小学生の時に隣の男の子を虐めていました。 男の子はおとなしくとても勉強のできる子でした。 私はクラスでも目立たず勉強も苦手でした。 男の子には口でも意地悪を言ったのかもしれませんが、その辺りは全く覚えていません。 ただ覚えているのは、私が男の子の右ももを何度もつねった事により、痣になり男の子のお母さんが気が付きビックリされて、先生から私の母親と男の子とその母親、勿論私も含めて謝罪と話し合いの場が有ったのを覚えています。 その時は私も反省をしたんだと思いますが、とにかくその頃の私は性格が歪んでいたのか、それからも補導されたりもしました。 その度に母親が呼び出されていましたが、今思うとどうしてあんなに悪い事ばっかりをやっていたのでしょうか。 とにかく心が暗かったように思います。 隣の席の男の子の自宅はもう有りませんが、もし会う事が出来れば心から謝罪したいと思っています。 テレビで子供の頃にいじめられたのが原因で、社会生活や人間関係が上手くいかず辛い思いをしてる人達の番組がよく特集されています。 そのような番組を観る度に心が締め付けられる気持ちになります。 私は虐めの加害者の立場なのですが、過去に人を傷つけた事に対して深い闇を抱えて生きてきました。 勿論 自業自得なので仕方ないのですが、この年齢になっても上手く人と関われないのは、そういう闇があるからだと常に思っています。 社会人になってからは不器用ながらも人と関わりながら何とか生きてきましたが、年齢が重なる事に闇への想いが深くなって来る事がとても苦しいのです。 自己肯定が異常に低いのもそれが原因でなったのか、それとも低いから虐めや悪い事ばっかりをしたのか私にはよくわかりません。 これから生きて行く上で、何かお言葉がいただければありがたいと思います。 よろしくお願いします。
12月5日付の新聞報道にアインシュタインの手紙が競売に付され高額で落札されたとの記事がありました。 その手紙に宗教の神に対する否定的な見解が示されていました。 仏教は神がいないことで、宗教ではないと言えます。 仏教の基本は真理と論理による宇宙の真実が語られています。 真実とは、宗教の信仰の有無や宗教の種別に関係なく、すべての人に等しく適用されるものです。 真実の中身は、宇宙のすべてが空で構成され(色即是空、諸法空相)、現実の世界は空が物質に変化したものである(空即是色、諸行無常)と説明しています。 そして論理(縁起の理法)により、身体はその構造が複雑で故障しやすく死に到りますが、構造の簡単な心は死ぬ要因ががなく、通常の心境ではいつまでも生き続けます(輪廻転生)。 涅槃(心を空に戻す)に依る以外に四苦から逃れることが出来ないと言う、瞑想から得た真実の悟りをすべての人に知ってもらう為に、仏教として広めたのです。 心境のレベルによって、涅槃を求める方法が多岐にわたるため、宗派が分かれたと思います。 アインシュタインも、深い洞察でその見解をえたのではないでしょうか?
