輪廻転生の事を考えると胸が痛くなります。何故仏教は命を一回限りとしないのでしょうか。 もちろん今ある生も今生限りのものですから人生が一回限りであることには変わりありません。 ただ殉教、殉死、心中等を遂げた歴史上の偉人の前世や来世が全く下らない物だったかもしれないと思うと胸が張り裂けそうになります。 自分の運命や人生を全面的に肯定して死に切ったとしても、過去世や来世の全く違う人生によって矛盾をきたしたものになるとしたらどうでしょうか。 「七度生まれ変わって朝敵どもを皆殺にしたい」と言って自決した楠木正成が果たして貧民街の子供に生まれ変わる事は無いと誰が言えましょう。 彼は生まれ変わりを願いましたが、あくまで自分の人生を貫き通す意思であり、運命愛に過ぎません。 生涯不犯を誓って異国で命を落とした宣教師達の前世がどこかの売春婦であると考えただけで吐きそうになります。 もしそれで良いのならこの世での清貧、忠義や誠意も全く無意味なものとなりますから。 ただ輪廻思想が広大無辺な仏教の歴史の中で偉大な説法者達に受け継がれてきたものである事は否定できませんし、 私は至らぬ凡夫ゆえ仏教の各宗派の前提とする輪廻の教義まで仔細には存じ上げません。 仏教では、特に自性を認めない中観派では何が輪廻するとされているのでしょうか? 水車を廻す水や携帯を動かす電気のように、「私」ではない、「私」の生み出す執着そのものが輪廻するのでしょうか? 執着が輪廻するのであれば悟りを得た=執着を滅した釈迦が解脱に入られたと解釈できるように思えますが。
こんにちは。今日は出家するということの意味について質問いたします。 俗世間は修行の場であるとつくづく思います。この数週間、こちらは夏休みということもあり、毎日仏教について学んだり瞑想したり、とても大きな生きる知恵を得ています。もちろん、知れば知るほど自らの至らなさや愚かさにビックリがっかりして足踏みすることも有ります、仏教初心者ですが残りの人生かけて努力するつもりでおります。 そこで質問です。俗世間は生きてゆく上で避けられない修行の場です。 ですが、出家するということはこの俗的な苦しみを出来るだけ避けて清らかな心にする、悟りに最適の場所を選ぶ、そういうことなのでしょうか。 出家できる環境の人もいればそうでない人もおります。 学校に例えますと、ある専門学校があるとします。そこにいくと専門職につく最適な近道になるわけです。 ところが、学校に行きたいけど状況が整わず行けない人もいます。学校になど行かなくても通信教育を受けたり、別の道は沢山あるでしょうけど、指針がしっかりないのです。 それに、こういう状況を、まあ縁だからしょうがないだろうととることもできるかもしれません。(今世はそういう時でないとか) 出家しないと得られないこととはなんですか? また、出家する人としない人の違いはなんでしょうか? お坊さんがたが、なぜ出家なさって生涯にわたってお釈迦様の教えに忠実に生きて世の中の人々の役に立とうと考えられたのか、ご自身の経験などを教えていただけると幸いです。 子供が三人おりますし、修行のみならず毎日はたくさんの喜びと幸せに満ちていますので、何もほかの人生を望んでいるわけではないのですが、出家されてお寺に従事されておられることが理想的だなあ、とちょっと思ってしまうのです。それは現在に不満があるからなではなく、仏教の生き方がまさに真の道だなあと思うからです。 回答お願いいたします。
仏教の世界観を教えてください 生きていくにはなにか自分には足りないものがあるような気がします 常識だったり行動力だったり 自分の力で生きてくには 精神的な弱さと 頭のよさなど 心の持ちようなど 仏教徒 になりたいです。 精神的な強さを持ちたいです。 よろしくお願いします。
