hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる
hasunoha 問答検索結果 : 「自分 苦しみ 」
検索結果: 8014件
2022/02/28

罪悪感と後悔で死にたい

いつもお世話になっております。 数年前にもご相談させていただきましたが、私は結婚しているにも関わらず不倫をいたしました。 期間は2ヶ月でしたが、夫以外の異性に言い寄られたことがなかった私は愚かにも浮かれており、友人の一人に話してしまいました。 その後、不倫相手との関係は終わり、数年後には妊娠、出産(もちろん夫の子です)したしましたが、その頃から不倫したことや、過去に友人達を傷つけてきた罪悪感に苛まれるようになりました。 この数年でどんどん友人達とも疎遠になり孤独感に押し潰されそうです。 また、その疎遠になった友人の中に、私の過去の不倫を知っている人がいるため、いつ、周りや夫の耳に入るか恐怖に怯えています。 (もともと口が軽い人だったので既に夫以外の人には広まっているかもしれません) 最近は夫に不倫の過去を知られることが怖くて、夫と子供を失うくらいなら死んでしまおうと考えてしまいます。 もともと幼少期は親から暴力、暴言を吐かれて育った為実家とは疎遠にしており、今家族を失えば本当に一人になってしまいます。 夫に全て話してしまおうか、でも夫を傷つけることになる、考えても答えはでません。 この苦しみは自業自得です。 死んで全てを清算したいです。 でも、数週間まえに妊娠していることがわかりました。 あんなに望んだ第二子なのに、今は出産すべきなのか分かりません。 生んだ後も死にたい感情のままなら、きっと育てることはできません。 死ぬか、夫に全てを話して離婚し子供達を育ててもらいその後に死ぬか、どうすれば良いのかわからないのです。 精神科に通いカウンセリングも受けておりますが、心は晴れないです。 私はどうすれば良いのでしょうか。

有り難し有り難し 11
回答数回答 1

出家するということ

こんにちは。今日は出家するということの意味について質問いたします。 俗世間は修行の場であるとつくづく思います。この数週間、こちらは夏休みということもあり、毎日仏教について学んだり瞑想したり、とても大きな生きる知恵を得ています。もちろん、知れば知るほど自らの至らなさや愚かさにビックリがっかりして足踏みすることも有ります、仏教初心者ですが残りの人生かけて努力するつもりでおります。 そこで質問です。俗世間は生きてゆく上で避けられない修行の場です。 ですが、出家するということはこの俗的な苦しみを出来るだけ避けて清らかな心にする、悟りに最適の場所を選ぶ、そういうことなのでしょうか。 出家できる環境の人もいればそうでない人もおります。 学校に例えますと、ある専門学校があるとします。そこにいくと専門職につく最適な近道になるわけです。 ところが、学校に行きたいけど状況が整わず行けない人もいます。学校になど行かなくても通信教育を受けたり、別の道は沢山あるでしょうけど、指針がしっかりないのです。 それに、こういう状況を、まあ縁だからしょうがないだろうととることもできるかもしれません。(今世はそういう時でないとか) 出家しないと得られないこととはなんですか? また、出家する人としない人の違いはなんでしょうか? お坊さんがたが、なぜ出家なさって生涯にわたってお釈迦様の教えに忠実に生きて世の中の人々の役に立とうと考えられたのか、ご自身の経験などを教えていただけると幸いです。 子供が三人おりますし、修行のみならず毎日はたくさんの喜びと幸せに満ちていますので、何もほかの人生を望んでいるわけではないのですが、出家されてお寺に従事されておられることが理想的だなあ、とちょっと思ってしまうのです。それは現在に不満があるからなではなく、仏教の生き方がまさに真の道だなあと思うからです。 回答お願いいたします。