中3女子です。 自殺を考えています。 色んなことに疲れてしまいました。何でこんなにも病んでしまったのか、自分でも分かりません。 原因等を考えてみても、「私の人格のせい」この結論に辿り着きます。 自傷行為もしています。 親にバレてしまった時 「お前がそんなに人間性が低いとは思ってなかった」「失望した」「お前が苦労していないからそんな事ができる」「贅沢」 と言われてしまいましたし、顔を叩かれました。他のどの大人よりも信頼出来るはずの親にそんな事されるとは思っていませんでした。 でも、死ぬときはちゃんと感謝の言葉を遺すつもりです。 私が自殺しても成仏出来ないでしょうか 神様、仏様は無宗教の人でも異教徒でも愛してくださいますか? 私は神様や仏様にも見捨てられてしまっているのでしょうか
いつも仏教のこと教えてくださって、ありがとうございます。 供養の作法に関して気になることがあってお坊様にお訊きしたいと思いました。もしよかったら、お暇な時に教えてください。 私は帰省するとまず仏壇の前でお線香をあげて手を合わせていました。お線香は仏教式の供養だと思って、実家に着いたのが遅かった時は夜でもお線香をあげていたのですが、夜にお線香を焚くと供養して欲しがっている霊が寄って来るからやめたほうがいいと聞いたことがあるんです。出所のよくわからないお話だし迷信ではないかと思うのだけど、仏教的に夜にお線香はよくない作法なのでしょうか。
こんにちは。四海と申します。質問を見ていただいてありがとうございます。 私は最近仏教の魅力を知り、ネットなどを使って仏教について調べて瞑想などにも挑戦しました。そしてあるとき突然猛烈な衝撃に襲われました。自分と周囲が共に呼吸して境目がなくなった感じがしたのです。それ以来痛みや空腹などを感じてもそれらに惑わされることがなく、心がつねに穏やかで喜びと感謝で満ち溢れています。(言語化すると非常に分かりにくい感覚なので拙い表現なのはご容赦ください。)ひょっとして悟ったのかなと思いましたが実際周囲に変化を指摘されたのでやはりそうみたいです。 ここでひとつ伺いたいことがあります。 悟りを開いたら何をすればよいのでしょう。苦しむ人々を助けたいという気持ちこそありますが16歳の小娘に出来ることなどあるのでしょうか。 母や父にはとても相談出来なかったのでここで質問させていただきました。お知恵を拝借したいです。
もともと、あまり寝つきのよい方ではないのですが、最近特に寝付けません。 お坊さんはすぐに寝れたりするのでしょうか。寝つきが悪いときはありますか?そのときは何をしていますか?
勉強出来ない。片親にも関わらず、多くの負担をかけている。親に負担をかけまいと沢山嘘をつく。友達いない。 こんな自分が嫌です。嫌で嫌でたまりません。 死にたいです。
40代、無職、独身、天涯孤独(両親は母親はがんで病死、父親は借金苦で自殺)彼氏も友達もおりません。 学生時代もいじめられて孤独、会社も仕事もできずくびになって以来 引きこもりです。 どこをどうひっくり返しても、幸せだって思えた瞬間もありませんし 体験も皆無です。 無理に幸せと思おうとして生きてきましたがもう ネタ切れです。幸せは考え方次第、ともいいますが本当に、全く ないんです。もし死んだとしても、(孤独死か餓死でしょう、全く相談できる人も理解者もいませんので、たった独りの自分だけの力でどこまでできるかわからないので)悲しんでくれる人もおりません。 この辺信じてもらえないことが多いですけど、本当です!! 餓死=自殺扱いですよね? このサイトで必ず自殺者は地獄へ行く訳で ないというのを読んで少し心が軽くなりましたが、私でも大丈夫でしょうか、、、。必ず地獄送りでないのなら、精一杯できることやって みようかなという気持ちになってきました。 死ぬこと自体は全く怖くないし、この世に未練もありません。 ただ死んだ後まで、もう苦しみたくないだけなのです。 生まれ変わることにも抵抗ありません。 今の自分が消えてくれるなら万々歳ですから。
