浄土真宗以外のお寺様以外は結婚できないと聞きました。 しかし、結婚されてるご住職がたくさんおられます。 教えが変わるということは考えにくいのですが 結婚されているお寺様の考えや意見などを 具体的に教えていただけないでしょうか?
生きる事は愛だと教わりました。 教えてあげられる事はそれだけだと教わりました。 これまでに自分がどんな気持ちで生きて来たとか、悲しかった、苦しかったということは、今はもうどうでもいいと思います。 自分の人生は自分の責任と省みると、世の中を恨み人を責めることもなくなると考えるようになりました。 喜怒哀楽の感情がある事にも喜びを感じますし、感情があって良かったと思います。 その中から愛は何かを考えてみましたが、 私の愛はみんな自分の為に行き着くことで、自分が幸せで気分よくいたいから、好きな人から想われたい大事にされたい、他人から認められたいなど考えているんだなと感じました。 愛とは何ですか? よろしくお願い致します。
こんにちは、よろしければご意見を聞かせてください。 たまにですが、自分ではない人格が出てきたように感じることがあります。 例えば、何年か前、彼氏ができたときには、まるで自分ではないかのような言葉遣いで、性的な発言をたくさんしていたようです。 「していたようです」というのは、ほとんど自覚がなく、すぐ忘れてしまって、 「そういう言葉を遣ってほしくなかった」 と、後で言われた時気づいたものです。 私は、そういえばそんなことあったっけ…くらいでしたし、私がそんな言葉を遣ったことに、後々驚愕でした。 また、習い事の先生を好きになったかのように感じたことがありました。 が、それは2週間ほどで消えました。 その時は、もう少しで先生に告白してしまいそうになっていたのですが、 雰囲気によってはやめておこうと思っていて、実行されなかったのです。 その直後、「あれ、全然好きではなかったな…何だったんだろう ?」と思いました。 つまり、「あれは誰の感情だったの?」と思うことがたまにあるんです。 そういう感情に振り回されることが、たまにあるんです。 レッスン室にゴーストでもいたのかしら?と思ってしまったくらいだったのですが、そういうことってあるのでしょうか? それとも、すべて自分の持っていた性質が何かのきっかけに出てきただけでしょうか?
この世は迷い苦しみの世界であり、私たちはこの世界を生まれ変わり死に変わり、終わること無く繰り返しています。 仏教の目標は、この六道からの解脱だと伺っております。 しかし苦しみから開放された不変の世界があるとする事は諸行無常や空説に反していないでしょうか。 仏陀は「愛は苦しみの原因」と仰られました。 他にも、様々な欲求は苦しみの原因だと仰りました。 仏陀の仰る通りだと思います。 人は手に入らなければ悩み、手に入るともっと欲しくなりまた悩みます。 そして手に入れた物はいつか失います。 失うと悲しみます。 しかし何も求めず、何も持たないのが苦しみからの開放に繋がると言うのは 極端なニヒリズムに感じます。 仏陀の目指した解脱とは何だったのでしょうか。
はじめまして よろしくお願い致します。 現在 同棲をはじめて9年目になる 将来 浄土真宗本願寺派の住職様となられる 寺族の方と暮らしています。 相談させてもらいたい事は とにかく 彼の 自分の話したい事だけを 何時間も話し続けるのを 何とか出来ないものだろうか?という事です。 私も 忍耐力がないのですが 聞き役を三時間以上毎日 徹底するのは とてもしんどいです。 話しのキャッチボールを 試みても 私の話しは それは どーでもいいから…と 却下されます。 話し聞いてないって 言っても 私が 体調悪くても 寝てても イヤホンで音楽を聞いていても ずっと 機関銃の如く 自分が話したい事だけを 聞かせ続けられます。 場所を離れても用事を言い付けられて呼び戻されます。 話す内容は その日 お参り先であった事や その時 感じた事 思った事です。 長時間 聞き役は辛いと 話しをしても 仏教とは 聞く事からなんだよ…と 取り合ってはくれません。 住職様となられる方は お話好きなんでしょうか? とにかく ほどほどとなってもらえるには どうすれば良いのでしょうか? お忙しい時期で大変申し訳ありませんが 皆様のお知恵をお貸しください。 よろしくお願い申し上げます。
