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hasunoha 問答検索結果 : 「 お経 」
検索結果: 3037件

母が癌になったことで、自分の送ってきた人生を悔いています

初めて質問させていただきます。 母(61歳)が直腸癌になり、手術をしました。手術では、癌とリンパを切除したけれど、ステージは3bもしくは4なので、抗がん剤で治療した方が良いと執刀医に告げられました。病理検査待ちの状況です。 手術で全て取り切り成功しましたが、検査の段階ではステージ3aと言われていたので、思ったよりも悪かったことに、気落ちしています。 抗がん剤の治療について、書籍やネットなどで調べると、副作用の辛さや万人に効くわけではないと分かりました。また再発や転移の可能性が高いことや、様々な情報、特に悪い情報ばかりが目につきます。また、手術後ベッドの上で色んな管に繋がれている母を見ると、どうして母がこんな目に合うのだろうかと悲しくなります。 母は癌と分かっても気丈に振る舞い、「あなたを残して死ねない。負けないよ」と言ってくれました。 再発や転移の確立を考えたとき、5年後に母はいないかもしれません。そう考えた時、私は自分の人生をとても後悔しています。母としての幸せ、娘の花嫁姿や孫の顔を見せてあげることができません。恋人もいないので、難しいと感じています。それを叶えられないことが、とても申し訳なく、私にも家族がいたら、母も安心したのではないかと思うのです。自分のことより、娘の私のことをいつも気にかけてくれた母に、本当に申し訳ないと思っています。 抗がん剤の治療も効かない場合は、ただ寿命を減らし、苦しんで死期を早めることもあると聞きました。母には苦しんでほしくありません。辛い思いをしてまで、寿命を延ばすことに意味はあるのでしょうか。自分の気持ちが整理できず、母の前では普段通りに接していますが、1人になると涙が溢れて仕方ありません。 先の見えない不安が怖くて仕方ありません。母のことも心配で不安ですが、同時に自分の送ってきた人生を責める気持ちが溢れてきます。 自分の気持ちの整理の仕方を教えていただけないでしょうか? よろしくお願い致します。

有り難し有り難し 59
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白骨の御文章に思う

広島在住で、いわゆる安芸門徒と呼ばれている地域の者です。 葬儀と言えば導師による読経の後、定番となっている《白骨の御文章》の拝読があります。 拝聴している遺族、縁者にはこの御文章の言葉ひとつひとつが重く胸に突き刺さり 感極まって涙する姿は参列者の心をも締め付けるものがあります。 そこで以前から私には一つの疑問がありました。 法話を聴聞する為にお寺参りをした折、読経後に住職あるいは講師としてお招きした僧侶による御文章拝読がありますが  この御文章は数ある章の中から日替わりで読まれている様です。 しかし なぜか私の地域では《白骨の章》にだけは巡り合う事が殆どありません。 普段のお勤めの祭には意識的に避けて、葬式の時に用いる切り札として温存している様にさえ思えるのです。 (もし、他の地域あるいは他宗派では違うのであればごめんなさい) その理由として お寺参りと言えばどちらかと言えば余生短し老人が多いので 死を意識させる話題には触れないでおこう。 そして葬式に限り《白骨の章》で締めれば無難であろうといった僧侶の方々の思惑が働いているのでしょうか? “人の死 ” というものは日常においては誰だって考えたくはないし、忌み嫌われる事はわかりますが 死 という事ほど絶対的に決まっていることはありません。 なので 子供のうちから葬式以外の日常の中で《白骨の章》を耳にするチャンスをたくさん頂くとか 御文章に綴られた深い意味に気付かせて頂く機会が多い生活を送ることは決して悪いことではないと考えるのです。 いつか必ず自分の番が回ってくる死に対しては 若くて元気な時から真剣に考えておかなければならない大切な事だと思うのです。 そうすることが 今の人生を真面目に正しく生き抜く力になるのではないでしょうか。 とは申しましても 現実問題として 住職様の立場から言えば「お寺参りの度に《白骨の御文章》を聞かされたのではたまったものじゃない!」と門徒の方から批判を受け、お困りになるかも知れませんが 私の様な考を理解して頂ける方はおられないものでしょうか? また《白骨の章》を敬遠しないで日々の暮らしの中に活かせる良い工夫があれば お聞かせ頂きたいと思います。