はじめまして。仏像彫刻を習っているヨソと申します。 仏像に対して疑問があり、悶々とした日々です。①②③と質問を書きましたので、お答えいただけたら幸いです。 ①お釈迦さまは偶像崇拝と呪文(お経)を唱えることを良しとしなかったと見たことがあるのですが、それは本当でしょうか。 それが本当であれば、お釈迦さまの嫌がることを積極的にやってることを、どのように肯定してきたのでしょうか。 ②お釈迦さまは実在されていますが、多くの仏は、人々の願いや願望から生まれたという認識でいます。インドや中国や日本に伝わる過程で他の神様と混ざったり意味合いが変わったり、そうして生まれた仏をどういう気持ちで信仰したらいいのかがわからず、教えていただきたいです。今は丸ごと受け入れることに抵抗があります。 ③地元では高名な仏師(兼ご住職)に彫刻を習っていました。片付けの苦手な先生でしたが、ある時先生の作品展を開催するにあたり、ゴミの山の中から見つけて展示した作品に、来場者が手を合わせお布施をされていました。 仏は仏像ではなく祈る者の心に宿る言われますが、ショックを受けた場面でした。 仏像とはどういう存在だとお考えでしょうか? 浅識な上に不勉強なもので、見当違いなことばかり言っているかもしれませんが、このモヤモヤに自分の答えを見出したいと思っています。 どうか宜しくお願いします。
先日こちらでお言葉を頂き、冷静になれ、自分を取り戻す事が出来ました。ありがとうございました。 色々と考える中で、以前 住職さんに頂いたお言葉で疑問に思った事がありますので教えて下さい。 二十歳の頃、四国八十八箇所を1人で回ってきました。その際にどこのお寺か覚えていませんが いつ死んでもいい様に生きなさい 死を恐れる生き方をしてはいけません というお言葉を頂きました。 アレをやってない、まだ生きたい、遊びたい、食べたい、こういう欲が死を恐れさせるから〜と言うお話でした。 ハッキリ言いますと 私は今死んでもいいです。 死にたいのではなく 今 突然交通事故に合って死んでしまっても人生に悔い無し、幸せでした。 もちろん死ななくてもいいです。 いずれ訪れるものなので仏様が決めた結果なら、どちらでも受け入れます。 と思う反面、飼っている猫がいます。 私が死んだら一人ぼっち 猫の面倒は誰が見るのだろう… など考えたら、今死んではいけない!と思ってしまいます。 これは欲になるのですか? そうなるならば、家族がいる人間は 『いつ死んでもいい』 と言う気持ちには一生なれないのでは無いでしょうか? どんなに考えても答えが出せませんでした。 教えて頂けませんでしょうか?
犀の角のようにただ独り歩め。 という言葉が私はなんとなく好きですが、これって自分の我を通したり、孤独に生きろという意味ではないですよね? 最近、趣味のテニスでも仕事でも、周りと協力しないとうまくいかないとようやく感じるようになりました。我を通してるだけでは自分もうまくいかないし周りにも迷惑かけるのを体験してきました。犀の角のようにただ独り歩め。というのは一見周りを見ないで自分のやるべきことをやれというのを感じます。間違ってない気はするのですが、冷たい人、思いやりのない人、とっつきにくい人そういうイメージになりそうです。というか私が今、こうなってる気がします。 なぜこのような言葉をブッタはおっしゃったのでしょうか。
赤ちゃんは悟ってるのでしょうか? 自我がないので諸法無我。 過去も未来もないので将来への不安がないので諸行無常。 偏見がないので心はありのままに物事を見る。 お腹が空いたり痛いことはあっても、それに変な意味をつけれないのでそれ以上の苦しみはなく二の矢を受けず。 これって悟ってる状態じゃないんですか?赤ちゃんを見本とするのは間違っていますか?
自衛隊て仏教的にはどうなのですか? やっぱりダメですか?
人々はブラック国家のブラック企業で阿鼻叫喚の地獄なわけですけど、お寺はある意味極楽ですよね?