先祖供養についてご相談です。宜しくお願いします。 主人方のご先祖さんの仏壇は主人の実家である跡継ぎの長男夫婦の所にあります。私達夫婦はその実家から車で1時間程のところに住んでいます。 その仏壇が、お盆など里帰りした時に見るといつもホコリだらけです。お花もありません、お水、お茶、ご飯をお供えされてる所を見た事がありません。線香もどうか。私の実家では仏壇は常にお花を、毎朝水、お茶、ご飯は当たり前にお供えされていたのでそんな有様が信じられず、主人の実家の仏壇を見ると、きちんと供養されてるのか、いつも気になります。なので、私の家で棚の空いた所にお茶とお水だけ毎朝お供えしています。 私達が結婚して20年法事もなく、これもまた不思議です。(私達が法事に呼ばれてないだけかも知れません。義父の初盆の時もお経の時には呼ばれず、主人はちょっとかわいそうでした) 先祖供養をしたいなあと思っても、私から長男夫婦にたまには先祖供養した方がいいんじゃないかなど言うわけにもいきません。私達は私達で手を合わせていれば供養になるのでしょうか?やはりどこかのお寺さんでお経をあげて貰った方がいいんでしょうか?たまに、無性に供養せねばと思うことがあります。 あと、私の家でお茶、お水を供える時、線香も供えた方がいいですか?仕事にいかねばならない為、朝火を扱うのが気になります。 ちなみに主人の実家は浄土真宗です。
天国や地獄へ行く。生まれ変わって新たな命となる。 火葬なら幽霊になって、土葬ならゾンビになるとも聞きます。 死後の世界。きっと生きている限り分からぬ世界。 しかし、生きているからこそ、死への恐怖や不思議に囚われます。 知らないからこそ死への恐怖が拭えるのか。 それとも知ってしまう方が安心して死んでいけるのだろうか。 天国や地獄がもしあるのなら… またその世界で生きていかなくてはならないのか。 生まれ変わって新たな命となるのなら… 知らぬうちにまた同じ世界で苦しまなくてはならないのか。 この世界に生きるものとして。いつか死を迎えるものとして。 死と向き合うためにアドバイスお願いします。
(すべての宗派がそうではないことは理解していますが)座禅をすることによって悟りへの道が開かれる、ということへの質問です。何十年も修行をしたり座禅をしたりすることは確かにその僧侶にとっては悟りへの一歩かもしれません。 でも、その間に途上国ではその日をも生きられるかわからないひとたちがたくさんいます。この日本でも貧困層は存在します。もしも座禅をするかわりにそのひとたちの手をとってくれたら、パンを与えてくれたら、生き延びる道を一緒に検討してくれたら、助かる命もたくさんあるはずです。 修行の道(とくに長い期間社会から断ち切る行為)というのは、ある意味で自分を選択、優先することになる、と思ったことはありませんか?(これは侮辱ではなくて、本当に疑問、のレベルです。本当に本当に悪い意味でいっているのではないことをご理解ください) 自分の道に専念するその思いは素晴らしいと思う。そして得たものを周りのひとに伝えていこうとする気持ちも。でも、現実のこの社会のなかで、仏教が天台宗で言うような「一隅を照らすひとになる」ことが大切だとすれば、それはどこか矛盾していると感じてしまうことは間違っているでしょうか。 僧侶として、途上国や先進国を問わずに、貧困や飢餓などで今日をいきられるかわからないひとたちを前に仏教はなにができると思われますか?
