い暗い真っ暗な1畳もない狭いところにいて、何も見えないんです。 自殺した罪で、ここに何十年も身動き取れず地縛霊になるか、これまでの人生よりずっと辛いけど現世に戻るかと、閻魔さまに聞かれて、 泣きながら、こんな暗い誰もいない怖いとこにいるぐらいなら現世に戻ると言いました。 結果、現世に戻ってきて生きています。 辛いことも方が多いけど、良いこともたまーにありました。嫌なことばかりではなかったです。 死のうとした原因は、ある人達に騙されて、絶望したからです。 今、思うと、別の解決法があったのに、無駄に大変怖い思いをしたと後悔してます。治療費もかかりました。治療費より弁護士にお金を払って解決したほうが、怖い思いも、時間を無駄にすることもなかったのになあと今になってはそう思います。 死のうと思っている方々へ。 自殺するより、他に絶対解決策があります。 まず、誰でもいいので「助けて!」のサインを出してください。 きっと、なにか解決策はあります。 話、戻りますが、 辛いことがあると「死のうとした罰なのかな」と落ち込みます。単に、あの恐ろしい体験は、幻覚とか夢だったのでしょうか。それとも地獄の閻魔様だったのでしょうか。 自殺したら、真っ暗な1畳しかない箱みたいな地下室のようなところで地縛霊になって苦しむのでしょうか? 人を自殺に追い込んだ人たちが地獄にいくべきなのに、間違った判断だったかもしれないけど自死してしまった人が、さらに苦しまないといけないのか凄く不条理でなりません。 私の場合は、その当時若くて判断力がなく、弁護士に相談することもできませんでした。 死ぬぐらいなら誰かに相談して欲しい。死ぬんだったら、福祉受けても生き延びて欲しいと、私は痛烈に感じます。 最近、嫌なこと続きで、もしかして自殺の罰なのかと落ち込んでいます。罰なんてあるのでしょうか? 思い出して怖くなります。あと、心を落ち着かせる考え方があったら教えてください。

有り難し有り難し 38
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2022/11/08

宗派が違うとあの世でも別れ別れ?

仏教では 宗派が違うとあの世で別れ別れ 霊になっても生き別れになる と言う解釈になるのですか? 私は歴史小説などを読むのが好きです そこで出てきた話ですが 徳川家康が亡くなる前、病床で藤堂高虎(伊勢国津藩主)に対して 「宗派が違うからあの世では会うこともできない、今が名残惜しい」 のようなことを言い 藤堂高虎が 徳川家康と同じ宗派に改宗した と言う話があります。 これは 仏教では当たり前の考え方ですか? もし仏教ではなく、結婚や養子縁組などで 相手の宗派だけでなく宗教そのものまで違っていた場合 あの世ではもう会えないという考え方が一般的なのですか? ちなみに 徳川将軍家の菩提寺は 増上寺と寛永寺があったと思うのですが 宗派は違います。 どちらに葬られるかはそれぞれの将軍が遺言を残していたと思うのですが 先代将軍と違う寺に葬ってほしいと遺言した場合は 父親、兄、養父などには会えないで構わないという気持ちだったのでしょうか? そうなると 徳川家の血筋で  かつ 江戸時代後期は 養子縁組を繰り返した 会津藩の場合は 代々仏教ではなく 神道でしたが 養子に出る→死後は親に会えない と言う覚悟が必要でしたか?

有り難し有り難し 29
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