登校拒否をしていた小学生の頃、法要か何かでお坊さんとお食事する機会がありました。その時、そのお坊さんが話してくれたお話です。 だいたいの内容しか覚えていません。仏教のお話か、そのお坊さんが作ったお話かも分かりませんが、こんなお話をご存知でしたら何というお話か教えてください。 ・ある子供が誰かから人生の毛糸をもらった。その毛糸を巻き取ると時間も早送りされる。 ・嫌な事があると、その子供は毛糸を巻き取り続けた。 ・気づいたら老人 ・死ぬ時に薄っぺらい人生だな、って思う ふと、このお話を思い出す時があります。
いつもお世話になっております。 仏教の教えに興味があり、ちょっとかじろうかななんて思っています。 実家は浄土真宗なのですが(葬儀やお盆のときにお世話になる程度)、他にも様々な宗派があり、宗派の中にも宗派(?)があることを知りました。 「これは、闇雲に勉強しても自分に合ってるところを見つけるのは難しいぞ」と思ったのですが、つまるところ「いの一番に尊敬できるウンメイの人を探したい」と言っているようなものだなとも思い、迷子になってしまいました。 あらかじめご縁のあるところにお世話になるのもいいかなと思うのですが、祖父の金ピカで豪奢なお仏壇や、来てくださるお坊さんと価値観が合わず、自分で他の宗派を探そうと思っています。 どのように探せば、いわゆる「推し」の宗派を見つけられるでしょうか。 それとも、無理に探すものではなく、「推し」のようにある日突然めぐりあうようなものなのでしょうか。
私には性同一性障害の彼がいます。 彼は父親のことをとても尊敬しています。ですが彼の父はお坊さんで彼に起きる不幸などは全て自然に反して生きてるからだといいます。 女性として生まれたからには女性として生きていくのが正しいと。このまま男性として生き続けたら穏やかな最期も迎えられないと、悲惨な死を遂げるとも言われてきたからなのか彼もそれを信じてそう感じてるみたいです。自分は生まれてきたのが間違いだともいいます。 頭では父の言っていることが正しいとわかっているんけど気持ちがついていかないといいます。彼の父が言うようには男性として生きていくより女性として生きていく方が幸せだと言います。でも彼は苦しんでいます。 私は彼にそんなことはないよとありのままで生きていいんだよとと伝えたいんですが上手く伝えられません。 仏教では彼の父の考えが正しいんでしょうか? 彼はどうして生きていけばいいのかわからず苦しんでいます。どう支えてあげればいいんでしょうか? よろしくお願いします。
お坊さんとのお付き合いは初めてだったので、仕事内容も時々きいてはいましたが、大変そうでした。新総代のことやらでも何か問題があるとのことでストレスもあったかと思います。ご家族にも要介護1,2級を二名抱えて、結婚は誰とも考えていないという彼でした。 お互いに会うことを決めて、動けない彼のもとへ私が一時帰国の時期をずらして今年の秋に会う予定でした。 ですが自分の仕事や身の回りの問題を抱えているときは交際相手のことを思いやれないと聞いてはいましたが、そんなときに私との些細な話合いの頻度が増えて、それで自分の環境を考えて別れを決意したと突然言われました。 彼のことがまだ忘れられません。忘れないといけないのでしょうか?諦めたくない自分もまだいるのは確かです。ちなみにもう音信不通になりました;
私は地方の檀家寺に生まれました。 幼い頃から父にお坊さんになること以外の道を許されず、反論すると暴力や大切なものを壊されたりしてきました。 逆らうことができ学生時代は本山に寄宿しながらの修行生活をしました。 しかし、修行を終え娑婆に帰ってから、自分でやりたいことを選べなかった後悔と青春時代を失った後悔に襲われました。 それと同時に本山から帰ってからは周り(寺族、檀家様、周りの寺院)からの期待が大きくなっていました。 住職が私のいない間に周りのお寺や檀家様に「息子は望んで家を継ぐために本山に修行に行ってる」と意気揚々と話していたそうです。 それだけではなく住職は結婚したら将来同居がすぐできるように二世帯住宅を完成させていました。 結婚しても、食卓でも仕事の話やすぐに機嫌を損ねると癇癪を起こし暴力を振るってきた父と一緒に生活することは相手のことを考えると私はできませんが、、、。 そんな日々が数年続く中で住職から荒行に行くようにいわれました。 私は生まれつき身体も弱いですし、正直行きたくありません。 本山での修行中は家を継ぐ決心や僧侶になる発心がない状態でした。 しかし、逃げずにいたのは本山よりも癇癪を起こす住職の方が怖かったからです。 