厚かましく、非宗教説を続けます。 釈尊の言行については、立川武蔵先生の「ブッダをたずねて」の受け売りですから、皆様先刻ご承知と思いますが、信仰について言及したいと思います。 先ず釈尊は、偶像崇拝を禁止したとのことですが、釈尊の死後、舎利を分配して、早速信仰の対象にしました。 仏像も信仰の対象として作成され、祇園精舎での説教で済むところを、巨大な寺院を建築し、仏像を納めて 荘厳さを競いました。 これは中国の仏教を模倣したのでしょう。 釈尊の言行からはまったく不要なものであるはずです。 次に釈尊の死が近づいたときに、近隣の村人たちが釈尊の葬儀の支度を始めているのを見て、弟子にあそこに参加してはならないと戒めたそうです。 元々葬儀には無関係だったようです。 確か応仁の乱で加茂川に死体が放置されていたのを、僧侶が荼毘に付したのが始まりだったようです。 釈尊の言行に従って、これらの行事を無くせば、仏教はただ説教と修行に励むことだけが残ることにはなりませんか? 仏教は信仰とは無縁だと思います。これが非宗教説です。 蛇足ですが、通常寺院の参道に仁王門がありますが、これが参道の入り口ではなく中ほどに建てられいます。 これは参道が、輪廻転生を示したと考えられます。 参道の入り口は娑婆です。参詣者は参道を通って本堂に向かいます。 本堂は娑婆から切り離された死の世界です。 本堂に居続ければ平穏ですが、娑婆に還るときは仁王門で苦しめられます。 「チベットの死者の書」によれば、丁度3週目に怒りの神々に遭遇します。 仁王門が中途にあるのはそれを模したものと考えられます。 従って輪廻転生は仏教にとってそれ程重要なものです。 現在仁王門の像は参道を向いていて外敵を防ぐと言われていますが、参道の中途にあるのも不自然だしその必然性が考えられません。 像は本堂を向くべきだと思います。 さびれたお寺の仁王門がその向きになっているとの記事も見かけました。
「たき木はひとなる、……」からはじまる、道元禅師が「現成公案」において「仏教にいうところの不生・不滅の考え方を説」*いているところでわからない点があるので質問させてください。 ①「薪は薪の法位に住して、さきありのちあり」の「さきありのちあり」とは、どのようなことを言っているのでしょうか。 ②その直後の文「前後ありといへども、前後際断せり」の「前後」は「さき」「のち」を言い換えたものであるとして、「前後際断せり」とはどのようなことを表しているのでしょうか。 ③「前後ありといへども、前後際断せり」の文において、なぜ「前後あり」と「前後際断せり」とは「といへども」でつながっているのでしょうか。対象をその前後に分析した場合、その対象は前後で分かれていると考えるのが自然だと思うのですが、ここであえて両者を逆接の確定条件でつなげているのはどのような狙いからなのでしょうか。 *増谷文雄全訳注『正法眼蔵(1)』(2004)p.47
2回目のご質問になります。前回も真摯なご回答を ありがとうございました。 尚、今回のご質問も優先ではありませんので、深刻な ご相談を優先させて下さい。 仏教を学ぶ上で「空」の概念が定まりませんので、 ご教示頂ければ幸いです。 世俗諦としての表現でしか質問できませんので、 質問の意味も理解されるのか心配でもあります。 これまでの仏教の学習から、全ての物事は「現象」 であり、その瞬間の状態であり続ける「実体」は なく、全て川のように流れていくものだと理解し ました。=無常・無我 →この理解で正しいでしょうか? 物事が「ある」でもなければ「ない」でもない。=空? この意味が正直、理解に苦しんでいます。 「空」(から)という世俗諦としての言葉のイメージ だと、「からっぽ」のように感じます。 でも、何もないと定義すると六根センサが何も作動 しないと思います。 「見えた」「聞こえた」・・・は、実際にあります。 私の理解したことは、 全ての物は「地水火風」の構成のされ方で、現象 としての現れ方が異なる。 →物質、人、動物、植物・・等々 全ての物は、エネルギーと言えるのではと、感じました。 エネルギーという表現が適切かわかりませんが。 物質には、質量というエネルギーがある。 生命にも質量もありますが、心があり、生存欲求や色々 な欲求がある。これらをエネルギーと表現しました。 このエネルギーが他のエネルギーとぶつかりあって変化 を生み、因果法則によって、現象として常に変化し続ける。 物質も空気に触れ、物質と空気のエネルギーのぶつかり 合いで酸化し、そのもの自体も変化し続ける。 自分の心(本当は自分という実体はないのでしょうが)も 六境が六根センサにぶつかり、物事を認識し(エネルギー がぶつかる瞬間)、六識で心が何らかの反応をする。 ぶつかるという表現より影響し合う方が適切かも しれません。 ですから、「空」とは、ある/ない(虚無)ではなく、 あるエネルギーが他のエネルギーとぶつかり(影響)、 因果法則によって変化し続ける現象と理解するのは 誤りでしょうか? 空=無常=無我と感じられます。 以上、初歩的な質問で恐縮ですが、宜しくお願いします。