お世話になりますm( )m 今臨死体験の本なども読んだり ネットでも見たりするのですが 地獄についてどう思われますか? 私は地獄があってほしい派です 世の中には人を平気で苦しめて 平気でいれる人がいます まさに悪魔そのもので 自分には理解できません 極端な話がテロリストなど イスラム国の人達など あのような残虐な事が平気で出来ることが 本当に信じられませんし あのような事を平気でしてきた人達が 何の裁きも受けないのはあり得ないと 私は思います 同じ人間なのに どうしてあのような事が出来るのでしょうか 私は悪いことをすれば 必ず報いを受けるべきだと望んでいます 完ぺきな人間はいませんから 多少の悪は仕方がありませんが そうゆうレベルではなく もう「 死んでしまいたい 」と その人をおとしめてしまうような 詐欺だったり、泥棒だったり 苦しむことを平気でやった人に対する思いです 殺人は相当に罪が重いと 私は思います しかしネットで見たのですが 地獄は存在しない 人はみな天国へ行く どんなに悪いことをした人でも 天国へ行くと書いてありました ( 死後の世界や天国は信じる方ですが 地獄は存在しないと言われる方です ) と書かれているのを見て そんな訳はない!!と 思いました、納得できません 今自分が読んでいる本( 臨死体験の本です、カールベッカーさんの本です )には( まだ読んでる途中ですが ) 地獄が存在すると書かれてありました ( 臨死体験された方が見てきた ) 鬼の様な人たちがいて その人?により そこに拷問を受けて 苦しんでいる人たちがいた と書かれてあります グロテスクではありますが 散々悪いことをしてきた人たちには この様な裁きを受けるべきだと 私は思っています!! お坊さんはどう思われますか? よろしくお願い致します
本日、仕事中にお客様が「僧侶にさえ袈裟の色で階級をつけたりしているのはおかしい。本来仏教とは身分差別したりしないはずだ」とおっしゃっているのを聴き、疑問に思いましたので質問させて下さい。 僧侶によって?宗派に違いはあれど袈裟の色で階級があるのは何の為でしょうか? また、それは誰が判断、ジャッジし決められるものなのでしょうか?
人は死んだらどうなるのでしょうか? 私の周りの一部の''人は死んだら無になる''と言います。でも私はどうしてもそうは思えません。たしかに死んだら形がなくなってしまいますが、魂は無くならないと思います。きっと見えない姿になって生き続けるのだと思います。そんなのはただの願望ですか?たしかに証拠がないので断定はできません。でももし死後の世界が存在するのなら死を目の前にする(私がそういう状況というわけではありませんが)人々にとってとても心強い支えとなるでしょう。まだまだずっと先のことだとわかっていますが、やはり死ぬのが怖いです。人間は死んだら自然の一部になるという考えが一番現実的だと思いますが、それは科学的なことです。今生きている自分の魂(心)はどこへ行ってしまうのか。死んだら全ての記憶や体験がなくなってしまうのか。もしそうならやはり「死」は人間にとってとてもとても怖いものだと思います。生きるということ自体が死によって無駄(リセット)されてしまう。形がなくても魂が永遠に生き続けるということは本当なのでしょうか??