今は祈祷寺でもないのにこれ以上、修行をしたくないという思いがあります。 そのことを父に話すと癇癪を起こし泣きはじめます。 もちろん、修行道場は自分自身の信仰あって成立することです。望んでもいけない人が大勢います。 縁あって寺に生まれたからといって私のような中途半端な人間が僧侶を志してはいけないと思っています。 本山から帰ってきてからは上記で書いたことや、父の癇癪や、親の言う通りに生きない罪悪感(荒行に行かない)で押し潰されそうになり鬱病になりました。 今は療養施設に入っています。 最後にですが私は決して僧侶という仕事は嫌ではありません。大切な生き方だと思っています。 ①僧侶の皆様は自分の将来をどのように決めてきたか。 ②本山で修行し、周りや親の期待されているが荒行に入らずに今後もその期待に応えれない罪悪感をどうしたらいいのか。 ③私のような人間が僧侶を続けて良いのか。 応えられる範囲でご教示ください。 よろしくお願いします。
先日大好きな母を亡くしました。 葬儀の前に母の一部をと思い、 母の髪の毛を少し切りました。 その髪の毛をお守りにして持ち歩こうかと思うんですが、 母の髪の毛をこの世でお守りにするに辺り母が成仏できなくなるなど何か他によくない事はありますか? お坊さんに三十五日までお経を勤めていただくのですが、 これから月命日などがありますが、 仕事などで忙しくなるため毎月お坊さんを呼べそうにありません。 一周忌などにはお坊さんにお経を唱えてもらう予定です。 月命日には必ずお坊さんにお経を唱えていただいだ方がよいのでしょうか? お坊さんは呼ばず、お経を録音しておいて流すだけでもよいのでしょうか? ほかに母のために何かしてあげると良い事などありますか?
はじめまして。 この頃たて続けに大切な方たちが死んで行きます 身内が2人どちらも癌で 親友 愛していたペット… 皆まだ若く元気盛りで 身内以外は何の前触れもなく突然いなくなったのです 私はもう誰かの死に遭遇するのが嫌です 心が張り裂けそうなぐらい辛いです 天へ昇られた人達に会いたい 私もいっそ__と考えることも多々あります でも今生きている大切な家族や友人と離れたくない その二つの気持ちがぶつかり合って何も手につきません この気持ちはどう整理したらいいでしょうか… 私たちが生きている意味って何でしょう こんなことは家族は勿論 先生や友人にも相談できませんでした そんな時にこちらのサイトを知り お坊さんになら相談してみようと思いました どうぞ よろしくお願いします
小学2年生の長男が最近何度も同じ事を聞いてくるのですが、うまく回答できずにいる事があります。 ①人間はなぜ生きるのか。 ②大人になったら良い事はあるのか。あるとしたらどんな良い事があるのか。 ③僕の人生は良いことがないので生まれ変わったら良いことはありますか。 だそうです。 私には難しくて分からないので、何でも知ってるお坊さんに聞いてみるね、と言うと目をキラキラさせて「うん!お願い!」と言っていたので小学2年生でも分かるようにご回答頂けたら嬉しいです。 よろしくお願いします。
生きていても、どうしても楽しいと思えません。 何をやっても駄目だな、とか、私なんていなくてもいいのでは?と毎日のように考えてしまいます。 未来の自分が、楽しく笑っている姿が、どうしても想像できないのです。 私に敵意を向けてくる人、馬鹿にしてくる人…なんだかもう耐えられません。 私だからこんな目に合うのでしょうか。 楽しくなるように、幸せを掴むために…行動しても空回りです。 上手く行くのは結局、要領よくやる人や美人でちやほやされる女の子。 なんで自分は生きているのか、どうしてこうも醜いのか、私は誰にとっても必要ない存在なのかも。 誰とも繋がりが持てないなら、このままずっとひとりぼっち…? もう居なくなってしまいたいです。 お坊さんは、生きていて楽しいと思えますか? そもそも、なんで生きないといけないのでしょうか…。
宗派が同じなのですがこういう街中にある小さなお寺は 基本的に供養とかがメインのお仕事なのでしょうか。 人生がうまくいかない時にお坊さんにお話を聞かせてほしいのですが 前述した小さなお寺では難しいでしようか、、 どういうお寺ならそういうことをしてくれますか? またはしてくれないのが一般だったりしますか? よろしくお願いします。
とあるお坊さんが釈迦は自殺について原典から観ると「自殺しても人生の負け犬で、来世も不幸になることでしょう」と説いたと仰っていますが、本当に釈迦はそのように説いたのでしょうか?
