「人と比べない」「自分らしく生きる」ことを理解して受け容れることができたきっかけを教えて頂きたいです。 私は今、大学生をしています。私は大学院に残って将来は研究者になりたいと考えています。そしてそれが私の「やりたいこと」です。 しかし昨今の情勢や文系で大学院に進学することへの将来的な不安があります。そして、一番問題なのが「やりたいことはあるけれど、社会的に成功したい、認められたい」という感情も心の奥にはあります。 別にお金をたくさん稼いでやりたいことがあるわけでもなく、ただ「年収」というわかりやすい比較対象で他の人より優れていたい、悪く言えば内心で威張っていたい感情があるのだと思います。天の運でたまたま少し良い大学に入れただけなのに、それ相応の名声名誉を得たいと考える自分が情けなく思うときもあります。人と比べてもただ虚しいだけであろうし、「職業に貴賎なし」という言葉もその通りだと思います。 しかし言葉を知って頭で理解した気になっていてもどうも心の中で完全に「受け容れる」ことがなかなかできません。どうにかして「人と比べる」ことをやめて自分らしく生きたい、自分の目標のために生きたいと思っています。 ぜひ、どのようにしてこの感情に向き合っていけばよいのか教えて頂きたく思います。よろしくお願いします。
こんにちは。今日は出家するということの意味について質問いたします。 俗世間は修行の場であるとつくづく思います。この数週間、こちらは夏休みということもあり、毎日仏教について学んだり瞑想したり、とても大きな生きる知恵を得ています。もちろん、知れば知るほど自らの至らなさや愚かさにビックリがっかりして足踏みすることも有ります、仏教初心者ですが残りの人生かけて努力するつもりでおります。 そこで質問です。俗世間は生きてゆく上で避けられない修行の場です。 ですが、出家するということはこの俗的な苦しみを出来るだけ避けて清らかな心にする、悟りに最適の場所を選ぶ、そういうことなのでしょうか。 出家できる環境の人もいればそうでない人もおります。 学校に例えますと、ある専門学校があるとします。そこにいくと専門職につく最適な近道になるわけです。 ところが、学校に行きたいけど状況が整わず行けない人もいます。学校になど行かなくても通信教育を受けたり、別の道は沢山あるでしょうけど、指針がしっかりないのです。 それに、こういう状況を、まあ縁だからしょうがないだろうととることもできるかもしれません。(今世はそういう時でないとか) 出家しないと得られないこととはなんですか? また、出家する人としない人の違いはなんでしょうか? お坊さんがたが、なぜ出家なさって生涯にわたってお釈迦様の教えに忠実に生きて世の中の人々の役に立とうと考えられたのか、ご自身の経験などを教えていただけると幸いです。 子供が三人おりますし、修行のみならず毎日はたくさんの喜びと幸せに満ちていますので、何もほかの人生を望んでいるわけではないのですが、出家されてお寺に従事されておられることが理想的だなあ、とちょっと思ってしまうのです。それは現在に不満があるからなではなく、仏教の生き方がまさに真の道だなあと思うからです。 回答お願いいたします。
実家が寺で、仏教系の大学に通っている僧侶見習いです。 僧侶が社会システムにおいて必要とされる意義が「人に仮初の夢を見せて心のケアをする」以外しか見いだせなくてこれからの将来に絶望しています。 僧侶は、昔みたいに医者の代わりや教員の代わりをする訳でもなく、月回向や葬儀関連で人々の心を慰めるくらいしかしていません。 僧侶が利益(りえき)を得ることを人々は否定します。実際、聖職であるが故に本来は金銭を対価に何かをするというのはあまりに俗に塗れているような気がします。布施はそれ自体が神聖なものであることは分かっています。 