質問させていただきます。 回答しづらければ、スルーでお願いします。 母の四十九日法要の和尚さんの法話でのことです。 「亡くなった人はどこへ行くか?」と和尚さんは私の甥に尋ねました。 小学生の甥は、「心の中」と答えました。 それは、亡くなった母が教えたことです。 母は「自分が死んでも、いつも見守ってるから」という意味で、生前、そのように話したのだと思います。 が、その和尚さんは、それを完全否定しました。 人は死んだら「無」になる、と。 何もなくなる、心の中ということはない、と。 実際に仏教でどのように考えられているかは知りません。 和尚さんが仰ることが正しいのかもしれません。 ですが、そこはあえて否定する必要があるのでしょうか? マチガイハ タダスベキということですか? 甥だって大人になるにつれ、母の言葉の意味は理解するだろうし、何より母の法要で母を否定されたような気がして、何とも言えない気持ちになりました。(「黙れクソ坊主がっ!」と思ったことは内緒です) また、その話の流れで、ホームレスは人間のクズだから地獄に堕ちるという話をされました。 いや、ちょっと待て! 人は死んだら無になるんじゃなかったのか? 無になったら、地獄も何もないのではないか? それとも、ソレとコレとは違うとでも言うのだろうか? それより、ホームレスが人間のクズとはどういうことなのか!? それが仏教なのか? 和尚さんの偏見ではないのか? 和尚さんに対しての怒りの感情と、母に対して申し訳ない思いと… お前が地獄に堕ちろ!とマジ思いました… ホームレスの方達に炊き出しをするボランティアをしていたので、色々と思うところがありました。 もう数年前のことですし、そのことを引きずって悩んでいる訳ではありません。 過去のことに上書きすることはできませんし、それはソレで、そういう事実があった、でよいです。 ただ、その本当のところが知りたいです。 数年前のことを、なぜ今、このタイミングで?と思われるかもしれませんが、今まで聞く人がいなかったからです。 hasunohaのサイトを最近知りました。(遅っ!) よろしくお願いいたします。
お経を読むことがなぜ先祖や自分に関わりのある仏様の供養につながるのか? 大変罰当たりながら、そのような疑問を抱いてしまいました。 仮に例をあげますと、日蓮宗では法華経を読んで先祖供養などをされると思います。 法華経は釈迦が悟りを開いて亡くなられる前に最後の教えを説いたもので、 数ある経典の中でも最上の教えとされていると聞いたことがあります。 その素晴らしい教えを守り、帰依しますと宣言する=「南無妙法蓮華経」と題目を唱える。という事になるのでしょうが、なぜそれが供養につながるのか疑問です。 自分は先祖や仏様との何らかのつながりがあるから、その自分が題目を唱えることで先祖や仏様の過去の罪が軽くなり救われる。=先祖や仏様も成仏できるという考え方も確かに一理あると思います。 しかし、お経というのはただ聞いたり意味を知らずに読んだりすれば、まるで呪文のようでいかにも効果がありそうに思いますが・・・。 現代語に訳して意味を分かるようにしてみると、一つの物語をただ読んでいるにすぎないように思えてしまいます。 とてもありがたい教えが書かれていることは理解していますが、客観的に考えれば子供に絵本を読み聞かせているようなものではないかと思ってしまうのです。 子供ではなく対象が先祖や仏様へ、絵本がお経という物語へ変わっただけではないでしょうか・・・。 物語を読み聞かせる行為がなぜ供養につながるのか? 先祖供養のためによくお経を読む者として、大変疑問に思っています。 どうか教えてください。