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心と実際の間で。

最近、とても気持ちが不安定です。 心の持ち方を変えなくては…と出来ることを始めようと、お坊さんの書いた本や、ブッタの本、自己啓発の本、写真集や偉人の言葉などを読み漁っています。 例えば、怒りの気持ちを10秒我慢してみましょうとか、普段の生活を見直しましょうとか、あらゆる色々なアドバイスを読んでは実行しようと頑張っています。 でも、そうやって1つ1つの動作に緊張感を持ってるせいか、今まで以上にストレスがかかり、それがあちこち体に出てしまいます。 心が乱れると、食生活も乱れ、家族には手の込んだものを作っていても、自分は菓子パンとか、ごはんだけとか、お菓子で済ませることもあります。 1番治したいところは、すぐにイライラしてしまう事です。接客業なので、仕事中は感情を露にはしませんが、その分些細な事で子どもに必要以上に怒鳴ってしまったり、理由もなくイライラしては甘い物を過食してしまったり… 最後に笑ったのはいつなのか分かりません。 多分、こうして切羽詰まって相談させていただいていますが、その御返事の御言葉も心の奥底では分かっているのだと思います。周囲はそんな私に、更年期だから…と言いますが、そういうせいにはしたくないのです。精神科に行って薬に頼るのも嫌なのです。 心穏やかに、周囲に感謝し、妬み恨みを抱かず、優しく静かに暮らしたいです。もちろんそうならないのは、自分自身のせいだと熟知しています。だから苦しんでいます。 抽象的で矛盾したご相談かもしれませんが、どうか教えていただきますたいです。よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 15
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死を受け入れられません。

初めて相談します。 年齢差20歳のある方と相思相愛でした。お互いに既婚です。趣味もあり2年近く親しい間柄でした。相手の方は一年前に急な病になり、ほぼ自宅にいる生活になりました。しかし、2人で出した結論はこのままお互いが心の支えで必要だと言う事でした。コロナ禍もありあまり外出出来ませんでしたが、ここ一年趣味をする為、車椅子で出かける日々でした。唯一の外出で奥様にも承諾して頂き(申し訳ない気持ちでしたが、)尊敬する方と少しでも一緒に居たいと思い、趣味の講師と称して自宅に迎えに行き、会っていました。この一年肉体関係はありません。病気や体力が落ちていく心の変化を支えたい一心でした。微力でできることは限られていますが。 しかし、8月末に奥様より急死の連絡がありました。コロナ禍もあり家族葬になり、前日逢いに行く事が出来ました。今まで人生のアドバイスや趣味、思考色々な点でわかり合える方が居なくなり、これから何を糧に生きていいのかがわからなくなります。また、突然の早い死に無念さや死が迫る恐怖等、相手の方が抱えていた気持ちを思うと居ても立っても居られない気持ちになります。最後はどんな気持ちで過ごしていたんだろうか、私との関係は負担だったのだろうか。亡くなる2日前までは連絡を取り合っていましたが、声も出ず手の震えもありLINEでの少しの会話でした。 今も逢いたい気持ちと話が出来るのなら気持ちを知りたいと思う日々です。 どう思えば気持ちが整理できるのでしょうか? 文章がわかりづらいとは思いますが、ご回答お願い致します。

有り難し有り難し 23
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2024/07/29

双極性障害の考え方

双極性障害でここ数年会社を急に休むことが増えてしまいました。 きっかけは前職でのパワハラ、家族との言い争いだったのですが、そこから急に体と心に異変が生じてしまい、お医者さんの診察を受けたところ双極性障害(鬱が強い方)との診察をうけました。 主治医の先生のお力を借り具体的な症状にはお薬の力を借りて向き合っています。 しかしながら、毎日の生活の中で色んな人に助けてもらう中で次第に自分の中で甘えみたいなものが生まれてくることに気づき、そこでまた憂鬱な気分になって症状が悪化しループしてしまいます。 次第に「症状」と「自分に対する甘え」の境界線も分からなくなり、いわゆる「わかっちゃいるけどやめられない」が増えてきています。 今も朝から夕方までずっと布団の中から出られずにこの相談文を書いていますが、心の何処かでは「症状」と思いつつも別の何処かでは「都合の良すぎる甘えだ」とも思っている自分がいます。 こんな自分を変えたい、とまで大きな願いを持っているのではないのですが、せめて「朝きちんと起きてご飯を食べ会社に行き、時間が来たら帰る」といったところまで自分のアクセルとブレーキのコントロールを取り戻したいです。 仏教の世界では、自分自身をコントロールするという考え方はありますでしょうか?またある場合は、どのようなことから始めているのでしょうか? 長くなりましたが、御返事いただけますと幸いです。

有り難し有り難し 5
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友人の悲報を伝えるべきか、伝えないべきか

長文失礼します。 先日、私の先輩が亡くなられました。 その先輩は、人付き合いが苦手な私を叱咤激励してくれて、いつも心配してくれる。 優しくて本当に明るい方でした。 亡くなられた日、先輩が危篤だと聞いて、先輩に会いに行きました。 いざ、死を目の前にすると言葉が出ないものですね。黙ったまま先輩のそばに立ってることしか出来ませんでしたが、先輩は、安らかに眠られました。 その時、先輩の旦那様からは、先輩の死を周りに知られたくないと言うことで、他には言わなくて良いと言われてました。 すいません、ここからが本題です。 先輩のお通夜の当日です。 偶然に、先輩と親交のある方で、私も面識がある方に道端でお会いしました。 その方をAさんと呼ばせてもらいます。 Aさんは、私と先輩が仲が良いことをよく知っていました。先輩が、Aさんに私の話を話したり、あの子をよろしくっと言われたことがあると、Aさんからと聞いたことがありました。 挨拶をしてすぐにAさんから先輩はどうしているか?と聞かれるだろうと、絶対心配してるから予想はしていました。 ご家族の意向もあるので、先輩のことは、黙っておこうと最初に決意していたのに、実際先輩のことを聞かれるとすごく戸惑いました。 この方に嘘はつきたくないし、最後のお別れをせず、後日に人の噂で先輩のことを聞くのは、どうなのだろうかと思ったのです。 その友人の方は、先輩の病気のことも体調がここ数日悪いことも知っていましたし、 あまり会いに行けば気を使うし、無理をさせると遠慮されていたのを、私はよく分かっていました。 私に会えば、まず最初に先輩の体調を聞いてくるような方です。 結局、私は先輩が亡くなられたと言う事と、 今日がお通夜があることを伝えてしまいました。 私のこの行いは、ただ自己満足の話で、先輩に対してもご友人の方に対しても果たして良かったのか。 寝る前や、1人になった時、とてつもなく後悔の気持ちが溢れてきて、ごめんなさいと何度も泣きたくなり、私の旦那からもいつまでもくよくよするなと怒られる始末です。 皆様なら私のような状況の時、どのような行為を取られますか?