有り難し有り難し 26
回答数回答 2
2024/03/20

古くからの縁に対する違和感について

お世話になります。 宜しくお願いします。 今回は、古くからの友人に対する違和感についてご相談したく、ご連絡しました。 私は去年の春に適応障害を患い、約半年間の療養を経て今に至ります。来月からは次の仕事が控えており、これらの出来事は、私の人生史上で最も大きな影響を自らに及ぼしたかと思います。 こうした環境下で、自らの思考や感性、行動が、それ以前と比べてかなり変化しました。その変化は、まさしく成長と呼ぶに相応しいと自認しています。 しかしながら、ここで問題が生じます。古くからの友人との会話に違和感を感じ始めたのです。今まで感じていなかった相手の短所、価値観の不一致などがふつふつと湧いており、今までフタをして閉じてきたものが、溢れてしまいそうです。変わってしまった自分を悲しく思うも、それが自分の成長の証であるかのように考える自分がいることも事実です。 ただ、そんな自分を肯定しようとするも、そうなってしまったのは自分が不寛容だからでは?ただの完璧主義なのでは?相手を許すべきなのでは?相手を見下しているのでは?古くからの縁を大切にすることは徳を積むことなのでは?などと、自分自身を責めることもあります。 一体私は、こうした変化をどのように受け止めればいいのでしょうか。今の私は、善悪で言うところの悪なのでしょうか。 ご教示頂ければ幸甚です。 何卒宜しくお願い致します。

有り難し有り難し 4
回答数回答 1

一歩は自力

きのうきょう宗教を学びだした私が少し気付けたこと。 お釈迦様は万物の事象この世の真理に気付いたある意味科学者、その事象をあらゆる角度から示し教えとして依るべき法を説き、衆生の救済を願い慈悲の実践を説く大乗仏教へ発展。一神教は全知全能この世の創造主たる裁きの神と神の似姿としての人との契約による律法(刑罰)とイエスの登場による博愛、赦し合い生きる社会へ。 私は挫折がなければ人生に仏教もキリスト教も全く必要なかったと思います。老・病・死からは逃れられませんが大丈夫でしょう無宗教の強みで常に慢心してるので。満たされることの無い物欲・色欲に一喜一憂するけど裕福な日本に於いてはその手の努力もそれなりに楽しい毎日です。ちょっとつまづけば哲学者の一節で応急処置。裕福で便利な日本だから人との繋がりも必要最小限且つ利害の一致で無駄のない繋がり方。生かされてるなんて思いもしない。 二・二六事件で父親を目の前で殺害されたカトリック修道女の渡辺和子さんの語りが好きでよく動画を見てます、「主は与え主は奪う主の御名は褒め称えられよ」あれが欲しいこうして欲しいと神に請求書の祈りをするのではなく、神様が下さったことに確かに頂きました有難うございますと言う領収書の祈りが大切だと仰ってました。 「敵を愛し迫害する者のために祈りなさい。」冗談だろと思うイエスの言葉ですが、宮沢賢治さんと同郷の斎藤宗次郎さんの生涯を知ると綺麗事とも思えない真理への道なのかと思います。 上記のことは到底誰にでも出来ることではなくて、他に選択肢など無いほどに理不尽で不条理な境遇の中でその道に徹して歩む勇気があった人たちだと思います、私程度の挫折や苦しみでは真理には辿り付けないでしょうけど「難思の弘誓は、難度海を度する大船」易行・他力とはいえ船に乗る少しの勇気と一歩さえあれば支え導き歩むこと生きることの喜びをくれるのも宗教の博愛や慈悲で、並の人間には悟れずとも有り難い事かと思います。