しかし結局のところ、(観光という商売をしている寺は除いて)寺やそこにある僧侶という存在は「嘘をついて金を檀家さんや信者さんから貰う」ものに過ぎないのではないか?と思ってしまっているのです。 道徳を説くならそれはカウンセラーでも哲学者でも構わないわけです。 では僧侶が持つ他とは違うアイデンティティとは何かと言ってしまえば「仏教という仏になる為の指針」なのですが、結局のところ今の今まで人の身で完全に釈尊(応身)と同じステージに立った者もいない訳で。 本当に仏となることが出来るかも分からない教え、しかも数多の偽典があるであろう経典の内容を引いてきて、悩める人々に滔々とそれを説く。自分の中ではこれから自分がなる僧侶という職は、そんなもののように思えてしまいます。 私よりも遥かに経験を積み、たくさんの経典を読んだここにいらっしゃるお坊さんの方々に、私の悩みをただ、聞いて欲しいです。そして願わくは、自分の中の仏教に対する、僧侶に対する悪感情を解く何かを教えて欲しいです。 散文的になってしまい、申し訳ありません。宜しくお願いします。
社会人になってから、自分で稼いだお金で美容整形(プチ整形といわれる類いのもの)を年に数回しております。 親が心配性なので、メスを入れたり大きく見た目が変わることはないように、その点も考慮しながら施術を選択しています。 それでも私の親はボトックスで顔周りが小さくなるのを見て、会う度とても心配します。 ボトックスの説明や、一生続けるつもりはないこと、軽はずみな気持ちは無く、責任持って施術を受けていることを伝えても、なかなか分かってもらえません。 私は私でコンプレックスを解消したいし、自信を持ちたい想いはあるのでなかなか難しいです。。 友達には親に言わなければ良い話なのではと言われたのですが、説明していないと、少しダイエットって顔やせし、美容整形はしていない際でも、また整形した?と聞いてくるほどです。 親とどのようにコミュニケーションをとっていくべきか悩んでおり、ご助言いただけますと幸いです。
つい先程おみくじをひいてきました。 待人の項目で初めて出た言葉があり、どう解釈すればよいのか知りたく質問させて頂きました。 内容は【待人: 来る つれあり 】というものでした。 待人の解釈は人それぞれだと思いますし、自分が待っている人だという事かなぁと今まで思ってきました。 私は今、待人と言うべきかわかりませんが、先日お手紙を書いた方がいます。 まだ相手の方の事を知らない事もあり、結婚されているのか、交際中の方がいるのかなどわかりません。 なので、手紙の返事は来るけどそのような上記に書いた存在がいるという意味なのかなぁと捉えました。 捉え方も人それぞれだと思いますし、正解不正解などないのかもしれませんが、どのような意味をもつ言葉なのでしょうか? 考えれば考えるほどよくわからなくなってしまい、あれこれ色々考えてしまいます。 【待人】の意味もできれば教えて下さい。 お答え頂けると大変ありがたいです。どうぞよろしくお願いします。
遠距離交際していた1年半のうちほぼ半分浮気されていました。 相手は私達の関係を知り、尚且つ自分にも恋人がいる共通の知り合いA子でした。 更にA子からマウントや外見へのdisを受けそれは4ヶ月程続きました。 ある日突然A子の交際相手から「自分の恋人と貴女の恋人が肉体関係にある事をご存知ですか」とのメールが来たことをきっかけにグループ通話にてその方を含めた4人で集まりました。 A子の恋人は、A子は浮気の常習犯で、複数回同じ事を繰り返している。貴女に謝罪させたい。と持ちかけてきましたが当のA子が謝ることは一切無く泣いているだけで喋ることはないまま私から連絡先を全て消しました。 彼は「遠距離で会えないから寂しさを埋める為だった、A子にも最初から言ってある」と言い、理解出来ねぇよとそのまま別れました。 私はA子を当時友人として好きでした。 