初めまして。私は最近、某仏教のテレビ番組にハマっています。 「輪廻転生」のことを知りましたが、疑問に思っていることがあるので、教えてください。 「輪廻転生」には六道があり、魂は6つの世界を旅しているとのこと。 人は死んだら、天界や極楽に行くと聞きました。 でも、生まれた時に今まで魂が旅してきた六道(地獄も含む)の記憶は一切ありません。また、よく「人は死んだら“無(生まれる前の状態)”になる」と聞きます。 地獄や天国というのは、本当に存在するんですか?誰も見たことがないからわからないんじゃないの?と思うんです。 本当にあるなら生まれる時に何らかの地獄の記憶(熱い・痛いなど)があるはずだし、お浄土に行くにも三途の川を渡る際の感覚や閻魔様に出会った時の恐怖、彼岸に渡った記憶や皮膚の感覚というものがあるのかなって。魂になっても、痛みや恐怖を感じるんでしょうか。 私は、できればそういうのがなくて、「死んだら本当にただ無になるだけだよ」って言ってもらう方が安心するんです。 だって、死んでから「生前悪い事をしたから地獄で苦しむ」って思ったら死ぬのが怖いじゃないですか。 天国と地獄の教えというのは、「悪いことをしたら地獄に行くよ。だから、生きている時に悪いことをするなよ。」という解釈と思うのは、どうなんでしょう?
以前の投稿では表現が回りくどくてイマイチ聞きたいことが伝わっていない様でしたので簡潔な質問文にして投稿し直しました。 宜しければご回答お願い致します。 私の悩みの元に関してはプロフィールに記載しました。 『なぜ愛する女性の命を出産という危険に晒してまで子どもを望んだのですか?』
なぜ在家得度はこんなに難しいんですか?たらい回しです
先日、仏教についての本を読んで疑問に思ってもやもやしたので質問させていただきました 空である世の中で、お坊さんは空をどのように認識して、認識してその結果、何をしようとしているのですか?どうして今の行動をしているのですか? 僕は全ては認識であり、認識や表現(言葉など)を利用して認識しているみたいな解釈しました 拙い文章ですみません、よろしくお願いします
自殺した後の死後の世界のことが気になっています。また、お釈迦様は死んだ者の死に方、死にぎわを問わないとは本当でしょうか?仏教の法典?について色々と調べてみて、お釈迦様が自殺したら地獄に落ちると言っていないことや、自殺を否定していないこと、それら全ては人間の善悪の価値感であることがわかったのですが、サイトや書籍によって若干のバラツキがあったので本職であるお坊様にお聞きしました。じゃないと何か未練のようなものが残りそうで… また、人間は死んだらどうしても輪廻転生をしなければならないのでしょうか?私は今まで生きてきて、もう生まれ変わるのはこりごりだ、無になるか世界をただ傍観するだけの存在になりたいと思いました。そういうものになる方法はあるのでしょうか? あとこれは個人的なことなのですが、人間は肉体を離れて霊や魂だけになったら性別や年を超えて姿を変えられるのでしょうか? 以上、よろしくお願いします。
生前の写真にお供え物をする事 お二人の住職様にご回答頂き 本当にありがとうございます。 わかりにくい文章で大変申し訳なく 再度ご質問させて頂いております。 ご質問の宗派ですが 浄土宗です。 亡父 亡兄のお墓も仏壇も実家にあり 義姉が守ってくてれおります。 遠く離れております私は 自分の気持ちを落ち着かせる為に 二人の生前の写真をおいてお参りをしております。 ご住職様の言われるように 生前の写真の横にお位牌を置くという事ですが実家に位牌が ある場合は私は写真だけおいてお参りする事は許されますか? ご住職様が言われる ご本尊様も実家におられます 生前の写真だけをおいてのお守りは 許されるのでしょうか・・・・ よろしくお願いします。 なお以前の質問も載せております。 ********************************************************** よろしくお願い致します。 三年前に父が他界。一年前に兄が他界しました。 離れて暮らしている事もあり 二人の写真を棚に置き毎日 お花を飾り お茶とお水を供えます。 時々お菓子などもお供えします。 質問です。 母の知り合いの方が 亡くなった方の写真を置いて お供え物をする事はよくないと言います。 そんな事はあるのでしょうか? 私は 写真の前にお供えをして手を合わせる事が 楽しみでした。。。。 だめだといわれるととても寂しく思っています。 本当に いけない事なのでしょうか?
