17年連れ添った猫を失い、次の猫も家に来て二ヶ月目に交通事故で失いました。その子はまだ1歳にもなっていませんでした。 なぜあの子達は死ななければならなかったのでしょうか。 なぜ私は失い続けるのでしょうか。 悲しみ以外、涙以外、私は全てを少しずつ失い続けます。 仏様、私はあまりにも愚かです。私には真理を悟ることができません。何もみることができません。 私は死者の出なかった家のカラシの種が欲しい。 あの子が死なずにすむなら、何度でも車の前に飛び出したい。 仏様、私は救済に値しません。もう疲れてしまいました。ただただ疲れてしまいました。
つい1週間前に、1歳10ヶ月だった息子を亡くしました。母親である私の誕生日に、あまりにも短い生涯を終えてしまいました。 スクスクと元気に育ち、誰から見ても健康優良児だった息子。何の前触れもなく亡くなり、原因不詳の突然死と診断されました。 命日の前夜、いつものように平和にスヤスヤと眠りについた息子は、 翌朝には冷たくかたまり、帰らぬ人となっていました。 息子が亡くなった日は、私の30歳の誕生日でした。一体なぜこんなタイミングで… 愛する我が子がこんなにも急に亡くなってしまい、 残された私たち家族は絶望と悲しみに押しつぶされそうです。まさに、生き地獄です… 私自身、息子と極楽浄土でまた会いたいと願っていますが、 本当にそんな世界があるのだろうか? 人間は亡くなると"無"になって、骨しか残らないのではないか? …など、悲しい考えが頭をよぎってしまい、気持ちを切り替えることができません。 できるものなら、息子に心配をかけないためにも前向きに生きていきたいですが、 この空虚感、絶望感とどのように向き合っていけばよいのでしょうか。 どうか、アドバイスをいただきたくお願いします。
高校生の男子です。 お寺に生まれたご縁から、2年前から 仏教に魅力を感じるようになりました。 さて、質問は「冷静さを保ちたい」ということです。 自分は性格的に弱い部分があります。 進学校に進んだものの、いつもなにかに急かされるというか 精神的余裕を失ってしまいます。 心の平安が大切なことはよくわかっているのですが、 冷静になることができず、へとへとになって帰宅します。 精神的余裕がないので、いただいた命を輝かせることができていません。 むしろ腐らせてしまっているようにも思います。 そんな自分が情けないし、 みっともないです。 でもお坊さんは、日頃から冷静沈着で 命を輝かせているようにおもいます。 そこでこの行き詰まったこの状況をどうにかしたいと思い 質問しました。 どうしたら、どんな状況にあっても冷静さを保ちつつけることが できるでしょうか。 よろしくお願いします。
父親は胃がんを発症し、病院でも匙を投げられ緩和ケアの段階に来ています。 言葉を発する事もなくなり、食事も殆ど摂らず寝ている事が一日の大半になりました。 息子として何かしてやりたいのですが父親としてはそれを望んでいないようです。 母親も椎間板ヘルニアを患い、介護自体も辛そうです。 自分は今、孤独と焦燥感がない交ぜになったような日々を過ごしています。 いずれ父親の死を看取る事になるでしょう。 その時の心構えが頭ではわかっていてもやっぱり割り切れないのです。 父とは折り合いが悪く「くたばっちまえ!」と何百回と思いましたが、いざその時が近づくと居ても立っても居られない自分の気持ちがわからないです。 これからどう日々を生きてゆけば良いのか無明の世界に居るようなものです。 どうか助言をいただけませんでしょうか?
40歳のシングルマザーです。 最近、高2の息子が反抗期に悩んでいます。 今まで、反抗期がなかったので心配でしたが いざ始まってみると 息子の一言一言が胸に刺さり 今まで経験したことがない、苦しい気持ちになります。 私は、1年半前に離婚をし、子供と一緒に、元夫と住んでいた場所から離れて 新しい生活を始めました。経済的に苦しく、子供に不自由な思いをさせてしまっているのは申し訳ないと思っています。 それでも、協力してやっていこうと決め、笑って暮らそうとやってきました。 今、思うことですが、離婚を決めてから今まで、「何とかなるだろう」と考えがあり、自分自身が甘かったな部分もあると感じました。 今度こそ、生活を立てなおそうと思った矢先の息子の反抗期、暴言で 心が折れそうです。 息子の話を聞いていると、自分の意見を言うというよりも、 私の全てを否定しているように思え、息子が私に何を伝えたいのかが分かりません。そして、今までの私のように甘えているとしか思えません。 まとまらない文章で申し訳ありません。 今後、息子にどう接すれば良いのか、頂けたらと思います。 よろしくお願いします。
両親は10年ほど前から家業を持ち、私に後継者になる人との結婚を望んでいます。私は一人娘です。今、結婚したい人がいますが、その人は後継者にはなれない別業種の人間です。 両親は、私が後継者と結婚するということを条件に、私のやりたいことを全て許してくれました。その約束を具体的に交わしたのは大学進学時です。それから10年以上経ちますが、今になり、その約束を守る覚悟がなかったことに気づきました。この約束は自分の夢を簡単に叶えるために安易に交わしたもので、事の重大さに気づかずに過ごしてきました。かといって、今の私にはこの約束を果たすことはできません。 両親はただ一つの望み(後継者との結婚)を信じ、これ以上ないほど慈しみ育ててくれました。私の自己実現のために惜しみなく援助してくれました。何も落ち度はありません。また、後継者との結婚を前提に経営を進めています。 ですが、親と交わしたこの約束を反故にしてしまいたい。 子として、どのような誠意がみせられるでしょうか? また、この約束を反故にすることは因果応報するのでしょうか?