報いきれるほどの恩ではない。この世でどのようなことをしても、お坊さんの大恩に及ばないのです。私の参じたお方に報いきれないのです。 大概の僧侶志望の方は、僧侶という型枠に収まり、呆けた顔をしたいだけでしょう。(違う人も当然、いるでしょうけど) このhasunohaに南伝仏教の本を勧めるお坊さんがいました。 なぜ浄土宗門徒ならば一心に念仏を唱えよ。と言われないのか? そうでないなら、この宗派は貴方の要求に応対できないと、 宣伝して回っているようなものである。師の恥だ。 煩悩を滅するのが道であるなら、すぐに南伝へ飛び出して出家すべきでしょう。 命はいつ果てるとも知れず、呑気に書き込む時間などないはずである。 一宗派の門徒ならば、師から伝えられた安心を絞り出し、絞り出して、 与えるべきである。南伝なんぞの教えは不要でしょう。 青白い顔をして訪ねてきた人に、この本を読んでみろと言うのか? 崖に捕まって、落ちそうな人間にこの本を読めと言うのか? 本を勧めるのが悪いのではなくて、相手の心に真に向き合うべきでしょう。 頑張る気力が湧かないと嘆いて苦しんでいる人間に、 「努力にこそ価値がある」と答えを返した僧侶はいないだろうか? 砂漠のど真ん中にいて、飢えて苦しんでいる人間に、 雑巾を絞って、絞って、ひねり出した一滴を捧げるが如く、 求むる者に注ぐべきである。 真に苦しむものは雑巾の水でも礼拝して飲む。 例え地球に宇宙人が攻め込んで、インデペンデンスデイの如く、 飛行機で宇宙船に突っ込み、地球の危機を救っても、 お坊様の恩に報いきれるものではない。 未来永劫に輪廻して善行善業を積み続けても、報いきれるものではない。 hasunohaで答える程に頑張っているお坊様がこの程度(すみません、ごめんなさい)なので、現状の日本仏教界の内実を察するに十分ですよ…すいません。 意識の低いものが跋扈し、仏を貶めるだろう。 正法は、ロウソクの火のように弱ってこのまま絶えるのではないかと、 心配するばかりです。 門徒の恥は師僧の恥であり、師僧の恥は宗祖の恥だと思います。 碌な返答も出来ず惑わすようであるならば、黙していた方がマシです。 偉そうに説教みたくなってごめんなさい。 ただ反省はいくらしても、一円も掛からないので損はしないと思うのです。 私も道の途中ですので、頑張ります!合掌
実家が寺で、仏教系の大学に通っている僧侶見習いです。 僧侶が社会システムにおいて必要とされる意義が「人に仮初の夢を見せて心のケアをする」以外しか見いだせなくてこれからの将来に絶望しています。 僧侶は、昔みたいに医者の代わりや教員の代わりをする訳でもなく、月回向や葬儀関連で人々の心を慰めるくらいしかしていません。 僧侶が利益(りえき)を得ることを人々は否定します。実際、聖職であるが故に本来は金銭を対価に何かをするというのはあまりに俗に塗れているような気がします。布施はそれ自体が神聖なものであることは分かっています。 しかし結局のところ、(観光という商売をしている寺は除いて)寺やそこにある僧侶という存在は「嘘をついて金を檀家さんや信者さんから貰う」ものに過ぎないのではないか?と思ってしまっているのです。 道徳を説くならそれはカウンセラーでも哲学者でも構わないわけです。 では僧侶が持つ他とは違うアイデンティティとは何かと言ってしまえば「仏教という仏になる為の指針」なのですが、結局のところ今の今まで人の身で完全に釈尊(応身)と同じステージに立った者もいない訳で。 本当に仏となることが出来るかも分からない教え、しかも数多の偽典があるであろう経典の内容を引いてきて、悩める人々に滔々とそれを説く。自分の中ではこれから自分がなる僧侶という職は、そんなもののように思えてしまいます。 私よりも遥かに経験を積み、たくさんの経典を読んだここにいらっしゃるお坊さんの方々に、私の悩みをただ、聞いて欲しいです。そして願わくは、自分の中の仏教に対する、僧侶に対する悪感情を解く何かを教えて欲しいです。 散文的になってしまい、申し訳ありません。宜しくお願いします。
こん〇〇わ! 日蓮さんの言葉で、真言亡国、禅天魔、念仏無間、律国賊、という言葉がありますが、他の教えを批判するのはどうなのだろうかと思います。 日蓮さんは、虚空蔵求聞持法をして、法華一乗の教えにたどり着いたという話を聞いたことがあります… お世話になった比叡山は全て兼学できるお山であるのに否定をする、お釈迦さんに失礼ではないのでしょうか?、日蓮宗の法華懺法法要の奉送は大日経から来ているという話を聞きました。 律国賊、 戒律を守る人たちに対して国を壊すというのはどういうことでしょうか? はっきり言って理解不能です。 さらに龍神の娘が男に変かわって成仏したという法華経の下り。女性の私は現世での成仏は不可能ですか? 来世は男に生まれないといけないのでしょうか? 皆さまどう思われてるのでしょうか。