有り難し有り難し 19
回答数回答 1

男のしんどさ、辛さ

今恋愛市場で男に求められるしんどさが辛いです。 割り勘だとケチ扱いされ、女性は自分より上の学歴職歴を求める。もちろんルックスも。 年が上がれば年収や社会的地位を求められ、少しでも家事育児に協力しなければ文句をSNSで撒き散らかされる。 自分は家事手伝い、フリーター、派遣社員でもいいけど、求めるのは上の立場の人間だけ。 男は常に競争に巻き込まれて、終わりのない職争いで戦って... 男なんて捨て駒みたいなものですよね 他に気遣いや配慮をしても少し足りないだけで文句を言われる。どこまでいっても終わりが見えません。これでは奴隷と変わりません。男の気持ちすら察してもらえません。もう男でいることに疲れました。 男の孤独感、男の辛さ、男のしんどさを理解してくれるような、心の内面の器量よしの女は今、本当に少ないです。 自分はソコソコの学歴とルックスを持っていますが、寄ってくるのはレベルの低い性格の良くない女性ばかりでした。 かつて何人とも女性と付き合いましたが、自分が精神的に調子が悪くなったら、いろんな理由をつけて、さっさと切り捨てられました 過去の恩師の自死を付き合う前の子に話すとそれから縁を切られました。 かつての彼女には散々大切にしてきました。相手の心が不安定でも夜中で何度も話を聞いて、支えて、腕切らないようにして、常に話を聞いて...。でも、軽いノリのイケメンの自分の友人と浮気していました。 結局、誠実に、真面目に大切にしても、ただ利用されただけでした。 もう、このベリーハードなレベルの男の人生が嫌になりました。 女の子は誰も支えてはくれませんでした。自分は必死に支えましたが。 男として生まれて、損した気分でしかないです。もう疲れちゃいましたね。 鬱の気もあります もう過去の嫌な気持ちに囚われてばかりで、もう心持ちだけでどうにもならないと思います。 現実問題として、もう男が恋愛でズタボロにされるだけの現状に嫌気がさしてきました。 簡単に浮気され、支えてももらえず。都合が悪くなったら簡単に切り捨てる。 そして、女という性を活かして、自分より上の人間しか望まない女性に対してうんざりしてきました。 こんなことを書いたら怒られるかもしれませんが、こんなグロテスクな光景がかなり多いです。もう嫌になってしまいました。ごめんなさい。疲れました。

有り難し有り難し 190
回答数回答 6

日本人の食べるということに対する意識

私の食べ物に対する感覚は日本的な考えなんでしょうか? 仏教的な考え方なのでしょうか? それとも少数派なんでしょうか? 世界共通の認識だと思っていたのですが、そうではないようだと思うようになりました。 一般的に日本人の食べ物に対する感謝はいくつかの意味があると思います。 ①命を頂くことに対する感謝 ②食材を育ててくださった農家の方に対する感謝 ③食材を育んだ地球の恵みに対する感謝 ④調理人の方に対する感謝 ⑤食材を入手するための代金を稼ぐ労働に対する感謝 これらが一言で表されるのが「いただきます」という言葉だと思っていますが、特に①を強く意識していると思います。 そして食べ残すことは、奪った命をないがしろにすることだとして、食べ残さないようにします。 動物だけでなく植物に対しても同様に命を頂いていると考え、米粒一つでも無駄にしてはいけないと子供のころに教わりました。 私は「殺すのは出来るだけ少なく。食べ残すことは死ぬ必要のない生物まで殺す行為だ」「食べるために命を奪ったのだから、食べなくては無駄死にだ。」と考え、 そして動物はもちろん、植物も命を頂くと考えています。 欧米諸国では、日本とは比べ物にならないほど家畜の福祉に対する意識が高いです。 可能な限り家畜の苦しみを軽減しなければならないと考え、苦痛の少ない方法で飼育し、苦痛の少ない方法で屠殺しなければならないと考えています。 ですが、どうもそれは生きている時だけのようなのです。 食肉を食べ残すことに対しての意識がとても違うと感じています。 もちろん、もったいないとは思っているようですが、「死ななくていい分まで殺した」という風には思ってないようです。 「食べても食べなくても、いずれにしろもう死んでいる。」と考えているようです。 動物福祉に熱心な方でもです。 大乗仏教には精進料理がありますよね? 出来る限り殺生を避けるために動物性のものは取らず、植物にも命があるが感謝して無駄にしない、という考え方だと思います。 そして上座部仏教では「托鉢で頂いたら肉魚も食べてよい。食べ残してはいけない。」と聞きました。 このことから私の考え方は仏教的なのかな?と感じたのですが、仏教的でもなければ日本人の共通認識でもない、という意見の人がいて、疑問に感じ質問いたしました。 どうぞよろしくお願い致します。