だからこそマウントも自意識過剰だと思いたくて 浮気を疑う自分を嫌悪し体重が4キロ減る程悩んだのに結局向こうは楽しく性行為に及んでいたのかとその4ヶ月に腹が立ちA子への怒りの感情が膨らんでいきました。 私はそれから半年頑張りました、誰かに愚痴ったり趣味に没頭したり…でもおさまらなかった 結果、復讐をしました。 A子を一時的に追い詰める事をしました。 私がしたと向こうが気付いてるかはわかりません。 スッキリしたかと聞かれればしませんでした。 それから私は誰かに褒められたりしても 「でも私あんな事した人間だしな」と死にたくなる程思うようになりました。 後悔しています、こんな思いが一生続くなら復讐しない選択を選ぶべきだったと強く思います。 無かったことにしたいなんて思いはしません、自分は最低な事をした人間だと自覚する毎日が続くだけ、 でもA子への罪悪感は一切起きないのです。 この気持ちの差はなんなのでしょうか このまま私は一生後悔し続けながら地獄に落ちるのでしょうか。
お世話になります。 宜しくお願いします。 今回は、古くからの友人に対する違和感についてご相談したく、ご連絡しました。 私は去年の春に適応障害を患い、約半年間の療養を経て今に至ります。来月からは次の仕事が控えており、これらの出来事は、私の人生史上で最も大きな影響を自らに及ぼしたかと思います。 こうした環境下で、自らの思考や感性、行動が、それ以前と比べてかなり変化しました。その変化は、まさしく成長と呼ぶに相応しいと自認しています。 しかしながら、ここで問題が生じます。古くからの友人との会話に違和感を感じ始めたのです。今まで感じていなかった相手の短所、価値観の不一致などがふつふつと湧いており、今までフタをして閉じてきたものが、溢れてしまいそうです。変わってしまった自分を悲しく思うも、それが自分の成長の証であるかのように考える自分がいることも事実です。 ただ、そんな自分を肯定しようとするも、そうなってしまったのは自分が不寛容だからでは?ただの完璧主義なのでは?相手を許すべきなのでは?相手を見下しているのでは?古くからの縁を大切にすることは徳を積むことなのでは?などと、自分自身を責めることもあります。 一体私は、こうした変化をどのように受け止めればいいのでしょうか。今の私は、善悪で言うところの悪なのでしょうか。 ご教示頂ければ幸甚です。 何卒宜しくお願い致します。
死んだらばあちゃんとこいけますか?蓮葉きれいなとこですか?みんな笑ってますか?疲れました。今からいきたいです。
今まで生きてきた以上、関わってきた人達のために生きていかなければいけないと思います。 しかし、未来への望みが希薄になればなるほど、過去と離れることが苦痛で胸が痛みます。 未来にわずかでも望みがあるならと手をのばしながら 希望がわずかしかないならと過去から離れることを拒み その狭間を過ごしています。 本日も含め、今まで沢山のお寺乃至神社でお参りをしてきました。 御先祖様にもお線香を焚き、心を込めて話しかけています。 でもこわいです。 これから先がとても不安です。 誰だって不安ですよね。 願えば叶うだなんてわがままですよね。 うだうだ言ってんな、ですよね。 どうしても叶えたい願いが、一生叶わないことって、あるんでしょうか?
私の食べ物に対する感覚は日本的な考えなんでしょうか? 仏教的な考え方なのでしょうか? それとも少数派なんでしょうか? 世界共通の認識だと思っていたのですが、そうではないようだと思うようになりました。 一般的に日本人の食べ物に対する感謝はいくつかの意味があると思います。 ①命を頂くことに対する感謝 ②食材を育ててくださった農家の方に対する感謝 ③食材を育んだ地球の恵みに対する感謝 ④調理人の方に対する感謝 ⑤食材を入手するための代金を稼ぐ労働に対する感謝 これらが一言で表されるのが「いただきます」という言葉だと思っていますが、特に①を強く意識していると思います。 