有り難し有り難し 21
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寺嫁の品格とは

私は10代でできちゃった結婚でした。そのため、両親、お姑さんには大変迷惑をかけ、主人の夢も壊しました。 それから10年ですが、5年前主人は転職を兼ねた出家をしました。 お姑さんの再婚相手がお坊さんだったためです。 偶然にもそのとき、三人目の子供を授かりました。 主人が得度をしたあとでした。 すると、前住職から、「おろしなさい」「お寺の嫁として子供を抱えては無理だ」と言われました。 大きく揉め、とりあえず、私と子供たちはお寺とは関わらず、主人だけ修行のみちに入りました。 そして、3年前、突然前住職が亡くなりました。 それから、様々なことがありましたが、現在主人が住職をさせていただいてます。 お姑さんが内情については仕切ってくだせっています。 私も主人のため、お寺のために少しでもお役に立ちたいと思い、入りましたが、私は所作も知らず、常識もなく、取り柄もないため、「見て、気づいて覚えなさい」というお姑さんのやり方ではなかなか覚えられず、「お寺の嫁としてふさわしくない」「子供を優先に考えていては、絶対にできない」「子供のことでは一切協力しない」「でも、私の孫であり、お寺の子供なのだからもっとちゃんとしたしつけをしなさい」「あなたが一生懸命やっていることは見当違いでただの使用人」など、様々なことを言われてきました。 正直人格否定、今までをすべて捨て、お寺と住職だけ大事にしなさいと言われていると感じます。 確かに結果は残せていないからかもしれません。でも、ここまで来たら、どうにか頑張りたいですが、やはり、辛すぎて、耐えられない気がしてなりません。 お姑さんからの私はどんなに頑張っても認められないでしょう。 でも、お寺を守っている主人の将来を支えるのは私だけだと思って耐え、少しでも成長しようとしていたのですが…もう、力が尽きてしまいました。 どうしたら良いのでしょうか。 私という人格を捨て、何を言われても耐えていけばいいのでしょうか? 寺の嫁とはどうあるべきなのでしょうか。 私を捨てることは、私を育ててくれた両親の思いなどすべて捨てるということです。 言葉としてもそのようなことを言われました。 そう切り替えるのはどうしたらいいのでしょうか。 私は主人の夢を奪ったから、その報いでしょうか。 大変長文になってしまい、申し訳ありません。 どうか助けてください。

有り難し有り難し 37
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2024/05/21

自分を許せないです

先日、私が勘違いをしてある場所で他の方々が待っていたことに気がつかず、順番待ちをしていたところに横入りしてしまいました。 素直に謝るべき場面でしたし、一言謝れば済む話でした。しかし、私に順番を抜かされた方が言った「おい、おまえ!」という怒鳴り声が怖くて、頭が真っ白になってしまい、謝ることもせず、自分のことを呼んでいると気がつかないふりをして、その場から逃げ出してしまいました。 親からは子供の頃から「わざとやったことじゃなくても、謝るべき場面ではちゃんと謝りなさい」と教育されてきましたし、私自身そうだと思っています。今までも学校や職場で、きちんと謝ってきました。 しかし、そのときはできませんでした。 もうすぐ30歳になる大人のくせに、「ごめんなさい」と言わずに逃げ出した自分が情けなくて、腹正しくて仕方ないです。 でも、何故かあの方の怒鳴り声を思い出すと恐怖を感じてしまいます。私自身は顔を全く覚えていないのですが「近所で会ったらどうしよう」「もし警察に連絡されて職場にバレるようなことがあったらどうしよう」とずっと考えていて、ここ数日まともに眠れていません。 「ごめんなさい」と言えば済んだものを、自分の愚かな態度のせいで引き起こしている現状なので、自業自得だと思います。でも、この罪悪感から少しは解放されたい、この出来事ばかり考えて生活するのをやめたい、という気持ちがあります。 解放されるには、その方自身に謝ることが1番でしょうが、全く知らない方なので直接お詫びする機会がありません。 私はどう償うべきでしょうか?

有り難し有り難し 12
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