有り難し有り難し 18
回答数回答 1

家と外での性格の違い

高校生くらいからでしょうか。もしかしたらそれよりももっと前からかもしれません。 家族の前で何も考えず屈託のない笑顔を見せることができなくなりました。 思い当たる理由としては、今まで絶対的だと思っていた家族(家族の言うことは全て正しい)に不信感を抱いたから。 家族構成は、両親、母方の祖母です。 家族に相談したいとも思わないし、今日あった出来事を話したいとも思いません。しかし特に祖母が私のそういう性格が気に入らないらしく、文句を言ってきます。だからといって私もヘラっと笑ってごめんなさいということもできないのです。そう言えればまた違うのでしょうけれど。 自分で言うのもなんですが、外ではニコニコして人当たりも良く、とても評判が良いです。外向きの性格を作っているというわけではないです。あくまで自然に振舞っているはずなのですが、知らず知らずのうちにストレスを溜めているのでしょうか、家では愛想を振りまきたいと思えません。 ずっとその性格を否定されてきました。変えようと思ったこともあります。でも変わりません。それどころか、そういう性格にしたのは家庭にも問題があるのでは?と思うようになりました。これは責任転嫁なのでしょうかね。 私の家庭は、祖母の言うことが絶対で、逆らおうものならヒステリックになって怒ります。それが嫌なのであまり反抗せずに今まで来ました。現在24歳です。そこも悪かったなと思います。反抗期がなかった。というよりは反抗させてもらえなかったと言った方が正しいように思えますが。 長くなってしまいましたが、つまるところ私の悩みは「自分のこの二面性のある性格を変えるべきか」ということです。 家の中でも愛想を振りまくべきか? 私の性格は頑固で、自分の信念は曲げたくないので本当はそれをしたくないです。しかし、自分に全く非が無いとは言えません。性格を作るのはあくまで自分ですから。 第三者からの意見をお聞きしたくてご相談しました。ここまでお読よみいただきありがとうございました。

有り難し有り難し 4
回答数回答 1

ご先祖様や仏様に愛されるには…

初めて質問致します。 よく先祖供養やご祈祷などで「ご先祖様にお願いします」「仏様にお願いします」と言いますが 私の供養をご先祖様は受け取り 私のお願いを 仏様は本当に聞いて下さっているのだろうか…と思います。 と いうのも私は 生前の両親とは 仲はあまり良くなかったし、怒られていた記憶しかありません。 そんな私がお彼岸やお盆などに「先祖供養」しても その思いは亡くなった両親やご先祖様は受け取って下さっているのかどうか、気になります。 否、多分私が本当に真心込めて供養したとしても 「何を今更 ゴマすっているんだ?」と嫌がっているように思います。 仏様へのご祈祷でも 穂特様側から見れば 「はぁ?お前 普段 信心も何もしてないくせに”ご利益を下さい”なんて  図々しいにも程がある!」と思っていらっしゃっるのではないかと思い  ご祈祷をためらってしまった事もあります。 やはり ご先祖様や仏様から見守って頂き またお願いなどを聞いてもらうには お坊さん方のように 欲を断ち切り善行を行うしか 他に方法は無いのでしょうか? 例え純粋な思いで供養しても ご先祖様から疎んじられ 純粋な気持ちでご祈祷をお願いしても 仏様に門前払いされてるような気がしてなりません。 やはり お坊さんのような修行をしないと 仏様はご利益を与えて下さらないし、両親や親戚縁者と 仲が悪かったら どんなに供養しても受け取ってもらえない…と思うと悲しくなります。

有り難し有り難し 52
回答数回答 4
2022/05/02

顔色を伺うのをやめたい

いつからか人の気分の変化に敏感になり、自分が折れることしか解決方法がわからないまま、大人になってしまいました。 家族や職場、恋人でも、自分の本音を出すことができません。勇気を出して言葉にしてみても、相手が怒ったり不機嫌になるの感じると、咄嗟に謝ったり自分が折れてその場をやり過ごしてしまいます。 人にお願いことをするのも苦手で、遠回しな言い方になってしまい、相手を困らせることも多いです。 おそらく子供の頃、仕事で疲れて不機嫌な母親を怒らせまいと過敏になってしまったのだと思います。 いつも「自分のことは自分でしなさい」と言われて、困った時に人に頼ることも難しいです。 最近になって、自分ばかり配慮してみんな勝手ばかり言うと感じ、情緒不安定になってしまいます。 最近になって、この先何十年もこんな生き方をしたくないと思い始め、なんとかこの考え方を辞めたいです。 人はひと、自分は自分と、他の人たちはどのように割り切っているのでしょうか。 すっぱりと考え方を変えることは難しくても、モヤモヤした時に気持ちを切り替えるヒントや教えを頂けないでしょうか。 どうぞよろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 15
回答数回答 1