そして食べ残すことは、奪った命をないがしろにすることだとして、食べ残さないようにします。 動物だけでなく植物に対しても同様に命を頂いていると考え、米粒一つでも無駄にしてはいけないと子供のころに教わりました。 私は「殺すのは出来るだけ少なく。食べ残すことは死ぬ必要のない生物まで殺す行為だ」「食べるために命を奪ったのだから、食べなくては無駄死にだ。」と考え、 そして動物はもちろん、植物も命を頂くと考えています。 欧米諸国では、日本とは比べ物にならないほど家畜の福祉に対する意識が高いです。 可能な限り家畜の苦しみを軽減しなければならないと考え、苦痛の少ない方法で飼育し、苦痛の少ない方法で屠殺しなければならないと考えています。 ですが、どうもそれは生きている時だけのようなのです。 食肉を食べ残すことに対しての意識がとても違うと感じています。 もちろん、もったいないとは思っているようですが、「死ななくていい分まで殺した」という風には思ってないようです。 「食べても食べなくても、いずれにしろもう死んでいる。」と考えているようです。 動物福祉に熱心な方でもです。 大乗仏教には精進料理がありますよね? 出来る限り殺生を避けるために動物性のものは取らず、植物にも命があるが感謝して無駄にしない、という考え方だと思います。 そして上座部仏教では「托鉢で頂いたら肉魚も食べてよい。食べ残してはいけない。」と聞きました。 このことから私の考え方は仏教的なのかな?と感じたのですが、仏教的でもなければ日本人の共通認識でもない、という意見の人がいて、疑問に感じ質問いたしました。 どうぞよろしくお願い致します。
悩みは簡潔に申しますと、気の合わない母親が 私に甘えてこれば、衝動的に不快な気分になります。 理由は色々ありますが箇条書きにしていきます。 1、小さい頃から侮辱されてきた(現在も) 2、20代の若い頃に、精神的な助けを求めても無視された 若い頃はお金がなく、中学生の時に母親は再婚しましたし 辛い青春時代でした。母親に精神的に相談したい事も沢山ありましたが 再婚相手とイチャイチャしたり、自立してからも辛い時、すぐに電話を切られたりと 母親を何度も何度も、死んでしまえくらい恨み、よく友人にも相談しました。 4、中三の時に両親が離婚。母親は職場の人と再婚。 私の父親は、酒乱で暴力をしていましたし、離婚は当然だと思います。 私は父親とは気が合い大好きでした。(父親は私が23の時に亡くなりました。) 母親は侮辱や罵倒するので、父親が暴力・・を奮っていた気持ちも少しは理解できます。父親が生前、言っていた母親の言葉の暴力も、よくわかります。 5、人に頼る癖がある。 母親は自立した事がなく、一人で生きた事がないので、話していて何だか色々な意味で薄っぺらい人のように見えます。 終始、『だって私は女だから。あんた男でしょ』という感じです。 ・・・ここまで母親の悪口を書きましたが、 母親は、母親で、育ちが悪く、とても苦労をしてきた人だとは思います。 父親の暴力に耐え、再婚したとはいえ、ちゃんと面倒は見てくれましたし、 思い返せば精神的には罵倒され苦労しましたが、引越しのマンションの頭金を払ってくれたり 陰ながら助けてくれた事もありました。 感謝しているところは、感謝しているのです。 (多分、単に人に優しい言葉をかける事の出来ない人なのだと思います。) ただ・・・どうしても若い時の恨みが大きすぎたせいか、侮辱するような言い方(本心ではしていない思いますが)をするせいか、少しでも母親が私に甘えてこれば、 条件反射的に私は、 『何を今更。』 『そんなに姉を褒めるなら姉に面倒みてもらえ。』 ・・・と、『優しくしてね。』のような態度をとられると条件反射で怒り覚えてしまいます。多分、若い時の辛い記憶が蘇ってくるのだと思います。 しかし反面、母親を慈しむ、大切にしたい、普通の息子としての感情も入り乱れています。 何か良いアドバイスなどありましたら何卒よろしくお願い致します。