少し前に、曹洞宗の信者になるにはどうしたらいいのでしょう? と、初めての質問をしたハタケです。 前回の質問の回答を読んでまた疑問がでてきてしまいました。 仏教との出会い、縁を大切にし、学んでいこうと決めたのですが、私は信者になりお寺に所属?檀家になると仏教のことを教えてもらえる機会があるのかなと思っていたのです。 しかし、前回の回答で、幅広く仏教を学ぶこと、宗派に拘らず、檀家=信者ではないと、、、 その回答を何度も読んでみて、曹洞宗に入ったからそれで満足、それで信者で終わってしまうのではなく、本気で、正しく、自分自身で学ぶことも大切なのかもしれないと思いました。 しかし、その方法がよくわかりません、、、 本などを読むべきなのか、、 一つ不安なのは、我流で仏教を学んで間違った解釈をしてしまわないかと不安です。 どのように学んでいくといいのでしょうか? よろしくお願いいたします。
書類の期限が守れない、人との約束を守れない、自分の計画通りに一日が過ごせない。 といった失敗をしてしまったとします。 普通なら、なぜその失敗をしたか考えて、改めていくと思います。 しかし、その、なぜ失敗したかと考えることも、めんどくさいし、したくありません。 改めないから、また失敗して、自分が苦しくなるだけなのに。 どうしたらよいでしょうか。
これまで割と異性関係は苦労はしてなかったのですが 前の彼女と別れた時 2人の認識の違いから別れたのですが 学校中にあらぬ噂が広まり それ以来人と話すのが怖くなりました もともといじめられてたのも原因だと思いますが 以前は本当の自分を見せるのが怖く無意識に嘘をついていたこともありましたが その時はまだ無理すれば話せる感じでした でも今は言葉が出なくなるといいますか、 黙ってしまう感じです 3人以上いると会話に入れず そこにいるだけな感じです それからというもの以前のように 女の子から話しかけられることはあるのですが 少し怖いというか悪い想像をしてしまうようになって… おそらくなにも悪意はないとは思うのですが それでも言葉で表しにくいなにかが怖くなります つまりです 僕が質問したいことは 好きという感情がどういうものだったのかと わからなくなりました 人を好きになること 人に心を許すこととでも言えますが とにかく自分以外だったら誰にも当てはまります 家族も例外ではなく ご意見をお聞かせいただけたら幸いです
悟ってる人はどんな人なのか知りたいです。 よろしくお願いします。
臓器移植は仏教的にはどうなのでしょうか?
ネットで調べたら躁鬱病のようです。予約制なのでなかなか自分で病院に行けません。疲れました
今の仕事を長く続けていて、人のしない努力もしてきたつもりですが、低い評価しか受けません。自分では気を付けてきたつもりです。 人間関係もうまくいかないし、転職したほうがよいでしょうか?
こんばんは。 気になるのですが、 悟ってるお坊さんの割合って どのくらいですか? 悟った人が お坊さんやってるんですか? 失礼なこときいてごめんなさい。
祖父の葬儀を境に改めて仏教を学び始めました。 宗派は、曹洞宗です。 お坊様が唱えて下さるお経を理解した上でご先祖様や祖父に手を合わせ今後、向き合いたいと強く感じたからです。また、現在の生活の中でお経について調べる事は、小さな安らぎを感じられる学びの場になっています。 現在の学び方ですが、hasunohaにてお経についての質問をブラッシュアップしたりしながら般若心経や修証義について調べています。 また修証義については、以下の現代語訳をみつつ内容を深めています。しかし、解釈や内容が正しいのか不安もあります。 https://www.zen-essay.com/entry/soujyo そもそも、現代語訳事態がダメでしょうか? 曹洞宗の教えが分かる書物があれば知りたいです。浅い状態ですが曹洞宗の教えに…悟ることすら手放す(悟りたい欲求を手放す)座禅スタイルが凄く衝撃的で素敵な考えでもっと色々と知りたいのです。 また、触れてみた状態な上での発言で恥ずかしいのですが…お経を調べると供養する相手よりも供養する側に対する生きる上での教えを説いている様に感じました。間違ってたらすみません。 余談ですが、普段、お世話になっているお坊様の爺様に法事後、お経について調べている事や内容を理解したいとの相談をしましたら笑顔で学んで来なさいと言って経本を頂きました。宿題を逆に出された気分で終わりましたので次の法事が違う意味で緊張します…。後、曹洞宗の本山は、身近な場所にあるので一度行ってみようと思っています。 ※質問して申し訳ないのですが現在、生活苦なので「お気持ち」は後々にさせて下さい。申し訳ありません。
悩み、葛藤の末、感覚だけになった瞬間の、全てを包み込む、心地良い優しさは、何と呼べばいいのでしょうか。
このたびはよろしくおねがいいたします。人間関係、霊的現象が煩わしく、一度リセットを図り、住んでいる市内の駆け込み寺のはい寺で修業しようと思って準備中です。そのことについてどのように思われますか?天台宗のお寺なので、般若信教を持参しようと思ってます。そのほかに必要なものがあれば、アドバイスをいただきたく願います。