(編集部より。こちらの質問は利用規約の禁止事項に抵触する部分があるため一部編集しています) 前回と前々回に厳しい意見を沢山もらいました。 あれから妻は精神的な病を患い現在入院中です。 子どもは私の実家に預けてあるので安心ですが退院したら本当に離婚するつもりです。 妻には女としての生き方を説いているのですが全く分かってもらえませんから。 ここ最近女性宮家の創設の話が世間を賑わせています。 私は個人的には断固反対です。 男性遺伝子はXY、女性遺伝子はXX、遺伝子の構造的に男性系統の承継でないと血統が途絶えるからです。 女系天皇が誕生すれば2000年以上続いた天皇家を絶やすことになります。 女性宮家に男性が婿入りして、その子が天皇になるなんてあってはなりません。 あったとしても男のお膳立てがあって成り立ってることが殆どでしょう。 お坊様方はまだ私の意見をコテンパンに叩くのですか!?
人間とは偽善と悪の塊だとは思いませんか?
こんにちは。 何か心の拠り所が欲しいと思い、仏教の勉強を始めました。般若心経を読む宗派・読まない宗派あると思いますが、皆様の解釈を教えてください。 私が読んだ本に依ると、 ブッダは五蘊や十八界、十二因縁は存在するが、その「持ち主としての私」という確固とした存在は錯覚だ、「空」だ、と説いた。大乗仏教ではそれすら錯覚で、「空」という法則のようなものがあると説いている。 ブッダは「世の中はこのように構成されていて、だから生きることは苦しいのだ。ひたすら瞑想をして煩悩と戦いなさい」、 大乗仏教は「今見ている世界は全てが錯覚だから、思い悩むことはない。ひたすらお経を唱えれば、必ず救われる」という教えだ、と解説されていました。大乗仏教が「宗教」であるのに対し、ブッダの教えは「思想」であるとも書いてありました。 科学が進歩しておらず世界が何も解明されていなくて、生まれた環境を受け入れるしかなかったような時代、貧しい庶民の心を救ってきたのは大乗仏教に他ならないと思います。今でもそうです。私はお経にある呪術的な力も信じています。 でも、大乗仏教の僧侶の皆さんには大変失礼なことを申し上げるようで、申し訳ないのですが、般若心経を読むと全てが幻だと言われているようで、納得できません。現代社会においては、ブッダの考え方の方が合理的で理にかなっているような気がするのです。 それに般若心経は、ブッダが瞑想している間に、そのすぐ隣で観音様が舎利子に対してブッダの説を全否定して新しい呪文を教えて、それにブッダ自身にその通りだと言わせる、という舞台設定ですよね。それは、大乗仏教が原始仏教を越えようとしてできたものだからだと学びました。「日本人として般若心経を心の支えにしたい」という気持ちと、「ブッダの説の方が自分は納得できる」という気持ちが自分の中で葛藤してしまっています。 先日も、近所のお寺の座禅会に参加し、全員で般若心経を唱和しました。ブッダが推奨していた座禅の前に彼の教えを否定する内容のお経を読んで、裏切っているような罪悪感にかられてしまいました。 (私が読ませていただいた本は、仏教系の大学で教えていらっしゃる権威ある先生の本です。以上の解釈は私独自のものではなく、その方の受け売りです。) 私のこのような理解はものすごく偏っているのでしょうか? 皆様は般若心経をどのようにお考えですか?