夫が亡くなってもうすぐ納骨です。 49日までは魂は近くにいてそれから修行の旅に出るから悲しむのは49日までじゃないと未練が残って修行に出られなくなって悪霊になるとかそんな感じのことを聞きました。 49日までしか悲しんではいけないのですか? 皆さんはそんなにすぐに割りきれるものなんでしょうか? 亡くなった後、魂があるものと仮定して、修行に出ると言うことは、側に居てくれないのでしょうか? よく49日まで変わったことが起こるとか聞きますが、何も起きません。 必ず起こるというものでも無いとはおもいますがなんだか寂しいです。側にいないのでしょうか。
きのうきょう宗教を学びだした私が少し気付けたこと。 お釈迦様は万物の事象この世の真理に気付いたある意味科学者、その事象をあらゆる角度から示し教えとして依るべき法を説き、衆生の救済を願い慈悲の実践を説く大乗仏教へ発展。一神教は全知全能この世の創造主たる裁きの神と神の似姿としての人との契約による律法(刑罰)とイエスの登場による博愛、赦し合い生きる社会へ。 私は挫折がなければ人生に仏教もキリスト教も全く必要なかったと思います。老・病・死からは逃れられませんが大丈夫でしょう無宗教の強みで常に慢心してるので。満たされることの無い物欲・色欲に一喜一憂するけど裕福な日本に於いてはその手の努力もそれなりに楽しい毎日です。ちょっとつまづけば哲学者の一節で応急処置。裕福で便利な日本だから人との繋がりも必要最小限且つ利害の一致で無駄のない繋がり方。生かされてるなんて思いもしない。 二・二六事件で父親を目の前で殺害されたカトリック修道女の渡辺和子さんの語りが好きでよく動画を見てます、「主は与え主は奪う主の御名は褒め称えられよ」あれが欲しいこうして欲しいと神に請求書の祈りをするのではなく、神様が下さったことに確かに頂きました有難うございますと言う領収書の祈りが大切だと仰ってました。 「敵を愛し迫害する者のために祈りなさい。」冗談だろと思うイエスの言葉ですが、宮沢賢治さんと同郷の斎藤宗次郎さんの生涯を知ると綺麗事とも思えない真理への道なのかと思います。 上記のことは到底誰にでも出来ることではなくて、他に選択肢など無いほどに理不尽で不条理な境遇の中でその道に徹して歩む勇気があった人たちだと思います、私程度の挫折や苦しみでは真理には辿り付けないでしょうけど「難思の弘誓は、難度海を度する大船」易行・他力とはいえ船に乗る少しの勇気と一歩さえあれば支え導き歩むこと生きることの喜びをくれるのも宗教の博愛や慈悲で、並の人間には悟れずとも有り難い事かと思います。
自分は今大学生です。 当たり前ですが、よく親などに「社会に出て生きていくなら、自信を高める事を考えないとならない」などといわれますが、人は生きていくために自らを磨き続けなければならないのでしょうか? その日その日を惰性で生きて、どこかで事切れるような人生ではいけないのでしょうか? 殺人などの悪事を犯さなければ、どのように生きてもいいのではないのですか? なぜ自らを高め続けるというような目標を立てなければならないのでしょうか? 勿論、親は自分に有意義な人生を送ってほしいと思い言っているのはわかります。ですが、そもそも自分は自分に生まれてきたことが嫌で嫌でしょうがなく、その時点で「有意義」は満たされないと思っているのです。 自分は頑張ることができないのに、頑張り続けなければならない事、それは疲れますし、必ずしも報われないし、そこまでして生きていかなければならない事にある種の絶望すら抱く事もあります 生まれてきて、自分が頑張って向上しなければならない、し続けなければならない、その理由があれば教えてほしいのです。