自己評価と他者評価のズレ

初めて投稿致します。 宜しくお願い致します。 職場での自己評価と他者評価のズレが大きくて悩んでいます。 定期的に行われる社員評価で上司からは割と良い言葉や点数をいただけるのですが、過大評価に感じます。 私自身自己肯定感が低いのは自覚していますし、上司からも自己評価が低過ぎると指摘されましたが、自信が持てないというか上司の評価の方が誤りに感じます。 自己評価の低さの心当たりが同じ現場に立つ人の中にいわゆる「お局様」の存在で、その人に嫌われている故に「出来ない人」扱いされ、重箱の隅を突くようにミスややり方にやいやい言われており、それで気が滅入っている部分もあります。 お局様は所詮アルバイトですし、明らかに(上司や他の人から見ても)過剰な言い分も多いので気にしないようにはしているのですが、私自身ミスなど言われる要因もあるため、自分が悪いと思う気持ちと自分は悪くないと思う気持ちがごちゃごちゃになり、正しく自己評価出来ていないのも自分で感じています。 ただ上司の評価を受けとるにも、私が思っていないところを評価され、頑張っていると思っていたことが評価されないことも多く、何が正しいのかわからなくなっています。 もう自分の行動が何が正しいのか、何をするべきなのか、何がしたいのかも全くわかりません。 これらのことからやる気も上がらず、お局様とのストレスもあり、転職も視野に入れつつ悩んでいます。 どうしたらこの混乱は改善するでしょうか。

有り難し有り難し 18
回答数回答 2

人は死んだらどうなりますか。

タイトルの通り、人は死んだらどうなるのでしょうか。 よく、死んだら極楽浄土に行くというような話を聞きます。それは本当でしょうか。本当に天国と地獄はあると思いますか? 私は生きてる今が地獄のように思えることがあります。死んだらただ無の世界が待っているとしか思えません。それに、死後人の魂は輪廻転生するものなのですか?魂というのも正直よくわかりません。 また、ある人が自殺は人殺しだと言っていました。仮にそうだとして、自殺をしたらいけない理由はなんでしょうか? 私は、生きるのも死ぬのも本人が選んだんだしなぁと思ってしまいます。本当に極限まで追い詰められて、もうこれ以上は無理だ、と自殺したとしても、本人が選択したことであって、それは他人が責めることではないかと思います。 苦しみから救われるために、宗教があるのでしょうか。本当に南無阿弥陀仏と唱えれば極楽浄土に行けるのですか? 私は時折夜中に、死についてあれこれ考えて、急に死をリアルに感じ、とてつもない恐怖が襲ってくるときがあります。 かと思えば、本当に心が疲れきって、すべてがどうでもよく思え、さっさと人生を終わらせてしまいたい時があります。 私の中で、怖い死にたくないという気持ちよりは、死にたい終わらせてしまいたいという気持ちが強いです。けれど、死んでしまいたい等と言うと、親には物凄く怒られ、友達にも説教されてしまいます。 私は現在、至って健康ですし親にも友達にも恵まれいじめられてもいません。大学にも行かせてもらい毎日充実しています。周りの皆には感謝することばかりですし、当たり前ですが死んでしまいたい等と言っていい身の上ではないのです。 それに、人間いつか死ぬんだから今じゃなくてもいいんじゃない、と思うかもしれません。私もそう思います。けれど、どうしても早く全てを終わらせてしまいたいという気持ちが拭えないのです。 この気持ちはどうすれば無くなるでしょうか。気持ちを消すなど浅はかかも知れません。けれどそれならば、どうすれば生きたいと思えるのでしょうか。 最初の質問からずれてしまって申し訳ないですが、よろしくお願いします。