お坊さんは絶望感に苛まれた事はございますか? 死んでしまおうと思われた事はございますか? そんな時、どのように乗り越えられたのでしょうか? お忙しいなか大変恐縮ですが、ご回答をよろしくお願い致します。
『駆け込み寺』という言葉があるように、なにか迷ったり、困ったりしたらお坊さんの所へ行き、叱咤激励をもらう。 このようなイメージが私にはあります。 しかし、いきなり訪れて事情を説明し、「どうすればいいでしょうか?」というのはお坊さん側からしてみたら少し迷惑じゃないだろうか?という気もあります。 このような素晴らしいサイトもありますし、お坊さんにも優先すべき様々なお仕事があると思います。 しかし、面と向かってでしか話せないことはあると思います。 なので私はいつも「話を聞いてもらいたい。でも……」という状況です。 皆さんはこのことについて、どうお考えでしょうか? ご回答よろしくお願いします。
こんにちは あるお坊さんの御回答の中で、私より年下で御自身をおじさんと仰っているのを見て、 その御年でおじさんということは、私は化石かなと自問自答してしまいました そんなに深い意味は無いとは思われますが よろしくお願いいたします
初めまして。 お坊さんにアドバイス頂きたく投稿致します。 現在29歳の女です。 自分のやりたい事を一通りやり遂げ、 10年ぶりに地元に帰る事にしました。 両親も歳なので私が家を継ごうと考えている所です。 現在、父親は65歳、母親は63歳。 父らいつも人を見下し謝る事ができず自分に従う事を良しとする所があり、人として尊敬できません。 家のお金もギャンブルで使い果たしました。 母をいつも詰り、母も詰り返すというギスギスした夫婦関係です。 父は自己中心的な性格ですがとても情の深い父親です。 もし私がお金に困ったら自分の身を粉にしてお金を作り支えてくれると思います。 母親が体調を崩した時も普段は仲が悪いのですが、きちんと面倒を見ていました。 私が今まで都会に出て好き放題暮らせたのも父がお金をしっかり稼いできちんと生活してきたからこそだと感謝しています。 私の家族関係は父親が退職してから 一気に悪化しました。 お金を使い果たしたのも退職後です。 私と母が父に感謝の気持ちを伝えず 父の存在をぞんざいに扱った事も悪かったと思います。 ですが、父にも人として 自分を律する気持ちを持ってほしいと思ってしまいます。 これは自分に何か足りない部分があるから湧き出るものだと思います。 私はどの様に考え方を変えて 父親を受け入れたら良いのでしょうか? ご教授よろしくお願いします。
初めて相談します。先日若い俳優さんが亡くなりました。特別なファンではなかったのですが、何気なく彼の作品を見ているうちに、その演技力や人間性、魅力的な容姿や雰囲気に心を動かされ、彼に関する記事なども読むようになりました。 よく大切な人を亡くした方の話を聞いたりすると、もっと何か出来たのではないか、その死を防げたのでは…などと皆さんお話されますが、これまでは自分も果たしてそんな気持ちになるものなのだろうかと考えていました。 今回の俳優さんの死に触れて、身内でも関係者でもなく、見ず知らずの会った事もない自分がそんな気持ちになり悲しくなるのが不思議でなりません。 同じ様な世代の若い俳優さんを見ると、これからまだまだ輝き続けて素敵な未来があり歳を重ねていけたであろう彼を思い悔しく悲しい気持ちになります。 