高校生くらいからでしょうか。もしかしたらそれよりももっと前からかもしれません。 家族の前で何も考えず屈託のない笑顔を見せることができなくなりました。 思い当たる理由としては、今まで絶対的だと思っていた家族(家族の言うことは全て正しい)に不信感を抱いたから。 家族構成は、両親、母方の祖母です。 家族に相談したいとも思わないし、今日あった出来事を話したいとも思いません。しかし特に祖母が私のそういう性格が気に入らないらしく、文句を言ってきます。だからといって私もヘラっと笑ってごめんなさいということもできないのです。そう言えればまた違うのでしょうけれど。 自分で言うのもなんですが、外ではニコニコして人当たりも良く、とても評判が良いです。外向きの性格を作っているというわけではないです。あくまで自然に振舞っているはずなのですが、知らず知らずのうちにストレスを溜めているのでしょうか、家では愛想を振りまきたいと思えません。 ずっとその性格を否定されてきました。変えようと思ったこともあります。でも変わりません。それどころか、そういう性格にしたのは家庭にも問題があるのでは?と思うようになりました。これは責任転嫁なのでしょうかね。 私の家庭は、祖母の言うことが絶対で、逆らおうものならヒステリックになって怒ります。それが嫌なのであまり反抗せずに今まで来ました。現在24歳です。そこも悪かったなと思います。反抗期がなかった。というよりは反抗させてもらえなかったと言った方が正しいように思えますが。 長くなってしまいましたが、つまるところ私の悩みは「自分のこの二面性のある性格を変えるべきか」ということです。 家の中でも愛想を振りまくべきか? 私の性格は頑固で、自分の信念は曲げたくないので本当はそれをしたくないです。しかし、自分に全く非が無いとは言えません。性格を作るのはあくまで自分ですから。 第三者からの意見をお聞きしたくてご相談しました。ここまでお読よみいただきありがとうございました。
いつからか人の気分の変化に敏感になり、自分が折れることしか解決方法がわからないまま、大人になってしまいました。 家族や職場、恋人でも、自分の本音を出すことができません。勇気を出して言葉にしてみても、相手が怒ったり不機嫌になるの感じると、咄嗟に謝ったり自分が折れてその場をやり過ごしてしまいます。 人にお願いことをするのも苦手で、遠回しな言い方になってしまい、相手を困らせることも多いです。 おそらく子供の頃、仕事で疲れて不機嫌な母親を怒らせまいと過敏になってしまったのだと思います。 いつも「自分のことは自分でしなさい」と言われて、困った時に人に頼ることも難しいです。 最近になって、自分ばかり配慮してみんな勝手ばかり言うと感じ、情緒不安定になってしまいます。 最近になって、この先何十年もこんな生き方をしたくないと思い始め、なんとかこの考え方を辞めたいです。 人はひと、自分は自分と、他の人たちはどのように割り切っているのでしょうか。 すっぱりと考え方を変えることは難しくても、モヤモヤした時に気持ちを切り替えるヒントや教えを頂けないでしょうか。 どうぞよろしくお願いいたします。
私は自分の思っている事を伝えるのが、人一倍苦手な人間です。 ココ最近自分でもそれが辛くなってきました。 何故私は嫌なのに嫌と言えないのか、そうじゃないと言えないのかと思うことが度々多くなりました。 もし嫌と言ったら嫌われてしまうのではないのか、更に上からそうじゃないと否定されてしまうのではないのか、私が発言したらみんな気分が悪くなってしまうのでは?、と思ってしまいどんどん自分の感情を押し殺し、1人で声も出さず泣く日々は疲れました。 何もする気になれずどんどん気分は落ち込み上手く気分をあげることも出来なくなりました。 楽しかったことも楽しくなったり、周りに害を及んでしまうのでないのか私はいない方がみんな幸せなんじゃないかそう思う日もあります。 何故私は生きているのでしょうか? 上手く感情を伝えて生きていくためにはどうすればいいですか?