有り難し有り難し 23
回答数回答 2

母親の死

10日まえに母親が亡くなりました。約10年前に肝硬変と診断され5年前位より肝臓ガンになりカテーテル手術を数回致しましたが、1年前より肝臓ガンが大きくなり、年齢も考えると体力もなく手術もできなくなりました。食欲もなく体力もなくやせ細り、最後は苦しみながら旅立っていきました。亡くなる前に家に連れて帰りましたが、姉と一緒にみましたが以前よりの看病疲れや仕事の疲れも重なり、母が間なしに水をというのに対して、怒ってしまいました。今更ながら後悔していることがたくさんあり、毎日自責の念、後悔、悲しみ、虚しさ、これからの人生どうすればという気持ちがこみあげてきます。 日によって、時間によって悲しみの波が押し寄せてきます。 私はバツイチで子供もなく両親と同居してましたが、母親とはケンカすることも多く、亡くなる一年前は母と口を聞かないことがあり、また色々なことでものすごく親不孝してきました。母親は姉に亡くなったあとの私の行く末について心配していたそうです。私はかなりの情緒不安定なので、冷静になり物事を考えなさいとの事も言っていたそうです。母の遺言を受け、改めて生きていかなくてはと思ったり、もう生きていきたくないと虚しさがあったり。どうしていいのかわかりません。母親に対して、申し訳ない、後悔の気持ちでいっぱいです。 母親は許してはくれないでしょうね。苦しみから解放され天国へいってることを信じたいです。長くなりすみませんでした。とにかく後悔、何故母親を苦しめてしまったのかと、そして、母親が成仏してくれることを願いたいです。生きる気力をなくしました。私も母の元へ行きたい気持ちもあります。

有り難し有り難し 56
回答数回答 2

強くなりたいです。

私は自分の正直な気持ちを相手にぶつけることが苦手で、ぶつけた事によって起こる喧嘩や話し合いをするのが面倒だと思っています。なので自分の気持ちを伝えないまま、相手と向き合う事に逃げてしまいます。それなのに人にどう思われてるのかなど気になり、でも直接は聞けないので自分でマイナスに考えすぎて辛くなって、ご飯が食べれなくなったり体に不調が出ます。そんな自分が嫌です。 そんな中、職場で対人関係でトラブルが起こってしまい、その事に関しては上の人に相談しようと思ってるのですがとても不安で怖いです。正直、職場の人は誰を信じればいいかわからないです。上司に相談しても、その相談内容がどこからか漏れて、気づけば同じ部屋の人たちみんなに噂がまわってしまいます。そして今回のトラブルを元に、優しく声をかけてくださる方はいるのですが、みんなに気を使わせてしまっていて申し訳なく思っていていつか全員を敵に回してしまったらどうしようかと怖いです。 どうすれば、強くなれるのでしょうか。周りにも相談できずにこの歳になって人間不信になっている、弱い自分が本当に嫌です。勇気やアドバイスをいただけたらうれしいです。

有り難し有り難し 6
回答数回答 1
2024/06/23

憎まれっ子世に憚る

自分がかつて関わった人間のことについてです。 その人間は自分の保身と人が堕ちていく快楽のために,少なくとも一人の人生を終わらせかけました。それは自分で,自殺未遂を経験し5年の歳月を経てやっと最低限の生活が出来るようになりました。その人間はまた,風の噂ですが他の人間も同じように追い詰め不登校,自主退学させたそうです。さらに自分は推薦をもらって有名大学に通い人生を謳歌しています。 自分は今旧友と連絡を取り合ったり,趣味で新たな繋がりができて,前向きに過ごせていて以前よりその人間への恨みを口にする機会が減りました。 ただそんな何人もの人生を狂わせるような危険人物が,ましてや推薦をもらい誰もが知っているような大学に通っているのは信じられないです。 その人間のせいで同窓会に行けなくなったことと,通信制の大学へ通うことになり将来の選択肢が減ってしまったことに対して恨みがありますが,今は過去にされたことはどーでもいいやと割り切れるようになりました。 されたことについては過去のことと割り切れるのですが,腑に落ちないことがいくつかあります。世の中はやはりそういう自己保身,自己主張が強い人間の方が上手くやっていけるのですか? また因果応報があるなら来世ではなく現世でも返ってきますか?

有り難し有り難し 7
回答数回答 1