私は性格上、気を使いすぎてしまうところがあります。 本当は本音で、近い距離で人と話したいのですが、 相手を慮るあまりにいまひとつ踏み込めないでいます。 具体的に言いますと、職場には7,8歳年下の いつも一緒にいる2人組の男性がいます。 彼らとの付き合いも1年ぐらいになります。 表面上は挨拶もしてくれるし、 話しかければ会話もしてくれるのですが、 どう考えても腹を割って喋ってくれている気がしません。 本当は嫌われているのかと思うと、 苦しくてストレスで潰れそうです。 一体どうしたらよいでしょうか?
死後の事についてご相談があります。 私は宗教という考え方やそれに基づいた慣習、イベント自体は好きですが、私自身が何かの宗教に属することは避けたいと思っています。 私の知る上では各々の宗教の考え方と私自身の観念が合うことが少ないからです。 ただし、宗教のパロディである空飛ぶスパゲッティ・モンスター教には共感いたしておりますので、自称するときはパスタファリアンを名乗っています。 そこで、私が死んだ後、葬式をあげてほしくないと思っています。 特に仏教式の葬式です。 なぜなら、戒名をいただいた時点で、仏教徒になってしまい、仏教という枠に囚われてしまうからです。 悟りも輪廻も御免被りたいです。 衛生的な観点からは火葬自体はしても構わないのですが、法律が許しませんが、できればその後はゴミ箱にでも捨ててもらって処分してもらいたいと思っています。 家族にそのことを話すと、死んだら終わりだから死後の事など心配するなと言われるのですが、そうではなく、私がそのくくりにとらわれてしまうことを決定づけられることが不服なのです。 死後の世界云々は信じておりませんが、生きているうちはそのことが囚われであり、心配であります。 ただ、信じずとも無いことの証明は極めて難しい以上、ある可能性は0ではないというのが論理であり、公理です。 (論理、公理とは数学上の意味です。) ですから、その0ではない可能性で、仏教の枠に入ることで、悟れなければ輪廻を繰り返してしまうという観念に囚われてしまっているのです。 ただし、重ねて申し上げますが、悟り自体は御免被ります。 渇愛は人間の人間たる、また、人間の動物たる所以と思います。 私は人間らしさを捨てたくはありません。 仏教に従事していらっしゃるお坊さま方には相容れない考え方かも知れませんが、これが私の中の公理です。 さて、これは私の考え方を変える努力をして見たほうが良いのでしょうか? それとも、家族を説得するようにしてみたほうが良いのでしょうか? 相談する相手を間違っているような気もしますが、意見を伺えるかもしれない機会を捨てることはないと思い、ご相談差し上げます。 よろしくお願いします。
私の家は浄土宗の檀家です。 浄土宗(浄土真宗も同じだと思います)では、「ただ南無阿弥陀仏を唱えれば、臨終に際して阿弥陀様が現れて浄土に連れて行ってくださり、そこで悟りをひらいて救われる」という思想だと理解しております。 しかし、どうしても心の中にもやもやが残ってしまいます。 といいますのは、「南無阿弥陀仏を唱えれば浄土に連れて行ってもらえ、悟りをひらける(=救われる)」というのを裏を返せば、「南無阿弥陀仏を唱えない人は悟りをひらけない(=救われない)」ということになってしまわないかと思うのです。 「自分に帰依しないもの、信じないものは救わない」などと、阿弥陀様はおっしゃるようには思えないのです。そんな心の狭い方ではないと思うのです。 おそらく「信じるものは救われる、でも信じてない人も救ってあげるよ」とおっしゃると思うのですが、ではそうなると「南無阿弥陀仏」をお唱えするのに果たして意味があるのかどうか、唱えても唱えなくても救われるのであれば、なぜ「南無阿弥陀仏を唱えると良い」とされているのかという疑問がわいてきます。 つまり 「南無阿弥陀仏を唱えないと救われない」→阿弥陀様はそんな心の狭い方だろうか? 「南無阿弥陀仏を唱えなくても救われる」→じゃあなぜ南無阿弥陀仏を唱える必要があるのか? という板ばさみといいますか、ジレンマに陥った気分になるのです。 これについて、お坊さんの見解をお聞きしたく、よろしくお願いします。