僕はこの前、呪いの動画を見て怖くなったと質問した者です。 改めましてご回答ありがとうございました。ですが、僕が一つ余計僕を不安にさせてモヤモヤさせられた回答がありました。それは、「怖いままでいい」「いつ死んでも良い」という回答でした。僕はそれをみた瞬間、一気に不安が込み上げてきて正直頭がクラっときました。 これだけ僕が怖がってるというのに怖いままでいると、これからの生活に影響すると思いますし情緒不安定になると思います。それなのにも関わらずこれから怖いまま生きていかなきゃいけないんですか?もしそうなったら親不孝とかもありますし周りの人も悲しむじゃないですか。遠くの人と繋がりがある人とも音信不通になる。極楽へ行こうと地獄へ行こうとそんなの不安です。 その回答の追記コメントでも納得できずた言っちゃ悪いですが、だただその回答は僕を悟らせてるみたいでした。本当に的外れです。 僕はもうどうしていけばいいかわからなくなってきました。
お世話になります。先日、私の母が亡くなりました。私自身も傷心しているため、上手く考えられず、ご助言いただきたく投稿させていただきます。 家族構成は、父、母、私、妹です。父は単身赴任で遠方に住んでおり、私は実家を出て妻と都内で暮らしております。母と妹は実家で二人で暮らしていました。 母は、自死でした。春先から病気になり、原因も不明なまま様々な病院をたらい回しにされていたので、そのストレスが限界に達したんだと思います。遺書等もなく、衝動的なものだったと思います。 まだ葬儀も済ませておりませんが、2人ともやけに気丈に振る舞っており、私は、父や妹が心配です。 妹は、首を吊った母に懸命に応急処置を施しながら救急や私たちに連絡してくれました。しかし、母の酷い姿を見てしまったわけですから、そのストレスは尋常ではないものだと思います。 父は、母や私たち家族一筋で生きてきました。毎週のように遠方から実家に戻り、病気になった母を病院へ連れて行っていました。8月に入ってからはずっと実家にいたと聞いています。父は母と出会って40年間、母を愛し続けていました。今、父がどれほどの苦しみを抱えているのかは、もはや私には想像もできません。 私が最も恐れているのは、この不幸が続いてしまうことです。告別式を行ったあと、もはや私たちは気丈に振る舞うことすらできなくなってしまうのではないかと思っています。私自身が仕事に差し障る程度ならまだ良いですが、妹は大学3年生で、これから就職活動を行えるのか、また、父が母の後を追うようなことがないか、本当に心配です。 また、妻も、妻自身が私と家族との時間を奪ってしまったのではないかと責任を感じているようです。結婚して間も無くしてこのようなことがあったので、妻へのケアも必要と考えています。 このような状況で、私は家族とどのように接するべきなのでしょうか。どのような言葉をかけるべきなのでしょうか。ご助言いただければ幸いです。
タイトルの通り、人は死んだらどうなるのでしょうか。 よく、死んだら極楽浄土に行くというような話を聞きます。それは本当でしょうか。本当に天国と地獄はあると思いますか? 私は生きてる今が地獄のように思えることがあります。死んだらただ無の世界が待っているとしか思えません。それに、死後人の魂は輪廻転生するものなのですか?魂というのも正直よくわかりません。 また、ある人が自殺は人殺しだと言っていました。仮にそうだとして、自殺をしたらいけない理由はなんでしょうか? 私は、生きるのも死ぬのも本人が選んだんだしなぁと思ってしまいます。本当に極限まで追い詰められて、もうこれ以上は無理だ、と自殺したとしても、本人が選択したことであって、それは他人が責めることではないかと思います。 苦しみから救われるために、宗教があるのでしょうか。本当に南無阿弥陀仏と唱えれば極楽浄土に行けるのですか? 私は時折夜中に、死についてあれこれ考えて、急に死をリアルに感じ、とてつもない恐怖が襲ってくるときがあります。 かと思えば、本当に心が疲れきって、すべてがどうでもよく思え、さっさと人生を終わらせてしまいたい時があります。 私の中で、怖い死にたくないという気持ちよりは、死にたい終わらせてしまいたいという気持ちが強いです。けれど、死んでしまいたい等と言うと、親には物凄く怒られ、友達にも説教されてしまいます。 私は現在、至って健康ですし親にも友達にも恵まれいじめられてもいません。大学にも行かせてもらい毎日充実しています。周りの皆には感謝することばかりですし、当たり前ですが死んでしまいたい等と言っていい身の上ではないのです。 それに、人間いつか死ぬんだから今じゃなくてもいいんじゃない、と思うかもしれません。私もそう思います。けれど、どうしても早く全てを終わらせてしまいたいという気持ちが拭えないのです。 この気持ちはどうすれば無くなるでしょうか。気持ちを消すなど浅はかかも知れません。けれどそれならば、どうすれば生きたいと思えるのでしょうか。 最初の質問からずれてしまって申し訳ないですが、よろしくお願いします。