以前にも質問された方がおられるようですが、現在の日本仏教において「仏」とはどんな存在というか、”もの“なのですか?先生方は、どのような概念をおもちでしょうか? 私のように僧呂でない者の多くは、“神”に近い形而上的存在のイメージでとらえている人が少なくないと思います。 僧侶の方にもそのようなイメージでとらえている方はいらっしゃいますか? また、いらっしゃるなら、”仏”を信じるに至るまでに(当然、信じておられるでしょうから)、なにか不思議な出来事を経験されましたか?そのようなことがありましたら、お聞きしたいです。 自分でいうのもなんですが、私は自身を、わりと信心深い方だと思っているのですが、自宅の仏壇の前に座り、お勤めをしているときにふと、なにか虚しいことをしているように思ってしまうことが多々あります。そのたびに「信心が弱いんだなぁ」とガッカリしてしまいます。そんな私の信心を強固にしてくれる証というか、サインというか、そんなものが欲しいのです。 以上のような理由で、今回質問させていただきました。 何卒、よろしくお願いいたします。
近年、量子力学等の学問での研究に目覚しい進歩が見られます。 量子力学や精神系分野で輪廻転生の研究の話題が盛り上がっています。 量子力学では遂に死後の世界について【量子もつれ】と呼ばれる現象で論文を発表したり輪廻転生の研究をしていらっしゃる学者さんもいますし少し前ですが精神系分野では著名なアメリカのジム・タッカー博士は輪廻転生をしたと思われる2500人の子供達に関して発表しました。 この子供達の実例を見る限り明らかに例えばAという死んだ人物とは関係ないBの少年又は少女がAの生前の記憶を持って生まれてきている事があるようです。 それでも脳の錯覚だとして懐疑的な学者さんが多い中、現在進行形でこの分野の研究は着実に前へと前進しています。 ちなみに、私は死後の世界も輪廻転生も存在すると考えています。 そこで、今回は輪廻転生についてお聞きしたいです。 お坊さんは輪廻転生とはどのようなものだとお考えなのでしょうか? 輪廻転生の仏教的解釈やお坊さん個人のお考えをお聞かせください。
よろしくお願いします。 輪廻転生について教えてください。 輪廻転生とは生きていて、死んだら記憶を消されてまた新しく生を受けて死んだらまた記憶を消されて…の繰り返しということだと知りました。 なんだか、穴を掘って、埋めて、また穴を掘って、埋めての繰り返しの拷問のような気がします。 生きていて同じ日は二度とこない、大切に生きなければならないことは知っています。 でも、なんだかもう慣れたというか飽きてしまったというか、なんとも言えない気持ちでずっともやもやしています。 そんな風に考えると何のために自分は生かされているのだろう、なぜ生きているのだろう、ととても虚しくなり、毎日がとても苦しいです。 そうやっていつも一人で泣いています。 自分でも何をどうしたらいいのか見当が付きません。 自分は何に苦しんでいるのか、それすらもわからず苦しいです。 何かアドバイスを頂けないでしょうか。 よろしくお願いします。
私の家はとあるお寺の檀家なのですが、そこのお寺は毎年寺費と言う言わば年会費のようなものを取っています。年会費はもちろん必要だと思いますがその内容が少し疑問です。その費用の中にはお坊さんの息子の学費も寺費に含まれています。普通なことなのでしょうか? それに三回忌など拝む時のお金は別で、少なく包むとお坊さんに少ないですねと言われました。仏の道に行く人がお金の額の高い低いを言って良いものなのですか?しかもその人の前で。 正直檀家を抜けたいと思っています。どうしたらいいか教えてください。