素晴らしい才能だけではなく、たゆまぬ努力を続けて頑張っていた彼の人生はどんな意味があったのか、などと思いを巡らせてしまいます。なかなかそこから抜け出せずにいます。 華々しい活躍の裏にはいろいろな現実があり、一般人には知る由もありませんが芸能人の宿命なのか、ある事ない事の憶測記事を書かれても、もう否定も肯定も出来ません。その死の真相も作りあげられてしまうのかも知れません。 考えると辛くて早く忘れたいと思う反面こんなに思っている自分もいつかは忘れてしまうのかも知れないと思う悲しさと複雑な気持ちになります。 同じ様な気持ちになっている方は沢山いるのでしょう。なかなか受け止めきれません。 彼の魂は今、安らかなのでしょうか。 皆さんの思いは彼に伝わるのでしょうか。巡り巡ってまた会えるのでしょうか。 何だか今まで思いもしなかった不思議な事を考えてしまいますが、お坊さんの観点からの気持ちの持ち方や受け止め方を教えて頂けたらと思います。
人に対してイライラしたり、直ぐに腹が立ったり、幸せそうなカップルや家族を見たら私には何もないと思ってしまいます。ADHDで心療内科に通っています。 そんな自分なので、新たに彼氏を作る資格はないし、職場ではいつも最終的に嫌われて2ー5年で転職をせざるを得なくなります。人と接するのが怖く、今の職場でも入って1年になりますが直ぐに態度に出てしまい、だんだん自分も職場の人も距離感を感じています。 何をどうすればこれからの人生を後悔せずに行きれるのか分からなくなっています。自分だけの事て直ぐにどうでもいいと思ってしまい、いつも1人で行動しています。 アドバイスをいただきたく思います。よろしくお願いします。
最近気づいた事です 生きることそれ即ち失うこと。 それは仏教徒として修行を積んだお坊さんなら当たり前の道理かも知れません。 しかし、親や自分の大切な持ち物、愛する人、遂には自分の命さえも失い、最期は無になる人生に意味はあるのかと考えるとすごく怖くなります。 私は浄土真宗なので般若心経の事は良く分かりませんが、般若心経でも最期は無になる的な事を説いていましたよね? 仏様は無に帰す人生、人間の存在意義についてどう説いておられるのですか? お坊さんはどうお考えなのか教えてください。
人生の中で苦しい時に勇気づけれられるようなイイ言葉をお坊さんに聞きたいです。このサイトを見ている皆さんの応援歌となるような勇気づけられるような言葉をお願いします。お坊さん自身が勇気づけられている言葉でも大変ありがたいです。
仏教以外の様々な思想が存在するこの世界で、お坊さん方々は何故、仏教を選んだのですか?「実家がたまたまお寺だったから」とか、「娑婆を捨てるつもりで仏門へ」などのきっかけがあったと推測しますが、今現在もお坊さんであり続け、仏教を信じ続ける理由って何でしょう(「坊さん=ただの職業」論の僧侶は除きます)。 例えば、哲学の普遍的テーマは「幸せとは何か」ですが、継がなければならない寺などない自由の身であれば、これが人生のテーマだという人は仏教じゃなくて哲学でもいいですよね。でも、仏教一本に決めちゃう人もいる。すると、個人としては哲学を学ぶことは出来るけれど、僧侶という立場上、仏教の教えに反することは表立って言えなくなったり、思考を限定されたりすることもあると思うのですが・・・実際はどうなんでしょう。